ヨハネ1:29-34「キリストの先在」
ヨハネはイエス様を指して「『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ。』と言ったのは、この方のことです。」と言います。しかし、このヨハネの言葉は明らかにおかしな言葉です。あとから来る人が、私より先におられた。このシチュエーションが可能なのは、イエス様が実はベタニヤ出身で宣教活動をしに来たヨハネよりも先にそこに住んでいたとか、もしくは、イエス様がヨハネよりも年上で人生の先輩という意味で私より先におられたとか、それとも、宣教の働きにおける先輩という意味で私より先におられたかのいずれでしょう。しかし、そのどれも事実とはかけ離れています。イエス様はベツレヘム生まれのナザレ育ちですし、ヨハネのほうが半年早く生まれています。若くから宣教活動を開始したヨハネと比べて、イエス様は30歳になられてから公生涯を開始いたします。ですから、イエス様がヨハネよりも先におられるというのは、普通に考えるとおかしな話です。
ですから、ヨハネはイエス様の目に見える部分を指して、先におられたと言っているのではありません。イエス様の本質。イエス様の神性を見て、先におられたと言っているのです。つまり、私よりもあとに生まれ、遅れて宣教活動に入られたその方は、そもそもこの天地の創造主であり、全てに先立つお方ですよ。だから、私なんぞが足元にも及ばないお方なんですよ。と、こう言っているわけです。
さて、このことを神学用語ではキリストの先在性と言うんですけれども、このことはイエス様の神性を表わす大変重要な要素です。特に、当時の人々にとって目の前にいるイエス様は明らかに人でありますから、彼らが十字架と復活以前にイエス様を神と理解することは大変難しい問題でした。いえ、当時だけではありません。キリスト教会の歴史は、イエス様をどのように理解するかで、何世紀にも渡って議論を重ねた歴史があるのです。つまり、キリストの二性一人格を巡る長い教会の歴史です。キリストは神か人か。この問題は、教会の中で繰り返し繰り返し議論を呼びました。
キリスト者の中には人としてのキリストを否定する者がいました。神であるキリストが滅び去る肉体を取られるはずがないというのです。その逆に神としてのキリストを否定する者もいました。神は並び立つ者のない唯一無二のお方であり、キリストを神と同列に認めることはできない。とです。せいぜい、神未満、人以上の存在であると言うのです。
教会はこれらの両極端な考えに触れて、正当な信仰とは何かを定めていく必要に迫られます。そして、長い議論を経て、451年のカルケドン会議において、「イエス・キリストが、完全に神性をとり完全に人性をとりたもうことを、告白するように教える」と定めたのです。考えてみますと、それはイエス様を「私のあとから来る人」と言い「私より先におられた方」と言ったヨハネの理解に、400年以上をかけてようやく至ったということです。
なぜ長々とこのような話をしているのか。それは『キリストとはどのようなお方か』という問いが、私達の救いに関わる根本的な問いだからです。キリストが神であり人であればこそ、人類のための永遠の贖いとなることができるのです。もしキリストが神でなければ、どれだけ立派な人であったとしても所詮人、神の義の要求に適うことはできません。神の義を満たすのは、神のみです。一方で、もしキリストが人でないとすればどうでしょう。神であるということは永遠であり、死を知らないということです。しかし、死をもってでなければ贖いは成りません。キリストが私たちの贖いとなるためには、キリストが人の身を取らなければ決して成らないのです。また、神であるということは罪を知らないということでもあります。神と罪は決して交わることのない存在です。ですから、この方は人々の弱さに同情してくださらないということになるでしょう。父なる神の前にあるキリストのとりなしは、このお方が人としての弱さを知ってくださったからこそです。ですから、私たちはキリストを神であり人であると信じるより他はないのです。私たちが理解できるかどうかが大事なのではありません。神がどのようにご自身を啓示しておられるのか。私たちは主が語るそれを信じるのです。

使徒2:1-13「聖霊に満たされ」
もともとは収穫感謝を祝う日だったペンテコステの日、この日いったい何が起きたのでしょうか。今日の箇所を読みますと、3つのことが起きています。①弟子たちが御霊に満たされたこと。②弟子たちが他国のことばで話しだしたこと。③弟子たちによって福音が語られたことです。
最も派手なのは①の出来事でしょうか。突然、天から激しい風が吹いてくるような響きが起こり、家全体に響き渡ったとあります。また、炎のような舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまったともあります。人々にとっては②の出来事も驚きです。昨日まで自分たちと何ら変わらない弟子たちが突然に外国語を話すようになったのです。しかし、実は③の出来事こそが、教会にとって最も意味ある出来事であると理解すべきです。
この箇所を読んで、ペンテコステの出来事はあくまでも初代教会に起きた過去の出来事だと言う人たちがいます。キリストの贖罪と同じように、一回きりの出来事だとです。しかし、使徒11章にあるペテロの報告によると、ペンテコステの日に起きた聖霊が下る出来事(聖霊によるバプテスマ)が、コルネリオとその家族にも起きたと言います。つまり、聖霊が下られるのは、過去に一度ペンテコステに起きた特別の出来事ではないということ。そして、「いのちに至る悔い改めをお与えになる」とあるように、聖霊が人々を悔い改めに導かれたということです。つまり、そもそもが聖霊なくして私たちは誰も神に立ち返ることはできず、私たちが罪を悔い、真の神を求めるのは、聖霊が内住している証なのです。確かに私たちはペンテコステの時のような炎のような舌を見てはいないかもしれません。しかし、それは聖霊が目撃される必要があったので、神がそうされたということです。もし、私たちに必要ならば、神はそうされたでしょう。何が言いたいかと言いますと、つまり、私たちは奇跡的な聖霊体験が無くとも、ペンテコステの出来事を体験しているということです。私たちが心からの悔い改めに導かれたということこそが、すでに聖霊が内住する確かな証拠なのです。
また、ある人たちは、弟子たちが他国の言葉を話しだしたのを異言だとし、聖霊のバプテスマは異言の賜物を伴うと強調します。だから、異言が与えられていない人は、まだ聖霊のバプテスマを受けていないのだとです。けれど、聖霊の内住がなければ、そもそも悔い改めに導かれることはありません。ですから、聖霊のバプテスマは全ての信仰者がすでに受けているものです。その上で、もしも異言が与えられたというならば、それは、聖霊によって与えられる預言や奉仕などと同じ、賜物の一つと考えるべきなのです。そして賜物ですから、当然、人それぞれ。異言の賜物だけが特出して聖霊のしるしと数えられることは極めて不自然です。そもそも弟子たちの言葉は異言ではなく、他国の言葉でした。ユダヤ人にとっては理解できない言葉でも、そこに集まった他国人には意味のある言葉でした。だから人々は驚いたのです。
教会がペンテコステを大切にするのは、この日が福音宣教の始まりの日だからです。そして、この福音宣教は聖霊によって導かれたということです。聖霊によって真の回心に導かれたキリスト者が、内なる聖霊によって語る言葉が与えられ、そして、人々に福音を届ける。これがペンテコステの日に起きた全容です。そしてこのことは、今なお繰り返される聖霊の働きなのです。聖霊の働きと聞くと、私たちは炎の舌や異言と言ったわかりやすい奇跡を期待します。しかし違います。聖霊は私たちの内にこそ働くのです。

ピリピ3:17-21 「国籍は天にあります」
永遠の命の希望とはよく聞きますが、実際にはそれはどういうものなのでしょうか。古くから数多の人々が永遠の命を追い求めておりました。秦の始皇帝は不老長寿の薬を求めるあまり、水銀によってなる劇薬を口にして死を招いたと言います。西洋では不老不死を求めて錬金術が盛んになりました。日本でも人魚の肉を食べて不老不死になった八百比丘尼(やおびくに)の伝説が残っていたりします。私が幼少の頃には不老不死の体を求めて銀河を旅するという銀河鉄道999というアニメまでありました。永遠の命を求める思いは、人類共通のものであるように思います。それは人類の誰もが逃れることの出来ない死への恐怖の裏返しと言えなくはありません。しかし、です。私たちキリスト者が持つ永遠の命の希望。天国の希望とは、果たしてそれら不老不死ということなのでしょうか。
例えばです。先ほど挙げました八百比丘尼(やおびくに)は、図らずも人魚の肉を食べて不老不死となった女性です。けれどこれは幸せの物語ではありません。不老不死となった結果、彼女は何人もの夫に死に別れ、知り合いも皆いなくなり、一人出家いたします。そして全国を巡り歩き、やがて若狭国に辿り着いて、遂には、生入定(いきにゅうじょう)つまり自らミイラと化して、即身仏となったというのです。
これは笑えない冗談ではないでしょうか。人は死を恐れて不老不死を求めるわけですが、不老不死の実態は、究極の孤独だと言うのです。出会う人全ての老いも病も死も、全てを見送ることしか出来ない不老不死。これは希望ではなくて、むしろ絶望ではないでしょうか。よくペットを飼うのはいずれ死に別れるから嫌だという声を聞いたりしますが、もしも、出会う人全てとやがて死に別れ、一方的にそれを見送ることしか出来ないとするならば、私なら、もう一層のこと誰とも出会わない、関わらないと、思ってしまうかもしれません。
確かに聖書の救いはあくまでも個人的。神と私という関係の中で問われる主イエスへの信仰です。そこには他人と比べてどうだとか、他人が何をしたとか、そういったことは一切関係がありません。けれど、救いによってもたらされる希望は決して個人的なものではありません。聖書の語る永遠の命の希望とは、天の御国に入れられる希望です。それは共に抱く希望。具体的には、死と復活そして再会の希望であると言えるでしょう。死と復活。しかしよみがえって後、私が一人であるとすれば、それは不老不死の孤独と何ら変わりがありません。しかし、そうではないのです。私たちは共に天の御国に入れられるのです。一人っきりの孤独な永遠ではなく、神の国の住人として、先に召された者、これから逝く者、信仰を一つにする全ての者たちが神と共に過ごす永遠。だからこそ、永遠の命は私たちにとって希望として輝くのです。

ヨハネ1:29-34 「世の罪を取り除く神の小羊」
イエス様がヨハネのところにやって来られた時の話です。ヨハネは口頭一番「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」と叫びます。それは、この方こそ、私たちの罪の身代わりとして死なれ、私たちをその罪の刑罰から救ってくださる方であるという意味です。そしてだからこそ、この方は「私にまさる方」だと言うのです。
しかし、当時の多くの人々にとって、それは理解し難いことでした。なぜなら彼らが望む救世主とは、「世の罪を取り除く神の小羊」ではなく、「外国の圧政から国を救い出す力強い英雄」だったからです。と言いますのも、これに先立ってユダの国は一度独立を果たしたことがありました。ユダ・マカバイという人物がシリヤ・セレウコス朝に対して反乱の狼煙を上げ、そして見事勝利したのです。バビロン捕囚以後、ペルシャ、マケドニア、プトレマイオス朝、セレウコス朝と支配され続けたユダの民は、彼こそが約束された救い主だと確信しました。ところが、このユダの独立は一時のことでした。ローマの後押しによってユダの王にヘロデが就任し、ローマによる傀儡政治が始まります。ユダはローマの実質的な支配の中に置かれるのです。ですから、ユダ・マカバイの再来が起こる。救世主がやって来て、ローマの支配から独立し、永遠の神の国を樹立して下さる。ダビデ以来の繁栄をもたらす救い主を願い求めるようになるのです。
だからこそ人々は権力から程遠い、荒野の預言者、ヨハネのもとへと集ったのです。ヨハネの内に、彼らが願うところの救世主の素質を見出し期待したのです。ところがヨハネは「私はキリストではない」とはっきりと語ります。そして、救世主とは「世の罪を取り除く神の小羊」。そもそも救いとはこの国の独立のことなんかじゃなくて、あなたたち一人ひとりの神の前にある罪の精算に他ならないんですよ。そして、このイエス様こそがそのために遣わされた罪の生贄となられるお方なんですよ。と、こう語るのです。
人々の願いと神のご計画には大きなずれがありました。実はこの見当違いの期待というものを、私たちもまた抱えているのではないでしょうか。つまり、信仰を持てば全能の神は目の前の問題を立ちどころに消し去ってくださるという期待です。愛の神は私の願うところを全て立ちどころに叶えて下さるに違いないという期待です。しかし、神のご計画を差し置いて、神が私の願いを優先する必要はどこにもないのです。
私たちは、イエス様に向かう前に、神のことばに向かう前に、私たちの願うイエス様の姿を、そして神様のことばを期待することがないでしょうか。イエス様が語る前に、願い求めるイエス様がすでにあります。そして、実際には、そのような願いどおりにならないときに、あろうことか、それは救い主には相応しくないと、私はそのようなことは望んでいないと、神に訴えるのです。神ならこうあるべき。教会ならこうであるべき。しかしどうでしょう。それは本当に正しい訴えなのでしょうか。神さまと私たちとの関係はいつも神からの一方的な恵みです。私たちが神さまを作ったのではなく、神が私たちを造られました。私たちが神様を愛したのではなく、神が私たちを愛されました。この関係は「私たち」が先に来るときに、正しいものではなくなります。まず、イエス様が語られるところに聞き、神様が導かれるところに従う者でありたいと願わされます。私たちがイエス様を形作るのではなくて、イエス様が私たちを整えてくださるようにと願うのです。

ヘブル11:7 「恐れかしこむ信仰」
ノアが神様から命じられた箱舟の大きさは、長さ300キュビトに、幅が50キュビト、高さが30キュビト。これをメートルに直すと、長さ132m、幅22m、高さ13.2mというとてつもない大きさの代物です。聖書にはノアが船大工だったとはどこにも書いておりません。創世記9章には「ノアはぶどう畑を作り始めた農夫であった」とありますから、彼が舟を作るのは完全な畑違いです。しかもです。この途方も無い建築に、手伝う人間は、彼と妻、セム、ハム、ヤペテの3人の息子にその妻達の8人のみ。ですから何の疑問や不安、困難が無かったかというと、決してそういうわけではなかったかと思います。この先には困難が待っていることは火を見るより明らかです。しかし、神が命じられたのです。困難だからと投げ出しては、その先に来る神の怒りを避ける事は出来ません。ノアは目の前に積み重なる困難の中で、しかし神様の約束を信じました。そして千里の道の第一歩を踏み出したのでありました。
ノアの素晴らしさはなんでしょう。私は、一度決めたことを最後までやり通す、この忠実さにあるように思います。歴史上、信仰の人は様々におりますが、ノアはその中でも別格です。彼の凄さはとてつもない箱舟を造って神の裁きを生き抜いたということは、もちろんですが、それよりもむしろ私は、先の見えない神様の命令に忠実に仕え続けた、その日常の姿にこそあると思います。
箱舟作りは一日や二日のことではありません。きっと投げ出してしまおうと思ったこともあったかと思うのです。本当に意味があるんだろうかと疑ったこともあるでしょう。人々の野次に、心が折れそうになることもあるでしょう。疲労困憊、間違って指をトンカチで叩いて、こんなのやってられるか!と思わず地面に投げつけたこともあるかもしれません。しかし、それでも、彼は箱舟作りに戻ります。その手を休めることは、神様の命令を放り投げることです。そして大洪水に備えることができないことを意味します。止めることは簡単です。けれど、今の困難は、後のための大切な備えに他ならないのです。
信仰生活とは、得てしてこのようであります。投げ出したくなることもある。不安になることもある。神様を信じているから、何の不安も疑問もないかと言いますとそんなことは決してありません。周りの人のように、神様を抜きにして毎日を面白おかしく過ごしたほうが、どれほど自由で楽しいことでしょう。私たちがもし今だけを見て生きるなら、信仰など、不自由でしかありません。けれど、それでは済まされない時がやってくるのです。やがて大洪水がやって来るのです。私たちは、主が再び地上にこられ、死んだ者にも生きている者にも、相応しく裁きを与えられることを知っています。私たちは、常に、この所を見て恐れかしこむ者でなければなりません。
なぜ他人を尊敬しなければならないのでしょうか。主が命じられたからです。なぜ礼拝に出席しなければならないのでしょう。主が命じられたからです。なぜ、自分の命を好き勝手にしてはいけないんでしょう。主が命じられたからです。様々なことに疑問も反論もあるでしょう。しかし、主が命じられたのだから、私はそれに従います。これ以上に相応しい理由が他にあるでしょうか。
