ルカ2:40-52 「心に留めて」
この箇所は、クリスマスの後日談となるところです。過越の祭りに参加した少年イエスは、父母から離れて、一人宮に残り、ラビたちを相手に3日間も御言葉を学んでいたというのです。もちろん、それだけなら、単に人騒がせな子どもの話です。けれど、不思議なのはその後の会話です。心配して探し続けたマリヤは息子を見つけて叱ります。「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も心配してあなたを探し回っていたのです。」ところが、これに対して、少年イエスは「どうして、わたしをお探しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」と返事するのです。なんだかちぐはぐな会話に聞こえますね。それは二人の言う父が違う父を指しているからです。つまり、マリヤは父ヨセフを。イエス様は父なる神をです。
イエス様の真意がわからないマリヤとヨセフですが、これはしかし、わらかない二人を責めるのは酷な話です。確かにこの子が特別な子であると二人は承知しています。しかし、同時に目の前にいるのは12年間共に暮らし成長を見届けてきた紛れもない我が子なのです。ですから、私たちが見るべきは、彼らの無知ではありません。その先です。マリヤがこのイエス様の言葉をどのように受け止めたかということです。「母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」マリヤには息子の言葉の意味がわかりません。しかし、彼女はこれらの出来事を心に留めます。そしてそのおかげで、私たちはキリストの誕生と言う不思議を後の時代にあって知ることができるのです。
私たちがマリヤから学ぶことは、わからないということを歩みを止める理由にする必要はないということでしょう。彼女はわからないという事実をただ受け止めるのです。わからないままに心に留めるのです。そして、後になって理解し、証言を始めるのです。
私たちは神の御心を求めつつも、その全てを知ることはできないという事実を認めなければなりません。将来がどうなるかわからない。神のみこころが何かわからない。わからないということは、私たちの決断を鈍らせます。私たちの足を踏みとどまらせます。けれど、わからなければ進めないということではないのです。いえ、神のみこころがわかるということなど、どだい無理な話です。わかっていなければならないことは一つです。それは全てのことは神の御手の中にあるということです。
受胎告知にせよ、クリスマスの出来事にせよ、今回のイエス様の発言にせよ、彼女には理解できないことばかりです。常識では考えられないこと。けれど、彼女にはこのことが神の手によるということだけはわかっていた。そして神は自分の人生に無意味なことはなさらないとも。だから彼女はことを委ねて従うのです。目の前の出来事を無理にわかろうとするのではなく、そのままを心に留めるのです。そうすることで、彼女は神の導きに対する平安を得ることができたのです。
わからないことは意味のないことではありません。わからないのは恥ずべきことでもありません。わからないということを認められないことが問題なのです。特に信仰においては、わからないということを認めることが、新しい一歩へと繋がります。大事なのは、わからないと認めること。そして、わからないままに、心に留めることです。わからないから、忘れてしまえではありません。それはやがてわかるときが来るのです。イエス様の十字架と復活を経験し、マリヤの目が開かれたように、私たちにもわかるときがやって来る。ですから、私たちはそれを心に留めておく必要があるのです。やがて私たちは、今のときの意味を深く知り、そしてそれゆえに用いられる時が来る。ですから、私たちは、疑わず、主に信頼して、目の前のことを心に留めておきたいと思います。この出来事の幸いを数えるその時まで、心に納めて、思い巡らせていきたいと思うのです。

ルカ2:1-7 「飼い葉桶の救い主」
先週マリヤの讃歌を共に見ました。「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いを高ぶっている者を追い散らし、王位から引き降ろされます。」救い主は、絶対的な力を持った王の王でもあるということです。ところが、その王の王たるお方が人知れず家畜小屋で産まれ、飼い葉桶に寝かされます。これはいったいどうしたことでしょうか。
ことの発端は時の支配者、皇帝アウグストの住民登録をせよとの命令にありました。住民登録(人口調査)とは、ローマ帝国の根幹を成す徴税制度と徴兵制度の下準備となる政策。これによって人々の生活は帝国の歯車へと組み込まれこととなるわけです。皇帝のたった一言が全世界の人々の暮らしを左右する。どれほど商売に成功した者も、堅実に農作業に従事しているものも、世の尊敬を集める教師たちでも、誰もこの命令に逆らうことはできません。それほど皇帝は人々に対して絶対的権力を持っていたのです。
そしてもちろん、この命令はたとえ妊娠中の者であろうとも例外ではありません。この勅令のゆえに、ヨセフとマリヤはまだ身重だというのに、遠くベツレヘムの町へと旅しなければならなかったのです。長旅はマリヤにはさぞかしきつかったことでしょう。そして、ようやく辿り着いた町も泊まるところがなく、マリヤとヨセフは家畜小屋に落ち着くしかなかったのです。ごったがえす町中で登録の順番を待つ日々。しかし、それより早く月が満ち、マリヤは男子の初子を産むこととなるのです。家畜小屋とは聞こえは良いですが、 ようは臭く汚い家畜の寝床です。そして飼い葉桶とは、牛や馬が、むしゃむしゃとよだれをいっぱいに垂らしながら、顔を突っ込んで食べるその餌入れのことです。その餌入れが家畜小屋の中を見渡して一番ましな寝床であったのです。糞まみれの地面よりはましと思って、乳飲み子は飼い葉おけに寝かされます。御使いガブリエルは、マリヤに言いました。「その子はすぐれた者となり、いと高き子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与になります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることはありません。」しかし現実はどうでしょう。およそ相応しくない場所で、王の王と呼ばれる幼子イエスは生まれたのです。この時、ローマの皇帝は多くの衛兵に守られ、ふかふかのベッドで眠りについていたことでしょう。しかし、ここにこそ、主イエスの愛の姿が目に見える形で現されているのです。
もしキリストが、皇帝のような待遇で生まれていたなら、いったい誰が、このキリストによって救われるでしょう。少なくとも罪人は主イエスに出会うことすら叶わずに、生涯を終えたことでしょう。主イエスが汚れたその所に産まれた。だからこそ、この方は罪人たちの救いとなり得るのです。キリストは一切の栄光を捨てて、人となってお生まれになりました。神が人となってこの世に来られた。これこそがクリスマスのメッセージに他なりません。
皇帝は目に見える栄光です。この世の最高の名誉であり、富です。しかし、そのような皇帝ですら、主イエスの栄光には遠く及びません。見た目には貧しくて、痛々しい赤ん坊の誕生ですけれども、実は、私たちが膝をかがめて礼拝すべきはこの飼い葉桶のイエス様であります。この方は私たちの救いとなるために、栄光を捨ててくださった方だからです。聖書の救い主は命令一つで人々の生活や命を操る皇帝のような者ではありません。私たちの罪のために命を投げ出され、私たちの弱さに寄添われる方です。私たちの救い主が仕える者の姿をとられた主イエスであることを感謝いたしましょう。

ルカ1:46-56 「わがたましいは主をあがめ」
伝統的にマリヤの賛歌と呼ばれ、親しまれてきた箇所です。エリサベツとの再会を果たし、その年老いた身に子が与えられたことを知ったマリヤは、御使いの知らせの確かさを実感いたします。そしてこれまで誰にも言えず一人で抱えていた事について、初めて他人の口から祝福されたマリヤは、わが身に起きたことの不思議を、神の幸いとして改めて実感するのです。
「わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」事実、後の時代の人々は、マリヤのことを聖母マリアと呼びまして、神格化していくわけです。人々は、主がマリヤに大きなことをしてくださったから、救い主の母となったから、マリヤのことを誰よりも幸せ者だと称えます。
マリヤは続けて言います。私が生むその方は、高い者を低く引き下げ、低い者を高く引き上げる方であり、あわれみをいつまでも忘れること無く、助けてくださる方である。と。だから、人々は私を幸せ者と思うでしょう。とです。事実、人々は主イエスを知るほどに、その母マリヤを称えます。この偉大な奇跡の器として用いられたマリヤを羨んだのです。
しかしです。マリヤが今、神を喜び称えるのは、そのような理由ではありません。それはあくまでも世間の理由です。もちろんマリヤも、この身に宿した赤ん坊が救い主であることを十分理解しています。まだ生まれる前から、我が子が成し遂げる力強いわざを数え上げるのは間違いなくマリヤ本人です。きっと後の人々は私を幸せ者と思うに違いない。そのように語るマリヤです。そして、その評価は決して間違ったことではありません。マリヤが素晴らしいのではなくて、素晴らしいのはマリヤの宿した神の御子である。これは確かにそうなのです。もし、マリヤが普通にヨセフの子を宿し産んだからといって、後の人々がマリヤを称賛することはなかったでしょう。マリヤが後の世に評価されるのは、彼女が救い主の母とされたからに他なりません。
けれどです。それはマリヤの評価ではありません。彼女は、自分の身に宿ったいのちが特別な神の御子であったから神を喜んだのではなくて、神が目を留めてくださった。神の目から見れば卑しいはしために過ぎないこんな私に、神は関心を寄せてくださった。だから彼女は神を喜び称えると告白しているのです。
世の人々は結果に目を留めます。その人の肩書きを評価します。聖母となったマリアをです。けれど、私たちが心から望むのは、肩書きを外した私を認めてもらうことではないでしょうか。私たちが根っこの部分で願うこと。それは私という存在をありのままに認めて欲しい。見ていて欲しいということではないでしょうか。世の中は肩書きを求めます。私たちは多くの場面で、様々な仮面を被って生きることを強要されます。相手にとって価値のある私。そうでなければ、誰も私に見向きもしてくれない。だから必死に自分を装うのです。けれど、そこには本当の意味での信頼関係はありません。条件付きです。「あなたが私の役に立つ限り友達でいるからね。」「あなたが私の得である限り、私はあなたを愛しますよ。」けれど、そういった関係に私たちは、決して満足することはできません。それは私を見ていない関係です。私でなくても構わない関係です。私が期待に応えられなくなれば、立ちどころに消えてしまう関係です。けれど、私たちが望むのは変わらない愛なのです。有名になった私ではなくて、成功して活躍している私ではなくて、たとえ有名にならなくても、成功しなくとも、私という存在を見ていてくれる。期待してくれる。そして神はまさしくそのようなお方だとマリヤは告白しているのです。同じように神は私たちにもその目を向けておられます。こんなちっぽけな私を、神は壮大なご計画の内に用いてくださるのです。どう評価されるか、何を成し遂げるのか。を気にする必要はありません。神が私に目を留められ、神が私を用いられる。私たちはただこのことを喜び称えたいと思うのです。

ルカ1:39-45 「信仰の同志」
御使ガブリエルによって妊娠を告知されたマリヤ。最初は戸惑い、恐れるも、やがて、そのことを受け入れてひざまずきます。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」しかし、では生活の全てが解決して安心できたかというと、もちろん、そういうわけではありません。むしろ問題はよりリアルになっていきます。
次第に大きくなるお腹に、妊娠していることを隠すことはできません。しかし一方で、御使いの知らせを皆に語ろうとも、信じてもらえないのは目に見えています。人々は好き勝手に噂します。本当のことを伝えられず、他人の噂に身を晒すということは、とても辛いことです。マリヤは身に起こる変化に神のご介入を確信しています。そこに疑いはありません。けれど、だからと言って人々のあらぬ言動や好奇の目に傷付かないかと言いますと、決してそんなことはありません。彼女は居てもたってもいられず村を出ます。彼女はガブリエルが告げたエリサベツのところに向かうのです。「そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。」とあります。急がずにはいられなかったのです。
エリサベツは不妊の女でした。願っても叶わない祈りを何十年と続け、その度に挫折を経験して来ました。やがては祈ることもやめ、現状を受け入れて今に至りました。それが神のみこころなのだと心に折り合いをつけて過ごして来たのです。ところが、そんなエリサベツに子が授かりました。それはあり得ないことです。神の奇跡です。マリヤはその知らせを聞いて、自身の身に起きる出来事を受け入れる決心をしたのです。ですから、マリヤはエリサベツのもとに急ぎます。他の誰に言っても信じてもらえない。話せない。けれどエリサベツになら話せます。彼女だけは、この世界で唯一、マリヤの置かれた現状を理解してくれるだろうからです。
考えてみますと、エリサベツが不妊の女であったということが用いられているのです。エリサベツがもう少し若ければ、マリヤにとって何の力添えにもならなかったでしょう。彼女がもう何人も子どもを産んでいる人だったら、何の不思議もありません。彼女が不妊の女だったからこそ、エリサベツの存在はマリヤの支えとなるのです。同じ立場に置かれた二人だからこそ、二人は互いの支えとなります。その痛みも悲しみも戸惑いも自らと重ねあわせる二人だからです。
実はこの交わりは私たちも経験しているところです。すなわち教会の交わり。信仰による兄弟姉妹の交わりです。なぜなら、私たちが置かれている日常では、私たちの最も深いところを分かち合うことが出来ないからです。私たちは、どれだけ親しい人とおります時も、どこかで信仰のゆえの孤独を覚えます。こんなことを言ってもわかってもらえない。変に思われる。他人の目を気にしながら、私たちは肩身の狭い思いをして過ごしているのです。しかし、この地上で唯一、私たちの最も大事なところを共有する交わりがあります。それがこの教会の交わりです。
共に集い、共に讃美し、共に主を礼拝する。私たちもまた、まことの神を知らないこの偶像の国において、挫けそうになる心を抱えて、必死に踏ん張り続けております。しかし私たちは、教会の中にあっては、心安らかに、その荷を降ろすことができる。その荷を分かつことができる。このことは何という恵みではないでしょうか。マリヤがエリサベツの前で包み隠さずに話せたように、私たちは兄弟姉妹の前で、私たちの最も深い部分を共有できるのです。この兄弟は私の痛みを知っています。この姉妹は私の叫びに耳を傾けてくれます。ですから、私たちはこの交わりを大切にしたいのです。近すぎる関係は時に煩わしく思うでしょうか。面倒に思うでしょうか。けれど、敢えて言います。私たちの信仰はこの交わりの中でのみ支えられるのです。一人で立っていられるほどに、私たちは強くはありません。世の中の価値観はいつも私たちを覆い尽くそうとします。けれど私たちは一人ではありません。私たちには、同じ戦いの中に置かれた信仰の同志がいるのです。そして、私たちがこの交わりの中で励ましを得るように、あなたの存在が、経験が兄弟姉妹の励ましとなるのです。あなたの試練が、失敗が、兄弟姉妹の支えと変えられるのです。そのとき私たちは、主にあってむだなことはないと知るのです。

ルカ1:26-38 「あなたのおことばどおりに」
御使いガブリエルは「おめでとう」と言い「こわがることはない」と言います。そんなわけいかないのです。あのダニエルですらガブリエルを前に気を失ったのです。少女マリヤが正気でいることのほうが驚きです。しかもその内容は、マリヤの妊娠の知らせであり、ましてや、その子が救い主であることの宣言なのです。彼女は許嫁のヨセフとの結婚を夢見る少女に過ぎません。このときのマリヤは12歳くらいだったろうと言われています。12歳のまだ結婚前の少女にそんな大それた望みはありません。人並みに結婚して、貧しくても夫と二人その日の糧が与えられ、そしてできれば子どもを授かって・・・。ところが、御使いの知らせは彼女の夢を無残に打ち砕くのです。婚姻中に妊娠すれば、当然父はヨセフと皆思うでしょう。けれどヨセフがそれを否定したらどうでしょう。姦淫は石打です。そしてマリヤがどれほど否定しても、これからお腹はどんどん大きくなっていくのです。ヨセフは裏切られたと傷付くでしょう。怒って婚約を解消するかもしれません。いえ、たとえ彼がそれを許しても、本当の意味でもう心が通わすことはできないかもしれません。マリヤのお腹を見るたびにヨセフは惨めになるでしょう。ですから、マリヤの今直面した試練と言いますのは、おめでとう。と言われるような単純なものではないのです。
けれど、彼女は御使いの言葉を信じ受け入れます。そこにはエリサベツの存在がありました。エリサベツはマリヤの親戚にあたります。子が産めなかったエリサベツは、きっと幼いマリヤを実の子のようにかわいがっていたことでしょう。ですから不妊の女の悲しみを幼いマリヤも身近に見ていたに違いありません。そのエリサベツに子が与えられたと言うのです。もしそうだとしたら、それは何と素晴らしいことでしょう。エリサベツの身に起きた奇跡をマリヤは自分のことのように心から喜べます。神のなさることは全て時にかなって美しい。それは間違いなく主なさることに違いありません。そして主がなさるなら、私に告げられたことも、その通りになるに違いない。マリヤはエリサベツの出来事を聞いて、この御使いの言うとおり、ただ主を信じて受け入れる決心をしたのです。
マリヤは混乱し、先を思って不安になり、しかし今ひざまずいて答えます。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」明日を考えれば不安だけれども、周りを見れば恐ろしいけれども、本当は逃げ出したくなる思いだけれど、しかし主は良くして下さるに違いない。主に信頼すれば間違いがない。他の誰を見ることなく、主にこの身をゆだねよう。そういった決意の表れがこの言葉には見えるのです。
こうなる。ああなる。こんなことが起こる。現実の歩みは私たちに様々な不安を招きます。目まぐるしい日々の中で、私たちは息も付けぬほどです。将来を考えるとき、先のことを思う時、私たちにとっては、それは希望である以上に、襲い掛かる不安ではないでしょうか。しかしです。実はどのような不安の中にあっても、目まぐるしい中にあっても、いつも神が問うておられるのは一つの事だけです。それは、神にとって不可能なことは一つもない。あなたはこれを信じますか。ということです。神があなたと共にいるということをあなたは信頼しますかということです。明日のことすらわからない私たちですから、不安になるのは当然です。心配して当たり前です。私たちには不可能な事ばかりです。けれど、そのような時、「神にとって不可能なことは一つもありません。」というこの一点に私たちはまずは立ち止まるべきなのです。
