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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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160124 ヨハネ4:39-42 「一粒の種が蒔かれて」

ヨハネ4:39-42 「一粒の種が蒔かれて」

 ステパノの死を契機に、キリスト者は世界各地へと散らされていきます。最初に福音が広まったのはサマリヤの地でした。弟子の一人ピリポがサマリヤに入り、キリストを宣べ伝えます。すると、その町で大きな喜びが起こったのです。サマリヤ人はご存知の通り、ユダヤ人と敵対し、決して相容れることのない人々でした。普通だったら、ユダヤ人の言うことなど誰も見向きもしません。ところが、この時の町の反応は驚くべきものでした。皆がピリポの言葉に耳を傾けたのです。この事態に、エルサレムにいた使徒たちは驚いて、ペテロとヨハネを彼らのもとに遣わします。すると、確かに人々は主イエスを信じてバプテスマを受けていたのです。
 さて、このとき遣わされたヨハネこそが、後のヨハネの福音書の著者でありました。にわかには信じ難いサマリヤの光景を目にしながら、しかしヨハネはイエス様の言葉を思い出したことでしょう。「ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、本当なのです。」そして、その時に主イエスを受け入れて、まったくに変えられた一人の女性をです。今のこの信じ難い勝利の光景は、イエス様があの一人の女性に声を掛けられたことから始まったのだと思いが至るのです。
 さて、今日の箇所ですけれども、注目すべきはサマリヤの女性の変化です。それまでの彼女は人目を避ける毎日でした。人々は彼女を軽蔑し、笑い物とし、無視し続けました。そのような扱いを受けるだけの罪深さが彼女にはありました。ところが、イエス様と出会って、自らの渇きと向き合い、神の知恵と力に触れた彼女は、あれほど恐れていた町の中に入り、堂々と主イエスを証しするようになるのです。「あの方は、私がしたこと全部を私に言った。」というのはサマリヤ人が待ち望んでいた、モーセのような預言者。神が命じることを余すことなく告げ知らせてくれる預言者だと言っているのです。そして、この彼女の証言によって、人々はイエス様を信じたと言うのです。
 しかし、考えて見ますと、彼女のことを軽蔑し、見下していた人々が、そう簡単に彼女の言葉に耳を傾けるものなのでしょうか。普通はあり得ません。けれど、そのあり得ないことが起きた。つまり、よっぽど彼女の言葉に否定できない何かを見出したのです。それはつまり言葉だけではない。彼女のその変わりように、その熱心さに、必死さに、人々は無視できないものを感じ取ったのです。これまで人目を避けて生きてきた彼女が、どのような扱いを受けるかも省みずに、町中に姿を現し、大声を上げて叫んでいる。「あの預言者が来られた!」と。だからこそ、人々はこの女性の言葉の中に真実を見たのです。2日間。イエス様はサマリヤの町でご自身について証しされました。人々は、ここで改めてイエス様と出会います。そして、このお方は単なる預言者ではなくてまことに世の救い主であると、自ら告白するに至るのです。
 このような背景があって、サマリヤ宣教は大いなる刈り取りをすることとなるのです。主のご計画の壮大さを思います。そして、そのような壮大なご計画も、全てはたった一粒の種から生じることの不思議を思います。主はサマリヤ郊外の井戸で一人の女性と出会いました。この出会いがどれほど大きな意味を持っていたか。そして、それはそのまま、私たちと主との出会いについても言えるのです。主は私たちの人生にも驚くべきご計画を持っておられるのです。

2016/01/17 ヨハネ4:27-38 「刈り入れの実」

ヨハネ4:27-38 「刈り入れの実」

 サマリヤ郊外のヤコブの井戸でイエス様が一人のサマリヤの女性と話されている。そこに町で食料を調達していた弟子たちが帰ってきたというのが今日の場面です。一刻も早くイエス様に食べてもらいたい。ですから帰ってきて、イエス様が女性と話されているのを見たとき、さぞかし、もどかしい思いでいっぱいだったことでしょう。早く終われ。早く帰れ。と内心でつぶやいていたことでしょう。女性が町へ帰って行ったところで、彼らは待ちに待って言います。「先生、召し上がってください。」
 ところがイエス様は「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」と言われるのです。がっかりです。「よくやった。」とねぎらってもらおうと、苦労して調達してきたのに、イエス様は、もうすでに食べ物を手に入れておられるんですね。「だれか食べる物を持ってきたのだろうか。」とありますが、彼らには心当たりがありました。先ほど町へ帰っていった女性です。余計なことをしてくれたものだ!彼らは内心は女性に対する腹立たしさでいっぱいだったのです。
 すると、イエス様は語られます。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることがわたしの食物です。」そして、続けて、言われます。「あなたがたは『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、私の言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、借り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」「刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある」とあります。彼らはその時が来ていることにちっとも気付いていないのです。「目を上げて畑を見なさい。」とあります。それは色づいて、刈り入れるばかりになっていると言います。ここに全く対照的な二つの視点があるのです。弟子たちは井戸端でイエス様と話す女性を、迷惑がって見ておりました。彼女が町に向けて歩み出たとき、清々した思いでおりました。自分たちとイエス様の間に割り込むな。と言いたげな彼らでした。けれど、イエス様の目には、その女性は刈り入れるばかりとなった収穫の実だったわけです。しかし、弟子たちはそのようには見ません。彼らはその女性を救いの対象とは見ません。なぜなら救いはユダヤ人のものだからです。いえ、たとえ百歩譲って仮にサマリヤ人も救いの対象だとしましても、弟子たちは言うでしょう。まだその時ではない。まだ彼らの順番は来ていない。とです。
 無意識のうちに、この人はサマリヤ人、この人はユダヤ人と区別することは、実は私たちもしているのではないでしょうか。私たちは、福音を語るその前に、この人は救いに値するかどうか、この人は福音を聞く時期にあるかと、自分勝手に見定めては、まだその時じゃない。まだ彼らの順番ではないとあきらめてしまうのではないでしょうか。大事なのは、その人を収穫の実として見ることです。私たちが置かれているそのところを、神の畑として見ることです。今この瞬間を神の時として見ることです。
 福音を語ることは大変勇気のいることです。しかし、イエス様は『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』と語られました。つまり、伝道は一人の努力によらないということです。伝道が一人の働きであれば、私たちは恐ろしくてとても関われません。その人の救いの責任を全て負うことなど誰にもできません。伝道はチームです。イエス様は「蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」とも言われました。どちらにとっても、この分業は喜びです。神のご計画に従い一人一人がその賜物に応じて用いられるとき、そこには確かに収穫が用意されているのです。

2016/01/10 ヨハネ4:19-26 「霊とまことによって」

ヨハネ4:19-26 「霊とまことによって」

  サマリヤの女性の話の続きです。イエス様は彼女の日常の問題、周囲からの扱いを問題にはしていません。彼女は確かに人々からのけ者にされ、孤独の内におりますが、だからと言って目先の井戸を与えることはいたしません。それは彼女の望むところですが、しかし、彼女の救いとはならないからです。彼女は確かにこの現状を嘆いておりますけれども、だからと言って行いを改めて日常を取り戻そうとはいたしません。遠く炎天下のヤコブの井戸に通うことを選んだのは彼女自身です。つまり彼女には罪ときちんと向き合うという気持ちが無かったのです。そのような彼女に対して、確かにイエス様なら彼女の生活を向上させることはできたでしょう。ヤコブの井戸に勝る井戸を用意し与えることもできた。しかし、それでは彼女の魂は救われません。彼女が自らの罪と向き合い、そして心からその罪から離れたいと願わなければ、彼女の心の向きが神に向かなければ、決して彼女に救いは訪れません。ですから、イエス様は彼女の核心に触れます。彼女の心の闇を光の下にさらけ出すのです。
  彼女がここで急に礼拝の場所を気にするのはなぜでしょう。それは彼女の精一杯の抵抗だったのではないでしょうか。彼女は思いがけないイエス様との出会いを通して、今まで見て見ぬ振り、きちんと向き合おうとしない自分の弱さを明らかにされます。彼女は生きるための水を汲みに、ヤコブの井戸に来ていますが、本当に必要なのはいつまでも乾くことの無い泉。永遠のいのちへの水であることを悟ります。そして今、彼女はその生き方を変える決断を迫られているわけです。けれど、どうでしょう。皆さんも経験がおありでしょうが、たとえ目の前に真実があろうとも、それがどれだけ正しいと理解できても、そのために自分の生き方を変えようという決断はなかなかし辛いものではないでしょうか。覚悟が持てない。ですから、彼女は抵抗するのです。「でも私たちとあなたたちとでは礼拝する場所が違いますよね。いったいどちらが正しいんですか?それがわからないと、私は礼拝なんてできませんよ」
  しかし、イエス様は「霊とまことによって礼拝しなければなりません」と言われます。イエス様がニコデモに語られた言葉を思い出しましょう。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」霊とは「御霊によって生まれた者」とはっきりと語られています。つまりイエス様はここで、そういう場所だとか、熱心だとか、そういうことでまことの礼拝が決まるのではなくて、「霊とまことによって」つまり、救い主を信じて新生すること。聖霊がその内に住みたまうことによってのみ、まことの礼拝をささげることができるんですよ。と、こう教えているんですね。そうでなければ、ゲリジム山であろうと、エルサレムであろうと、どれだけ熱心に、正しさを求めようと、それは決してまことの礼拝とは言えないのです。だから、今、あなたはゲリジム山かエルサレムかと、枝葉の問題を言い訳にして、決断を先伸ばしてはいけない。「今がその時です」よと問われているのです。
  信仰の決断することは、勇気が要ることですね。それは具体的な生き方の変更を伴うからです。つまり自分にばかり向いていた生き方を、神に向けて生きると言うことです。それは少なからず、私たちの日常を変化させます。ですから、私たちはすぐに色んな理由を持ち出します。どこで礼拝すればいいのかわからないから。どのように信じればいいのかわからないから。私はまだ若いから。覚悟が決まらないから。聖書を熟知していないから、だからまだ決められない。そう言って先延ばしにするのです。けれどです。問われているのは、私たちの知識ではありません。経験でも、能力でも、方法でもありません。問われているのは「いつか」ということです。そして「今がその時」と言われるのです。

2016/01/03 イザヤ32:18 「平和をきずく者」

イザヤ32:18 「平和をきずく者」

 信仰継承の難しさについては、様々な方が経験されていることかもしれません。親に連れられて教会学校に熱心に通っていた子どもたちが、いつの間にか教会から遠のいていく。それは例えば中学校に上がって部活動が忙しくなったとか、塾や習い事が増えたとか、今まで従ってきた親に対する反抗だとか、色々な理由があるでしょう。一昔前は、それでも強引に教会に連れて来るということが声高に勧められて来ました。親の威厳と言うものがまだ通じた時代だからです。けれど、今同じことは難しいです。一方的な押し付けは、それがたとえどれほど素晴らしいものだったとしても反発を生むからです。ただでさえ反抗期を迎える青年時代、親への反抗は、親の信仰への反抗と結びついていくのです。
 ですから信仰継承とは、もちろん親子関係を築くこと、子どもから尊敬されるような親となることが第一でありますけれども、一方で、私たちはこれを教会の問題として捉える必要があるのではないでしょうか。教会が彼らの居場所となれば、彼らは必然とそこに留まる。留まるどころか集まってくる。と、青年宣教を専門とするある先生は熱弁されていました。なぁんだ、と思われるでしょうか。そんなの当たり前じゃないかと。そうです。当たり前です。しかし、だからこそ、もし彼らが教会から離れる。それは部活動や塾や親子の確執や、色々な理由が仮にあったとしましても、彼らが離れるとしたら、そこに彼らの居場所がなかったからだと言えるのです。
 若者たちは、様々な緊張関係の中で過ごしています。クラスの中で自分の言動は浮いていないだろうか、相手にとって自分との付き合いは得となっているだろうか、誰の味方であるべきか、誰を庇うべきか。小さな人間関係の中で、彼らはいつも窮屈に、緊張しながら過ごしています。周りの目を気にして、いつも自分ではない誰かを演じて過ごすことを求められています。もしかしたら家の中ですらそうかもしれません。ですから、彼らに必要なのは、心から大切にされているという実感です。その存在が喜ばれるという体験です。その緊張を脇において、心から安心できる関係です。それこそが彼らの居場所であり、彼らの平和ではないでしょうか。
 しかし考えて見ますと、それは彼らだけに当てはまることではないわけです。私たちにとってもそのような居場所が必要です。互いの存在を喜び合える関係です。互いを心配し、互いに気遣い、弱さに寄り添える関係です。互いに頑張ることを喜び合える関係です。教会はまさにそのような場所であるべきなのです。イザヤ32:18のこの言葉です。アッシリヤの脅威にエジプトを頼ったユダの民に、神は再三に渡ってご自身に立ち返るようにと告げられますが、彼らは一向に聞きません。そこで神はユダに災いを語られます。しかし同時に、神はユダの救いをも語られるのです。15-20節までに語られるところは、神の民への祝福の約束。それは究極的には御国における平安でありますが、同時にこれは御国の先取りである神の教会にもあてはまるところです。私たちの住まいはそのような場所だと言うのです。
 では、いかがでしょうか。教会は皆さんにとって、平和な住まいとなっていますでしょうか。安全な家、安らかないこいの場でありましょうか。もし、そうでないとするならば、それは教会の中に、神の価値観とは違う何かが入り込んでいるのかもしれません。教会に平和を築くために、具体的にはどうすればいいのでしょうか。それは教会が希望を語るということであったり、私たちが互いの関係の中にキリストを仰ぎ見ることであったり、徹底的に主に服従することであったり。つまり、救われた者がその恵みの中に生きる。『キリスト者』として生きるということが大事です。世の中の価値観を教会の中に引きずっては、教会の平和や憩いは崩れ去り、人間関係に神経をすり減らす世の中と何ら変わりがなくなってしまいます。詳しくは、今年幾度かに分けて学んで行きたいと思いますが、私たちが今日ご一緒に確認するところは、教会の本来ある姿、目指すべき姿。それは、教会こそは「平和な住まいであり、安全な家であり、安らかないこいの場である」ということです。他にはありません。なぜなら、教会の中心には平和の君がおられる。私たちの真中に主イエスがおられるからです。
 この平和は私たち一人一人が主体的に築き上げていくものです。教会とは建物ではなくて、キリスト者の群れです。共に礼拝する私たちが教会です。ですから、私たちが積極的に平和を求めなくて、教会に平和があるはずがありません。教会に平和を見出せない時、実は自分自身が平和を掻き乱していないかと省みるべきです。平和を築く者にとって、教会はこれ以上ない平和な住まいとなるのです。