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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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2015/08/23 ペテロの手紙第一3:9 「悪をもって悪に報いず」

ペテロの手紙第一3:9 「悪をもって悪に報いず」

 この箇所の背景には、人はそもそも悪をもって悪に報い、侮辱をもって侮辱に報いる性質があるということです。誰かから悪意を向けられます。すると、そこには負の感情が生まれます。悔しい。悲しい。腹立たしい。そういった思いが心に蓄積されていきます。イライラします。不安になります。すっきりするためには心の中のそういった思いを吐き出す必要があります。そこで、相手に同じように仕返すわけです。
 けれど、時にはそれが出来ない場合があります。相手が自分よりも明らかに力がある場合、私たちは直接相手にし返すことが出来ません。するとどうでしょう。私たちは今度は自分よりも弱い存在を捜して、そこにこの負の感情をぶつけるのです。そうしないではいられない。なぜなら、どこかで吐き出さないと、自分自身がその感情に押しつぶされてしまうからです。
 しかしです。悪をもって悪に報いることには、終わりがありません。誰もが悪に悪で報います。やられたらやりかえす。もしくは別の者をはけ口とする。そんなことはないと言われるでしょうか。でも、例えばです。自分に向けられた悪意は我慢出来たとしても、自分の大切な人に悪意が向けられた場合、私たちはそれを我慢できるでしょうか。自分の息子や娘が、親が、誰かの腹いせに傷つけられたとしたら、どうでしょう。やっぱり、相手に対して同じ目に合わせてやりたいと思うのではないでしょうか。それはある意味当たり前の感情です。しかし、そういう当たり前の感情の積み重ねが、現代の終わらない争いの原因となっているのではないでしょうか。
 誰かがこの負の連鎖を止める必要があります。そして聖書は、あなたがたがそれをしなさい。と言うのです。クリスチャンがそうしなさいと。クリスチャンっていうのは、神様からとんでもない期待をされているんですね。しかしです。それは何と不可能なことではないでしょうか。クリスチャンとなれば、他人の悪意を受け止めることができるのでしょうか。誰かを恨まずに生きられるのでしょうか。いやいや、私たちは、イエス様を信じて、イエス様の救いをいただいて、しかし尚、自らの弱さに嘆き、同じ罪を繰り返す者に過ぎないのではないでしょうか。ですから、クリスチャンが何か特別の存在だから、人々の悪意を引き受けるようにと言われているのではありません。そうではない。私たちが悪意ではなくて、祝福の連鎖の中に入れられたから、祝福を返しなさいと言われるのです。
 「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」とあります。受け継ぐためとは、私発信の祝福ではないということです。私たちはできませんが、ただ一人、悪意を引き受けられた方がおられました。イエス様です。「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(第1ペテロ2:22-23)まさに、このお方こそ、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与え」られる方でした。イエス様はあの十字架上で、誰よりも大きな孤独と悲しみと痛みと経験されました。イエス様は父なる神にすら捨てられました。それでもイエス様は祈られます。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」私たちは、この祝福を受け継いだのです。
 ですから私たちは、悪意や侮辱の中で、主イエスの痛みや悲しみに出会うのです。私たちに向けられた悪意、敵意、痛み、悲しみ、それら一つ一つをリアルに感じ取るほどに、私たちは私たちのために背負われたイエス様の痛み、悲しみを知るのです。人々の呪いの中で、私たちはイエス様の愛に触れていくのです。だからこそ、主は言われるのです。「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」


2015/08/16 マルコ15:42-47 「あなたにもある主の備え」 文書伝道デー 岩本信一兄(いのちのことば社副会長)

マルコ15:42-47 「あなたにもある主の備え」

 この聖書箇所は、イエス様の十字架の場面です。イエスの弟子になっていましたが、そのことを隠していたアリマタヤのヨセフ。この時、彼はイエス様の十字架のそばにいました。そして、午後の3時頃、イエス様が息を引き取られたことを確認し、「今、自分が動くべき立場にある」と気付いたのです。そして、勇気を出して総督ピラトの所に行き、イエス様の亡骸の引取りを申し出ました。許可を得た彼は、亡骸を包むための亜麻布を買い求め、ゴルゴダの丘に戻ります。そして、十字架の上に釘付けのまま放置されていた、イエス様の亡骸を取り降ろしたのです。そして、イエス様の亡骸を、亜麻布で包み、日が暮れるまでのあわただしい時間の中で、新しい横穴式の墓にイエス様を葬りました。罪人として、十字架にかかられて、死なれたイエス様が、通常ありえない形で、その亡骸が引き取られ、きちんと葬られ、埋葬されたことには大きな意味がありました。このことのためにイエス様はアリマタヤのヨセフを弟子として選ばれていたと言ってよいと思います。彼はこの時“勇気”が与えられ、自分の“使命が明らかにされ”、“大胆な行動を起こした”のです。そして、主の御体を手厚く葬ると言う“役割を果たしきった”のです。
 アリマタヤのヨセフは金持ちでした。財力も主の備えです。彼は有力な議員でした。だからこそ、総督ピラトに謁見ができ、イエス様の亡骸の引き渡しの許可を得られたのです。社会的な立場も主の備えです。アリマタヤのヨセフはイエスの弟子でしたがそのことを隠していました。弟子であることを隠すことは疑問が残ります。しかし、恐れる心、勇気がわかないことも、この場合は主の御手の中で用いられて、事が最善に進められたと言えるでしょう。
 皆さんは何らかの財産や立場、経験、趣味を持っているのではないでしょうか? それは神様があなたに託していることかもしれません。アリマタヤのヨセフはその信仰を隠していましたが、あの十字架のぎりぎりの場面で、約3時間のなかで、勇気を出し、自分の立場を最大限利用し、自分の持っているものを差し出したのです。同じように、神様は1人の人の小さな信仰の行動を祝福し、福音の業を前進させてくださると思うのです。神様は、私たちが伝道する勇気もって、信仰をもって行動すること、挑戦することを待っていて、大きな計画、素晴らしい計画を用意しておられると思います。
 主を証しし、伝道する方法のひとつとして「文書伝道」があります。この「文書伝道」のコツは、あきらめずにお渡しすることです。時が良くても、悪くても、渡しておけば、備えておけば、後は聖霊の神様がその文書を用いてくださるのです。あきらめずに、勇気をもって皆様の周りのまだ主を知らない方へ福音文書を渡していただき、「文書伝道」に取り組んでいただきたいと思います。

2015/08/09 ヨハネ2:23-25  「しるしを誇らず」

ヨハネ2:23-25 「しるしを誇らず」

 過ぎ越しの祭の一週間、イエス様はエルサレムで多くのしるしをお見せになりました。そのおかげで、多くの人々がイエス様を信じました。ところがです。イエス様の方では、彼らのその信仰を信じてはいませんでした。ここで「お任せにならなかった」と訳されている言葉は、「信じた」という言葉を否定した言葉です。ですから直訳すると「信じなかった」という意味です。
 なぜエルサレムの人々の信仰は、イエス様から信じられないのでしょう。それは彼らが、しるしを見て、信じた。からでしょう。一方で、カナの人々は、主イエスの栄光を見て、信じたのです。この二つは一見同じように思えますが、実は大きな違いがあります。エルサレムの人々の関心は「しるし」でした。どんなに不思議なことがなされたか。この一点にありました。しかし彼らは肝心のイエス様を見ません。彼らにとってしるしさえあれば、それがイエス様じゃなくても良かった。「しるし」があれば、金の子牛ですら神の使いだと言って信じたことでしょう。
 イエス様は「しるし」を見せられます。病の人を癒やし、悪霊を追い出します。それはもちろん、目の前にいるその人を憐れんで、助けてあげたいと思って、なされるわけです。けれどです。イエス様はただ単に病を癒し、悪霊を追い出すために「しるし」を、奇跡をされるのではありません。その「しるし」を通して、人々が神の栄光を褒め称えるために、まことの神への信仰を取り戻すためになされるのです。小手先だけの癒やしではないのです。イエス様が見ておられるのはその人の「魂」です。ですから「しるし」だけを見て、「わーすごい。」「イエス様さすが」と喜んでいるだけでは事の表面しか見えていません。「しるし」を見て、畏れるようでなければ・・・。今、イエス様はご自身が人ならぬ栄光の主であることを、「しるし」をもって明らかにしてくださったのです。つまり、人々は主の栄光の前に立たされている。このことの意味をよくよく考えなければなりません。イザヤは主の栄光を前にして「ああ、私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」と言ってひれ伏しました。これこそ信仰者の姿ではないでしょうか。「しるし」は主の栄光を表わす手段です。けれど、「しるし」だけに目を奪われることがある。そうすると、主のみこころがぼやけてしまうのです。
 さて、エルサレムの人々は、イエス様のしるしを最初から期待していたという側面があります。宮清めの出来事で一躍有名人になったイエス様に対して、この人々は、それだけのことをするなら、いったいどれほどのしるしを見せてくれるんだ?と期待していたのです。私たちを驚かすようなしるしを見せてくれたなら、あなたのことを認めてあげるよ。イエス様のしるしをある種のパフォーマンスのように理解していたのです。自分たちの気に入る見返りがあれば信じますよ。これが「しるし」を求める信仰です。しかし、それは本当の信仰とは言えません。イエス様は言われます。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:29)
 しかし、一方で、完全に「しるし」なく信じることができるのだろうかとも思ったりします。イエス様の側で誰よりも身近にいた弟子たちですら、そのみこころを完全に知ることはありませんでした。ましてや、2000年も経つ私たちが「しるし」なく信じられるのかとも。しかしです。私たちには「しるし」が与えられているではありませんか。十字架と復活です。これこそ主が私たちに与えてくださった何よりの「しるし」です。

2015/08/02 ヘブル11:17-19 「よみがえりの信仰」

ヘブル11:17-19 「よみがえりの信仰」

 なぜ、神は私たちに試練を与えられるのでしょうか。そこには様々な意味があるかと思いますが、一つは、神がその試練の中で、私たちの信仰を試しておられるということです。私たちの信仰が本物かどうか。それは手放すものの価値によって決まるからです。あらゆるものを失っても尚、信じることができるのか。取り上げられても尚、従順でいられるのか。神は私たちの最後に残るものが他でもない、ご自身への信仰であることを望んでおられます。ですから、試練は私たちにとって受け入れがたいものです。試練は私たちにとって、これだけはと思うそのものを要求されるのです。
 神はアブラハムの信仰を試みられました。それは息子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさい。というものでした。なぜ生贄にイサクが要求されたのでしょう。それはアブラハムにとって何よりも手放したくないものが愛する子イサクだったからです。神がもし別のものを差し出せと言ったなら、彼は喜んで差し出したと思います。息子のために自分の命を差し出せと言われれば、彼は躊躇なく従ったでしょう。彼にとって神は比べ得るもののない特別なお方です。ところが、そんな神にもこれだけは勘弁と思う、そのものを差し出すようにと神はお命じになられます。なぜなら全てを失って尚、残るものこそが本物だからです。神はここで、あなたは他の全てにまして、私を愛するか。とアブラハムに問うているのです。
 私たちが試練に遭うとき、実は同じことが問われているのではないでしょうか。あなたは他の何にも増して、私を愛するか。第一とするか。あなたは自分が一番になってはいないか。そのために、神様は敢えて、私たちが困難に思う試練を用意されるのです。
 いったい彼はどのようにこの葛藤に打ち勝ち、神に従えたのでしょうか。それこそがよみがえりの信仰でした。葛藤の中、苦しみの中、辛うじて彼を支えたのは、いのちを総べたもう全能の神への信頼でした。いえ、それは信頼と呼ぶには余りにもか細い、彼の願望であり、賭けでした。神は彼のそのか細い信頼を良しとしてくださったのです。
 さて、ヘブル書は信仰の見本としてアブラハムを記しています。アブラハムのようであれ、とです。しかし、実際のアブラハムは不安も悩みも弱さも抱えた一人の人でした。しかしそれでも尚最後には、神の全能を信じて委ねて従うのでした。このことは私たちに2つのことを教えてくれます。一つは試練の中、私たちは悩み苦しむ者だということ。もう一つは主のよみがえりは私たちの支えとなることです。
 私たちはどこかで、試練の時であっても悩んではいけない。それは不信仰なことだと考えてはいないでしょうか。けれど、そうではありません。悩み苦しむからこそ、信仰が問われるのです。私たちは試練にあって悩んでも苦しんでも良いのです。結果として、神に従うことができればいい。そしてそれはよみがえりの希望によってなるのです。19節に「これは型です。」とあります。いけにえのイサクを取り戻した出来事は、いけにえの死よりよみがえられたイエス様の型だと言うのです。しかし、それだけではありません。それは父アブラハムの痛み悲しみは、父なる神のそれでもあると言うのです。つまり、よみがえりの信仰とは、結果としての私たちの勝利を意味しているだけでなく、過程における私たちの葛藤を、父なる神がご存じであるということをも意味しているのです。そしてだからこそ、私たちはここに信仰の支えを得るのです。私たちの前に置かれている試練。そして試練の中で抱える葛藤は、神の知るところであります。だからこそ、私たちはその先にある勝利に確信が持てるのです。

2015/07/26 ヨハネ2:12-25 「まことの神殿」

ヨハネ2:12-25 「まことの神殿」

 カナの婚礼の出来事から暫く経って、イエス様は過ぎ越しの祭のためにエルサレムに上られました。しかし、イエス様はそこで事件を起こします。宮の中に並んだ店の台をことごとく倒し、そして両替人たちを追い払ったのです。それは大事件でした。もちろん、宮は騒然といたします。いったいなぜイエス様はこのようなことをするのでしょう。
 両替人や生贄の家畜を売る店は、神殿礼拝のために重要な役割を担っていました。当時の一般的な硬貨はローマ硬貨です。しかしこれにはローマ皇帝の像が刻まれていますので、さすがに神殿で納めるのには向きません。そこでユダヤ人たちはわざわざ、神殿に納めるお金として、古いヘブル硬貨や、ツロのドラクマに両替して納めていたのです。両替人は、この神殿に納めるお金を用意しておりました。また、ユダヤ人は年に一度あらゆる地域から過ぎ越しの祭りにやって来ます。それは過ぎ越しの生贄を献げるためでした。しかしです。旅をしながら、生贄を調達することは大変なことでした。なぜなら神殿にささげる生贄は、死んだものではいけません。生きているもの。それも傷のないもの。しかし、旅をしていれば、傷も付きますし、死んでしまうこともあります。ですから、生贄の動物はエルサレムで調達するのが当たり前だったわけです。
 エルサレムの町は宿を取るのすら困難なほど賑わっている過ぎ越しの祭りの時期です。わざわざ遠くから旅をしてきて、生贄を用意するだけで一苦労なわけです。けれど、神殿でそれが用意できるなら、これほど便利なことはありません。手ぶらで来て手ぶらで帰ることが出来る。神殿内にあるこれらの店は、人々に大変重宝されたのです。
 しかしです。この「便利」こそが、生贄に最も似つかわしくない考えではないでしょうか。確かに、両替人にせよ、生贄を取り扱う店にせよ、それらは大事な役割を持っています。しかし、それらは何も神殿内で行う必要はありません。エルサレムの町にはそのような店が幾らでもありました。神殿の入り口のすぐ外にも、それらの店は連なっていた。幾らでもそこで調達することができた。にも関わらず、神殿内にそれらの店が設けられていた理由。それは人々の少しでも手間を省きたいという思い。面倒を省略したいという思いに他なりません。一言で言うと面倒くさいのです。そしてそうした人々の思いに便乗して儲けようとする店主と、場所代を取る祭司たち。しかし、そもそもこの生贄の血は災いを過ぎ超すための尊い犠牲でした。その家の初子の命を左右する特別の生贄でした。それを面倒だと考えること自体、神をないがしろにすることです。神さまへの捧げ物の準備に、コンビニエンスが優先されるということが、すでに本来の意味を失ってしまっているのです。
 命のための犠牲ですから、手間をかけるべきなのです。例えばです。牧師が教会から謝儀をいただくとき、手間を省くために事前に献金を抜いていただくとしたら、これは献金の意味を成していないですね。手間がかかっても、自分で献金を準備する。取り分ける。そうすることが大事です。生贄も同じです。手間や犠牲を負って準備することに意味があるのです。アブラハムは息子イサクを生贄として献げるようにと命じられ、胸が引き裂かれそうな葛藤と痛みの中、神の命に従い、イサクを捧げます。結果的には、神が別の生贄を用意されたことで、イサクは助かるわけですが、神がご覧になられたのは、そのアブラハムの覚悟と信仰でありました。詩篇51:17「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」形だけを整えるだけでは神を礼拝することにはなりません。そこには真の神への畏れがなければならないのです。