ヨハネ7:37-53 「直接聞き、知った上で、判決を」
イエス様の言葉に対して様々な反応がありました。けれど同じイエス様の言葉への反応ですけれども、祭司長・パリサイ人たちと、その他の人々の反応は全く違います。群衆たちはイエス様を預言者と言い、またキリストと言い、そしてある人はそうではない。と評価しました。役人は「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」と言って、イエス様を捕らえずに帰ってきました。肯定的、否定的、様々な反応がありました。けれど、共通しているのは、彼らはイエス様の言葉を直接聞き、自らの考えで判断しているということです。この反応の仕方は正しいのです。律法は、「まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知った上でなければ、判決を下さない」であります。
けれども、祭司長やパリサイ人はどうでしょう。7:32「パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして、役人たちを遣わした。」彼らはイエス様に直接聞くことなしに批判しているのです。彼らは群衆たちの噂を聞いて、群衆たちへの影響力を見て、批判しています。実は彼らにとっては、イエス様が実際にどういう人物かはそれほど重要ではありません。全ては自分たちの地位を脅かされるかどうかだけが気がかりだったのです。彼らはイエス様がガリラヤから来たから救い主ではないと決めつけます。けれど、ご承知の通り、イエス様が生まれたのはユダヤのベツレヘムでした。これは本人に問いただせばすぐにわかることです。けれど、彼らはそうはしません。噂を聞いて、確かめもせずに、憤っている。もともとが他人から聞いたあやふやな情報の上に、自分たちの都合を重ね合わせたのが、彼らの一方的な理解です。否定的な意見だから問題なのではありません。確かめもせず、一方的に決めつけて裁く。ここに問題があるのです。
私たちの信仰について、世の人々の反応はまさしくこのようなものではないでしょうか。間接的に聞き、噂話を聞き、もうその時点で決定的な判断をする。私には関係がない。私には必要がない。あれは弱い人たちの心の拠り所だ。そう言って、確かめようともしない。私たちが少しでも神の名を出そうものなら、「あぁ、わたし間に合ってますから」。それが本当に、自分の人生に関わりのないものなのか。無意味なものなのか。来て、聞いて、よく知ってから判断すれば良いのにと思います。
しかしこれは、私たちの内にもあるところではないでしょうか。都合よく聞いて、中途半端に知ったつもりで、それ以上何も理解しようとしない。理解しないどころか、誤解したままでしたり顔に相手をねじ伏せる。しかも私たちは、時に神に対してもそのようであることがないでしょうか。聞きたい言葉だけを聞き、都合の良い解釈をして、自分のために利用するのです。ニコデモの言葉が胸に刺さります。「聞いて、よく知って、判決をくだす。」私たちが聞けば、神は語っておられます。私たちが求めるなら、神はそこにおられます。問題は私たちが知ったつもりでいること。知ろうとしないことなのです。エレミヤ29:12-14a「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。」

ヨハネ7:25-36 「お隠れになる主」
2、3度しか教会に来られていない方が「もう私は聖書のことはわかりましたから」と言って来なくなることがあります。何とも悲しい話です。聖書の何をわかったのか、私にはわかりません。しかし私には、結局そういう方は、神の何もわかっていなかったということはわかります。
エルサレムのユダヤ人たちはイエス様を捕えようとしない、生ぬるい議員たちの態度を非難します。彼らは言います。「私たちは知っている」と。「だからこの人が救世主のはずがないでしょ」と。と言いますのも、彼らにとって、救世主っていうのは、もっと謎に満ちていて、神秘的で、どこから来たかなんて誰も知らないような、そういう方なはずだと言う聖書からの理解があったからです。
「私は知っている。」この言葉は、もうそれ以上の思考を停止させる強力な言葉です。私たちは「知っている」と思ったその瞬間から、そのものへの興味や探求心を失ってしまうのです。けれど、本当に知っているのでしょうか。それは知っているつもりなだけではないのか。上辺だけを見てはいないか。実は今日の箇所だけでなく、この7章全体が「私は知っている」という人々に対して、本当にそうなんですか。と問いただすイエス様がおられるのです。
イエス様は言われます。「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」カルヴァンは、このイエス様の言葉にはある種の怒りが込められていると言います。では、イエス様がここで怒っておられるのは何でしょう。ご自身を取り巻く状況に憤っておられるのでしょうか。そうじゃないですね。「あなたがたは、その方を知らないのです。」彼らがわたしを遣わされた方を知らない。父なる神のみこころを知らない。このことに怒りを覚えておられるのです。いったい、どれだけの覚悟で、父なる神はわたしを遣わされたのか。あなたたちの不誠実な罪を赦すために、神がどれほどの痛みを覚えて、わたしを送り出されたか。わたしが今ここにいるということに、どれほど父の愛が見られることか。あなたたちは何も知らない。知ろうとしない。だから怒っておられるのです。私たちが知らないことにではありません。知らないのに知ろうとしない、知ったかぶりをするその態度にです。
「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」これは一義的には、イエス様の十字架と昇天を意味しています。しかし、もう一つ意味がある。それは、あなた方が今までと同様にメシヤを探しても、それでは見つからないよ。あなたたちがその「私は知っている」という神への態度を変えない限り、あなたたちの前にわたしは隠れたままである。と、こう言われているのです。
神に対して、私は知っている。もう理解した。なんて言葉は誰も言えるはずがありません。私たちが神を知り尽くすことなどできるはずがありません。けれど、今日御言葉に聞けば、新しい神のみこころを知るということです。私たちのまだまだ知れない神のご計画が、私たちを導いております。途中で投げ出すのはもったいなすぎます。「あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。」しかし一方で、イエス様は「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」ともおっしゃられます。もうわかった、なんてとんでもありません。主の恵みと憐みは、むしろこれからです。

ヨハネ7:10-24 「神から出た教え」
「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」この当時の教師たちはと言いますと、それぞれがそれぞれの先生に弟子入りするような形で律法を学びました。彼らは宮で朗読される聖書の日課を、居合わせる人々に解き明かすわけですが、この時、彼らが特に重要視したのは、自分たちの解き明かしの根拠。彼らはいつも「ラビ○○はこのように言っている。」と根拠として先達の教えを数え上げるのです。そうすることで、自分たちの言葉に権威を与えていた。あの偉大なラビもこう言っているんですから、私の解説は正しいんですよ。と、こういう具合です。
ところが、イエス様には師となる先生がいるわけでもないですし、その教えは誰かの受け売りではありません。では、それはイエス様が好き勝手に教えているということなのでしょうか。そうではありません。「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」とあります。イエス様の教えは、確かに当時の人々にとっては斬新です。常識外れです。けれど、それはイエス様が何かオリジナルの教えを作り上げているのではなくて、神から出たもの、聖書の言葉を正しく解説しているに過ぎないのです。
有名な十戒の解釈を巡って、イエス様は教えられました。「殺してはいけない。とあるけれども、心の中で誰かを馬鹿者と呼ぶなら、それは殺しているのと同じですよ。」あれは、イエス様のオリジナルの教えでしょうか。いえ、もともとそういう意味なのです。神の義は私たちの心をも見抜くのです。ですから、それまでも、多くの真の信仰者たちは律法のゆえに苦しんだのです。確かに律法を守って、殺してはいない。十戒を破ってはいない。けれど、それでも神の前には全く胸を張れない自分であることに悩んできたのです。ですから、イエス様の教えは、何もイエス様独自の発案ではありません。そもそもが神のみこころを説いている。だからあなたがたの怒りは、お門違いだ。とこう反論しておられるのです。
教師たちが特に問題にしていたのは、イエス様が安息日に病人を癒したということでした。けれどイエス様は割礼の例を挙げて、彼らの矛盾を指摘します。イスラエルの割礼は男の子が生まれて8日目に行なう神の民としての儀式です。当然のことながら、赤ん坊はいつ生まれるか選べませんから、8日目が安息日に当たる場合もあります。では、その子は割礼を施す日をずらすのか。答えは否です。たとえ安息日であろうと、割礼を優先したのです。神のみこころは、安息日を守ること以上に、命を守ることにある、と理解されていたからです。であるなら、イエス様のなさった癒しはどうでしょうか。イエス様は肉体だけでなく、その心も魂も、いっさいを癒された。このことは神のみこころに適ってはいなかったのでしょうか。
事の本質を見極めるということ。つまり、神のみこころに従うということが大事です。では神のみこころはどのように知るのでしょう。最近は便利なディボーションノートが売られています。そこには御言葉の解き明かしも、考古学的な知識も、私たちの生活への適応までもが載っていて大変便利です。便利過ぎて肝心の聖書すら必要がないくらいです。しかし、こうなると本末転倒ではないでしょうか。ユダヤ人教師たちは○○先生が言っていたからと胸を張ります。しかし、それは○○先生の解釈に過ぎません。注解書やディボーションノート、○○先生の教えはそれがどれだけ素晴らしくても、神の御言葉そのものではありません。それは大いに参考にすべきですが、それで結論付けると、それ以上の思考を停止してしまいます。神のみこころは、やはり神の御言葉に学ぶ必要があるのです。
聖書を読む上で一つ参考になる読み方があります。それは全体から部分を読むという読み方です。聖書の一部だけを取り出しても、それは神のご性質のわずかな部分でしかありません。それだけで神様をわかったようでいることは明らかに間違いです。全体を通して神のご性質を学び、その上で部分を読む。イエス様の解き明かしの姿勢に私たちも習いたいと思います。

マタイ28:18-20 「行って、あらゆる国の人々を弟子とする」
マタイ28章18-20節は、いわゆるイエス様の「大宣教命令」と言われる箇所です。この御言葉により、イエス様の弟子たちは全世界に出てゆきました。そして今に至るまで、キリスト者たちは世界に出てゆきます。この御言葉を通して、私達にとっての「国外宣教」とはどのようなものなのか、2つのポイントにしぼって考えてゆきます。それは、「出て行く」ことと「弟子を作る」ことです。
国外宣教の第一のポイント。それは、「出て行く」ことです。「国の人々」という言葉、元々は「国」「人種」「人」を表す言葉です。よって神様は、私達一人一人に、すべての国に、すべての人種に、すべての人々に「出て行け」と言われます。でも私達は、すべての国、人種、人々の所に行くことはできません。だから、私達は分担して、すべての国に、すべての人種に、すべての人々に「出て行き」ます。神様は、私達一人一人に、出て行くべき場所を示し備えておられます。
国外宣教の第2のポイント。それでは、すべての国の人々の所へ行った後、私達は何をなしてゆくのか?それは、「イエス様の弟子を造る」、ということです。19節と20節前半に4つの弟子たちが行なうべき行動が書かれています。その4つとは「行くこと」「弟子とすること」「バプテスマを授けること」「教えること」です。その文の作りから、弟子たちがなすべきことはまず「行くこと」、そして人々を「弟子とすること」が判ります。そして、「弟子とすること」とは具体的に「バプテスマを授けること」と「教えること」ということです。宣教は「バプテスマを授ける」つまり「伝道」だけでも成長しないし、「教会教育」だけでも成長しません。この2つが上手くかみ合うことにより神の宣教は成長してゆきます。私達はこれからも、「伝道」そして「教育」を国外宣教の基として進めなければなりません。
この世界には、またまだ、イエス様を知らない人々が沢山います。彼らは、真の救い、真の平和を知りません。それらの人々に、この教会は何をすることができるのか?それは、祈ること、そして、宣教師を押し出すことです。ただの人間にすぎない宣教師を教会は押し出し、祈り、支えてください。国外宣教には、皆様の祈り、支えが何よりも必要です。
神様は、まだ見ぬ世界の人々をも愛し、救おうとしておられます。私たち、これからも国外宣教のために祈り、宣教師を送り支えてゆく。そのようないのちの樹教会でありましょう。

ヨハネ7:1-9 「わたしの時」
5千人給食から半年。イエス様はガリラヤを中心に伝道活動をされていました。それはユダヤ教指導者たちがイエス様を殺そうとしていたからでありますが、このことにイエス様の弟たちは不満だったようです。
「あなたがしているわざを見ることができるように」と言いますから、弟たちがイエス様の働きをまるで認めていないというわけではないようです。イエス様はここガリラヤで不思議なわざを数多く行い、人々の噂となっておりました。5千人給食の出来事もありました。それらを否定するつもりは弟たちにありません。兄が何か特別な存在だ。ということについては、彼らも異論はない。けれど兄の活動については、いまいち納得がいかない。そういうニュアンスが読み取れます。人々を救うために家を出ていったと言うのなら、いつまでお兄さんはこんな地方でうろうろしているのか。本気で公に出たいと思っているのなら、中央に出て行くべきだ。エルサレムで名を上げるべきだ。と、こういう弟たちの主張なわけです。そして、時は丁度、仮庵の祭りの時期。これ以上に相応しい時はないんだから、今すぐにでもエルサレムに上っていくべきだ。とこう提案しているわけです。
仮庵の祭りとは、出エジプトの際、約束の地カナンに入ることを待ち望みつつ、仮の庵にて生活をしたことを記念する祭りのことです。またマナを食す仮庵の生活から約束の地で収穫を得るようになったことを祝う祭りでもあります。しかしこの祭りの目的はそれだけではありません。ヒントはこの祭りの最初の日に、ゼカリヤ書14章が聖書日課として朗読されるということ。そしてこれこそ、弟たちがイエス様に仮庵の祭りに上るようにと勧めた理由です。
ゼカリヤ書14章は救い主の到来が預言された箇所です。しかし、ここで記される救い主は、攻め入る諸国を打ち倒し永遠のエルサレムを樹立する万軍の主としてのそれでした。彼らは仮庵の祭りの度に、この万軍の主を覚えて希望としたのです。ですから、弟たちは、兄イエスに対して、このゼカリヤ14章に見る万軍の主として、エルサレムに赴くべきだと言っているわけです。お兄さんが本当に救い主だと言うのなら、こんなガリラヤでちまちまやっていてはダメでしょう。都に上るべきです。そうでないなら、もう救い主だとなんか言うのはお止めなさい。と、暗に批判しているのです。
しかし、イエス様は言います。「わたしの時は、まだ来ていません。」この言葉の意味は、むしろ私たちが知るところです。それは仮庵の祭りではなくて、過ぎ越しの祭りだということです。それはつまり、イエス様はご自身の役割を、諸外国を打ち倒し永遠のエルサレムを樹立するところの勝利の主ではなくて、神と人との和解のために命を捨てる、生贄としてのご自身の使命を見ていたということです。
決断する時というものを私たちは探り求めます。学校を選ぶ、仕事を変える、好きな人に告白する、結婚をする。人生の大事な決断をいつすべきか、その時というものを私たちは見極めようとします。けれど私たちは、この時というものが、全て神の御手の内にあるということを知らなければなりません。わたしの時とは、言い換えれば、私に対する神のみこころの時に他なりません。ですから、神のご計画された時を掴むためには、私たちは時代を読む、状況を読むのではなくて、神のみこころをこそ探り求めなければならないのです。イエス様は人々の声に惑わされません。一貫して神のみこころに従って時を捉えておられたからです。
