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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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160221 ピリピ3:12-16 「ひたむきに、一心に」

ピリピ3:12-16 「ひたむきに、一心に」

 すでに信仰を持っている人が、なぜ洗礼を受けなければならないのか?単純なようでいて、明確にお答えするのが難しい問いだと思います。なぜなら、洗礼という儀式が人を救うわけではないからです。エペソ2:8、9に「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」とあるとおりです。救いは恵みであり、信仰による。決して行いではありません。だとすれば、洗礼という儀式を経なくても人は救われているのでしょうか。しかし、それはやはり正しくないのです。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:10)と聖書にはあります。また、イエス様はある時、弟子たちに問いかけます。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」実は世々の教会は信仰を告白するということをとても大事なこととして守り通してきました。内内に秘めておくではなくて、わざわざ公にする。実は信仰というのは、そのようにして初めて本物になっていくものなのです。
 最近では籍を入れることなく、内縁の夫婦として過ごす人が増えてきているそうです。また籍は入れても、結婚式はしないという人も増えています。なるほど、愛し合っている二人にとって、お互いさえ納得していれば、形なんてどうでもいい。という考えは、如何にも今風ですね。けれどです。そういう考えがいったいどこから来るのかと突き詰めていくと、それはつまり、相手への責任で縛られたくない。自由でいたい。自分の生活を変えたくない。という思いから来ているのではないでしょうか。要は上手くいかなかったとき、面倒がないように。やり直しが効くようにと保険をかけているわけですね。けれどです。それはやっぱり本当の意味で相手を愛しているとは言えないのではないでしょうか。愛しているなら、責任を負うべきです。愛しているなら、それを公にすべきです。なぜなら愛というのは感情ではなくて、覚悟であり決断だからです。
 洗礼とは神との結婚のようなものです。洗礼を受けずとも私は神を信じているという人もいるでしょう。その時、その瞬間の神に対する感情に嘘偽りはないのでしょう。けれどそれでは本当の意味で互いを信じる関係、互いの存在に安心する関係となることはできません。決断することが大事です。公に約束することが大事です。神様はわかっているのだからということではありません。意思をもって決断することで私の心が定まるのです。
 さて、洗礼が神様との霊的な結婚式だと言うのなら、それは長い結婚生活の幕開けに過ぎないということでもあります。つまり決してゴールではないということです。結婚されている方はもうお分かりかと思いますが、結婚というのは結婚してからが本番です。お互いは違う家庭の違う文化の中で育ってきたわけで、当然、自分の常識は相手には通じません。ですから、そういった互いの常識をいったん捨てて、二人の常識を築いていかなければなりません。イエス様は創世記の言葉を引用しておっしゃいました。「それゆえ、人はその父と母を離れて、2人の者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」父母を離れてとは、単に住まいを別にするということではなくて、親の常識を離れてとか、親から自立して、ということです。夫婦というのは、籍を入れた瞬間夫婦となるのではなくて、長い年月をかけて互いが歩み寄ることを通して夫婦となっていくのです。
 神様との関係も同じです。私たちは神と出会う前の常識をもって神に向き合おうとしがちです。何か洗礼を受けるとすべてが終わった気がします。けれど違います。神様との関係はむしろこれから築き上げていくものなのです。
 もちろん、籍を入れれば夫婦とされるように、洗礼をもって私たちはすでに神の子とされています。その身分はもう書き換えられています。もう私たちは、永遠のいのちの約束をいただいている。それは何か無かったことにされるとか、そうだったらいいなぁというあやふやなものではありません。これに関しては、一切疑う必要はありません。なぜなら、この救いの約束は、イエス・キリストという贖いの確かさに由来しているからです。
けれど、神との関係という意味では、まさにここから始まるのです。夫婦が様々な困難や喜びを経て一つとされていくように、神様との関係も様々な試練や困難を経験しながら、祈り、悶え、委ねて、一つとされていく。洗礼は神と共に生きるスタートラインなのです。

160221 ピリピ2:25-30 「命の危険を冒してまで」 浜田進師(北秋津キリスト教会)

ピリピ2:25-30 「命の危険を冒してまで」 浜田進師

 ピリピ教会のメンバーであったエパフロデトという人物に焦点を当てながら、「奉仕の姿勢」について学びましょう。エパフロデトは、投獄されていたパウロに献金と贈り物を届けるために派遣された使者でした。また彼はパウロの身の回りのお世話や、様々な働きをサポートする使命を与えられ、ピリピ教会の代表として派遣されたようです。
 パウロは、エパフロデトのことを「窮乏のときに仕えてくれた人」と言います。「窮乏」とは「必要」とも訳される言葉です。ここから「奉仕」について考えさせられます。奉仕とは、自分のしたいことを、自分のしたい時にすることではありません。また、奉仕は自己満足のためにするものでもありません。奉仕とは、「必要」があるところに仕えることと言ってもいいでしょう。
 教会の中を見渡して「あ、ここが足りないな。」と思うことがあるでしょう。そういう時、「牧師や役員は何をやっているんだ!」と批判するだけでは何も変わりません。その必要を知って、自分にできることを進んでする時に教会は変わっていくのだと思います。  皆さんが神さまから与えられている素晴らしい賜物を用いて、教会の必要のために仕えるなら教会はさらによくなるでしょう。
 その時に奉仕をよくなさる方は要注意です。身体も比較的よく動き、能力もある方は、「自分はできる!」と思いがちです。そして、そのような方は、神様のご栄光を現すのではなく、ご自分の栄光を現しやすい傾向にあります。その方は、最初は教会の必要のために熱心に仕え始めたかもしれません。しかし、それがいつの間にか、自分が頼りにされることを求め、自分の居場所確保のため、自分の能力が評価されるため、そして自己実現、自己満足のために奉仕をするということにすり替わる危険があります。
 でも、逆に自分には力がない、自分には十分できないなと言って、自信のない方は、その分だけ、よく祈り備えるでしょう。そして、与えられた奉仕を成し遂げた時に、「神様のおかげでこの奉仕ができました」と自分の力を誇ることなく、神様をほめたたえ、神様のご栄光を現すことができるのです。
 ところでエパフロデトは、死ぬほどの病気になってしまいました。人間的な見方をするなら、彼は挫折した者です。また志半ばで倒れ、使命を果たせないどころか、周囲に多大な迷惑と心配をかけてしまった人です。しかし、パウロは苦々しい思いではなく、大いに喜んで、主にあってエパフロデトを迎えるようにと言います。そして、彼のような人に尊敬を払いなさいと命じます。なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、命の危険を冒してまで仕えたからです。彼は命の危険を冒してまで、いや命そのものを十字架で捧げて下さったイエス様の愛に応えようと、自ら命の危険を冒してまでイエス様とパウロに仕えました。
 私たちの奉仕の姿勢はいかがでしょうか。イエス様のために、命の危険を冒してまでも仕えよう!という覚悟はあるでしょうか。私たちの生き方は、イエス様の命がけの愛に応えているものでしょうか。私たちは皆がエパフロデトのような働きをしないかもしれません。でも、彼のもっていた精神、スピリットを主から与えられたいと思うのです。今週、新たな思いを主からいただき、イエス様の命がけの愛にお応えして、精いっぱい主に仕えていきましょう。

160206 へブル11:23-27 「権力を恐れず」

へブル11:23-27「権力を恐れず」

 モーセが産まれた当時、増えすぎたイスラエル人に脅威を感じたエジプトの王は、イスラエル人の男の子が産まれととき、ナイル川に流すようにと命令を下していました。つまりは殺すようにということです。そしてもちろん、命令に逆らえば、その子はもちろん両親も処罰されました。民は泣く泣く従うしかありません。しかし、モーセの両親は赤ん坊を3か月間も匿います。そして、いよいよ隠し切れなくなると、パピルス製のかごに入れて川に流すのでした。一見、手に負えなくなって諦めたのだと思えます。けれど、そうではありません。へブル書の著者はこれが「信仰によって」といいます。彼らは諦めたのではなく信仰を持って赤ん坊を川に流すのです。彼らが王の命令を恐れない理由は「その子の美しいのを見たから」とあります。親にとってわが子が美しいのは当たり前。けれどここでは、どうも単にかわいい、美しいと言っているのではなさそうです。使徒7:20には「このようなときに、モーセが生まれたのです。彼は神の目にかなった、かわいらしい子で、三か月の間、父の家で育てられましたが、」とあります。ここの「かわいらしい子」は、口語訳や新共同訳では「美しい子」と訳されています。今日の箇所と同じ言葉です。で、このかわいらしい子という表現の前に、「彼は神の目にかなった」とあります。つまり、ただ単に親の目から見て「美しい」とか「かわいい」のではなくて、神の目に美しい、神の目にかわいい子だった。神に愛でられた子だったというわけです。
 考えてみますと人が最も輝くのは、造られた目的に沿って生きるときです。造られた方の手の内にあるとき、そのものは最も美しくある。これを『用の美』と言います。ある陶芸の展覧会での話。訪れたお客さんに、きらびやかな如何にも高価なお茶碗で、実際にご飯を盛って振る舞ったのだそうです。もったいない!けれどそこには、お茶碗はご飯を盛ってこそ美しいという陶芸家の意向があったからです。人も同じです。用の美です。モーセの両親は、まだ乳飲み子のモーセに「用の美」を見るのです。彼らは神を見上げ、わが子の内に神のご計画を見ます。神に用いられるわが子の美しさ。だから彼らは信仰を持ってわが子を川に流すことができた。ご承知のように、川に流されたモーセは、エジプトの王の娘に拾われて王族として引き取られることとなるのです。
 さて、モーセはパロの娘の子として何不自由なく育ちますが、やがて、その身分を捨てて、イスラエル人をエジプトから脱出させるために奮闘します。25節に「はかない罪の楽しみを受けるよりは」とあります。それは「エジプトの宝」、つまりこの世の富や名声という意味でしょう。それはやがて失われるものです。だからはかない。彼はそうではなくて、永遠を見ていた。より大きな宝を見ていた。ですから、彼は王の一族の身分を捨てて、イスラエルとともにエジプトを出ることを決断したのです。それは王に逆らうことです。しかし、彼は王の怒りを恐れません。彼は目に見えない方を見ていたからです。
 今日の箇所を通して見てわかること。それはこの世のあらゆる力を恐れないで生きるには、その目を見えないものに向ける必要があるということです。目に見えるものこそが確かと私たちは思っているかもしれません。確かに見えるものは今そこにある現実です。これ以上確かなものはないように思います。けれど、見えるものはやがて朽ちるものなのです。その時代に縛られた価値観です。それは確かなようでいて、不確かなものです。一方、見えないものは永遠です。今、価値観を強要しようとする時代が近づいてきています。権利が義務に上書きされる様子を私たちは見ています。けれど、このような時代だからこそ、私たちが見るのは、むしろ朽ちない確かなものでなければなりません。永遠に変わることのない福音こそが、私たちの拠り所です。

160131 ヨハネ4:43-45 「上辺だけの歓迎」

ヨハネ4:43-45 「上辺だけの歓迎」

 サマリヤ滞在を2日間伸ばすほどに大成功を収めたイエス様一行が、故郷ガリラヤへと凱旋する場面です。事実、ガリラヤでは皆がイエス様を歓迎いたしました・・・が、話はそう単純ではありません。と言いますのも、イエス様が「預言者は自分の故郷では尊ばれない。」と証言しておられたのに、実際にガリラヤに行きますと、彼らはイエス様を歓迎したのです。明らかに矛盾です。これはイエス様の予想が間違っていたということなのでしょうか。
 そうではありません。ヨハネが記す人々の歓迎とは、本物ではなかったということです。彼らは確かにイエス様を歓迎します。しかしそれは「イエスが祭りの間にエルサレムでなさったすべてのことを見ていたからである。」とある通りなのです。エルサレムでは人々が「イエス様が行われたしるしを見て、御名を信じた。」という出来事がありました。その様子をガリラヤの人々も見ていました。エルサレムで行われたしるしの数々を、このガリラヤでもと期待した。そういう思いで人々はイエス様を歓迎したというのです。直前にあるサマリヤの人々の歓迎ぶりとは全く違います。サマリヤの人々は、一人の罪深い女性の言葉に突き動かされてイエス様の前にやってきますが、彼らは、イエス様のことばを真摯に聞いて、自らの告白としてイエス様を信じます。一方で、ガリラヤの人々は、エルサレムでイエス様のしるしを見て歓迎した。それは珍しいサーカス団を歓迎するのと何ら変わらない単なる好奇心です。ですから、イエス様が「預言者は自分の故郷では尊ばれない。」とおっしゃったのは、イエス様の間違いではなくて、ガリラヤの人々の心の内を的確に言い当てていたと言えるのです。
 さて、そうしますと、もう一つの疑問が沸いてきます。イエス様がガリラヤの人々の本心を予め知っていたとして、ではなぜ、わざわざイエス様は歓迎されない故郷に帰ったのでしょうか。それは、受け入れられないと分かっている中を 敢えて帰るということです。これは驚くべきことです。伝道をするのに、もっと効率の良い土地は幾らでもあったことでしょう。イエス様の教えを首を長くして待っている人々は他にも大勢いたことでしょう。それでもイエス様はガリラヤに向かいます。見て見ぬ振りをすることができなかったのです。面倒だから、難しいから、関わらないとは言いません。なぜなら、どれだけ歓迎されなくとも、そこはやはり福音を届けるべき伝道の地だからです。そこに住む人々の救いを誰よりも願われるイエス様だからです。
 身近な人に福音を伝えるということは難しいことです。過去を知っている人にとって、先にある固定観念が邪魔をすることは確かにあるのです。しかし、だから語らなくて良いわけではありません。救われなくて良いはずなどありません。
 昔の自分を知っているということは、言い換えれば、私の内に起きた変化を一番良く知 ることができるということでもあります。また、普段から身近にいるということは、語るべきチャンスが与えられているということでもあります。偏見を超えて相手を認めるには、時間がかかります。きっかけが必要なときもあるかもしれません。しかし「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」とも言われています。諦めずに粘り強く関わり続けていくとき、きっと主は友人も家族も、関わる身近な人を救って下さるという希望があるのです。