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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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160522 ヨハネ6:1-15 「主に不可能はない」

ヨハネ6:1-15 「主に不可能はない」

 山に登られ、そこからご自身のもとにやって来る大勢の人の群れをご覧になられて、イエス様はピリポに言います。「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか。」
 けれどです。6節の後半には「イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。」とあります。ピリポがどう答えようと、イエス様のしようとしていることは決まっているのです。ならばなぜイエス様はこのようなことを尋ねるのでしょう。それはイエス様がピリポ(すなわち弟子たち)を試して言われたのでした。
 他の福音書では、彼らはイエス様に群衆の解散を進言しています。もう日が暮れて来てのことです。そのまま放置しては暴動が起きる危険すらあったでしょう。ピリポはイエス様に言います。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」アンデレが付け加えます。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」彼らの言うことはもっともです。根拠のある、とても常識ある意見です。
 ところが、イエス様の用意されていた結論は、彼らの常識を遥かに超えていました。「イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた」のです。
 私たちの常識でこの奇跡の記事を理解することは出来ません。私たちはいつも常識という心の枠に捕らわれています。こんなちょっとの食べ物なんてどうしようもならない。たった5つのパンと2匹の魚なんてあっても意味が無い。目の前の問題はあまりにも大きすぎて私には何もすることができない。…これが私たちの常識です。しかし実際はと言うと、私たちの常識を遥かに超えた主の御手が働かれたのです。主が祝福すると、何の価値も見出せなかったそのパンと魚が、5千人の人々を満足させる食物へと変えられたのです。
 実は、これはヨハネには記されませんが、この5千人給食の出来事の前に、イエス様が弟子たちを各村に遣わされた事が記されています。そこで弟子たちはイエス様に代わって福音を宣べ伝え、病人を癒し、汚れた霊を追い出しました。そして、彼らは自分たちの力を誇ったのです。そこでイエス様は弟子たちを試された。つまり、イエス様はこの5千人給食の出来事を通して、それは人には不可能なこと。弟子たちの手に負えないこと。自分たちを用いてくださるのは主に他ならないということを教えようとされたのではないでしょうか。
 この5千人給食の出来事は、弟子たちに、自分の働きではない。主が働かれることこそが解決であることを強烈に教えたのです。いえ、当時はそこまではっきりとしていなかったかもしれません。けれど、この後、彼らはイエス様の十字架と復活、そして昇天を経験し、イエス様から託された福音を携えて出て行きます。もちろん、その働きは簡単にはいきません。多くの困難に直面し、失敗にも思える出来事を経験いたします。そんな彼らが、この5千人給食の出来事に支えられるのです。この働きは私の力によるのではないこと。主の働きは、主が責任を取ってくださること。だから、恐れないで精一杯に、主に仕えることができたのです。これは私たちにも言えることです。主の働きは主にこそ解決がある。私たちの内にはありません。ここを間違えないようにしたいものです。

160515 Ⅰテサロニケ4:13-18 「イエスにあって眠った人々」 召天者記念礼拝

Ⅰテサロニケ4:13-18 「イエスにあって眠った人々」

 本日は、召天者記念礼拝です。私たちがこのようにして、先に召された兄弟姉妹を覚えるということはどのような意味があるのでしょうか。それはつまり天の御国をよりリアルに感じるということであります。
 天国ということを思います時に、私たちは色々な想像をするかと思います。聖書もまた、天の御国はこのようなものだと、色々と教えてくれています。ある個所では、「天の御国はからし種のようなものだ」と言っています。「パン種」と言ったり、「畑に隠された宝」のようだとも言っています。その他にも、様々にたとえを用いて、イエス様は天の御国と言うものについて教えてくださいます。また、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。」とありますし、そこには私たちの住まいがすでに用意されているということを私たちは聞き及んでおります。そこでは、主の栄光が私たちを照らし、都の大通りの中央には水晶のように光るいのちの水の川が流れ、その両岸にはいのちの木が12種の実を実らせていると言うのです。そして、このような天の御国に入れられる。この天の御国において今度は朽ちない体をいただき、永遠に神と共に生きる。これが私たちの希望だと言うのです。
 天の御国については、様々に、断片的に、私たちはその情報を得ます。けれども、実際のところ、それで私たちはどれほど具体的に天の御国を想像できますでしょうか。その恵みを心待ちにしますでしょうか。そこが素晴らしい所だということはわかります。しかし正直な話、具体的なことは行ってみないとわからないというのが、本音ではないでしょうか。
 しかし、そんな私たちにとって、天の御国を確かな希望とするのが、先に召された兄弟姉妹の存在です。私たちは彼らを思うとき、急に天の御国が身近なところと感じることができるのです。
 この3月の終わりに、教会に集っていたご家族がシンガポールに引っ越されました。それ以来、我が家の子どもたちはことあるごとにシンガポールの話をします。TVでシンガポールの映像が流れる度に大騒ぎです。それまでシンガポールという国は、彼らにとって遠い国。全く関係のない国でした。けれど、今やシンガポールは行きたい国ランキング第一位です。その国がどんな国か。どういう文化で、どういう生活か。彼らは何も知りません。そんなことよりも、何よりも、そこに親しい友達がいる。すると、もう、その国は身近で特別な国となるのです。
 パウロは、「眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。」と言います。眠った人々、先に召された兄弟姉妹を覚えることが、私たちの天の希望を確かなものとするのです。天の御国はもはや遠い世界の話ではありません。私たちの実際的な希望なのです。

160508 ヨハネ5:31-47 「いのちを得るために」

ヨハネ5:31-47 「いのちを得るために」

 聖書信仰というのは、私たちの信仰の根幹に当たる部分です。私たちは聖書が全て神のことばであることをそのまま信じています。私たちは神の姿を見ることはありませんが、神は聖書のみことばを通して私たちに語り掛けてくださると信じています。ですから私たちは聖書を部分的に読むことはいたしませんし、自らの理解を超えることを無視して読むことはいたしません。イエスさまの実在を無視して、ただ今を生きるマニュアルとして聖書を読むことは、まったくもって虚しいことです。けれど、残念なことに、そのようにして聖書を読む方が少なくはないのが現実です。私たちはそうではなくて、神のことばに謙遜に聞きたいと思うわけです。
 で、少し想像をするわけですが、当時のユダヤ人は、じゃあ私たちと比べて聖書をいい加減に読んでいたのか、自分勝手に読んでいたのか、と言いますと、決してそういうわけではなかったわけです。むしろ、私たち以上に聖書に対する真剣さを持っていたんだろうと思うんですね。神様のことばを理解しよう、実践しよう、それはもう徹底的に調べて、重箱の隅をつつくほどに守ってきたわけです。けれどです。それほどまでに聖書に通じ、真剣に聖書を調べ続けた彼らなんですけれども、彼らには永遠のいのちがわからないのです。聖書をリスペクトして、忠実に実践しようと、神のことばを守ろうと躍起になったんですが、一向に永遠のいのちの確信が持てないのです。これはいったい、どうしたことなんでしょうか。
 それはつまり、そこにイエス・キリストがいないのです。彼らはイエス様を認めようとしません。ですから、彼らは聖書の字面は読めるのですが、懸命にその文字を調べはしますが、そこに書かれている神の真意に到達することができません。彼らは正しくみことばを読み解くことができなかったのです。
 イエス様は、ご自身が「行っているわざそのものが、・・・父がわたしを遣わしたことを証言している」とおっしゃいました。イエス様を見れば、イエス様が父なる神から遣わされた方であることは明らかなのです。38年間病であったその人が癒されました。他にも多くの希望のない人々がイエス様によって癒され、希望を得ました。この一人ひとりを見れば、その取り戻した笑顔を見れば、イエス様が、神が遣わされた御子であることに疑いようはありません。けれど、彼らはそのわざを見ないのです。だから父なる神がわからない。なぜならそのわざは、神のみこころの実現に他ならないからです。
 イエス様を抜きにして、誰もいのちを得ることはできません。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに神の愛が示されたのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)とあるとおりです。ですから、イエス様が実在したかどうかは問題ではないなどという聖書の読み方など論外です。確かに、イエス様の存在は、世の常識の範疇では受け止められません。水をぶどう酒に変えるなどあり得ないことですし、死人が蘇るなど、私たちの常識ではあってはならないことです。ですから、多くの人は聖書からイエス様を外します。けれど、それでは永遠のいのちには至らないのです。聖書を読むとき、実は私たちがそれを理解できるかどうかは問われてはいません。なぜなら、聖書は信仰によって読まれなければならないからです。大事なのは理解することではなくて、信じることなのです。

160501 へブル12:1-3 「イエスから目を離さずに」

へブル12:1-3 「イエスから目を離さずに」

 聖書は、信仰生活と言うものを競争に例えています。それも「忍耐をもって」とありますから、短い50メートル走とか、100メートル走ではなくて、マラソンのような長距離走をイメージしているわけです。しかし競争といいながら、その目指すべきところは、誰かと競って1位を取るということではありません。最後まで走り抜くこと。途中で脱落しないことです。つまり競うのは自分自身と言うことです。長距離走の経験がある人はわかると思いますが、長距離走は他人を意識しすぎると完走することができません。自分のペースを崩してしまうからです。長距離走はあくまでも自分との戦いです。挫けそうになる心。投げ出したくなる心。そういった弱気な心と戦いながら、この一歩がゴールに繋がると信じて走り続けるのです。問題は、この競争はどこまで走ればゴールなのかがわからないことです。長く忍耐を求められる競争も、ゴールが見えているから頑張れるのです。あの丘を越えればゴールが待っている。そうわかっていれば、今の一歩を踏み出せるというものです。ところが、その丘を越えてみれば、そこにはまだまだ果てしない丘が連なっている。これは私たちの心を挫くのに十分すぎる理由ではないでしょうか。正直な話、私たちは信仰生活に疲れ果ててしまうことがあるのです。幾度となく繰り返される試練の数々に、もういいか。と心がぽっきりと折れてしまうことがあるのです。
 ですから、へブル書の著者はこの競争を続けるのに大切な2つのことを挙げています。一つは「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨て」ること。もう一つは「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない」ことです。
 マラソンを走るのに、わざわざ重たい荷物を背負っては疲れ果ててしまうだけです。それは無謀です。けれど、私たちはこと信仰生活においては、そのような無謀を犯していることがままあるのです。私たちにとっての重荷とは何でしょう。人間関係でしょうか。趣味でしょうか。仕事でしょうか。恋人でしょうか。それらは決して悪いものではありません。しかしどうでしょう。悪いものではありませんが、それらのものをあまりに抱え込んでしまっては、到底走ることはできません。例えばです。マラソンの最中に雨が降るかもしれないからと言って、リュックの中に傘や雨合羽を入れて、途中でお腹がすくといけないからお弁当も入れて、万が一けがをした時のために救急箱を抱えて、汗をかくから着替えも2、3着は用意して、そんな調子で大量の荷物を抱えて、じゃあマラソンを走りきることができるのかと言うと、それはやはり無理なのです。
 私たちは本当に必要なものだけにすべきです。それ以外は手放す勇気が必要です。では、本当に必要なものとは何でしょう。それは「イエスから目を離さない」ということです。イエス様は信仰の創始者であり完成者です。ですから、イエスから目を離さないとは、ゴールから目を離さないという意味です。ゴールが見えるということは、私たちにとって大きな励ましです。しかし、同時に、イエス様を見るということは、遠いゴールで待っているイエス様を見るということではなくて、今まさに私とともにいてくださるイエス様を見るということでもあるのです。
 先ほど賛美しました「Footprints」はまさに信仰生活の実際を歌ったものです。またイザヤ43:2には「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」ともあります。私たちが神の存在を見失うような試練の時、実は神が最も身近にいてくださる時でもあるのです。私たちは試練の時、何が苦しいのでしょう。それは神にも見放されたと思う孤独ではないでしょうか。しかし、それは正しくありません。神はあなたとともにいるのです。私たちは荒れた海を見て、不安になって、イエス様が共にいるという肝心なことを忘れてしまいます。もう一度イエス様に目を向けましょう。それは「あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」