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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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2015/07/19 ヨハネ2:1-11 「あの方が言われることを」

ヨハネ2:1-11 「あの方が言われることを」

 イエス様や弟子たちが招待されていた結婚式。母マリヤもその場におりましたが、招待客というわけではなく、裏方の仕事を取り仕切っておりました。けれど、まだ式の途中だというのに、用意していたぶどう酒が底をついてしまったのです。このままでは、集まった人たちから不満が盛れるのは時間の問題です。せっかくの結婚式にケチが付いてしまいます。困った彼女は息子に相談します。「ぶどう酒がありません。」
 ところがです。イエス様の返答は、彼女の期待するものではありませんでした。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」いやいや、親子でしょう?と思わずツッコミをいれてしまいそうです。何となく、お母さんとの関係性を否定している酷い言葉のように聞こえますが、実際は「私とあなたの関心事は同じではありません。」という意味です。イエス様は「わたしの時はまだ来ていません。」とも言われました。「わたしの時」とは十字架にかかり、復活し、天に昇られるその時。救い主としての栄光を受けるその時であります。公生涯を始められるイエス様の関心は常にこの「わたしの時」についてでありました。結婚式でぶどう酒が無くなる。それは確かに大きな問題ですが、それは面子の問題です。しかし、イエス様の問題意識は常に人々の救いについてなのです。
 ですから、これからイエス様はぶどう酒の奇跡をされるわけですが、それはマリヤのように、新郎新婦に恥をかかせないためとか、招待客の機嫌を損なわないためとか、母の願いだからとか、そう言った理由ではありません。イエス様の関心事は飽くまでも罪人の救いです。イエス様は、これから起こることは全て、救いのため、弟子たちの信仰の確信のために行うんですよ。と、そのようにおっしゃっている。つまり「しるし」とは何かについてを語っているのです。
 手伝いの者たちは、どの時点でこれがぶどう酒を用意する作業だと理解したでしょうか。水瓶に水をいれたときでしょうか。それとも水瓶から水を汲んだ時でしょうか。それ以前に、イエス様と出会ったまさにその時からでしょうか・・・。恐らくは、最後まで理解しないままであったかと思います。彼らがその水を、宴会の世話役のところに持って行って、世話役が味わって驚いたのを見て初めて、彼らは自分たちが何をしていたのかを知りました。それまでは、知らずに従ったのです。イエス様が語られた言葉をよく見るとわかりますが、イエス様は何の説明もなさっていないのです。
 こんなことをしていったい何の意味があるんだろうか、と、きっと彼らは思ったと思うのです。私たちも経験があるかと思いますが、何かをする時、理由もわからずにやらされることほど、気持ちが乗らないことはありません。私たちは理由を求めるのです。意味がわからなければ無駄なことと思います。けれど、神さまが命じられることには、時として理由がわからないことがあるのです。問われているのは、理解ではなく、忠実さなのです。
 ナアマンは憤りを感じつつも、エリシャの言葉に従いました。すると病が癒やされました。ペテロは「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」と言ってイエス様の言葉に従いました。すると網は魚でいっぱいになりました。神様の方法は、私たちが思い描いているものとは違うということです。私たちが理解できるかできないか、私たちは理解できないことは無意味なことだと思います。しかしそうではないのです。神様の方法は時に私たちの常識を遥かに超えます。私たちの願いを打ち砕きます。しかし、だからこそ、それは神の供える最善と言えるのです。

2015/07/12 ヨハネ1:43-51 「ほんとうのイスラエル人」

ヨハネ1:43-51 「ほんとうのイスラエル人」

 「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」イエス様のこの褒め様はなかなかのものです。いったいナタナエルの何が主から褒められたのでしょうか。それは「彼の内には偽りがない」ということでした。世の中には偽物の信仰の輩、形だけとりつくろい、熱心に見せびらかしている人たちで溢れているけれども、あなたはそういった者たちとは違う。あなたの信仰に偽りはない。あなたは本物の神の民、イスラエル人だ。とです。イエス様にその信仰が認められたナタナエルでした。
 しかし、これは何も、ナタナエルという人が成人君主のような立派な人だったということではないと思います。彼は先に、ピリポの言葉に対して「ナザレから何の良いものが出るだろう。」と反論いたします。彼はカナの町の出身でした。そのカナの町のすぐ近くがナザレです。彼はナザレの町の様子を知っています。あんな片田舎の取り立てて見るものもない小さな町から、救い主が生まれるはずがない。それが本当なら、もうとっくに噂になって私の耳にも入っていたはずだ!と、こう、ピリポの言葉を切って捨てたのです。彼の内には偏見がありました。先入観がありました。それゆえ彼には理解できません。けれども面白いのは、彼は反論しつつも、ピリポに従います。「来て、そして、見なさい。」馬鹿馬鹿しいと思いつつも、ピリポの熱を帯びた言葉に、もしかするとと期待して、ついて行くのです。
 彼は決して立派な人間ではありません。偏見いっぱいの頑固な者でした。時にその頑固さの故に人とぶつかることもあったでしょうか。もしかすると煙たがられることもあったかもしれません。ピリポが彼に声をかけた時彼はいちじくの木の下におりましたけれども、それも人付き合いをわずらわしく思い、一人いちじくの木の下にいたのかもしれません。わかりません。けれど、そんな彼も、救い主を慕い求めるという一点においては、何の嘘偽りもない。彼は心から求めていたのです。
 初めて会ったイエス様から自分を評されたナタナエルは尋ねます。「どうして私をご存じなのですか。」するとイエス様は「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです」と。つまり、あなたのことをずっと見ていたからだよと言うのです。けれどこれは不思議ではないでしょうか。ナタナエルがイエス様の下に来たのはピリポの誘いによってです。誘いに応じて今イエス様の前にあるのは、彼の意志であり事前に決まっていたことではありません。ですから、この無数にいる人々の中で、イエス様がナタナエルに殊更注目を向ける理由はどこにもありません。彼は有名人でも何でもない。にも関わらず、イエス様は見ていた。これこそがイエス様というお方です。人は他に幾らでもいるのに、この方は私を見ていた。私の言動を、私の日常を、つぶさにご覧になっていた。私に関心を寄せてくださった。ナタナエルはイエス様のこのたった一言に、この方が「神の子」であることを悟るのです。
 私という存在は、この世の中で溢れかえる不特定多数の一人かもしれません。私はともすればこの世の中に埋もれてしまっていて、誰も気付いてくれないような孤独を感じることがあるかもしれません。私なんて誰も見向きもしないと、一人枕を濡らすことがあるかもしれません。けれど、イエス様はそんな私の人生にスポットライトを当ててくださる。他の誰でもない。私を見ていてくださるのです。ピリポは言いました。「来て、そして、見なさい。」私たちはこの方の下に集い、この方を見ました。この方と出会いました。しかし、私たちはそれゆえに知るのです。私たちこそが見守られていた、知られていたという事実をです。

2015/07/05 ヘブル11:13-16 「天の故郷にあこがれて」

ヘブル11:13-16 「天の故郷にあこがれて」

 故郷というものは誰にとっても特別なものではないでしょうか。電車に乗っていて、どこかから地元の方言を聞く。もうそれだけでテンションが高くなったりいたします。同郷の人に会って、共通の知人であったり、地元の学校の話題になりますと、特に盛り上がります。初めて会った人も、もう旧知の仲のようです。この感覚は、恐らくは私だけではないかと思いますが、いかがでしょうか。
 なぜ故郷は特別なのでしょうか。それは故郷が自分の出発点だからです。そして帰るべきところだからです。今でこそ、故郷を出たまんまということはザラですが、一昔前、地方出身者が都会を目指すのは、最終的には故郷に錦を飾るためでありました。成功して、一旗揚げて、そして胸を張って故郷に帰る。これが地元を離れる者たちの夢だったわけです。しかし都会での現実は、そんなに単純ではありません。沢山の挫折や困難。いつしか本来の決意も忘れて、ただその日を乗り越えるのに精一杯な毎日。そんな時に、故郷の思い出は、私たちをそもそもの原点に立ち返らせてくれるのです。故郷を出るときにかけられた仲間の応援。自分自身が立てた決意。自分が今、何のためにここにいるのかを思い出し、もう一度頑張ろうと立ち上がらせてくれるのです。ちょっと時代がかった想像でしょうか。けれど、今日の箇所で「天の故郷にあこがれていた」というとき、それはこのような意味で使われているかと思います。つまり、そこは私たちの出発点であり、本来あるべきところであり、そしてやがて帰るべきところだということです。
 旅はスリリングで、新しいことに満ちて、楽しいものですが、それはやがて帰ることが決まっているから楽しいのです。もしも旅の道中で事故や事件に巻き込まれて、いつ帰れるかわからないということになれば、これはもう楽しいどころの話ではありません。
 ノアにせよ、アブラハムにせよ、彼らの信仰の決断はとてつもなく大きなものだったかと思います。彼らにとって神に従うということは、文字通り全てを捨てることを意味していました。家財や仕事や人間関係、それに平和で気楽な毎日までもです。先ほど旅は帰るところがあるから楽しいと言いました。けれど、彼らの旅は、帰るところを失う旅です。故郷には二度と帰らない旅です。さぞかし心寂しく、後悔の旅だったでしょうか。しかし彼らは後ろを振り返らず、前に向かってひたすらに歩み続けました。なぜでしょうか。それは彼らが、地上での生涯を天の故郷を目指す長い旅であると理解していたからです。この旅には必ずゴールがあるということを知っていたからです。
 ゴールのない競争はこれほど辛いことはありません。帰るべきところのない旅は少しも楽しくありません。世間では、特に若い人たちは、将来に何の希望も持てずにいます。希望のない世の中だから、とにかく今を楽しもう。そういう世の中です。それは、将来が何も約束してくれないからです。どれだけ将来のために汗を流しても、実際にはどうなるかわからない。この人生の旅の終着点がどこだかわからない。多くの人にとって確かなのは今だけです。だから、今を楽しむ。けれど、それは不安を先延ばしにしているだけです。私たちはこの人生という長い旅のゴールを知っておかなければなりません。ただ闇雲に、その日暮らしでいるだけでは、いずれ行き詰って、心が折れてしまうのが関の山です。ゴールを見定めるからこそ、今のあり方が固まるのです。
 キリスト者は神に属する者として新しく生まれ変わった者です。いのちの書に名前が書き記され、天国人として手続きを終えた者です。ですから私たちにとって地上の歩みは期間限定の旅です。私たちは天の御国に帰ることが決まっている。それを知っているからこそ、今のときの苦しみに耐えることができる。神に従うことができるのです。

2015/06/28 ヨハネ1:35-42 「信仰の旗印」

ヨハネ1:35-42 「信仰の旗印」

 前日と同じく、ヨハネはイエス様が歩いて行かれるのを見て言います。「見よ。神の小羊」けれど前日と違うのは、その言葉を聞いて二人の弟子、アンデレとヨハネがイエス様の後について行ったことです。
 イエス様は二人に振り向かれて問われます。「あなたがたは何を求めているのですか」ヨハネの福音書で語られるイエス様の最初の言葉です。これはとても大切な問いかけです。と言いますのも、何を求めているかによって、その人が必要とする救い主が違ってくるからです。政治的な救いを求めるなら、議員に訴えるべきでしょう。宗教的な癒しの宣言なら祭司のところに行くべきでしょう。経済的な救済なら金持ちの家の前に座るのが良いでしょうか。イエス様の後を追いかける二人ですから、求めがあるのは間違いない。けれど、それがいったいどういう求めなのか。何を求めるかによっては、イエス様に付いていくことは何の意味も成さなくなるのです。私たちも何を求めているのかが問われるところです。
 アンデレとヨハネの求めているものは何でしょうか。彼らはヨハネの言葉を聞いて、イエス様の後を追ったのですから、彼らの求めは一つです。この方がどういうお方かを知りたい。ですから彼らはイエス様に声をかけられたのをこれ幸いに「ラビ。今どこにお泊りですか。」と尋ねます。つまり、「先生、今どこにお泊りなんですか。私たちはあなたをもっと知りたいです。あなたととことん話し合いたいのです。あなたのお泊りになっているところにご一緒してもいいでしょうか。」と願ったのです。
 「来なさい。そうすればわかります。」二人はイエス様の声に従って宿へとついて行きます。「時は10時頃であった」とあります。現代の時刻では、午後4時。つまり、ユダヤの日没を意味します。日没は一日の終わりであり始まりです。そして、「その日彼らはイエスといっしょにいた。」ともありますから、その晩、彼らは夜通しでイエス様と語り合ったということです。どんな話があったか詳しくは書かれません。しかし、想像はできます。翌朝、彼らは「私たちはメシヤにあった。」と人々に告げ知らせたからです。41節に「彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて」とあります。ペテロを始めとして、他の人々にも、という意味です。つまり、そういう晩を過ごした。ラビ(ユダヤ教の先生)と呼んでいた彼らが、メシヤと確信し、それを人々に黙っていられない。そういう一夜です。イエス様は彼らの悩みを真剣に聞き入れ、聖書を解き明かし、ご自身を明らかにし、祈り、魂に触れる交わりを共にされたのです。
 大切なのは、イエス様のもとに行くということです。遠くから眺めているだけではダメなのです。そうすればわかるというのは、そのようにして下さるということ。イエス様と向きあえば、イエス様の言葉に耳を傾けば、イエス様がわからせて下さるのです。私は高校生の頃に聖書に触れ、教会に導かれました。しかし、どこか頑なで、興味はあるけど、信じたいけど、イエス様のことを全て知るまでは、聖書を隅から隅まで納得するまでは信じることは出来ないと思っておりました。そうでなければ信じる資格がないとです。しかしある時、それは順序が逆であることを知ったのです。まずは求めを持ってイエス様のもとに行くのです。そうすればわかる。私は神がおられること。イエス様が神の子であること。私の救い主であることを信じました。というよりも、私の中でそのように心を決めました。すると、聖書のあらゆる記事が、納得がいくものとして心の中にストンと落ちたのです。信仰は私たちの旗色を鮮明にすることから始まります。私は何を求めるのか。私は誰についていくのか。私たちがまず心を決める時、その他のことは自ずとわかるようになるのです。信仰は知識に先立つのです。