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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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160320 ヨハネ4:46-54 「第2のしるし」

ヨハネ4:46-54 「第2のしるし」

 この出来事は第二のしるしとあります。第一のしるしはカナの婚礼での出来事でした。しかし考えてみますと、イエス様の奇跡はそれ以外にも数多くなされているわけです。数ある中から、この二つの出来事をしるしとして数え上げる。それはこれらが著者ヨハネにとって特に知ってもらいたいことだということです。イエス様のことを知らない第二世代の弟子たちにイエス様を伝えるために記された福音書。とりわけ、イエス様を信じる信仰とはどのようなものなのか、このしるしをよく見て学びなさいというわけです。

 病気の息子の癒しを願いに、遠くカペナウムから自ら足を運ぶ王室の役人。王室の役人ですから、相当な身分の人であったと考えられますが、使いの者を出すのではなく、自ら足を運んでイエス様に息子の癒しを依頼します。息子のために居ても立っても居られない彼の姿は、王室の役人のそれではなく、完全に一人の父親でありました。
 ところがです。この父に対して、イエス様は「あなたがたはしるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」と言われるのです。一見冷たく聞こえます。けれど、考えてみれば、これは確かにそうですね。例えば自分の子が病気になって病院に連れて行くとします。その時に、どれだけ我が子を治してやりたいと思いましても、担当医を信用できなければ治療を進めることはできません。この役人の子を思う気持ちは100点満点です。けれど、イエス様に対してはどうでしょう。彼がイエス様のことを神の子として、まことの救い主として理解し、助けを求めにやって来たとは考えられません。この当時、そのことを知っていたのはバプテスマのヨハネしかおりません。では、彼はイエス様をどのように考えていたのか。それは、様々に試みる息子を癒やす手段の一つとして、イエス様のもとにやって来たことでした。
 ですから主は問われるのです。あなたの子を想う気持ちは本物です。では、あなたは私を信じますか。その表れが「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」という指摘であるのです。
 役人は、イエス様の指摘に、恐れたことでしょう。自分の心が見透かされているからです。息子が癒されるなら、この人は本物だ。彼の順番はこうでした。しかし、イエス様が問われるのは逆です。私が本物であるなら、癒やされないはずがないでしょう?あなたはそれを信じていないんですか?ですから、再びイエス様は請い願う彼に対して言われます。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」イエス様は具体的な何かをしてくれることなく、保証もなく、ただただ「私が直った」と告げたこの言葉を信じて帰りなさい。と言われるのです。つまり、まず信じなさい、まずゆだねなさい、です。
 何の結果も得られないまま帰るというのは、とても勇気のいることです。けれど、信仰とはそういうものです。見えないものを信じて従うのが信仰です。第一のしるしのときもそうでした。イエス様が「水がめに水を満たしなさい」と命じられたとき、手伝いの者たちにはその理由がわかりませんでした。何のためにそんなことをしなきゃいけないのか・・・。それでも彼らは言われた通りに水がめを満たし、水を汲んで世話役のところに持って行きます。するとその水は良いぶどう酒へと変えられたのでした。
 この父親は覚悟を決めました。彼はイエスさまの言葉に従って家に帰るのです。帰りの途中、迎えに出てきたしもべから子どもが癒やされたことを聞きます。それはまさにイエス様が「あなたの息子は直っている」と告げたその時刻のことでした。彼と彼の家の者はみな、イエス様がまことに神の子であることを信じたのです。

160320 ヨハネ15:16 「神が綴っておられる“ものがたり”神田英輔記」 神田英輔師(「声なき者の友」の輪代表、武蔵野福音自由教会協力牧師)

ヨハネ15:16 「神が綴っておられる“ものがたり”神田英輔記」 神田英輔師

160306 へブル11:28-31 「脱出の道」

へブル11:28-31 「脱出の道」

「信仰によって」という書き出しで始まるこの4節は、モーセ、ヨシュアの時代に起きた驚くべき神の御業を体験したイスラエルの様子が記されています。
 エジプトを襲った災いを過ぎ越すために鴨居と門に生贄の血を注ぐモーセ、迫りくるエジプト兵から逃れるために海の底に足を進め、エリコの城壁の周りを無防備に行進するイスラエルの民たち、イスラエルの偵察隊をかくまい、彼らの神を信じて、後にイスラエルによる聖絶から免れる遊女ラハブ。特徴的な4つの場面は、どれも絶体絶命という場面を「信仰によって」潜り抜けたという話です。なるほど、神を信じて委ねていれば私たちには何の心配もない。と、こういうことでしょうか。しかし、考えてみますと、これらの人々の信仰が試されるのは、そこに何の解決も見いだせないような状況に陥ってのことでした。信仰をもって神に従うとは言うのは簡単ですが、その信仰が問われるのは、まさに試練の真っただ中でのことです。私たちはこの記事を読みまして、ああ、彼らは信仰の故に問題を解決したんだなぁ。信仰を持つことが大事だなぁと、こう思うわけですけれど、いざ自分の身に当てはめたとき、果たして試練の中でどれほど神に信頼して従えるだろうかと問われているわけです。いったいどこに解決があるのか、万策尽きて、もう何も希望が無くて、この問題が解決するところが全く想像できない、そういう状況の中で、神には解決があると信じて従うことは、言うほど容易いことではありません。むしろ、私たちは結果を見てから従いたい。この道が間違いなく脱出につながっている。この橋は絶対に落ちない。と確認して、それでようやく渡りたい。けれど、それは信仰とは言わないのです。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」先の見えないその時に、神を信頼して従うということが信仰なのです。
 この4つの出来事にかかわる人々の信仰が称えられるのは、それが問題の渦中にあっての選択だということです。現実には何の解決も見いだせない、そのような状況の中で、彼らは神に信頼することを選んだのです。実はこの順番が大事です。まず、信じる。信頼する。心を決める。脱出の道はその後に用意されているのです。私たちは、この問題が解決してくれたらあなたを信じます。と言いがちですね。この大変な状況が解決したら、あなたに従います、とです。だから、とりあえず、このことをどうにかしてください。と神を脅迫します。そして、これを解決してくれれば信じると言っているのに、あなたはなんで聞いてくれないんですか。と神に不平不満を訴えるのです。
 違います。まず、神に信頼することから始まるのです。試練とは、神が私たちをご自身に立ち返らせるための躓きの石です。神は目的をもってその石を置かれているのです。ならば、まず私たちは神に立ち返ることが先決です。アブラハムが息子イサクを捧げるようにと命じられたとき、アブラハムは泣く泣く刀を振り上げます。絶望的な状況の中で、まず神に従うことを選びます。すると、神は彼の覚悟を良しとして、そこに代わりの生贄を用意してくださったのです。
 私たちは先のことがわかりません。明日のことはわかりません。それでも、今日、神に信頼して生きることが大事です。神はご自身に従うその人を喜ばれないはずがないからです。神は必ずその試練の内に脱出の道を用意しておられるのです。

160228 マタイ8:23-27 「ひとりぼっちでいいですか?」 野寺恵美師(赤羽聖書教会牧師)

マタイ8:23-27 「ひとりぼっちでいいですか?」 野寺恵美師

 ガリラヤ湖を渡って向こう岸に行こうとしていたイエスと弟子たちは途中で大暴風に遭います。大暴風の中で弟子たちは死にもの狂いで舟を守ろうと襲って来る恐怖と戦いながらあらゆる手を尽くしたことでしょう。でもその中でイエスは眠っていました。自分たちの力の限りを尽くしての努力もむなしく、舟に水がいっぱいになってまさに沈むしかなくなった時、弟子たちはイエスのもとに助けを求めてやって来ました(25)。ところが助けを求める弟子たちをイエスは叱りつけたのです。なぜでしょうか。
 この船旅の先導者、責任者はイエスです(23)。そのイエスが何の心配もなく眠っているのですから舟は沈まなかったはずです。たとえ舟が沈んで死ぬとしても主が共にいて下さいます。しかもイエスに従った結果としての死なのです。ですが、すぐそばにおられるイエスを忘れて目の前のできごとに目を奪われ恐怖に包まれた弟子たちをイエスは「信仰の薄い者たち」と叱ったのです。
 この嵐を起こされたのは主なる神 (25)です(詩篇107:23~30)。イエスが見ていたのはさかまく波でもうなり声を上げて吹きまくる風でもなく、それらを造り治め動かしている神でした。だから外の状況がどんなに荒れ狂っていてもイエスの心の内は大凪のようでした。一方神を見ることができなかった弟子たちの心の中は外の大嵐同様に荒れ狂ってしまい「信仰の薄い者たちだ」と叱られたのです。
 イエスが先に乗られた舟に従って乗った弟子たち。私たちも主イエスに召され主の後に従う者としてイエスが先に乗られた舟に乗った者です。イエスが一緒に乗っておられることを忘れてはなりません。「私は世の終わりまでいつもあなたがたと共にいます」というイエスの約束どおり、イエスを信じる私たちはもうひとりぼっちではないのです。
 また私たちの乗った舟はすべてを造り支配しておられる神の御手の中にあります。嵐を起こすのも静めるのも「主」です。大暴風という激しい試みにあって弟子たちは自分たちの限界を知りますが、同時に神であるイエスの偉大な力を知ってますますイエスをあがめ畏れます。主は私たちを何の意味もなく試みに会わせることはなさいません。信仰の薄い私たちは試みの中でぼやきつぶやきながらようやく主を見上げるような弱い者です。でもそこで主はご自身のみわざを見せて下さいます。「なぜこわがっているのか。ここに私がいるではないか。この私について来なさい。」と声をかけて下さるのです。
 私たちは信仰の薄い者なのです。でもイエスはそんな私たちにあきれて見捨てるような方ではありません。「なぜこわがるのか。信仰の薄い者だ」と叱り飛ばしては弱い私たちの目を覚まさせ主へと目を向けさせて下さるのです。主のことばにこそ私たちの目を覚まさせる力があります。主の励まし、導き、叱責、すべてが書かれてある聖書に目を開き、耳を傾けましょう。
 詩篇107:30には「そして主は彼らをその望む港に導かれた」とあります。弟子たちもこのあとイエスと共に向こう岸に着いて更に大きな働きを繰り広げます。私たちも既にこぎ出されているこの船旅を「主を見失わないように」と祈り、絶えず主の声であるみことばに耳を傾けながら、父なる神そして主なるイエスの導きに従って、まさに大船に乗った気持ちで進み続けていきましょう。