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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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2015/11/22 ヨハネ4:1-18 「永遠のいのちへの水」

ヨハネ4:1-18 「永遠のいのちへの水」

 イエス様はサマリヤにあるヤコブの井戸で女性に声をかけられます。「わたしに水を飲ませてください」この女性は大変驚きました。というのも、当時ユダヤ人がサマリヤ人に声をかけることなどあり得なかったからです。サマリヤ人とは北イスラエルの残りの民が異国人と結婚して純血を失った人々です。それゆえ、ユダヤ人からは汚れた者として軽蔑されていました。彼女は驚いて聞き返します。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」
 思わず聞き返してしまったという場面です。けれど、よくよく考えてみますと、驚くべきはこの女性が答えたということではないでしょうか。彼女には男性に依存する弱さがありました。夫を取っ替え引っ替えしてしまう。それゆえに彼女は町の人から白い目で見られていました。彼女の毎日は人目を忍ぶ日々。息を潜めるような生活。だから彼女はわざわざ不便なヤコブの井戸に通うのです。誰とも遭わないように、誰からも話しかけられないように。彼女にとっては、たとえそこが遠くても、炎天下の中であっても、人と会わないでいられることが良かったのです。
 なのに彼女はイエス様に聞き返します。相手が外国人だったという気安さもあるでしょう。けれど、それ以上に彼女は孤独だったのです。彼女がどうして、何人もの夫を持ったのか。なぜまた別の男性に走ったのか。全ては彼女の抱える孤独からでした。誰からも愛される実感を得ない。誰からも相手にされない。彼女に向けられるのは冷たい視線だけ。そういう中で、彼女の心は悲鳴を上げていたのではないでしょうか。箴言19:22には「人の望むものは、人の変わらぬ愛である。」とあります。マザー・テレサは「愛の反対は無関心」と言いました。誰からも必要とされないということは、それはもう耐えられないことです。人は愛なしには生きられないのです。それは矛盾しているかもしれません。ひたすら人目を避けて過ごしてきたのです。けれど、彼女の心は誰かに愛されたくて仕方がなかった。認めてほしくて仕方がなかった。ですから、思わずかけられた声に答えてしまった、というのが真相ではないでしょうか。
 彼女の質問に対して、イエス様は直接には答えられません。その代わりに、あなたこそ渇いている者なのだよというイエス様の鋭い指摘があるのです。イエス様は言います。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」愛されたい。認められたい。必要とされたい。彼女自身がどこまで自覚しているかわからない、その根本的ないのちの乾きの問題をイエス様は指摘します。本当に満たすべきは、あなたのその内面の渇きだとおっしゃられるのです。
 生きる上で水を得ることは死活問題であります。けれど、どれだけ水を飲んでも、私たちはまた渇きます。それは実は私たちの心も同じでして、私たちは心の渇きを様々なもので満たそうとしますけれども、すぐにまた乾いてしまう。お酒も、ギャンブルも、恋人も、仕事も、お金も、色んなもので慰めを得ようとしますけれども、それはどれも一時しのぎで、心は決して満たされることはない。いや、むしろ満たされなかったという失望感は、より大きな渇きをもたらすことになるのです。
 「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命への水がわき出ます。」外からどれだけ水を汲もうともダメなのです。そんなものはちょっとの日照りで干上がってしまいます。私たちは、日照りだろうとなんだろうと、無くならない水を求めなければなりません。そして、それは内側から湧き出す泉によらなければ。すなわち聖霊の内住によってなるのです。

2015/11/15 ヨハネ3:31-36 「天のあかし」

ヨハネ3:31-36 「天のあかし」

 この箇所の直前3:30の終わりで鍵括弧が閉じています。実はこのことは大きな意味を持っています。欄外に「バプテスマのヨハネの引用をここまでとしないで、36節の終わりまでとして訳すこともできる」とありますように、文法的な意味から行くとどちらも可能性があるのです。事実、口語訳聖書は36節の終わりで鍵括弧が閉じています。この場合、この箇所はバプテスマのヨハネのセリフの続きと言うわけです。けれど新改訳聖書では30節の終わりで鍵括弧が閉じています。敢えてそうしている。すると、この箇所は、この福音書の著者である使徒ヨハネの記述となるのです。
 今、使徒ヨハネはキリストを誤解している異邦人クリスチャンに向けて、イエス様とはどのような方か知らせようと福音書を記します。そして、バプテスマのヨハネを記し、彼がどのようにイエス様を理解していたかを紹介します。バプテスマのヨハネは繰り返し繰り返し、神の子キリストを証していました。そして彼の証言を繰り返し記す中で、執筆者である使徒ヨハネは、一旦筆を止めてイエス様に思いを馳せるのです。バプテスマのヨハネが「私より先におられた方」と言ったイエス様。確かにイエス様は神の子であられた、と思い返しているのです。
 使徒ヨハネは記します。「上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。」彼はここで、イエス様が地に属する者とは根本的に違う、上からの方だと語ります。そして「この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。」とも言います。「あかし」というのは、見聞きし、体験したことを語ることです。決して、こうであろうとか、こうであったらいいのに、という未知の話ではありません。つまり不確かな言葉ではなくて確かな言葉です。一見は百聞に如かずと言いますが、実際に体験した人の言葉は揺らぎません。イエス様は上から来る方であり、無限の御霊を与えられているお方です。天の一切を余すこと無く語るのはこのお方の他にはおりません。御子は、見えない神のかたちとなるべく、人としてお生まれになったのです。ですから、この方を信じるならば、それは神を信じるということであり、この方のあかしを受け入れるということは、神の真実を受け入れるということなのです。神の言葉はこれ以上ないかたちで明らかにされたからです。
 なのに、人々はこの方のあかしを受け入れない。イエス様の言葉に耳を傾けない。いったい何ということか。と歯ぎしりする使徒ヨハネの嘆きを私たちは聞くようです。ですから、私たちは、最後に厳しいこの1節に耳を傾けなければなりません。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」イエス様が見えない神のかたちです。イエス様を見るなら、それは神を見たことであり、イエス様を信じるなら、それはイエス様を遣わされた神を信じるということです。ならば、イエス様を信じない者は、神を信じない者であり、イエス様を否定するものは、神を否定する者となるのです。イエス様のあかしは人々を2つの者に分けられます。永遠のいのちを持つ者と、神の怒りが留まる者です。あなたはどちらかと問われているのです。

2015/11/08 ヘブル11:20-22 「人生の終わりに」

ヘブル11:20-22 「人生の終わりに」

 今日の箇所では、イサク、ヤコブ、ヨセフと3人の族長の信仰についてが取り上げられています。と言いましても一人につき1節、3人でもたったの3節ですから、よっぽど印象に残る出来事が紹介されているのかと想像します。ところが、実際読んでみますと、どうもピンと来ない。イサクの井戸掘りであったり、ヤコブの神との格闘であったり、ヨセフの家族との再会の場面であったり、もっと、彼らの信仰を象徴するような出来事があってもいいんじゃないかと思ったり致しますが、ヘブル書はそれらのことを一切記しません。そこでは無くて、3人の族長の信仰の偉大さは、別のところにあると言っているのです。それが彼らの終わりの時の迎え方であります。
 彼らの人生は、振り返って何の葛藤もない平穏な人生ではありませんでした。波乱万丈。命の危険を覚える時もしばしば。何故このようなことがと神を恨んでもおかしくない、そういう状況を通ってきたのです。彼らはそのことで迷い、つまずき、その人生において様々な失敗を繰り返します。けれどです。彼らは、その死を間際にして、自身の決して平坦ではない人生を振り返りながら、やっぱりあなた達もこの祝福と希望の内に生きなさいと言い残していくのです。これより他に確かな道はないと語り継ぐのです。
 ヘブル書は彼らの一つ一つの人生の出来事を振り返って、あの時は失敗した。あの時は正しかった。と、評価することをいたしません。人生の終わりを祝福の内に迎えたこの事実のみを記します。そして、これこそが彼らの信仰が賞賛されるべき理由だと言うのです。
 このことは実はとても大きな慰めではないでしょうか。それは、神が私たちの弱さを見張っておられるのではなくて、私たちの行き先を見守っておられるということだからです。私たちは愚かで、どうしようもなくて、自分でも願わないことを繰り返してしまう者で、私たち自身がもうダメだ。私は神から見捨てられた。私はもう神に合わせる顔がないと考えてしまいがちですけれども、そうじゃない。神様はそこを見てはおられない。どれだけ失敗しようが、どれだけ罪を犯そうが、神はただただ私たちの帰りを待っていて下さる。私たちが地上の生涯の終わりを神の祝福にとどまって迎えるようにと望んでいてくださるのです。

2015/11/1 ルカ23:32-43 「私を思い出してください」 長橋和彦師 (徳丸町キリスト教会伝道師)

ルカ23:32-43 「私を思い出してください」 長橋和彦師

 洗礼を受けた翌年でした。「彼らは何をしているのかわからないでいるのです。」とは、私のことではないか。罪を告白し、信仰告白したつもりが、まだ神さまか、この世の流れかと、ふら付いている自分がいる。しかし、そのための祈りであったと、心を打たれました。主イエスをとおして迫る神さまの深いご愛を、もう一度知った時でした。
 ふたりの犯罪人の真ん中に主イエスははりつけにされました。二人の犯罪人は、その罪状がはっきりし、その結果でした。しかし、ご自分を「神の子」と宣言される以外は理由もないにもかかわらず、彼らととともに、同様に極刑の十字架に架けられます。この時、主イエスは、彼らのためにとりなしの祈りを捧げられます。私は、主の深い愛に圧倒されて、あらためて自分のそむきの罪がわかり、感謝し、悔い改め(方向転換し)ました。
 さて、遠く、近くと取り巻いている民衆がいます。彼らはながめている。煽動にのせられた者たちと言えますが、他人事、無関係として、傍観しています。あざ笑っている指導者たちもいます。ローマの兵士たちもあざ笑う流れに同調します。十字架につけられた犯罪人のひとりは、そこでの見物人とは違い、現実に十字架の苦痛のさなかにおかれているのですが、それでも、「自分と私たちを救え」と主をののしります。もう一人の犯罪人は、その苦痛の中で静かに告白します。「この方は、わるいことは何もしなかったのだ。」と。そればかりか、「御国の位におつきになるときには、(御国の権威をもっておいでになる時)」「私を思い出して」くださいと願います。彼は、祭司長や律法学者のようには、聖書を理解してはいなかったでしょう。しかし主イエスは、彼のことばを受け止めます。「きょう、わたしとともにパラダイスにいます」という約束をされました。「きょう」は、「今」あるいは「今から後」と、主は完全で、無限の救いを実現されました。主イエスと共にあるかぎり、十字架上でも、取り降ろされてからでも、この人は「きょう(今)」パラダイス・神の園の中に実在するものとなりました。肉体が朽ちたあとの一時的な霊魂の休息所ではなく、主イエスとともに永遠にあるのです。
 私は3年4か月前に、家内を天に送りました。彼女は、突然、脳神経の難病に打たれ、緊急入院、7週間で召されました。言語中枢が侵され、語ることはありませんでした。その間、本人がどこで、もう回復されずに召されてしまうのだと認識したかは不明です。しかし、入院直後まで動いていた僅かばかりの手の反応から、主にある平安、平和、を得ていてくれたと感じました。まさしく地上の最後も、主と共にある喜びを味わいつつ、そして召されていったことを見ました。私たちは、「私を思い出してください」と主に申し上げ、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」との約束の恵みを、今、頂きましょう。