ヨハネ3:16-21 「神は、実に、」
今日の箇所は、聖書の中の聖書と呼ばれる箇所です。ここに、「そのひとり子をお与えになったほどに」とあります。お与えになった。と言いますと、プレゼントというニュアンスで、とても平和的な感じがします。しかし、そうではないのです。そのひとり子をお与えになったほどに。それはつまり、犠牲にしたほどに。ということです。見殺しにしたほどに。と言っても良いでしょう。私たちの救いの道を備えるために、神は最も大切なひとり子をお見捨てになったのです。それはどれほど辛いことだったでしょう。
先日、次男が入院をした折、子どもの叫びを無視しなければならないということが、親としてどれほど辛いかを経験しました。毎日お見舞いに行きますが、ご承知のように我が家には他の子達もおります。乳飲み子もいる。決して彼だけのために泊まることはできません。彼もそれを知っているので、ずっと、もう帰るの?まだいる?寂しいよ。の繰り返し。そしていよいよ帰る時間になりますと、看護師さんに預けるわけですが、寂しいよ。やだよ。帰る!と泣き叫んで暴れるのです。その叫び声を無視して帰らなければならないということは、これはもう、本当に心が張り裂けるような思いでした。
父なる神は幾らでもイエス様を助けることができたのです。なのに、一向になさらない。それはどれほど辛いことでしょう。よく神様は悲しむことはないという人がいます。神様なんだから人間のように心を痛めることなどないと。けれど、そうでしょうか?神様は三位一体の神です。ご自身の内に交わりを持つお方です。ですから神は相互間の愛をご存じであります。時に怒られ、時に妬み、そして悲しまれるお方です。自分が造ったこの世界をご覧になって非常に良いと感動するお方であり、ご自身が造られた人間が裏切る時、心から悲しまれ、怒られる方なのです。そもそも、私たちに感情があるのは、私たちが神のかたちに似せて造られたからに他なりません。ですから、何が言いたいかと言いますと、父なる神がイエス様の叫びを聞いて、悲しまないはずが無いということです。心を痛めないはずがない。父なる神にとって、他の何とも比べることのできない大切な存在が、御子イエス・キリストなのです。その父なる神が、イエス様を見捨てられる。このことがどれほどあり得ないことかがおわかりでしょうか。
ではなぜ、父なる神はイエス様を見殺しにされたのか。なぜ、神はイエス様の叫びを無視したのか。「それは、御子を信じる者が一人として滅びること無く、永遠のいのちを持つためである」と御言葉は言うのです。神の愛とは何と重く深いものでしょうか。ですから、私たちは神の愛を当たり前としてはいけません。受けて当然なんてもってのほかです。なぜなら神の愛は神の御子の犠牲の上にもたらされたものだからです。パウロは言います。「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた愛し合うべきです。」(第1ヨハネ4:11)私たちに求められているのは、愛を強要することではありません。むしろ私たちが愛する者となることです。十字架に見る神の愛に倣って、私たちもまた互いに愛し合うのです。いえ、私たちもまた互いに犠牲を負い合うのです。

ヨハネ3:1-8「悔い改めと新生の恵み」
「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」ニコデモのこの言葉にはイエス様の御業に対する尊敬やへりくだりと共に、自分自身の限界を知った絶望感のようなものを感じます。『私にはできません。私にはわかりません。けれどあなたはご存じです。』という叫びです。
誰よりも聖書に通じ、律法を遵守した彼。地位と名誉を手にいれ、人びとの尊敬をほしいままにした彼。人びとに罪ある生活を訴え、清めと従順を奨め、御言葉を教えながら、しかし彼は自分自身を見た時に、そこには解決のない、言いようのない不安を抱えていたのではないでしょうか。どれだけ聖書を調べようとも、どれだけ律法を守ろうとも、消えない不安。罪責感。彼にはいっこうに命ある生活に至る、真理を獲得することができなかったのではないでしょうか。ですから、今ここに、彼ほどの人物が、その自尊心を捨てイエス様に教えを請うているのです。彼の気持ちはよくわかるところです。私たちも同じです。私たちもまた何をやっても埋まらない空しさを感じるところではないでしょうか。これで幸せになれると信じて頑張ってきたことにどれほど裏切られたことでしょうか。
イエス様は、そんなニコデモの心の中の渇きを知って、答えられたのでありました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」つまり、あなたは今のままでは神の国を見ることはできないよと言われたのです。この「新しく」という言葉ですが、これは新約聖書の他の箇所では「再び・もう一度」という意味ともう一つ「上から」という意味で使われている言葉です。ですからニコデモは「もう一度、生まれ直す」と思ったわけです。けれど、イエス様のおっしゃった意味は、むしろ「上から生まれなければ、神の国を見ることはできない」ということでした。理解できないニコデモに対し、イエス様はもう一度言い直されます。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」イエス様はここで「新しく生まれる」ということを、「水と御霊によって生まれる」と言い直されます。「新しく生まれる」とは、肉体的に「もう一度母の体から生まれること」でも、「来世において生まれ変わること」でもなく、「水と御霊によって」と言うのです。「水」とは水のバプテスマのことです。それは悔い改めを意味していました。しかし、それだけではありません。「御霊」によって。上からの霊によって新しく変えられなければならないと言うのです。神の国や永遠のいのちというものは、私たちがどれだけ戒めを守ったかとか、どれだけ評判を得たかとか、どれだけ努力をしたとか、そういった延長線上では決して辿り着きません。大事なのは、悔い改めること。そして新しく生まれ変わることです。
悔い改めるとは、何か私たちの行為のように思うかもしれません。しかし、そうではありません。それは自分の中には一片の救いも無いと認めること。これまで自分の握りしめていたあらゆるものを手放すことです。何かをするではなく、諦めることです。私たちが手放す時、私たちは御霊を受けるのです。古いぶどう酒を捨てなければ、新しいぶどう酒を革袋に満たすことは出来ません。自分自身の肉なる思いに絶望し、悔いるときに、私たちがその古い人に死ぬ時に、私たちは御霊によって新しく造りかえられるのです。
しかしです。私たちは自分自身を見る時に、本当に新しくなったのかと疑問に思うことが多々あるのではないでしょうか。ちっとも変わってないじゃないかとです。けれど、違うのです。たとえ私たちは目に見えて何も変わらないとしても、決定的に変わったことがあります。それは、私たちの身分と生き方です。バプテスマを境に、私たちは御霊によって神の国の住人とされます。これを新生と言います。そして、神の国民とされた私たちは、できるできないに関わらず、神に向いて生きる者とされます。これを聖化と言います。バプテスマは確かに私たちに2つの救いをもたらすのです。
これらの変化は完全に上からの賜物です。それは私たちが勝ち取った救いではありません。神がキリストのゆえに選ばれたのです。御霊のゆえにもたらされたのです。そして、だからこそ、私たちはこの救いに確信を持つことが出来るのです。

ペテロの手紙第一3:15 「希望を伝えるために」
「だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」とは聖書の言葉ですが、本当に伝道のチャンスというのはいつやって来るかわかりません。10年来、何も応じてくれなかった旦那さんが、明日突然に、救いについて尋ねてくるかもしれません。軽い気持ちで話しかけた友人が、殊の外、興味を持って尋ね返して来るかもしれません。その時、私たちは、まだ準備が整っていませんから、よくわかりませんから、またの機会にお願いしますと言うのでしょうか?いつその時が来るかわからない。だから、いつ来ても良いように用意をしておかなければなりません。
最も有名な日本人の一人にメジャーリーガーのイチロー選手がいます。イチローの業績は世界中の誰もが知るところですが、彼は何も生まれついての才能だけでここまで成功したわけではないでしょう。彼の素晴らしさは自己管理能力の高さだと言われています。試合が有る無しに関わらず、必ず球場に来て、いつもと同じ練習を淡々とこなす。ストレッチを欠かさず、十分に筋肉をケアする。イチローは私と同い年の41歳、メジャーリーグで最年長の野手となりましたが、驚くべきはこれまで故障者リストに上がったことはたったの一度だけ、それも胃潰瘍によってだと言うことです。彼はいつも試合に備え、最高のパフォーマンスを発揮できるように、自らの体を整えているのです。
咄嗟の時、神が用いられる時、それに応えられる人とはどのような人でしょうか。前回、それはあらゆる現状の中で恵みを数えることの出来る人、神の臨在に目を留めることが出来る人だと言いました。もう一つそこに加えるとしたら、その恵みを相手に伝わる適切な言葉にして整えている人と言えるでしょう。
経験したこと、学んだこと、実感したことを、的確に相手に伝えるというのはある種の訓練が必要です。例えば日記を書く人は、日記を書くこと自体が目的となることがあるかと思います。書くことが楽しい。それはとても大切で意味あることなんですけれども、本当にそれが意味を持つのは、そこに留められた経験が次に活かされる時ではないでしょうか。過去の出来事から学んで、その経験が将来に活きた時ではないでしょうか。ですから、積まれていった日記は、実は定期的に見返すという行為が大事です。学校の授業ノートも同じですね。黒板の文字を精一杯にノートに書き写しますが、大事なのは、それを見返すことです。ノートは見返すためにこそ書くのです。そもそも見返さないならノートをとる意味がありません。そして神の恵みも同じです。恵みを蓄えることは大事ですが、蓄えるだけではいけません。それを伝える言葉として整えなければなりません。
そのために、どうすればいいでしょう。それは、常日頃から恵みを分かち合う。言語化して相手に伝えるということを繰り返すことです。自分の胸の内に蓄えるだけでなく、誰かに伝えるという行為を繰り返しておくのです。祈祷会では毎週、互いの近況を話し合います。この近況を話すということが、私たちの恵みを将来に整えてくれるのです。そして、同時に誰かの証しを近況を聞くということも、私たちの備えとなります。兄弟姉妹の信仰の姿を通して、自分自身がこの日常の中でどのように神の恵みを整えていくべきかを知るのです。
「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」
Ⅰペテロ3:15

マルコ5:18-20 「生ける神を証しする」
伝道は、一人ひとりのキリスト者の使命です。私たちは熱心さをもって人々に語ります。それは強要されてでなく、見返りを求めてでもなく、内側から湧き出てくる衝動によってです。この隣人を放っては置けない。私たちはそういった使命感を持って、神とは。罪とは。救いとは何かと、熱心に語り続けるのであります。
けれどです。今日ご一緒に考えたいことは、それは果たして、多くの人々が本当に聞きたいことなのかということです?どうでもいいとは言いません。むしろそれはとても大切です。神、罪、救い。聖書が教えるこれらことを順を追って理解する時、私たちは救いの確信を得ることが出来ます。ですから求道する人々には救いの根拠と救いに至る過程をきちんと教えなければなりません。しかしです。それはあくまでも信仰に興味を持ち、どうすれば救われるのかと問い続ける求道者に対してであって、それ以前の人々。多くの神を知らない人たちの関心とは違うように思うのです。と言いますのも、この日本では神々があまりにも溢れかえっていて、ゴルフの神様だとか、笑いの神様だとか、他人よりもちょっと優れた人を見ると、すぐに神様と言って称えるような社会におりますと、見えない神に救いを求めるだとか、信頼して生きるだとか、そういった信仰を持つこと自体が、とても不確かなことだからです。自分以外の何かに信頼して依存して生きるということは危ない。のめり込んではいけない。そういう思いがある。最初から興味と警戒心をもっている。これが大多数の人たちの本心だと思うのです。
そもそもの神観が違うのです。多くの人にとって神は数多くいる、限界ある存在に過ぎません。困ったときにだけ頼る、頼っても気休め程度にしかならない。そのように割りきって付き合うべき存在です。ですから、そういう神観の人たちに対して、まず最初に伝えるべきは、救いの云々ではありません。まず伝えるべきは、聖書の神が生きて働かれる神であること。信頼に値する神であることを伝えなければならないのです。
ではどうすれば、生きて働かれる神を伝えることが出来るのでしょう。今日の箇所でイエス様は言いました。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」つまり、あなたの人生に働かれた神様の臨在を証しなさい。ということです。主が私にしてくださったことですから、私たちの救いの証しはもちろんですけれども、それだけではありません。日々の信仰生活が私たちの証しです。それは決して人に誇れるものではないかもしれません。沢山の失敗や過ちを繰り返して、そこには情けない自身の姿があるかもしれません。しかし、それで良いのです。多くの人は私たちの成功談を聞きたいのではありません。私たちが失敗し、試練に会い、苦しみ、悩む中を、どのように主に励まされて立ち上がったのか、乗り越えていったのか、そういう弱さの中に働かれる神を聞きたいのです。私たちの信じる神が、今も生きて、信仰者を導いておられることの証言を求めているのです。
ですから、大事なことは、全てのことにおいて恵みを数えるということでしょう。私たちは余裕が無い時、その現状の中で恵みを数えることができなくなってしまうかもしれません。ボヤキばかりが口に出るかもしれません。しかし、私たちは生きて働かれる神が今日も共におられるという事実に目を留めるべきです。この現状を通して、語られ、導かれる神の声に耳を傾けるべきです。私という視点から、神様の視点に。この今という時を捉え直すとき、私たちはそこに確かな神様のご計画を見るのです。神は無駄なことはなさいません。意味のないことを与えられることはありません。その経験が、神を証しし、隣人に寄り添う糧となっていく。神の証とされていくということではないでしょうか。
