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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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2015/04/26 ヨハネ1:19-28 「私は声」

ヨハネ1:19-28「私は声」

 バプテスマのヨハネの登場に、この人はいったい何者なのかと人々は興味津々に噂しました。エリヤだと言う人や、モーセだと言う人。さらにはメシヤだと言う人。いずれも世の終わりに来るとされる偉大な指導者たちです。それで、沢山の人々が彼の下に集まって、その集団は相当な規模にまで膨れ上がりました。すると、その影響力に不安を感じた政治指導者たちが彼の正体を見極めようとして、人を遣わして問いただします。それがこの場面です。
 ヨハネのもとに遣わされた祭司たちは尋ねます。「あなたはどなたですか。」もちろん名前を聞いているのではありません。やっている事柄を尋ねているのでもありません。それらのことは承知済みで来たのです。彼らがわからないのはヨハネという人の目的です。いったいなぜヨハネはこんなエルサレムから遠く離れた荒野で、預言活動をしているのか。大勢の人々にバプテスマを授けて、集団を築き上げているのか。それは聖書に基づく本物の預言者なのか。預言者を偽る不届き者なのか。もしかすると民衆を炊きつけて暴動を起こそうとしているのか・・・。
 そんな彼らの胸中を知ってか、ヨハネははっきりと答えます。「私はキリストではありません。」「エリヤですか」「あの預言者ですか」祭司たちの続けてての質問にも、ヨハネはそれをはっきりと否定します。そしてヨハネは言うのです。「私は・・・声です。」自分は何も残らない。実体の持たない声に過ぎないと。自分はただ発する人の意図を伝える道具に過ぎないと。自分は自分のためにではなく主のために語る器に過ぎないのだとです。この言葉を祭司やパリサイ人たちがどの程度理解したかはわかりません。恐らくはよくわからなかったでしょう。しかし、私たちは、ヨハネがまさに荒野で叫ぶ声だったと納得するのではないでしょうか。彼の内には一粒の野心もない。意図もない。彼はただ神の意志のままに、神の言葉を届ける声に徹する人だったとです。それはたとえ誰に対しても、どんな状況であろうとも、たとえ王様の前で尋問される時ですら変わること無く、神の声であり続けたのです。その生き様は、どれだけ困難な道であろうとも最期まで決してブレることはありませんでした。それはつまり、彼が「あなたはどなたですか。」という質問に確かな答えを持っていたからに他なりません。
 「あなたはどなたですか。」という質問は、実は、誰しもが問われている、そして問い続けている質問かと思います。「私はいったい何者か。」「私は何のために生きているのか。」「私の使命とは何か。」私たちはこれらの質問にどんな答えを見出しているでしょうか。ある人は私の人生は家族のためと言われるでしょうか。ある人は彼氏のため。彼女のためと言われるでしょうか。しかしです。それらのものはやがて失われるのです。子どもはやがて巣立ちます。愛する人も先立ちます。では、そうなったとき、その人は何のために生きるのでしょうか。ですから、私たちは自らの存在を、神との関係の中に見出すことが大切です。永遠の神の使命に生きる。その時、私たちの人生は状況や時に左右されることのない、揺るがないものとされるのです。

2015/04/19 創世記50:15-26 「赦しの再確認」

創世記50:15-26「赦しの再確認」

 父ヤコブを葬って、悲しみに浸る兄弟たち。その悲しみが一段落付きますと、次に彼らの心を捕らえたのは、弟ヨセフに対する恐れでした。「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない。」彼らはヨセフに対していつも後ろめたさを感じていました。ヨセフを前にするといつも過去の過ちが疼きました。なぜなら彼らは過去の過ちがきちんと精算されていないことを知っていたからです。
 双方の関係はヨセフからの一方的な赦しでした。ヨセフは兄たちの変化を十分に見定めて彼らを赦そうと決めました。ヨセフはこれまでの20年にしっかりと意味を見出しました。しかし、兄たちは違います。彼らはなぜ赦されているのかということがわからないままにいるのです。久しぶりに会ったヨセフは、過去の過ちに触れることをいたしません。手放しに自分たちを受け入れてくれます。しかし、それが逆に彼らの不安を掻き立てるのです。罪を糾弾されたほうがまだ安心するというものです。それだけのことをしたのです。なのに放置されている。彼らにしてみれば、ヨセフがいつそのことを言い出すかとヒヤヒヤだったのです。けれど、彼らから言い出すことはできません。ヨセフが忘れている可能性もあります。そうすれば藪蛇です。ですから、ヨセフの好意に甘えながらズルズルとここまで来てしまったのです。けれど父が死に、いよいよ彼らの不安はピークを迎えます。もはや、うやむやのままではいられません。彼らは自らの過ちに決着を付けなければならないのです。
 実はこれは、より本質的な、神との関係における罪についても同じです。罪というのは、決して曖昧には出来ない問題なのです。何となくごまかして生きるということはできません。それはその人の人生を重苦しい、後悔の人生へと変えてしまうからです。よく、神さまは全知全能なお方だから、何も言わなくてもわかってるでしょ。と言われる方がいます。心で悔いているのだから、それでいいじゃないかとです。しかし、それはどこかで曖昧さを残してはいないでしょうか。公にするということは不退転の決意を持つということです。それができないということは、どこかに、そこまでの変化を望んでいない自分がいるということです。ところが、それでは罪の問題は解決しないのです。確かに罪の赦しは宣言されました。しかし罪の責めから完全に解放されるのは、その罪が完全に明るみに出た時なのです。罪は闇の中で育まれます。罪の告白とは、さらけ出すということです。罪深い己の身を証としていくとき、初めて罪の責めから解放されることができるのです。
 「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」(ヘブル4:13)「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」(箴言28:13)
 神の前に罪を告白をするということは、先程も言いましたように、不退転の決意を持つことです。それはどのように罰せられてもおかしくない。この身の処遇を神に委ねるということです。けれど、この告白にはすでに神の赦しが備えられているのです。ですから、これは罪の告白、悔い改めでありながら、赦しの確認でもあるのです。

2015/04/12 ヘブル11:1-6 「信仰によって」

ヘブル11:1-6 「信仰によって」

 11章の冒頭「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。つまり、信仰は永遠の救いを保証し確信させるものだということです。確かに目に見える律法を守ること、行ないのほうが信仰に実感があります。しかし、こと救いの確信という点については、行ないは私たちに限界や失望しかもたらしません。けれど信仰は違います。イエスを信じる信仰は救われていることに確信をもたらすのです。
 実際、旧約の信仰の勇者たちも、行いによって神から称賛を受けたわけではありません。信仰によって救いの確信を得、それゆえ正しく振る舞うことができたのです。アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。それは神さまの好みのささげものを選んだということではありません。彼が信仰によってささげたからでした。エノクと言う人は、セツの家系に連なる一人でしたが、彼は死を見る事のないように御手に移された特別な人でした。ではよほど彼は特別な手柄があったのでしょうか。そうではありません。それは彼の信仰のゆえでありました。見えない神に信頼し、神に従う彼の信仰が神の目に留まったのです。
 信仰を持つとは、神を信じ、神に求めるということです。神は求める者に報いて下さると信じて、その通りに求めるということです。このことは何も旧約の偉人だけではなく、全ての信仰者、私たちにも当てはまる真理なのです。
 しかしです。信じて、求める。これが簡単なようでいて、なかなかに難しいのです。私たちはこの信じて、求めるという単純なことがなかなかできません。こんなことを求めるのは間違っている。こんなことは神さまにだってどうしようもない。私たちはどこか、限界のある神さまを想像し、私たちの常識に照らして遠慮するのです。我が家の小学1年生の長男は、最近、私に物を頼む時に、たぶんダメって言うだろうけど・・・と前置きをしてから頼んできたりします。それを聞くと本当に申し訳なく思います。赤ん坊は何の遠慮もなく求めます。泣き叫びます。ところが、成長するに連れ、事情がわかるに連れ、私たちは様々に遠慮するようになっていきます。親もまた一人の罪多き人間と悟って、次第に親に頼らなくなったりします。これは思春期に私たちが通る成長の過程です。それが大人になるということです。しかし、そういう経験を重ねていきますと、私たちはその限界ある親像を、無意識の内に天の父にも当てはめようとしてしまうのです。
 けれど、天の父に限界はありません。私たちはもっと大胆に求めていいし、求めるべきです。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」(マタイ7:7-11)なぜなら、信じて求める者を、神は喜んで下さるからです。

2015/04/05 Ⅰペテロ2:22-25 「なぜ十字架に」 イースター礼拝

Ⅰペテロ2:22-25 「なぜ十字架に」

 イースターはイエス様の復活をお祝いする日です。けれども復活は、その前に死んでいるということが前提の話です。先ほどの劇は、イエス様が十字架にかけられる直前の場面と、ペテロの回想によるイエス様を演じたものでした。人々を癒やし、養い、教え導くイエス様。振り返って思うイエス様には何の罪もありません。なのにイエス様は十字架に架けられるのです。一体なぜでしょうか。それは人々の妬みと恨みが原因でした。イエス様が人々の称賛を奪ったので、それをうらやんだ人たちがイエス様を殺してしまおうと企てたのです。何ともひどい話です。しかしです。このイエス様を殺すいう企て自体が、実は実は神様のご計画だったと聖書は語るのです。
 ペテロの手紙第一の2:22-25には「私たちの罪をその身に負われました。」とあります。それは私たちの身代わりとなるためということです。そして、「それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。」ともあります。つまり、イエス様を身代わりの犠牲とすることで、私たちの罪を赦すためだと言うのです。私たちは罪人です。そして罪を持つ者は全て、神よって罰せられなければなりません。聖書に「罪から来る報酬は死です」とある通りです。では罪とは何でしょうか。それは一言で言うと自分勝手です。神さまに従うよりも、自分の思うままに生きる。神よりも自分を優先する。そういう私たちの有り様のことを罪といいます。神によって命与えられた者が、神を捨てて、自分勝手に振る舞うのです。なんと恩知らずでしょうか。神さまはそのような者を罰せられるのです。しかし、イエス様は、私たちが滅びる代わりに、ご自身が犠牲となって罪の罰を受けてくださいました。それゆえ、このイエス様を救い主と信じる者は、イエス様という尊い犠牲の故に罪赦されているのです。
 大事なのは、罪の身代わりは、罪のない者でなければ務まらないということです。「罪から来る報酬は死です」とありますから、罪による罰は命によって受ける必要があります。しかし、もし用意された身代わり自身が罪ある身であれば、それは身代わりとはなれません。それは自分の罪の罰を、受けるに過ぎないからです。生け贄となる資格は、その人が霊的に健康であること。すなわち罪が無い者でなければなりません。だから、イエス様なのです。神が人となって来られたのがイエス様です。この方は人でありながら、神である方です。だからこの方は唯一神の目に適う正しいお方。自分のためではなく、他の人の身代わりとして死ぬことの出来るお方なのです。