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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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2015/10/25 ヨハネ3:22-30 「あの方は盛んになり」

ヨハネ3:22-30 「あの方は盛んになり」

 イエス様の伝道が盛んになる一方で、いっときの勢いを失っていく集団がありました。バプテスマのヨハネの集団です。原因はなんと、川向うでバプテスマを授けていたイエス様でした。
 私たちもそうだと思いますが、自分たちの手柄が横取りされるってのは、非常に腹立たしい気持ちが致します。ヨハネの弟子たちもイエス様には一目を置いていました。ヨハネ先生が「私にまさる」というんだから、よっぽど凄いに違いない。ところが、その噂のイエス先生は、自分たちと全く同じことを真似し始めるのです。それも目と鼻の先で。弟子たちはヨハネに訴えます。「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」感心しているわけではありません。恩を仇で返すようなイエス様のやり方に不満を感じているのです。ところが、ヨハネの返答は彼らの期待を裏切ります。「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」
 さて、ヨハネの言葉から学びたいことは、教会は誰のものかということです。
 教会という営みの中にあっても、実はヨハネの弟子たちの思いは、少なからず経験します。それは妬みです。妬みというのは厄介ですね。それは頑張っている人にほど襲いかかってくるのです。人生をいい加減に、過ごしている人はあまり妬みを感じません。それは、私はこんなにも頑張ってるのに…というつぶやきです。なんであの人ばっかり…という苛立ちです。ですから、特にクリスチャンは真面目ですから、皆さんにとってこれはとても身近で厄介な感情ではないでしょうか。
 しかし、ヨハネの姿から思うのは、それは「私」という存在があまりにも中心となってしまっているからではないでしょうか。ヨハネは「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」と言います。ヨハネという人を見事に言い表した言葉です。彼は徹底して主のために仕えるのです。自分の称賛のために、自分の損得のためにという考え方は彼には一切ありません。彼にとって、主の御心が成るならば自分でなくてもいいのです。なぜなら彼はメシヤでは無いからです。
 私たちの願いは、教会が私たちの教会となることでしょうか。自分にとって理想の、居心地の良い、都合の良い教会となることでしょうか。そうではないでしょう。私たちの願いは、教会がキリストのものとなることです。私たちは教会を私の教会としてはいないでしょうか。ですから、私の理想の教会となるために。私の理想の兄弟姉妹でいるように。と裁いてしまうのではないでしょうか。教会は主イエスのものです。ですから、私たちは主イエスの喜ばれるところを目指していきましょう。

2015/10/18 使徒17:24-25 「人は、何処へ行くのか」 小向三郎師

使徒の働き17:24-25 「人は、何処へ行くのか」 小向三郎師

 人生はよく旅に例えられますが、私たちはどこから来てどこへ行こうとしているのでしょうか。
 人間は地上の生を終えると、元あった命の大河に還っていき、また将来縁があればその大河から命をいただいてこの世に生まれてくる、すなわち命とか時代というものは、始めもなく終わりもなく、ぐるぐると回っているという考え方があります。これは古今東西広くみられるものですが、それはこの世の短い命を生きている人間が、どうにかしてその空しさから逃れよう、死の不安や恐ろしさを、いくらかでも和らげようとする試みです。このような考え方は容易に宿命論に陥り、私たちの人生を空しいものに変えてしまいます。「すべては運命のいたすところ」と諦めの人生を歩むことになります。
 これに対して、聖書はすべてのものは初めがあり終わりがあると言っています。聖書の冒頭に「初めに神が天と地を創造した」(創世記1:1)とあります。この世界は、神が天と地を創造されたことから始まります。すべては神によって、無から創造されたのです。自然界の秩序正しさや規則正しさ、荘厳さ、神秘性、また生き生きとした活動など、これらはすべて神の栄光を現しています。それで自然を神と勘違いして拝んでいる人もいるほどです。そしてこの世界は、やがて終わりを迎えます。私たち人間が己の欲に囚われて、あまりにも酷い状態に変えてしまったからです。進化論者は世の中はますます高度な、賢く便利な良いものに進化していくと楽観的な見方をしていますが、聖書は時と共に世の中はどんどん悪くなり、やがて神の正しい裁きがなされると警告しています。そして神が支配される新しい世界がやってくるのです。創造の神は私たちが生まれる前から、私たちの全てを知っておられ、守っておられます。この世においては経済的に悩むことがあり、病を得て苦しむこともあります。しかしすべてを支配しておられる神は、そのような苦しみ、困難、時には人の悪事さえも、良いことのために用いられ良いものに変えてくださると約束しています。
 聖書はまた救いについて教えています。人は救いを必要としています。すべての人が必要としている救いは、罪と死の滅びからの救いです。死に対して人は全く無力な者です。「罪の支払う報酬は死である」と聖書にありますが、死は罪の結果です。ですから私たちは死を不気味なものとして恐れています。聖書はすべての人が神の御心にそむき死と滅びの運命にあると言っています。しかし愛と恵みに満ちた神は、キリストを信じるすべての者を、ただその信仰のゆえに救ってくださいます。人となって来られた神のひとり子イエス・キリストは、私たちの罪を背負って十字架にかかり、私たちが受けるべき罪ののろいである死を身代わりに受けてくださり、三日目に死から復活されました。それによって私たちを死と滅びから解放してくださったのです。
 今や神は私たちの味方となって私たちを守っていてくださいます。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8:31,32)と聖書は言っています。聖い神さまを味方として生きる人生は、宿命論を生きる人のように諦めではなく、私たちはすべてにおいて圧倒的な勝利者となることが出来るのです。私たちはどこまでもこの方に頼り、この方に導かれて、御国を目指して歩んでいくのです。

2015/10/11 ルカ15:1〜7 「迷い出た羊を求めて」 佐野泰道師(霞が関キリスト教会牧師)

ルカ15:1〜7 「迷い出た羊を求めて」 佐野泰道師

 イエス様がお話になったたとえ話です。羊を100匹持っている人がいる。そのうち1匹がいないのに気付いたら、その羊飼いは99匹を野原に残して、いなくなった1匹を見つけるまで探し歩くというのです。
 私たちは、とっさに思います。野原に残した99匹の羊は大丈夫なのか、と。もし99匹のところに狼や泥棒が来たらどうするのか、と。99匹を守るために、1匹の犠牲は仕方ないのではないか、と。しかし、イエス様の主旨はそういうことではありません。これは、“失った1匹の羊を、どんなことがあっても、見つかるまで捜し続ける羊飼いがいる”という話です。その羊飼いこそ、救い主イエス・キリストです。
 では、いなくなった1匹の羊とは、誰のことでしょうか。ある時、「私は迷子の羊です」という人に出会いました。その人曰く、「自分は、前は教会に行っていたけれども、ずっと休んでいる。行かなきゃいけないんですけどね。」わかっているけれど、直せない。なぜ、直せないのか。それは、自分のことにこだわり過ぎてしまうからです。
 私たちは誰でも、自分のことにはこだわりを持ちます。集合写真では、真っ先に自分の姿を探す。自分のしていることが、どう評価されているか、気になる。自分が役に立っていないと思うと、存在価値がないように思う。言葉や態度では隠していますが、自分のことが一番気になっている。そうやって、自分というものにとらわれている人こそ、迷子の羊ではないでしょうか。その意味では、ここに登場する取税人たちも、またパリサイ人たちも、迷子の羊であり、私たちもまた例外ではありません。
 イエス・キリストは、その人が何者であるか、一切関係ありません。取税人であろうと、パリサイ人であろうと、どういう過去をもっていようと、どんなことをしていようと。イエス・キリストは、今でも、いなくなった羊を捜し求めておられます。「私は、滅びる羊のように、迷い出ました」(詩篇119:176)との言葉のように、キリスト者であっても、世における様々な戦いに疲れ果て、迷い出ることがあります。しかしイエス様は、私たちにみことばを与えてくださり、神様のもとに連れ戻してくださいます。
 ここには、イエス様の主権的恩恵が示されます。イエス様は、私たちが願ったから、私たちを助けてくださるのではありません。私たちが頼むよりも先に、ご自分で助けることを決めて、助けてくださるのです。そのように恵みに満ちた主権的な振る舞いは、聖書の至る所に示されています。神は、私たちが愛するよりも先に、まず私たちを愛してくださいました(第1ヨハネ4:18)。また、私たちが神を選んだのではなく、神が私たちを選んでくださいました(ヨハネ15:16)。また、第1ペテロ5:7には「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」とあります。神様が、私たちが願う前から心配していてくださる。だから、神様に自分の思い煩いや悩みを任せることができます。そのように、神様はいつも、私たちに先立って、私たちのために働いていてくださいます。
 さて、見つけられた羊は、大変喜ばれています。この喜びは、取税人たちのことを指しているのでしょう。「取税人、罪人たちが、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た」(1)とありますように、イエス様のみことばを聞こうと集まった人たちこそ、イエス様に見つけてもらった羊なのです。
 イエスを信じる喜びがあります。しかし、イエス様の側でも、私たちのことを喜んでおられるのです。つまり、天の御国で、私のことを喜んでくれている人がいるということです。
 この視点が、大切です。この世の様々な競争社会の中で、比較やずる賢い裏表の駆け引きの中で、「私のことを天で喜んでくれている人がいる」というこの視点を見失うならば、たちまち人と人との喧騒の中に巻き込まれてしまうでしょう。しかし、いなくなった羊を見つけるまで捜し求める羊飼い、イエス・キリストがおられます。ひとり子を十字架につけてまで、私を愛し抜いてくださるお方は、今も、私のことを天で喜んでいてくださいます。そのお方が、今日も、私たちと共に生きていてくださいます。

2015/10/4 ルカ15:11-24 「ひとりの罪人が悔い改めるなら」

ルカ15:11-24 「ひとりの罪人が悔い改めるなら」

 今日の箇所は有名な「放蕩息子の話」です。15章には、他にも2つの譬え話があります。一つ目は失われた羊。二つ目は無くしたコイン。どちらもその結論は、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こる」というものです。けれど違いますね。喜びは神の御使いにおいてに留まりません。喜びは私たちのうちにも、であります。今日はこの後、洗礼式がありますけれども、私たちはこの日をどれほど待ち望んだことでしょうか。しかし、しかしです。しかしそれだけではありません。今日の箇所では、もうひとかた、その帰りを喜ばれる方についてが記されています。それが天の父なる神です。
 今日の話は、イエス様が放蕩息子と父を題材にした譬え話です。譬えですから、本当の意味は別にあります。それは父なる神と私たちの関係を示しているわけです。ではこの譬え話の中心メッセージは何でしょうか。それは、息子の帰りを待ちわびている父がいるということです。
 考えてみてください。息子がいつ帰ってくるかなど、誰にもわかりません。1年先か、10年先か、いえ、もしかすると一生帰ってこないかもしれません。にも関わらず、父は彼が遠くから見つけたのです。これは凄いことです。出ていったときハツラツとしていた弟息子は、髪も髭も伸びっ放し、衣服は擦り切れ、悪臭を放ち、凡そ別人だったのです。誰もが鼻をつまんで顔をそむけたことでした。にも関わらず、父は彼に駆け寄り、口づけし、抱き寄せたのです。
 つまり、父は、毎日そこに立っていたということです。毎日毎日彼の帰りを待ち続けたのです。彼が出ていったその日からこの日に至るまで、一切の仕事も手放して、ただただ弟息子の帰りを待ち続けたのです。他の何を投げ出しても、この弟息子の身を案じていたということです。だから、全く変わり果てた息子を、遠目にして気付き、走り寄ったのです。私たちは気付いていないかもしれません。しかし、私たちの帰りを待ちわびて、その身を誰よりも案じておられる方がおられるのです。
 息子の救いは、父のもとに帰ることでした。しかしそれは彼の意思によって決まるのではありません。それは父に委ねられておりました。息子がいかにへりくだろうと、どれほど謝ろうと、父がそれを赦さなければそれでしまいです。けれど、父はそれを赦すどころか、彼がまだ遠くにいるにも関わらず、彼に気付き、駆け寄って、だき寄せ、口づけをする。彼の帰りを心から喜んだのです。よく読めばわかりますが、父が彼を抱き寄せたのは、彼が自分の親不孝を告白する前なのです。彼がへりくだる前なのです。つまり、父の中では、すでに赦すことが決まっていた。息子が帰りさえすれば、父は息子を赦そうと決めていたのです。そして、これこそが、救いの根拠だと思うのです。
 そこにすでに救いが用意されている。すでに赦されることが決まっている。これが私たちの受ける救いです。だからこそ、この救いは永遠に変わることのない確かさを持っているのです。私たちが帰ることを決めたから、私たちが神を信じることにしたから救われると言うのなら、これほど頼りにならないものはありません。私たちは自分の意思や決断がどれほど不安定かを知っています。ですから、私たちではありません。私たちの帰りを待っておられる神がすでに救いを用意されているのです。
 ひとりの罪人が悔い改める時、天において喜びがわき起こります。しかし、それ以上に、天の父なる神が喜んで下さる。それが聖書の語るところです。父は、私たちの存在を喜んで下さる。楽しんで喜ぶのは当然だと、言って下さる。神とともに歩む人生は、神に喜ばれる人生なのです。「だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」

2015/09/27 ヨハネ3:16-21 「人々はやみを愛した」

ヨハネ3:16-21「人々はやみを愛した」

 この箇所の後半には、闇を愛する人々と、光を愛する人々の対比が描かれています。闇を愛する人は光のもとに来ません。なぜなら、その行いが明るみに出されることを恐れるからです。ここに罪の特徴があります。罪の特徴は隠れること、隠すことにあるのです。罪は闇の中で育まれます。闇にあるかぎり、それは目立ちませんし、糾弾されることもありません。逆に、それが明るみに出れば、私たちはその罪のゆえに糾弾されます。制裁を受けます。ですから、私たちは罪の問題があると知りつつも、それを明るみに出さず闇の中に葬り去ろうとするのです。けれど私たちが闇の中に留まる限り、私たちは罪の影響から逃れることは出来ません。逆に、私たちが光の中に進み出るとき、私たちは罪の影響から逃れることができるのです。
 第1ヨハネ1:9には、私たちの罪に対する対処方が記されています。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」それは罪を言い表すことです。そうすれば私たちの罪は赦され、そしてその悪からきよめてくださるのです。ここで注目したいのは、ただ単に罪の赦しを祈りなさいとか、罪を悔いなさいと言っているのではないことです。「言い表す」と言っている。実はここに罪から抜け出すカギがあるのです。
 第1ヨハネ1:7にはこのようにあります。「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」光の中に歩むとはすなわち交わりを保つことだと言います。そして、この交わりの中で、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださるのです。私はこれはキリスト者の究極の交わりだと思います。罪を人に告白するなんておかしいと思われるでしょうか。自分の弱みを語るなんて出来ない。神に告白したのだから、それで良いじゃないかとおっしゃるでしょうか。しかしです。神に罪を告白することは、ある意味、傷付かないのです。リスクがないのです。それは心の中の問題なので誰にも知られることはありません。もちろん、本質的には、罪の問題は神と人との間の問題です。けれど、私たちが罪を見えない所に置いておきたいと思うとき、実は私たちは罪の影響から完全に抜け出すことが叶わなくなってしまうのです。
 カトリックには告解という秘跡があります。カトリックの教会堂には懺悔室がありまして、壁の向こうには告解を聞くための司祭がおります。人々はそこで、自らの罪を告白するのです。信仰の問題ですから、別に人に聞かせる必要はないのです。けれど教会は、それを人に告白することを大事にしてきました。そうすることで罪を明るみに出させてきたのです。それは勇気のいることです。どのような偏見を生むか、どのような制裁を受けるかと不安です。しかし、だからこそ、その告白は主にあって赦されるのです。プロテスタント教会は、信仰の儀式化を避けるため、イエス様の直接の命令があった洗礼式と聖餐式を除いては、教会の秘跡を排除しました。告解もその一つです。しかし、そのために、私たちは罪に対する曖昧さを残してしまったのではないかとも思うのです。そして、それは罪の赦しに対する曖昧さにも結びついているのではないでしょうか。だから、私たちは罪を引きずってしまうのです。
 もちろん、だからと言って教会は全ての罪を暴露しなければならないと言うのは間違いだと思います。会う人会う人に罪を告白する必要はありません。けれど、本当に信頼を置ける兄弟姉妹との間で、交わりの中で、その罪を明るみに出していくとき、私たちはその罪の赦しを経験することができる。その罪の束縛から解き放たれるのです。