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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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160619 ローマ10:16-17 「人は育てられたように育てる」(狭山ひかり幼稚園理事長)

ローマ10:16-17 「人は育てられたように育てる」 東喜代雄兄

160612 ヨハネ6:22-40 「いのちのパン」

ヨハネ6:22-40 「いのちのパン」

 「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して乾くことがありません。」とイエス様はおっしゃいました。この背景には、イエス様を間違って理解していた人々の存在があります。5千人給食の出来事を経験して、人々はイエス様に着いていけば食べさせくれると期待して追い回すのです。けれどそれはイエス様の意図するところではありません。イエス様はもっと根本的な問題を指摘しています。
 それは私たちの存在の欠けについてです。それは人生の空しさと言い換えてもいいかもしれません。私たちは人生のふとした瞬間に、生きることへの空しさを覚える者なのです。私たちは精一杯生きています。精一杯仕事をし、精一杯家族に尽くし、精一杯勉強をし、精一杯奉仕しています。誰かの役に立って、誰かから感謝されて、私たちは自分が必要とされている。自分はここにいてもいい存在なんだと知れるからです。けれど、実際は、どれだけ精一杯に頑張っても満たされない思いがあります。わかってくれない。認めてもらえない。そうすると、私たちは自分の存在が急にちっぽけなものに見えてくるのです。自分は誰からも必要とされていないんじゃないだろうか。自分はいったい何のために生きているのか。
 しかし、それも当然なのです。なぜならこの心の隙間は、本来、創造の神との関係の中で埋まっていたものだからです。私たちは神によって意味ある者、目的ある者として造られました。神と共にある時、私たちはそこに生きる意味を持っていました。ところが、私たちは神から離れてしまった。そしてそれと同時に、本来の存在する意義を失ってしまったのです。だから人は自分が何のために生きているのかわからない。永遠の神を失った欠けは、永遠の神によってでなければ決して埋まることはありません。だからイエス様なのです。イエス様は私たちの贖いとなってくださいました。私たちはイエス様という代価を支払うことで、神に再び立ち返ることが許されます。だからイエス様は私たちの生きるために欠かすことのできないいのちのパンなのです。
 生きる意味がわからないと嘆いていた私たちは、イエス様の尊い犠牲のゆえに、今を生きる意味を取り戻しました。私がここにいる意味を見いだすようになりました。パウロは言います。「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマ14:7-8)私たちは主のために。これこそが私たちの存在する意味なのです。

160605 へブル12:4-13 「父の懲らしめ」

へブル12:4-13 「父の懲らしめ」

 聖書は子育てについて、次のように言っています。箴言13:24「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。」我が子を溺愛して何でも言いなりになる親がおりますが、子どもが間違ったことをしても見て見ぬ振りをするならば、それは本当の意味で子を愛していることにはなりません。懲らしめることは、事の善悪を教えることです。善悪を知らぬ者は簡単に悪事を犯しますが、それは知らなかったではすみません。例えば、母国では大丈夫だったからと言って、日本で拳銃を所持していれば、それは銃刀法違反。知っていようがいまいが捕まってしまうのは当然のことです。知らないことは罪です。ですから、親は子に厳しくむちを与えなければなりません。正しい善悪の基準を教えなければならないのです。
 今日の箇所で著者は「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」と指摘しています。罪とは自我のことです。自我と戦って、抵抗したことがない。という意味です。へブル人への手紙はユダヤ教に引き戻そうとする人々の迫害に遭い、心揺れ動いている、そんなクリスチャンに宛てられた手紙です。彼らは目の前の困難のゆえに、イエス・キリストの贖いに自信を失い、信仰を捨てようか、はたまた妥協して過ごそうかと思い悩んでいる人々。そんな彼らに、自分自身の弱さと向き合って、戦いなさい。抵抗しなさい。と勧めているのです。
 神を信じ、キリストの贖いのゆえに、神の子とされた私たちは、もはや自分の願い通りに生きるのではなく、父なる神のみこころに生きることが求められています。けれど、それはやはり私たちにとっては苦痛です。面倒です。私たちはやはり自分の願うとおりに、好きなように自由に生きたいと思うのです。ですから少々のためらいや後ろめたさを感じながらも、これくらいは仕方ないよねと、簡単に罪に妥協してしまうのです。聖書の言葉は、時として、私たちの心を射抜きます。私たちの弱さや妥協、保身の思いを貫いて、私たちに仕えること、捨て去ることを求めます。ですから信仰を持って生きることは、この世にあっては、ある種の不自由さを感じることのように思えます。
 けれどです。聖書は、これを「主の愛する者への懲らしめ」だと言うのです。地上における信仰の歩みの実践は、将来に向けての大切な訓練だと言うのです。今だけを見れば、それは不自由に映るでしょう。けれど、もっと長い視点で今を見るとき、この懲らしめが私たちを救うのです。父親の懲らしめは子にとっては不自由なものです。けれど、それがあるから、私たちは道を間違えないで済みます。より大きな過ちを避けることができます。箴言5:22「彼は懲らしめがないために死に、その愚かさが大きいためにあやまちを犯す。」とある通りです。
 私たちにとって信仰生活は不自由なものでしょうか。神のことばは面倒でしょうか。しかし、そこに留まることが私たちの平和なのです。小さな子どもは親の目がある中では自由に振る舞います。ところが、親の目が見えなくなると途端に不安になって、思うことができなくなります。子どもは親の懲らしめが、自分たちを守るものであることを本能的に知っているのです。私たちは神の目の中で過ごさなければなりません。私たちが罪と戦って、血を流すまで抵抗するためには、神の見守りの中に身を置かなければなりません。神が見守ってくださっている。だから、私たちは罪と向き合うことができるのです。そこに踏みとどまることができるのです。子を懲らしめるのは親の愛です。父なる神は私たちを心から愛し、懲らしめ、見守っていてくださるのです。

160529 ヨハネ6:16-21 「主とともにある平安」

ヨハネ6:16-21 「主とともにある平安」

 ガリラヤ湖は突風や嵐で有名な湖でした。ヘルモン山などの広大な高原から峡谷を通って下りてきた冷たい空気が、湖面からの暖かい空気とぶつかって、しばしば突風や嵐を引き起こすのだそうです。ですから、ガリラヤ湖の漁師たちは、このガリラヤ湖の難しい天候を読みまして、漁をしていたわけです。当然、このようなお天気事情は、弟子たちのよく知るところでした。何せ、弟子の何人かは、元々このガリラヤ湖の漁師でした。ですから、イエス様が彼らに、向こう岸に漕ぎ出すようにと命じられたとき、彼らはその雲の流れや風の向き、これから先の天候を読みまして、一抹の不安があったと思うのです。ではなぜ彼らは湖に漕ぎ出すのでしょう。もちろん、イエス様がお命じになられたからです。たとえ危険を冒してでも、イエス様のおっしゃるとおりにしよう。従おう。と彼らは考えたのです。それは彼らの信仰の決断でした。たった今、5千人給食の奇跡を目の当たりにした彼らは、この方が人知を超えた方であることに興奮したのです。
 ところが、そんな信仰に燃えて、意気揚々と出て行ったにもかかわらず、彼らは嵐に遭遇するのです。これは驚くべきことではないでしょうか。イエス様が命令に従ったのだから、当然、安全であるべきと私たちは思います。ところが、実際にはたとえ信仰による決断だとしても、嵐が起こるのです。私たちはどこかこんな風に思うことはないでしょうか。何かを決断する時、「これは自分の願いではなくて、信仰による決断なのだから、上手くいかないはずはない。」とです。そして、自分の思うような結果が訪れるとき、話が違うじゃないかと神に恨み言を言うのです。特に、自分の損得を犠牲にして決断した時は尚更です。弟子たちもそうでした。信仰によって従ったのです。そして、その結果、嵐に遭遇した。ですから、今日の箇所は、信仰によって従うとき、私たちは嵐に遭わないですよ、と教えているのではありません。嵐に遭うその時に、どのように対処すべきか。どうあるべきか。を教えているのです。
 必死になって漕ぎ続ける彼らのもとに、イエス様が湖の上を歩いて近付いてこられます。すると彼らはその姿を見て恐れるのです。マルコでは、弟子たちがイエス様のことを幽霊だと思って恐れたことが記されています。辺りは月明かりのみ。相変わらず強風が吹き、波が荒れ狂っています。そんな中、人が音も無く湖の上を歩いている。普通に考えると恐いですね。思わず幽霊だと叫んでも仕方がない場面です。
 しかし、そうではないのです。確かに暗い中です。嵐が吹き荒れています。疲れ切っています。舟は上下左右に揺れ動いて、じっと直視することなど適いません。けれど、問題はそこじゃない。彼らがイエス様を見て、幽霊だと思ったその一番の問題は、彼らの中に、イエス様がこんなところにいるはずがない。という決めつけがあったことです。こんな嵐の中、湖の真ん中に、イエス様が来るはずがない。来れるはずがない。だから彼らはイエス様を見て、尚、イエス様だと気付かない。幽霊だと恐れたのです。そして、だからこそイエス様は彼らに言うのです。「わたしだ。恐れることはない。」
 今日の箇所は、私たちが嵐の中でこそ、その信仰が試されるということを教えています。そしてもう一つ、主イエスはどのような嵐の中も確かに歩み寄ってくださる方であることを知るのです。私たちが置かれている状況がたとえどのような嵐であろうとも、それはイエス様にとって何の障害にもなりません。むしろ私たちは試練の中で主イエスの恵みに触れるのです。試練の中でしか気付くことのなかった主イエスの平安を得るのです。