ヨハネ5:19-30 「父なる神と子なる神」
見えない神さまの臨在を私たちはどのように知ることができるのでしょうか。神の声を聞かずして、どのように神に希望を持つことができるのでしょうか。父なる神はそのために、ご自身のひとり子をお送りになりました。
父がなさることを同様に行うしかできない子なる神。それしかできない、と聞きますと、何かイエス様は全能の神ではなくて限界ある存在のように聞こえます。けれど、そうではありません。イエス様は子なる神であるがゆえに、そのご性質上、父なる神と同様にしか行うことができないのです。子は父の写しです。それは当時の社会ではより顕著でした。当時は大工の子は大工。祭司の子は祭司。子は親の仕事ぶりをつぶさに見て、それを忠実に真似て、継いでいきます。老舗の料理屋が親の味が継げずに客足が遠のくということがありますように、二代目にまず求められるのは、親の写しとなることです。父なる神のみこころのままに。父なる神のご計画の通りに。それはイエス様が神のひとり子であるがゆえのご性質であるのです。
一方で、父は我が子にだけは特別の極意を明らかにします。師匠たる者、どの弟子にも一通りの手解きは教えます。けれど、一子相伝。極意と呼ばれるそれは、たった一人。我が子にだけ開示されるものです。父なる神は、子なる神に二つの特権をお与えになりました。一つは「いのちを与えること」。もう一つは「さばくこと」です。これらは神だけの特権です。誰も自由にこのようにする権利は持っていません。ところが父なる神はその全てを子なる神にお示しになったのです。それはすべての者が、父を敬うように子を敬うため。父が子を特別に想われるがゆえです。
父なる神と子なる神は相思相愛です。全てを共有し信頼し合う親子の関係が、ここにはあります。そしてこの子なる神は見える人となって、父なる神を明らかにするのです。ですから、子なる神を無視しては、決して神のみこころを知ることはできません。私たちが父なる神を知りたければ、子なる神を見れば良いのです。
この人を見よ この人にぞ こよなき愛は あらわれたる
この人を見よ この人こそ 人となりたる 活ける神なれ
ヨハネ5:10-18 「出る杭は打たれても」
ベテスダの池での癒しの出来事を発端として、騒動が起こりました。と言いますのも、それが安息日での出来事だったからです。癒された男が床を上げた。それがユダヤ人から安息日の規定に背いたと見なされたのです。責められた男は、自分を癒した方に従っただけと弁解します。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と言われたのです。」当然、ユダヤ人たちの矛先はこれを命じた者に向くわけです。「『取り上げて歩け。』と言った人はだれだ。」すると驚くことに、彼はイエス様のことを覚えていなかったのです。なるほど、彼が簡単に責任を転嫁するのは、彼が自分を癒した方を覚えていなかったという責任の軽さから来たのかもしれません。覚えていないけど嘘ではないし、覚えていない以上誰も責められることはない。だから、あの人が言ったと答えておこう。けれどユダヤ人たちがそれで大人しく引き下がるはずはありませんでした。よっぽど脅されたのでしょう。彼は後にイエス様と再会し、自分を癒したくださった方がどなたかを知りますが、すぐにそのことをユダヤ人に報告いたします。結果、ユダヤ人たちは、イエス様を迫害することとなったのです。
もう一つユダヤ人たちが我慢ならないことがありました。それはイエス様が「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」とご自身の行動の根拠を語られたことです。イエス様が全知全能の神を父と呼ぶ。イエス様がご自身を神と同様に語られる。このことが神への冒涜と映ったのです。ユダヤ人たちはそれゆえイエス様に対する殺意を覚えるようになるのです。
ユダヤ人たちは大まじめです。神が命じられたことを、神が命じる以上に。彼らは自らが神の代理として人々を裁きます。しかし、思うのです。彼らの目には、この男の癒しがどのように映っていたのだろうかとです。彼らが問い詰めるその男は38年もの間、病に苦しんでいたのです。迷信にすがりつくことしかできないほどに、希望なく過ごしてきたのです。もはや誰の記憶からも関心からも消え去られていた、そんな人物です。そんな彼が癒された。なぜ、彼らはこの男性にもたらされた癒しの奇跡を一緒に喜べないんでしょう。ユダヤ人たちには、この人が癒されたということよりも、安息日が守られるかどうかが重要でした。また神のみこころに適っているのかということよりも、神を父と呼ぶことが問題でした。つまり彼らの信仰の秩序をひっくり返してしまうイエス様に対して、変化を望まない古い体制の人々がこれを否定したというわけです。
考えてみますと、それが世の反応ではないでしょうか。私たちが正しさを主張して生きれば、必ず反発が起こるのです。自分の信じるところに生きるのではなくて、長いものに巻かれること。和を乱さないことが尊ばれるのが世の中なのです。イエス様のように、それまでの秩序を乱す行為は、たとえそれがどれだけ正しく素晴らしいとしても煙たがられるのです。ですから、私たちは覚悟をすべきです。たとえ出る杭は打たれようとも、私たちは神のみこころに適う歩みをしなければなりません。厳しいですね。そんなに無理しなくてもいいよ。と言ってくれたらいいのに。無理して他人とぶつかるよりも適当に妥協して、目をつむって、平日はクリスチャンであることを忘れていてもいいですよ。と言ってくれたらどれだけ楽かと思いますのに。
けれど、その論理で行きますなら、私たちに救いはありませんでした。イエス様がこの世の秩序ではなくて、神のみこころに生き、死なれた。だからこそ、私たちは救われたのです。私たちがこの生き方を否定するなら、それは私たちの救いを否定することになるのです。ですから、私たちはイエス様の歩まれた道を歩まねばなりません。私たちは他人と違うことを恐れる必要はありません。ただ父のみこころから逸れることを恐れるべきなのです。

ヨハネ5:1-9 「言い訳の言葉」
ベテスダの池でイエス様は一人の病人に会いました。その人は、なんと38年もの間、病に苦しんでいたと言います。イエス様はそんな彼に声をかけられます。「よくなりたいか。」病気の者に、よくなりたいかと聞くのは、ナンセンスと言いますか、そんなの良くなりたいに決まっています。ところが、彼は「よくなりたい」とは答えません。「主よ。私には、水がかき回された時、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」と答えるのです。
これはどうしたことでしょうか。実は彼はもう「よくなりたい」という積極的な思いを失ってしまっているのです。もう諦めてしまっている。だからイエス様は「本当にあなたは良くなりたいと思っていますか」と問うているわけです。けれど、これは無理もないことです。38年と言うのは、そういう期待を失うのに十分な時間なのです。
イエス様は、「よくなりたいか」と問われます。私たちの本心を尋ねて下さいます。もちろん、イエス様はこの男のこれまでの歩みをご存知です。この男がどれほど良くなることを望み、それが適わず、あきらめざるを得なかったかを知っています。けれど、それでもイエス様は尋ねられます。「よくなりたいか」とです。なぜでしょうか。それは、イエス様が単にこの男の癒しを願っておられるのではないからです。神との関係の回復を、イエス様との繋がりを持つことを願っておられるからです。
イエス様には、この男を、何も言わずいきなり治すこともできました。彼の身上を察して、人知れず癒すこともできました。何だったら、彼が望んできたように、水が動いたときに彼を池に入れて癒すということもできました。けれど、そのようにして彼が癒されたとしても、果たしてそれが、彼の魂の癒しとなるでしょうか。イエス様との繋がりを築くことになるでしょうか。場所は、異教まがいの噂が蔓延る回廊です。ここでもし癒しの事実だけがあったとしても、それはその噂が本当だったという話になりはしないでしょうか。不思議な事もあるもんだ。という話ではないでしょうか。イエス様はそのような癒やしを良しとはされません。イエス様はこの癒やしの出来事を通して、ご自身との関係を築かせようとしている。だから、彼の心からの声を待つのです。「よくなりたいか。」
私たちは一向に解決しない現実の問題に直面した時、思い通りにならない理由を数え上げはしないでしょうか。なぜなら期待することは疲れることだからです。1ヶ月、2ヶ月のことではありません。何年も何年も願っても聞かれない。そういう現実の中で、私たちの心は疲れ果ててしまうのです。ですから、こういう理由だから仕方がない。沢山の言い訳を数え上げて、自分自身で結論を出して、悩むこと、考えることを終わらせてしまおうとするのです。けれど、問題から目を背けるあまり、そこで語られるイエス様の言葉にすら背を向けることはないでしょうか。イエス様が問うておられるのは、もっと単純です。これまでどうだったかということは問いません。なぜこうなったかイエス様はご存知です。イエス様が問われるのは一つ。「よくなりたいか。」あなたの正直な声を聞かせて欲しいとです。主の前に沢山の言葉はいりません。私たちは私たちの願うところを語るのです。心の声を告げるのです。

ヘブル11:32-40 「信仰によってあかしされる」
へブル書11章は信仰の勇者たちを数え上げて信仰に生きることの幸いを教えていますが、今日の箇所は若干雰囲気が違います。と申しますのも、これこれの人たちは信仰によって勝利を得た。という成功譚だけではなくて、信仰の故に迫害に遭う。苦しみを経験する。という苦々しい経験を告白しているからです。このことは何を意味しているのでしょうか。それはつまり、信仰というのは、私たちの人生の幸せを約束する類のものではないということです。
私たちはどこかで信仰が幸せを生み出すと考えてはいないでしょうか。そして、変わらない日常の中で、私が不幸なのは信仰が足りないからだとか、信仰のないあの人よりも私が不自由な生活をしているのはおかしいとか、そんな風に感じることはないでしょうか。もちろん、幸せをどのような意味で捉えるのかという話ではありますが、私たちは日常生活をもっと楽に、自由にするための必須アイテムとして信仰というものを考えしまうことがあるかもしれません。しかし、それは聖書の語るところなのでしょうか。
聖書は、からし種ほどの信仰があれば山をも動かせると言っています。信仰の量が私たちの幸せの度合いを決めるなんてどこにも言っていません。信仰のゆえに祝福が与えられることもあれば、信仰のゆえに苦難が振りかかることもある。これが聖書の語るところです。
では信仰に生きるということに、いったい何の意味があるのでしょう。
イエス様が道を歩いておられた時に、生まれついての盲人を見られたことがあります。すると弟子たちがイエス様に聞きました。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」弟子たちには、信仰が無ければ不幸になる。信仰があれば幸せになれる。という単純で乱暴な考えがありました。けれどイエス様は言います。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」
私たちも、信仰の故に神の奇跡を体験することもあるでしょう。逆に信仰の故に迫害に遭ったり、この世の苦難を味わうこともあるでしょう。現実の生活が上手くいかないとき、私たちはそれを罪のせいだと責めがちです。不幸な出来事が続くとき、私たちは信仰の足りなさを嘆きます。思いがけない神の奇跡に出会ったとき、私たちは信仰を誇ります。けれどどちらが良い悪いではありません。信仰によって病が癒されることも神の証しだし、苦難の内で信仰に寄り掛かることもまた神の証しです。すべて神の栄光を表す生き方なのです。

ルカ24:1-8 「よみがえりのイエス」
空っぽの墓を覗いたマリヤたちは、呆然といたします。イエスさまの亡骸が無くなっていたからです。愛するイエスさまの葬りさえもできない。彼女たちを襲った悲しみはいかほどであったことでしょうか。しかし、そこに御使いが現れて言います。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」亡骸が無くなったのは当然です。よみがえられたからです。ここに空っぽの墓を見る2つの視点があります。マリヤたちがそこに亡骸を捜すとき、空っぽの墓は絶望でしかありませんでした。しかし、主がよみがえられたという事実を受け入れて、もう一度同じ墓を見るときに、空っぽであるということがイエスさまのよみがえりの希望となったのです。
実はこのことは、私たちにも当てはまることです。それはつまり、私たちの死というものの見方が変わるということです。
イエス様がナインという町を訪れたときのことです。町の門から葬儀の行列が出てまいりました。ひとり息子を死なせたやもめの女が、息子の亡骸と共に出てきたのです。やもめと言いますから、過去に旦那に先立たれ、残った息子を懸命に育ててきた女性です。この子が彼女の生きる理由であったことは容易に想像できます。ところがその息子が夫に続いて死んでしまった。この母親の憔悴振りは目に余るものがあったでしょう。周りには大勢の人達が悲しみを共にして歩いておりました。おそらくは誰も何も言わず、静かに死体を運ぶ、この一行であったことでしょう。当然です。彼らには語る言葉がないからです。
死を前にして人は無力です。どうすることもできない現実がそこにはあります。その人を知れば知るほど、その気持ちがわかればわかるほど、私たちはその悲しみを前にして言葉を失います。安易な慰めの言葉はかえってその人を辛くするように思えるからです。けれど、イエス様は違いました。イエス様には泣く者にかける言葉がある。その母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい」と言われたのです。
泣いている人に「泣かなくてもよい」なんて、普通は言えません。しかし、イエス様は違います。イエス様だけは「泣かなくてもよい」と語ることが出来るのです。なぜなら、イエス様は死に対して全く違う理解を持っておられるからです。私たちは死と言う現実を、どのように見るでしょうか。人生の終わりと見るでしょうか。それは永遠の別れであり、絶望であると見るでしょうか。けれど、イエス様はそのようには見ておられません。死は終わりではなくて、その先に神と共にある永遠がある。死は永遠への通過点である。イエス様は自らよみがえられたことによって、そのことを明らかにしてくださったのです。
大事なのは、死ではなく、その先に目を向けるということです。マリヤたちは最初、死と言うものを、人生の終わり、永遠の別れと理解していました。ですから、彼女たちは悲しみを抱えて墓に向かいました。そして、その墓が空っぽであったとき、その別れすらできないということに呆然としたのでした。
ナインのやもめもまた、死と言うものを一切の終わりというように考えていました。ですから、息子の死と言う現実に、ただただ泣き崩れるしかありませんでした。そこには、何の希望もありませんでした。
けれど死は終わりではない。その先に永遠のいのちがあると、イエス様は言われます。死は終わりの絶望ではなくて、通過点です。確かに、地上の歩みにあって、それは別れです。けれど、それは永遠の別れじゃない。いっときの別れ。やがて再会することが約束されている別れです。ですから、私たちは愛する人の死に悲しむのですけれども、その悲しみと共に、希望もまた見ることができるのです。そして、私たちは、それが絶望ではないということを知るからこそ、いつ訪れるのかわからない死をいつも恐れる必要がない。私たちは先を見て、今を安らかに生きることが出来るのです。
