ヨハネ6:66-71 「ユダにはなるまじ」
イエス様の言葉に失望した多くの弟子たちは、イエス様の側を去っていきました。残った弟子たちにイエス様は言います。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」イエス様は意気消沈しておられるのでしょうか。いえ、イエス様は12弟子の覚悟を問うておられるのです。
あの素晴らしい五千人給食の出来事があって、行く先々に人々が押しかけてきました。以前からイエス様に付き従う弟子たちにとって、それは輝かしい成功の場面です。ところがその興奮に酔いしれる彼らの目の前で、今度は多くの弟子たちが去っていく。この場面、意気消沈していたのは他でもない12弟子たちでした。
イエス様の言葉を受けて、ペテロが答えます。と言いますか、イエス様が語られるまで、ペテロですら口が開けなかったのです。沈黙を破ったのがイエス様で良かった。イエス様の落ち着いたいつもと変わらないその声を聞いて、ペテロははっと我に返って答えます。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」こんな時のペテロの愚直さにはきっと他の弟子たちも救われたことでしょう。彼らは今一度、正気を取り戻し、イエス様に付いて行く決心をする。他の弟子たちが去っていった今だからこそ、覚悟を決めて従う。そういう場面なわけです。
ところが、決意新たな弟子たちに向かって、イエス様はこの中に悪魔がいるということを指摘するのです。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかし、そのうちのひとりは悪魔です。」ヨハネはこの福音書を記すときに、説明書きを加えます。「イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた。」もちろん、この時点で、ユダがイエス様を裏切るとは誰も知り得ません。それは当の本人もそうでしょう。なぜなら、イエス様がわかるようにはおっしゃらなかったからです。たとえば、この時点でユダが裏切りの計画を企てていて、それで「そのうちのひとりは悪魔です。」と言われたのなら、それはユダに対しての警告と言えるでしょう。けれど、この時のユダはイエス様の側に残った忠実な一人です。なぜイエス様はこのような言い方をされるのでしょう。
つまり、ここでのイエス様の指摘というのは、誰か一人を吊るしあげて排除しようということではなくて、そういう危険を知って弟子たち皆に十分に誘惑に備えるように、ということではないでしょうか。事実、この後も、イエス様はユダを排除することはいたしません。ユダは一行の財布を預かっておりました。能力的なことだけ考えれば、元取税人であるマタイなどは相応しいように思えます。しかし、ユダが選ばれた。お金の管理を間違えれば、一行の働きは頓挫するのにです。つまり、それだけ彼を信頼しているからです。そして彼もまたそれに応えた青年だったのでしょう。
ですから私たちは「そのうちのひとりは悪魔です。」と聞いて、私はどうだろうか。と自らに問い続ける姿勢が大事です。ユダの話ではないのです。私たちに語られている話。たとえ、イエス様を信じて弟子となろうとも、ことあるごとに自らの信仰を吟味することが大事だと言っているのです。ユダは裏切った。というよりは、ユダほどの者であろうと、悪魔の誘惑に負けたのです。であるならば、私はどうかと、ことある毎に吟味をするのは当然のことではないでしょうか。
軽率な判断をしないように気をつけましょう。そして立ち止まる勇気を持ちましょう。目の前のことだけに囚われてしまわないように、もっと大きな視点で、神のみこころを探し求める者でありたいと思います。そして、私たちの弱さや愚かさに、尚も、信頼し憐れんでくださる主イエスを感じて、過ごしたいと思います。

ヨハネ6:60-66 「信じる者、信じない者」
五千人給食を経験し、パンを求めてやって来た人々や、それを批判するユダヤ教指導者たち。イエス様と彼らとのやりとりをつぶさに見ながら、弟子たちの多くの者たちが「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」とつぶやきました。無理からぬことです。彼らはまだ十字架と復活、最後の晩餐すらも経験していません。彼らにイエス様がおっしゃるところは理解できません。
しかし、どうでしょう。理解できないから信じられないのでしょうか。では理解できれば全てが信じられるのでしょうか。たとえ、全てを説明されたとしても信じない人は信じないし、何もわからなくても信じる人は信じる。そういうものではないでしょうか。
サッカーでも野球でもそうですが、始めたばかりの初心者の時は、先輩たちがとにかく上手くて、必死に追いつこうと頑張ります。ところが、ある程度経験を積みますと、今度は自分と先輩たちとの距離がはっきりとわかるようになって、愕然としたりするのです。これは神様との関係でも言えることです。私たちは神を知るほどに、神を知り得ないことを知る。ですから私たちは理解したから信じるのではなくて、まず信じたのです。どうでもいいと、捨てたのではありません。神を理解する行程は生涯続きます。けれど、私たちは、理解するしないを飛び越えて、信じるという決断をした者ではないでしょうか。
ところが、弟子たちの多くが、イエス様の言葉を「ひどいことばだ」と言って吐き捨てたのです。いったい何が酷いのでしょうか。それは彼らの期待に応えないイエス様の言葉だったからです。「ひどい」という言葉はもともと「固い」という意味です。融通が効かない言葉。思い通りにならない言葉。それは彼らにとって何の魅力もない、響かない言葉でした。彼らは今、イエス様に失望したのです。彼らにはイエス様への一方的な期待があったのです。言って欲しい言葉があった。それが実際は違っていた。だから彼らはつまずいたのです。
では、イエス様が天に上られるのを見たとしたら、彼らは信じるのでしょうか。それは決定的な神の御子である証明です。もはや疑いようのない事実。けれど、今自分の聞きたくない言葉を退ける者が、果たして、キリストの血肉をすすり、その命を背負って生きる覚悟が持てるものでしょうか。仮に彼らがイエス様の昇天を目撃し、イエス様が神の御子であることを知ったとしても、だからそれが即ち信仰と結び付くかと言いますと、決してそうはならないと思うのです。なぜなら、彼らは自分の願うところのイエス様を求めているからです。彼らは彼らの理想をイエス様に見たいのです。ですから、もしその理想から外れるイエス様であれば、たとえ、いかほどの奇跡を見ようとも彼らはそれを認めない。信じない。これって、信仰と呼べるのでしょうか。ですから、彼らは弟子とは言いつつも、実際のところは、イエス様をこれっぽっちも信じていなかったのです。
いま目の前にいるイエス様、そしてイエス様が語る救い主としてのご自身の働き。それらを無視して、自分の中にある理想をイエス様に要求する。これはもはや罪です。私が神を選びとった。私が神を選択した。もし私たちがそのように考えているとしたらそれは要注意です。私が選んだのなら、手放すのも私です。もし信仰に、そのような逃げ道を用意しているとしたら、私たちの信仰はその曖昧さに足をすくわれることになるでしょう。そうではなくて神が選んでくださったというところに私たちは立ち続けましょう。

ヨハネ6:52-59 「まことの食物、まことの飲み物」
二世紀から三世紀、まだローマでキリスト教が国教とはなっていなかった時代、キリスト教の儀式や教えへの誤解からある噂が広まっておりました。キリスト教徒はどうやら人肉を食べ、生き血をすすっているらしい。というものです。ピンと来られた方もおられるでしょう。そうです。聖餐式です。聖餐式は秘められたこととして行われましたから、人々は、彼らが自分たちの一室で、血生臭い、おぞましい儀式をしていると噂したのです。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」とイエス様は言われます。この言葉を素直に聞けば、確かにキリスト者は人肉を食べていると思われてもおかしくありません。事実、これは次週の箇所になるわけですが、弟子たちの中ですら「これはひどいことばだ。そんなことを誰が聞いておられようか。」と言って離れ去った者たちが大勢いたというのです。もちろん、私たちは聖餐式においてイエス様の肉を食べて、その血を飲んでいるわけではありません。私たちが食するのはパンであり、ぶどう液です。けれど、その意味するところは、人の子の肉を食べ、その血を飲むということに他ならない。と、このようにイエス様はおっしゃっておられるわけです。
1972年10月13日。ウルグアイのラグビーチームのメンバーとその友人や家族が乗った飛行機がアンデス山脈で墜落事故を起こしました。機体は前後に真っ二つとなり、雪に埋もれ、多くの死者を出しました。生き残った者も極寒の中ろくな食事も備えもなく、雪水とたった数枚のチョコレートで飢えを凌ぐ程でした。しかしそれもすぐ底をつきます。彼らは究極の決断を迫られました。生きるために、死体の肉を食べるという決断です。生きるためと言っても、それは彼らのチームメイトであったり、家族であったりです。壮絶な葛藤があったことでしょう。けれど、彼らは、それを食べて生きることを選び取るのです。彼らはその時、誓いを立てます。「もし自分が先に死んだら、必ず自分の死体を食べてくれ。」やがて彼らの中から3人が選ばれ、救助を求めるために下山します。そして事故から72日目、最終的に16名の生存者が救出されたのです。
この彼らの決断の重さが、実は私たちの聖餐に繋がるものではないかと思うのです。他者のいのちを食べることで、私たちは生きる。これを覚えるのが聖餐式です。私たちは聖餐の折、パンとぶどう酒をいただきます。そして、これがキリストの肉と血の象徴だと聞かされます。それはつまり十字架による贖いとそれによって成る新しい契約であると理解しています。けれど、いかがでしょう。私たちはそれをあまりにも恵みとして当たり前にしてしまって、そこにある犠牲の大きさやそれを食べることの決断の重さを、ついつい忘れてはいないかと思わされるのです。他人に生かされるということは、他人の分まで生きるということです。誰かの犠牲の上に生きるということは、その人の命を背負って生きるということです。もっとも親しい友人の犠牲の上に、私たちは生きていくのです。果たして、私たちにその覚悟がありますでしょうか。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

へブル12:14-17 「聖さを追い求めて」
「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。」とあります。平和と聖められることが平行して勧められています。平和というのは争い事から離れた状態のことです。そして聖という言葉はもともと分離するという意味です。それは悪から離れて、神との関係を持つ。これが聖です。ですから、この御言葉は、世に対して、神に対して、あらゆる悪から離れて生きなさいという意味です。
しかしです。悪から離れて生きるとは簡単なようで難しいものです。私たちは少々濁りがあったほうが住みやすいと感じることはないでしょうか。余りにもきれいな部屋に招かれますと、落ち着かないと言いましょうか。多少のことまで全て指摘されますと、息が詰まると言いましょうか。完全な悪はもちろん望みません。けれど、完全な聖は自分自身の居場所を失います。それはどこかで自分が罪と折り合いをつけながら、過ごしているということを自覚しているからです。
私たちの見えない部分、根の部分に苦さがあるのです。私たちの隠れたところに罪との妥協があるならば、いくら表面を装ってもそれは聖化とはなりません。霊と肉は連動しています。神の前に後ろめたさを持つ者は、現実にも濁った水を求めるものなのです。私たちが神を恐ろしく思う。いつまでたっても平安が得られない。不安がつきまとう。それは、私たちの根が苦いままであるからです。見えないところを明け渡していないからです。表面的にはクリスチャンを装っても、深いところで、この世の価値観を手放せないでいるからです。
聖化の問題は、根を完全に断ち切らなければなりません。根が残っていれば、どれだけ草を刈ってもすぐにまた生えてきます。大事なのは根こそぎにするということです。神に完全に明け渡すということです。しかし、このことは一朝一夕にできることではありません。聖化は一瞬にしてなる現象ではありません。それは聖なる者と変えられていく過程です。私たちは聖められることを願います。けれど、願うほどにそれとはかけ離れた自分を発見します。そして悩みます。苦しみます。しかし、これこそが実は聖化の歩みなのです。
愛すれば愛するほど、自身の愛の足りなさを知る。これは真理です。なぜなら愛は神のうちにあるからです。神を見るほどに、私たちの愛がいかに脆いものか、幼いものかを知る。己が神ならぬ者であることを知るのです。そして、神無くしては今日を悔いなく歩めない者であることも。実は聖化の歩みとは、山の頂上を目指して駆け上がっていくものではありません。むしろ谷底を知る。遜っていくものなのです。ですから聖化の歩みとは自我を捨てる過程と言いかえても良いかもしれません。己を捨てた後、そこには何が残るのでしょうか。そこには聖霊がおられます。私たちの内に住まわれる聖霊は、私たちの自我を取り去って、私たちの心と思いを神の恵みへと向けさせるのです。

ヨハネ6:41-51 「信じる者は永遠のいのちを持つ」
イエス様は言われます。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。」信じる者は永遠のいのちを持つ。これが信仰に対する報酬です。主を信じることによって得られる約束です。それは永遠のいのちだと言うのです。
私たちの希望と言いましょうか、願いと言いますのは、もっと現実的です。先の希望よりも、今日の糧です。それこそ今日のおかずは何にしようかという疑問に対する答えです。日々起きる問題の具体的な解決こそが私たちの願いなのです。ですからせいぜい、信じれば幸せになれる。毎日の食べるに困らなくなる。健康で過ごせる。そういうことを願います。けれども、私たちにはもっと根本的な問題があるのです。それは死の問題です。いえ、死の先の問題と言ったほうが正しいかもしれません。イエス様はこのことについて問題にしているのです。マタイ16:26には「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」とありますが、これこそがイエス様の取り扱われる問題です。死が問題であるということは実は誰もが知っています。人は生まれた瞬間から死に向かって生きています。それは誰も逃れることができません。どれだけ悩んでも、ジタバタしても必ずやってくる死。ですから、私たちはわかってはいるけど、あきらめてもいる。考えるだけ気が滅入るので、考えないようにしている。けれど、聖書はその死の先に永遠があると言うのです。もしも死が全ての終わりであるなら、私たちの今は空しいものです。けれど死の先がある。人生の本番のステージはむしろそっちだと言う。だから、私たちは今このイエス様の言葉に聞かなければならないのです。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。」私たちがわかるかどうかを問うてはおりません。私たちがどれほど聖書に通じているかが決め手となるのではありません。それらはかえって信仰の邪魔をするかもしれない。そうではなくて、神の導きに身を委ねるのです。「互いにつぶやくのはやめなさい。わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」とイエス様は言われました。父が引き寄せられないかぎり、です。信仰というものはもちろん私の決断です。告白です。けれど、それは神の導きなくしては、決してありえません。「聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」(Ⅰコリント12:7)とある通りです。神は永遠のいのちに招いておられるのです。ですから私たちはこれにあがらってはいけません。
私たちはどうでしょう。聖霊の迫りを受けて、主イエスの愛に触れながら、尚、理性を働かせては、そんな甘い話はないと踏みとどまってはいないでしょうか。私なんかが神の救いに与るなんてとんでもないと辞退してはいないでしょうか。しかし、そのような葛藤を覚えることこそ、聖霊が働かれている証です。かつては私の内に救いがあると、私の人生は私のものだ、と、そのように我が物顔に生きていた私たちが、今もし、己のうちの不信仰に戸惑うとするなら、それは聖霊が触れておられるからです。聖霊に委ねれば良いのです。聖霊が私たちを良きに導かないはずがありません。主を信じる決意をする者に、神は永遠のいのちを用意しておられる。これが主イエスの語るところです。
