ヨハネ4:46-54 「第2のしるし」
この出来事は第二のしるしとあります。第一のしるしはカナの婚礼での出来事でした。しかし考えてみますと、イエス様の奇跡はそれ以外にも数多くなされているわけです。数ある中から、この二つの出来事をしるしとして数え上げる。それはこれらが著者ヨハネにとって特に知ってもらいたいことだということです。イエス様のことを知らない第二世代の弟子たちにイエス様を伝えるために記された福音書。とりわけ、イエス様を信じる信仰とはどのようなものなのか、このしるしをよく見て学びなさいというわけです。
病気の息子の癒しを願いに、遠くカペナウムから自ら足を運ぶ王室の役人。王室の役人ですから、相当な身分の人であったと考えられますが、使いの者を出すのではなく、自ら足を運んでイエス様に息子の癒しを依頼します。息子のために居ても立っても居られない彼の姿は、王室の役人のそれではなく、完全に一人の父親でありました。
ところがです。この父に対して、イエス様は「あなたがたはしるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」と言われるのです。一見冷たく聞こえます。けれど、考えてみれば、これは確かにそうですね。例えば自分の子が病気になって病院に連れて行くとします。その時に、どれだけ我が子を治してやりたいと思いましても、担当医を信用できなければ治療を進めることはできません。この役人の子を思う気持ちは100点満点です。けれど、イエス様に対してはどうでしょう。彼がイエス様のことを神の子として、まことの救い主として理解し、助けを求めにやって来たとは考えられません。この当時、そのことを知っていたのはバプテスマのヨハネしかおりません。では、彼はイエス様をどのように考えていたのか。それは、様々に試みる息子を癒やす手段の一つとして、イエス様のもとにやって来たことでした。
ですから主は問われるのです。あなたの子を想う気持ちは本物です。では、あなたは私を信じますか。その表れが「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」という指摘であるのです。
役人は、イエス様の指摘に、恐れたことでしょう。自分の心が見透かされているからです。息子が癒されるなら、この人は本物だ。彼の順番はこうでした。しかし、イエス様が問われるのは逆です。私が本物であるなら、癒やされないはずがないでしょう?あなたはそれを信じていないんですか?ですから、再びイエス様は請い願う彼に対して言われます。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」イエス様は具体的な何かをしてくれることなく、保証もなく、ただただ「私が直った」と告げたこの言葉を信じて帰りなさい。と言われるのです。つまり、まず信じなさい、まずゆだねなさい、です。
何の結果も得られないまま帰るというのは、とても勇気のいることです。けれど、信仰とはそういうものです。見えないものを信じて従うのが信仰です。第一のしるしのときもそうでした。イエス様が「水がめに水を満たしなさい」と命じられたとき、手伝いの者たちにはその理由がわかりませんでした。何のためにそんなことをしなきゃいけないのか・・・。それでも彼らは言われた通りに水がめを満たし、水を汲んで世話役のところに持って行きます。するとその水は良いぶどう酒へと変えられたのでした。
この父親は覚悟を決めました。彼はイエスさまの言葉に従って家に帰るのです。帰りの途中、迎えに出てきたしもべから子どもが癒やされたことを聞きます。それはまさにイエス様が「あなたの息子は直っている」と告げたその時刻のことでした。彼と彼の家の者はみな、イエス様がまことに神の子であることを信じたのです。
この出来事は第二のしるしとあります。第一のしるしはカナの婚礼での出来事でした。しかし考えてみますと、イエス様の奇跡はそれ以外にも数多くなされているわけです。数ある中から、この二つの出来事をしるしとして数え上げる。それはこれらが著者ヨハネにとって特に知ってもらいたいことだということです。イエス様のことを知らない第二世代の弟子たちにイエス様を伝えるために記された福音書。とりわけ、イエス様を信じる信仰とはどのようなものなのか、このしるしをよく見て学びなさいというわけです。
病気の息子の癒しを願いに、遠くカペナウムから自ら足を運ぶ王室の役人。王室の役人ですから、相当な身分の人であったと考えられますが、使いの者を出すのではなく、自ら足を運んでイエス様に息子の癒しを依頼します。息子のために居ても立っても居られない彼の姿は、王室の役人のそれではなく、完全に一人の父親でありました。
ところがです。この父に対して、イエス様は「あなたがたはしるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」と言われるのです。一見冷たく聞こえます。けれど、考えてみれば、これは確かにそうですね。例えば自分の子が病気になって病院に連れて行くとします。その時に、どれだけ我が子を治してやりたいと思いましても、担当医を信用できなければ治療を進めることはできません。この役人の子を思う気持ちは100点満点です。けれど、イエス様に対してはどうでしょう。彼がイエス様のことを神の子として、まことの救い主として理解し、助けを求めにやって来たとは考えられません。この当時、そのことを知っていたのはバプテスマのヨハネしかおりません。では、彼はイエス様をどのように考えていたのか。それは、様々に試みる息子を癒やす手段の一つとして、イエス様のもとにやって来たことでした。
ですから主は問われるのです。あなたの子を想う気持ちは本物です。では、あなたは私を信じますか。その表れが「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」という指摘であるのです。
役人は、イエス様の指摘に、恐れたことでしょう。自分の心が見透かされているからです。息子が癒されるなら、この人は本物だ。彼の順番はこうでした。しかし、イエス様が問われるのは逆です。私が本物であるなら、癒やされないはずがないでしょう?あなたはそれを信じていないんですか?ですから、再びイエス様は請い願う彼に対して言われます。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」イエス様は具体的な何かをしてくれることなく、保証もなく、ただただ「私が直った」と告げたこの言葉を信じて帰りなさい。と言われるのです。つまり、まず信じなさい、まずゆだねなさい、です。
何の結果も得られないまま帰るというのは、とても勇気のいることです。けれど、信仰とはそういうものです。見えないものを信じて従うのが信仰です。第一のしるしのときもそうでした。イエス様が「水がめに水を満たしなさい」と命じられたとき、手伝いの者たちにはその理由がわかりませんでした。何のためにそんなことをしなきゃいけないのか・・・。それでも彼らは言われた通りに水がめを満たし、水を汲んで世話役のところに持って行きます。するとその水は良いぶどう酒へと変えられたのでした。
この父親は覚悟を決めました。彼はイエスさまの言葉に従って家に帰るのです。帰りの途中、迎えに出てきたしもべから子どもが癒やされたことを聞きます。それはまさにイエス様が「あなたの息子は直っている」と告げたその時刻のことでした。彼と彼の家の者はみな、イエス様がまことに神の子であることを信じたのです。