マタイ11:28-30 「応援する力」
先日たまたま見ていたバラエティ番組で、「子が自分に似ていると思う」父親は将来子どもに恨まれる恐れがあると言っていました。そのような父親は自分と子どもを重ねあわせ、過度の期待をしてしまうからだそうです。「自分の子はこんなもんじゃないはず。」「俺の子ならこうあって然るべき。」・・・真偽の程はわかりませんが、過度の期待が子どもの反発を生むということは確かに言えることだなぁと思います。一方で子どもの親に対する反発もまた同じではないでしょうか。「それは親としてどうなの?」と、理想の親像と比べてあまりにもかけ離れている親の実情に幻滅して反発するのです。どちらも子ならこうあって当然。親ならこうであるべき。という過度の期待が、相手を追い詰め反発を招く結果になっているわけです。
では親子関係は期待をしないのが良いのでしょうか。確かに、放任。無関心。勝手にすればという態度でいれば、相手に対する過度の期待も無くなるというものです。些細な事に目くじらを立てることも無くなるでしょう。しかし、どうでしょう。それはもはや親子と言えるのでしょうか。期待するということは決して悪いことではありません。子どもは親の期待に応えたいと思って頑張りますし、親は子のためであれば我慢できるというものです。
むしろプレッシャーになるからといって、応援しない、期待しないことのほうが問題です。それは気遣いのつもりでいても、逆のイメージを伝えることにはならないでしょうか。それは、私はあなたに何の期待もしていませんよ。私はあなたがどうなろうと全く気にしませんよ。というものです。無関心です。関係が近くなるほど、応援や期待はプレッシャーとなるでしょう。それだけ思いが濃いからです。しかし、だからそれを避けようとして、親が子に、子が親に、無関心を装ってはそれこそ互いの関係は壊れてしまいます。私たちが最も避けるべきは、プレッシャーではなくて無関心であると思わされるのです。
イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と言われます。一方でイエス様は「わたしのくびきを負い、わたしから学びなさい」とも言われています。『くびき』というのは、農作業の折、鋤を引く二頭の牛の歩幅を合わせるために首にかける添え木のことです。歩幅の違う牛が横並びで引きますと、どうしても負担に偏りが出ます。そこで、歩幅を合わせてあげる。そうすると、負担が均等に分かれて、無理なく荷物を引くことができるわけです。ですから、イエス様が言う「休ませてあげます」の意味は、決して寝そべって休んでいなさい。ということであはりません。その吊り合わないくびきを外して、私と一緒にくびきを負うといいですよ。わたしがあなたの重荷を一緒に負いますよ。ということなのです。
イエス様は「頑張らなくていいよ」とは言われません。むしろ「頑張れ」と言い続けるお方。けれど、ずっと傍らに一緒におられるお方です。そのくびきを捨てて、ひとり勝手に行ってしまうお方ではありません。その働きを見守って、時に励まして、時に叱咤して、声をかけ、期待をかけ、手を引いて、そして、実は共に苦しんで、最後まで決して見捨てずにいてくださるお方なのです。
以前、先輩の牧師から聞いたことです。失敗した人を立ち直らせる一番の方法は何かという話です。それは、その人に期待することだというのです。人は諦められることほどに、辛いことはありません。私たちは身近なその人に期待し応援する人になりたいものです。そして、共にその喜びも悲しみも分け合う者になりたいのです。
先日たまたま見ていたバラエティ番組で、「子が自分に似ていると思う」父親は将来子どもに恨まれる恐れがあると言っていました。そのような父親は自分と子どもを重ねあわせ、過度の期待をしてしまうからだそうです。「自分の子はこんなもんじゃないはず。」「俺の子ならこうあって然るべき。」・・・真偽の程はわかりませんが、過度の期待が子どもの反発を生むということは確かに言えることだなぁと思います。一方で子どもの親に対する反発もまた同じではないでしょうか。「それは親としてどうなの?」と、理想の親像と比べてあまりにもかけ離れている親の実情に幻滅して反発するのです。どちらも子ならこうあって当然。親ならこうであるべき。という過度の期待が、相手を追い詰め反発を招く結果になっているわけです。
では親子関係は期待をしないのが良いのでしょうか。確かに、放任。無関心。勝手にすればという態度でいれば、相手に対する過度の期待も無くなるというものです。些細な事に目くじらを立てることも無くなるでしょう。しかし、どうでしょう。それはもはや親子と言えるのでしょうか。期待するということは決して悪いことではありません。子どもは親の期待に応えたいと思って頑張りますし、親は子のためであれば我慢できるというものです。
むしろプレッシャーになるからといって、応援しない、期待しないことのほうが問題です。それは気遣いのつもりでいても、逆のイメージを伝えることにはならないでしょうか。それは、私はあなたに何の期待もしていませんよ。私はあなたがどうなろうと全く気にしませんよ。というものです。無関心です。関係が近くなるほど、応援や期待はプレッシャーとなるでしょう。それだけ思いが濃いからです。しかし、だからそれを避けようとして、親が子に、子が親に、無関心を装ってはそれこそ互いの関係は壊れてしまいます。私たちが最も避けるべきは、プレッシャーではなくて無関心であると思わされるのです。
イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と言われます。一方でイエス様は「わたしのくびきを負い、わたしから学びなさい」とも言われています。『くびき』というのは、農作業の折、鋤を引く二頭の牛の歩幅を合わせるために首にかける添え木のことです。歩幅の違う牛が横並びで引きますと、どうしても負担に偏りが出ます。そこで、歩幅を合わせてあげる。そうすると、負担が均等に分かれて、無理なく荷物を引くことができるわけです。ですから、イエス様が言う「休ませてあげます」の意味は、決して寝そべって休んでいなさい。ということであはりません。その吊り合わないくびきを外して、私と一緒にくびきを負うといいですよ。わたしがあなたの重荷を一緒に負いますよ。ということなのです。
イエス様は「頑張らなくていいよ」とは言われません。むしろ「頑張れ」と言い続けるお方。けれど、ずっと傍らに一緒におられるお方です。そのくびきを捨てて、ひとり勝手に行ってしまうお方ではありません。その働きを見守って、時に励まして、時に叱咤して、声をかけ、期待をかけ、手を引いて、そして、実は共に苦しんで、最後まで決して見捨てずにいてくださるお方なのです。
以前、先輩の牧師から聞いたことです。失敗した人を立ち直らせる一番の方法は何かという話です。それは、その人に期待することだというのです。人は諦められることほどに、辛いことはありません。私たちは身近なその人に期待し応援する人になりたいものです。そして、共にその喜びも悲しみも分け合う者になりたいのです。