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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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160821 マルコ5:1-20 「湖の向こう岸」

マルコ5:1-20 「湖の向こう岸」

 嵐の夜、命の危険にさらされながらガリラヤ湖を渡ったイエス様一行は、一人の男の出迎えを受けます。それは見るからに怪しい男でした。彼はところ構わず暴れだし、それは鎖や足かせを持ってしても押さえ付けることができないほどでした。また夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけておりました。
 それは全て悪霊の仕業でした。ここで悪霊はレギオンと名乗っています。レギオンとはラテン語で、4千人から6千人の兵士によって構成される一軍団を指す言葉です。何千という悪霊の大群が、この一人の男に捕り憑いて心身を隅から隅まで縛り付けていました。つまり、彼が犯罪を犯したとか、誰かを殺めたとか、そういった理由で鎖に付けられ、墓場に追いやられたのではなかったのです。悪霊が突然に彼に捕り憑き、それゆえこのような身になってしまった。自分自身を制御できない苦しみの中で、彼はどこにもぶつけ様のない理不尽な怒りと、誰にも理解されない孤独な悲しみに押しつぶされそうになりながら、必死にその日その日を暮らしていたのです。
 悪霊というのは、私たちに働きかけ、内なる思いを否定的に、また破壊的に向けさせるのです。また欲望に走らせ、罪の虜にします。私たちは悪霊の力を決して馬鹿にすることはできません。しかし私たちが覚えるべきは、悪霊の力ではありません。そのように強力な影響力を持つ悪霊どもも、イエス様の権威の前では、ただひれ伏すだけの存在に他ならないと言うことです。私たちは必要以上に悪霊の存在を恐れる事はないのです。
 イエス様は悪霊どもを追い出すときに、豚に乗り移ることを許されました。このことのゆえにおよそ2000頭の豚が湖になだれ落ちて溺れてしまいました。2000頭もの豚の資産がいったいどれほどになるのかは見当もつきません。ですからイエス様のこの行為は、大事件でした。イエス様はこの豚を飼う人々に大きな犠牲を負わせたのです。現に、この一件のおかげで、イエス様たちは人々の敵意を買い、これ以上この地にとどまることができなくなりました。イエス様にはこうなることがわからなかったのでしょうか。イエス様は経済観念の無い、常識外れな人だったのでしょうか。それともユダヤ社会では汚れた動物とされる豚なので、どうなろうとも構わないと思ったのでしょうか。
 そうではありません。このことは、イエス様が一人の人を救うために、どのような犠牲をも厭わない方であるということを意味しているのです。
 人々はこの一件で、イエス様を町に入れようとはしませんでした。厄介者だと思われた。「向こう岸に渡ろう」と言って、激しい突風の中を超えてきたイエス様一行が、ようやく着いたこのゲラサの地での働きは、実は町に入ることなく終わったのです。町はずれの墓場だけ。イエス様はまた対岸へと帰る羽目になりました。では、イエス様の伝道は失敗したのでしょうか。いえ、そうではありません。湖の向こう岸には一人の救いを必要とする男がおりました。イエス様はこの一人の男のために湖を渡って来られた。たとえ嵐に遭おうと、たとえ多くの犠牲を払おうと、たとえそのことで自分が責められようと、イエス様は一人の魂が救われることを望まれたのです。
 イエス様のこの地で為した救いはたった一人でした。あれだけ激しい嵐の中を漕ぎ出して、ようやく着いた町では、その中に入ることすらできず、帰らざるを得ませんでした。それは救い主の働きとしては、それは大変実り少ない、失敗のようでありました。しかし、そうではありません。イエス様は一人の救いを決して小さく見てはおられない。なぜなら、一人の救いの向こうには、大勢の魂がいるからです。主の福音は一人の救いを通して広まるからです。

160803 へブル12:18-29 「揺り動かされない御国」

へブル12:18-29 「揺り動かされない御国」

 18節から21節はシナイ山で十戒が与えられる時、つまり神との初めの契約が結ばれる時の様子が記されています。22節から24節には新しい契約によってもたらされる景色がここには記されています。ですから、ここには2つの契約によって見える景色がしるされているわけです。その上でへブル書は警告を与えます。「語っておられる方を拒まないように注意しなさい。」「・・・まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。」大事なのは、私たちはすでに聞いている。新しい契約の中に入れられている者だと言うことです。すでに古い契約に遥かに勝る新しい契約が結ばれたのです。
 26節から27節で、全てが振るいにかけられるその時が来るとヘブル書は記します。それは以前のものとは比較にならない徹底したものです。けれど、私たちはもはや新しい契約の中にいる。ですからその時は私たちにとって単なる恐怖ではなく、希望の時となるのです。律法によっては罪の意識が明らかになります。けれど、十字架は罪の清算をもたらしました。ですから律法は神への服従を要求しますが、十字架は神への感謝をもたらすのです。
 イエス様の十字架の贖いのゆえに、私たちは来るべき審判を免れている。私たちはもっともっとこのことに目を留め、感謝すべきではないでしょうか。時に、私たちは日々の出来事で頭がいっぱいです。遠い未来のことよりも、今晩のおかずの方が心配です。知り合いの何気ない一言に傷付き、明日の準備に追われる毎日です。目まぐるしく移り変わる毎日に、ため息ばかりが口に出る私たちです。しかし、だからこそ、私たちは天の御国に心を向けるべきではないでしょうか。そこには変わらない、揺らぐことのない希望があるからです。もちろん日常を疎かにせよということではありません。しかし、そこだけを見ていては、もっと大事なものを見失ってしまうことがあります。神さまのご計画の全てを、私たちは知ることはできませんから、その時、その時は「なぜ?」と思うことの方が多いです。そんな時、そこだけを切り取って見ていても、私たちに平安はありません。もっと高い視点が大事です。日常に振り回されない、確かな恵みに目を留めるべきです。
 長距離を車で移動していますと、子どもたちが言います。何で太陽は僕達に付いて来るの?どれだけ走っても動かない太陽に、子どもたちは不思議がります。あれは太陽があまりに高いところにあるので、動いていないように見えるんですね。天の御国の希望も同じようです。どこに行ってもその希望は変わらずに注がれている。それは天高くある希望だからです。それは決して揺らぐことのない希望です。どんな状況にあろうとも変わることのない光です。目の前のことに一喜一憂する私たちだからこそ、変わることのない希望に目を向けるべきです。感謝するべきなのです。

160731 ヨナ2:1-9 「主の御手の中で」

ヨナ2:1-9 「主の御手の中で」

 本日は祈ってまいりました洗礼式です。先ほど、兄のお証しをお聞きしました。若い頃から神様の取り扱いがありながら、しかし、それに抗うかのように、様々な文学や哲学、宗教に傾倒した年月を過ごされた兄でありました。それはまるで、神様の召しから必死に逃れようとするヨナのようです。神様の偉大さを知りつつも、それに従うことの何とも言えぬ恐れ。それは十字架を背負うことの重さを無意識に感じ取ったのかもしれませんし、退路を断たれることの不安だったのかもしれません。そうではなくて、もっと気楽で美しい世界が他にあるのではないか。と自力で探し求めた半生であったことでした。
 しかし御存知の通り、ヨナは神様によって引き戻されますし、兄も神様によって連れ戻されるのです。私たちの計画や企てというのは、神様の前では何の役にも立ちません。神様から逃げおおせる者は誰もおりません。ヨナは大きな魚に飲み込まれ、尚、その腹の中で生かされて、何を感じたでしょうか。社会や人間関係や、あらゆる常識といったものから引き離されて、ヨナは自分自身と向き合わされるのです。
 ヨナはヨアシュの時代に北イスラエル王国の領土回復を宣言した預言者です。それは人々が聞きたかったことば。それゆえ、彼は人々から大変尊敬されておりました。その彼が敵国アッシリアの滅びを宣言するように命じられたのです。彼としては何も知らないままにアッシリアが滅べばいい。下手に滅びを宣言すれば、彼らが悔い改めるかもしれないからです。もしも、そのようなことになれば、それは今までの彼の生き方を、全てを否定するようなものです。彼は国民のために預言してきたのです。
 その結果、彼はどうしたか。彼は逃げ出し、しかし神からは逃げられないことを悟ると、嵐の中で命を放棄するのです。自分の所為で嵐が起きている。そして、それゆえに他の者達まで巻き沿いにしている。この現実に、彼は神に逆らう自らの罪を悔いるのではなく、人生そのものを諦める。投げ出すのです。
 そして、そんな彼が今魚の腹の中で生かされる。それは神様の特別の取り扱い。死ぬだけの身をもう一度拾い上げようとする神様の憐れみです。そして、この神様の取り扱いの中で、彼は今一度、神様と向き合わされていくのです。そこには自分自身のちっぽけさがありました。思い上がりや、傲慢がありました。しかし、それ以上に、こんな自分に尚も目を留めてくださる神の憐みがありました。皆さん、全てを失っても最後に残るものが本物です。彼に残ったのは、人々の称賛でも、期待でも、プレッシャーでもなく、ただ神の憐みでした。彼は祈ります。「もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。」もはや彼は預言者であることすらも求めません。それは「もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」と言う放蕩息子の告白と同じです。すると、ヨナは魚から吐き出され、今一度、神の預言者として用いられるのです。
 兄をもう一度神のみもとへと引き戻したきっかけは、とても痛みを伴う経験でした。けれど、兄はそこで再び神と出会った。全てを取られて、尚そこには神の憐れみが残っていたのです。私たちはいかがでしょう。様々なものが手に余って、最後に残るそのものが見えなくなっているかもしれません。神の憐れみは、確かに私たちに向けられています。あなたの取り巻く環境の一切、しがらみや関係、実績、を取り払われた世界。あなたの状況、あなたのこれまでの歩み、考え、思い、一切を知った上で、私はあなたに問いたい。それら一切を全て取り去って、今、あなたはわたしに従うか。そういう問いかけがここにはあるのです。