ヨハネ4:1-18 「永遠のいのちへの水」
イエス様はサマリヤにあるヤコブの井戸で女性に声をかけられます。「わたしに水を飲ませてください」この女性は大変驚きました。というのも、当時ユダヤ人がサマリヤ人に声をかけることなどあり得なかったからです。サマリヤ人とは北イスラエルの残りの民が異国人と結婚して純血を失った人々です。それゆえ、ユダヤ人からは汚れた者として軽蔑されていました。彼女は驚いて聞き返します。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」
思わず聞き返してしまったという場面です。けれど、よくよく考えてみますと、驚くべきはこの女性が答えたということではないでしょうか。彼女には男性に依存する弱さがありました。夫を取っ替え引っ替えしてしまう。それゆえに彼女は町の人から白い目で見られていました。彼女の毎日は人目を忍ぶ日々。息を潜めるような生活。だから彼女はわざわざ不便なヤコブの井戸に通うのです。誰とも遭わないように、誰からも話しかけられないように。彼女にとっては、たとえそこが遠くても、炎天下の中であっても、人と会わないでいられることが良かったのです。
なのに彼女はイエス様に聞き返します。相手が外国人だったという気安さもあるでしょう。けれど、それ以上に彼女は孤独だったのです。彼女がどうして、何人もの夫を持ったのか。なぜまた別の男性に走ったのか。全ては彼女の抱える孤独からでした。誰からも愛される実感を得ない。誰からも相手にされない。彼女に向けられるのは冷たい視線だけ。そういう中で、彼女の心は悲鳴を上げていたのではないでしょうか。箴言19:22には「人の望むものは、人の変わらぬ愛である。」とあります。マザー・テレサは「愛の反対は無関心」と言いました。誰からも必要とされないということは、それはもう耐えられないことです。人は愛なしには生きられないのです。それは矛盾しているかもしれません。ひたすら人目を避けて過ごしてきたのです。けれど、彼女の心は誰かに愛されたくて仕方がなかった。認めてほしくて仕方がなかった。ですから、思わずかけられた声に答えてしまった、というのが真相ではないでしょうか。
彼女の質問に対して、イエス様は直接には答えられません。その代わりに、あなたこそ渇いている者なのだよというイエス様の鋭い指摘があるのです。イエス様は言います。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」愛されたい。認められたい。必要とされたい。彼女自身がどこまで自覚しているかわからない、その根本的ないのちの乾きの問題をイエス様は指摘します。本当に満たすべきは、あなたのその内面の渇きだとおっしゃられるのです。
生きる上で水を得ることは死活問題であります。けれど、どれだけ水を飲んでも、私たちはまた渇きます。それは実は私たちの心も同じでして、私たちは心の渇きを様々なもので満たそうとしますけれども、すぐにまた乾いてしまう。お酒も、ギャンブルも、恋人も、仕事も、お金も、色んなもので慰めを得ようとしますけれども、それはどれも一時しのぎで、心は決して満たされることはない。いや、むしろ満たされなかったという失望感は、より大きな渇きをもたらすことになるのです。
「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命への水がわき出ます。」外からどれだけ水を汲もうともダメなのです。そんなものはちょっとの日照りで干上がってしまいます。私たちは、日照りだろうとなんだろうと、無くならない水を求めなければなりません。そして、それは内側から湧き出す泉によらなければ。すなわち聖霊の内住によってなるのです。
イエス様はサマリヤにあるヤコブの井戸で女性に声をかけられます。「わたしに水を飲ませてください」この女性は大変驚きました。というのも、当時ユダヤ人がサマリヤ人に声をかけることなどあり得なかったからです。サマリヤ人とは北イスラエルの残りの民が異国人と結婚して純血を失った人々です。それゆえ、ユダヤ人からは汚れた者として軽蔑されていました。彼女は驚いて聞き返します。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」
思わず聞き返してしまったという場面です。けれど、よくよく考えてみますと、驚くべきはこの女性が答えたということではないでしょうか。彼女には男性に依存する弱さがありました。夫を取っ替え引っ替えしてしまう。それゆえに彼女は町の人から白い目で見られていました。彼女の毎日は人目を忍ぶ日々。息を潜めるような生活。だから彼女はわざわざ不便なヤコブの井戸に通うのです。誰とも遭わないように、誰からも話しかけられないように。彼女にとっては、たとえそこが遠くても、炎天下の中であっても、人と会わないでいられることが良かったのです。
なのに彼女はイエス様に聞き返します。相手が外国人だったという気安さもあるでしょう。けれど、それ以上に彼女は孤独だったのです。彼女がどうして、何人もの夫を持ったのか。なぜまた別の男性に走ったのか。全ては彼女の抱える孤独からでした。誰からも愛される実感を得ない。誰からも相手にされない。彼女に向けられるのは冷たい視線だけ。そういう中で、彼女の心は悲鳴を上げていたのではないでしょうか。箴言19:22には「人の望むものは、人の変わらぬ愛である。」とあります。マザー・テレサは「愛の反対は無関心」と言いました。誰からも必要とされないということは、それはもう耐えられないことです。人は愛なしには生きられないのです。それは矛盾しているかもしれません。ひたすら人目を避けて過ごしてきたのです。けれど、彼女の心は誰かに愛されたくて仕方がなかった。認めてほしくて仕方がなかった。ですから、思わずかけられた声に答えてしまった、というのが真相ではないでしょうか。
彼女の質問に対して、イエス様は直接には答えられません。その代わりに、あなたこそ渇いている者なのだよというイエス様の鋭い指摘があるのです。イエス様は言います。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」愛されたい。認められたい。必要とされたい。彼女自身がどこまで自覚しているかわからない、その根本的ないのちの乾きの問題をイエス様は指摘します。本当に満たすべきは、あなたのその内面の渇きだとおっしゃられるのです。
生きる上で水を得ることは死活問題であります。けれど、どれだけ水を飲んでも、私たちはまた渇きます。それは実は私たちの心も同じでして、私たちは心の渇きを様々なもので満たそうとしますけれども、すぐにまた乾いてしまう。お酒も、ギャンブルも、恋人も、仕事も、お金も、色んなもので慰めを得ようとしますけれども、それはどれも一時しのぎで、心は決して満たされることはない。いや、むしろ満たされなかったという失望感は、より大きな渇きをもたらすことになるのです。
「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命への水がわき出ます。」外からどれだけ水を汲もうともダメなのです。そんなものはちょっとの日照りで干上がってしまいます。私たちは、日照りだろうとなんだろうと、無くならない水を求めなければなりません。そして、それは内側から湧き出す泉によらなければ。すなわち聖霊の内住によってなるのです。