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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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2015/06/21 マタイ11:28-30 「応援する力」 父母の日礼拝

マタイ11:28-30 「応援する力」

 先日たまたま見ていたバラエティ番組で、「子が自分に似ていると思う」父親は将来子どもに恨まれる恐れがあると言っていました。そのような父親は自分と子どもを重ねあわせ、過度の期待をしてしまうからだそうです。「自分の子はこんなもんじゃないはず。」「俺の子ならこうあって然るべき。」・・・真偽の程はわかりませんが、過度の期待が子どもの反発を生むということは確かに言えることだなぁと思います。一方で子どもの親に対する反発もまた同じではないでしょうか。「それは親としてどうなの?」と、理想の親像と比べてあまりにもかけ離れている親の実情に幻滅して反発するのです。どちらも子ならこうあって当然。親ならこうであるべき。という過度の期待が、相手を追い詰め反発を招く結果になっているわけです。
 では親子関係は期待をしないのが良いのでしょうか。確かに、放任。無関心。勝手にすればという態度でいれば、相手に対する過度の期待も無くなるというものです。些細な事に目くじらを立てることも無くなるでしょう。しかし、どうでしょう。それはもはや親子と言えるのでしょうか。期待するということは決して悪いことではありません。子どもは親の期待に応えたいと思って頑張りますし、親は子のためであれば我慢できるというものです。
 むしろプレッシャーになるからといって、応援しない、期待しないことのほうが問題です。それは気遣いのつもりでいても、逆のイメージを伝えることにはならないでしょうか。それは、私はあなたに何の期待もしていませんよ。私はあなたがどうなろうと全く気にしませんよ。というものです。無関心です。関係が近くなるほど、応援や期待はプレッシャーとなるでしょう。それだけ思いが濃いからです。しかし、だからそれを避けようとして、親が子に、子が親に、無関心を装ってはそれこそ互いの関係は壊れてしまいます。私たちが最も避けるべきは、プレッシャーではなくて無関心であると思わされるのです。
 イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と言われます。一方でイエス様は「わたしのくびきを負い、わたしから学びなさい」とも言われています。『くびき』というのは、農作業の折、鋤を引く二頭の牛の歩幅を合わせるために首にかける添え木のことです。歩幅の違う牛が横並びで引きますと、どうしても負担に偏りが出ます。そこで、歩幅を合わせてあげる。そうすると、負担が均等に分かれて、無理なく荷物を引くことができるわけです。ですから、イエス様が言う「休ませてあげます」の意味は、決して寝そべって休んでいなさい。ということであはりません。その吊り合わないくびきを外して、私と一緒にくびきを負うといいですよ。わたしがあなたの重荷を一緒に負いますよ。ということなのです。
 イエス様は「頑張らなくていいよ」とは言われません。むしろ「頑張れ」と言い続けるお方。けれど、ずっと傍らに一緒におられるお方です。そのくびきを捨てて、ひとり勝手に行ってしまうお方ではありません。その働きを見守って、時に励まして、時に叱咤して、声をかけ、期待をかけ、手を引いて、そして、実は共に苦しんで、最後まで決して見捨てずにいてくださるお方なのです。
 以前、先輩の牧師から聞いたことです。失敗した人を立ち直らせる一番の方法は何かという話です。それは、その人に期待することだというのです。人は諦められることほどに、辛いことはありません。私たちは身近なその人に期待し応援する人になりたいものです。そして、共にその喜びも悲しみも分け合う者になりたいのです。

2015/06/14 ヨハネ1:29-34 「御霊によるバプテスマ」

ヨハネ1:29-34「御霊によるバプテスマ」

 ヨハネはイエス様が自分よりもまさっている理由の一つに、自分は水のバプテスマを授けるけれども、イエス様は御霊によるバプテスマを授ける、と言います。二つのバプテスマの違いは何なんでしょう。
 そもそも、ヨハネが授ける水のバプテスマの特徴は悔い改めでした。マタイ3:6にはたくさんの人々が「自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。」とあります。ヨハネのバプテスマは、罪が赦されるために、人々を罪の告白と悔い改めに導くバプテスマでありました。しかし一方で、ここには救いの宣言は無い、とも言えます。当然で、救いの宣言は神の側からなされるものであり、ヨハネにその確証を与えることはできないからです。ヨハネに言えることはせいぜい、罪を告白して悔い改めてバプテスマを受ければ、神はあなたたちへの怒りを沈められるかもしれませんよ。救われるかもしれませんよ。と言うくらいです。
 しかし、御霊によるバプテスマは違います。イエス様はバプテスマを通して、神の確かな救いを宣言されるのです。マルコ16:16は、復活のイエス様が弟子たちに福音を宣べ伝えるようにと命じた後に続く言葉です。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」ここで言うバプテスマは、もちろん水のバプテスマのことではありません。これは単に悔い改めのバプテスマではありません。これは文字通り救いを宣言するバプテスマであります。
 救いということを考える時、悔い改めはとても大切な要素です。悔い改めのないところに神の救いはありません。なぜなら、神の救いというのは、罪の故に神との関係が断絶してしまった私たちが、再び神との関係を取り戻すこと。これこそが「救い」だからです。この関係は、私たちの側から一方的に破棄してしまった関係ですから、これが取り戻されるかは、全て神の側にかかっているわけです。最終的判断は神に委ねられている。だからこそ、私たちにできることは悔い改めて神の判断に委ねるのみなわけで、だから、人々はヨハネのバプテスマを受けに来たのです。しかし、主イエスは、そのような人の側からの決意表明、信仰告白としてのバプテスマではなくて、神の側からの救いの宣言となるバプテスマを授けられると言うのです。
 使徒22:16「さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。』」とあります。御霊によるバプテスマは罪を洗い流すのです。マタイ7:20-23を読むと、私たちの内側には、溢れ出る悪があると言います。それらはみな、私たちを神から引き離すものです。罪です。これらの罪を洗い流すためには、少々の水ではどうしようもありません。いえ、たとえ大量の水を投入したとしても、それは人の心から溢れ出るものですから、それらを完全に洗い流すことはできません。その人の心のうちに永遠の命の水が、泉となって湧き出るときに初めて、その人の内側は清められるのです。つまり、聖霊の内住です。御霊によるバプテスマを受ける時、私たちは罪の支配を離れ、神の御手の内に生きることができるのです。
 また、ローマ6:3-4は、主イエスにつくバプテスマは、その人をキリストの死と復活に与らせ、新しいいのちに歩ませると言います。ニコデモというパリサイ人が訪ねて来た時に、イエス様は言われました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」意味を理解できないニコデモに、イエス様は続けて言います。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」新しく生まれるとは、水と御霊によって生まれるということ。つまり、水と御霊のバプテスマによって。それは、神の前にある真心からの悔い改めと、御霊による清めと新生の取り扱いによって、ということです。その時、私たちは神の国に入れられるというわけです。
 水のバプテスマと御霊によるバプテスマ、二つのバプテスマが意味する所は悔い改めと清めと新生。実は世々の教会が大切にしてきたバプテスマとは、この両方の意味を含んでいるのです。水のバプテスマと御霊によるバプテスマは一つのバプテスマの裏表です。それは人の側からの悔い改めと信仰の表明であり、神の側からの御霊の取り扱い、清めと新生の恵みをもたらすのです。

2015/06/07 ヘブル11:8-12 「どこに行くのかを知らないで」

ヘブル11:8-12 「どこに行くのかを知らないで」

 ヘブル書はアブラハムの召しの場面を取り上げます。ここから神の召しに対する彼の応答の様子に学ぶとするなら、比較対象として、彼の父テラを見るのがわかりやすいのではないでしょうか。
 テラにはウルを離れる理由は一つもありませんでした。テラはウルの町で他の神々に仕えておりました。月の神です。もう歳もとっておりました。今更生活を変えるなど考えてもいなかったでしょう。土地を離れるということは、これまで築いてきた人間関係や、仕事の実績、家や家財、あらゆるものを捨てて出て行くということです。そんなリスクを負ってまで、テラは住み慣れた地を離れて旅に出ることにします。それほど息子アブラムの説得に鬼気迫るものがあったか。確信に満ちていたのかということです。テラはこの息子の疑いのない信仰に、残りの人生を委ねようと思ったのです。
 しかし、いざ旅にでますと、そこは現実。不自由なことばかりです。費用はかさみますし、老いた体に長旅はこたえます。何よりも辛いのは、この旅はゴールのわからない旅だと言うことです。どこに行くのかを知らないで、出ていく・・・これこそアブラハムの信仰の真骨頂でありますけれども、しかし、それに付き合うテラにとっては、これは不安の極みであったでしょう。旅を続けるほどに体は悲鳴を上げるのです。いつまで旅が続くかは息子すら知らないのです。アブラムに聞いても、「大丈夫大丈夫。私の信じる神が約束したんですから、心配しないで先に進みましょう。」そんな返事しか無かったのです。息子についてきたのは間違いじゃなかったのか。ウルに居続ければよかったんじゃないか。恐らくは何度も何度も後悔したでしょう。そしてとうとうカランの町に立ち寄った時のことです。テラはそれ以上の旅を拒んで、カランに住み着いてしまうのです。カランの町はウルと同じく月の神礼拝が盛んな町でした。そこは慣れ親しんだウルとよく似た雰囲気を持っていました。だからでしょうか。彼の心は遂に折れてしまったのです。彼はこの町で生涯を閉じることとなりました。
 結果を見れば。テラは旅半ばに脱落しました。なぜでしょう。望郷の思いでしょうか。年齢からくる不安でしょうか。それももちろんですが、そもそもの間違いは、彼が自分の信仰によって立ったのではなかったということでしょう。彼が主なる神の声に従ったのは、全て息子の信仰によるものです。息子が言うから付き合った。つまり彼は、他人を通して、主に従おうとした。彼は神を信じたのではなく、彼の息子を信じたのです。だから町を出ました。そもそものボタンの掛け間違いは、彼の信仰が他人任せ、他人を通してのものであったということにあるのです。しかし、そこにはやはり無理がある。決断に自分で責任を取れない者は、順風な時は問題ありませんが、ひとたび逆風になると途端に耐えることができなくなるのです。
 アブラハムは違います。彼はどのような時もブレません。何故でしょうか。それは彼の心が定まっていたからです。彼は最初から神に従うことに心を定めていた。心を定めた者の強さは、私たちも知る所でしょう。たとえば将来の夢が定まっている者は、それに向かって一直線に突き進むことが出来るというものです。自分が本気で信じたものは誰に何を言われようとも特別です。これは信仰にも言えることで、確信を持って信仰を決断するとき、私たちはもはやこれが本当かと悩むことは無くなります。なぜならこの確信は、私が信仰の確かさにではなく、私の信仰を導かれる全能の神への確信だからです。