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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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161023 ルカ10:38-42 「信仰生活の霊的習慣」 砂原和史師 北赤羽キリスト教会牧師

161023 ルカ10:38-42 「信仰生活の霊的習慣」

 イエスをもてなしたマルタと、主の足もとにすわってみことばに聞いたマリヤ。この二人には霊的習慣がありました。ルカ10:39「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」マリヤは、主の足もとに座っていました。しかし、マルタはこの時、忙しく立ち振舞っていました。主の前に立っているマルタと主の足もとに座っているマリヤ。不思議とその習慣というのは、そのまま彼女たちの信仰姿勢となっていました。すなわちそこには、彼女たちが自分をどこに置き、主をどこに置いているかが現れていたのです。
 マリヤの「主の足もとに」すわって聞く姿勢というのは、弟子として御言葉に聞き、自分「を」主の足もとに置くという信仰姿勢の現れでした。マリヤは心の王座の中心に主を置き、主を自分が聞き従うべき霊的な主人として認めていました。そして自分「を」主の足もとに置き、そして、主の御言葉の前に謙り、主を見上げて、主のことばにいつも聞く姿勢を持っていたのです。
 一方、マルタはいつも持て成しのために立ち振舞っていました。マルタの習慣は「立っている」ことでした。忙しいという字は、心を亡ぼすと書きます。いつも忙しく立ち振舞っているマルタの信仰は、いつしか自分が主と対等に立つという態度になって現れてきました。
 いざ忙しくなると、主のみもとに来て主に対して不平不満を言い始めました。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。」と詰め寄ってイエス様を責めます。そして、「私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」と言って、主に命令します。心の中で主と自分が対等の位置に立っています。あるいは、自分が主の上に立ち、自分が心の王座の中心に来ている証拠です。
 ヨハネ福音書の11章には、兄弟ラザロのよみがえりの記事があります。ラザロが死んだ後に遅れてやって来た主に対して、二人の姉妹は別々に主とお会いし、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と同じ言葉を主に向かって言います。しかし、その二人の姿勢の差は歴然です。マルタは「主に向かって」、マリヤは「足元にひれ伏して」言ったのです。同じ「主よ、なぜですか?」というような言葉を別々の態度で言ったのです。マリヤはいつも自分をその主の足もとに置くという霊的習慣が身に付いていたことがわかります。
 そのような霊的な習慣は、やがて素晴らしい信仰の実を結ぶこととなります。ヨハネ12章には、あのナルドの香油を主に塗るという出来事があります。この時、マルタはいつものように立って給仕してました。しかしマリヤは、高価な香油を取って主の足に塗ったのです。この出来事をマタイもマルコも記していますが、二人はマリヤが主の頭に香油を注いだことを記しましたが、ヨハネの方はマリヤが主の御足に油を塗ったことだけを記しました。ヨハネが記したマリヤの姿とは、主の足もとにひれ伏し、主の御足に油を注いだマリヤの姿だったのです。
 マルタはいつも主に仕える女性でした。しかし、いざとなると主と対等に立ってしまう弱さがありました。マリヤは自分を低くし、主の足もとに自分を置き、その御言葉を慕い求める習慣を持っていました。その結果、素晴らしい奉仕の実を結びました。そのような彼女の姿勢はそのまま、主の十字架に対する感謝と献身へと現わされていきました。私たちもこのマリヤのように、十字架の言葉の前に謙って聞き、十字架の主の足もとにいつも自分を置くという霊的習慣を身に付けさせていただきましょう。そのような歩みを主は必ず祝福してくださり、多くの実を結ばせてくださいます。

161016 ヨハネ8:12-20 「世の光・キリスト」

ヨハネ8:12-20 「世の光・キリスト」

 イエス様はおっしゃいました。「わたしは世の光です」。日中、炎天下の下でろうそくを付けましても、あまり意味がありません。ろうそくの灯は夜の暗闇の中でこそ使うものです。つまり、イエス様が世の光とおっしゃるとき、わたしたちの生きるこの世の中は、闇に包まれているんだということを前提としているのです。
 人生の闇、先の見えない将来への不安について、私たちはこれを闇と呼びまして、恐れたりいたします。また、人間の心のうちにある負の部分、平気で人を憎んだり、裏切ったり、傷つけてしまう、そのような思いを社会の闇、心の闇と言いまして、やはり恐れたりいたします。いやそれどころか、時として自分自身がそのような闇にどっぷりと浸かってしまっていることが怖いのです。闇の中にずっといますと、だんだんと目が慣れてまいります。同じように、闇の世界にどっぷりと浸かっておりますと、自分自身が闇に犯されていることにも無頓着になってくるのです。誰かを憎んだり、妬んだり、陥れたり、人に巣食う闇というのは、本当に深く恐ろしいものであります。
 これら闇のような現実に対して、イエス様は「わたしは世の光です。」と言われる。この世界と世界の全ての人を照らす光として、私は来たのだと言われるのです。イエス・キリストこそが私たちの闇を照らし、正しく導く光です。この光は、すべての人を照らします。この光は、その人の人生を照らし、その正しい道を明らかにします。そして、この光はその人の心の内深くを照らし、その人の本当の姿を浮き彫りにするのです。
 主は私たちが心に抱く、その醜い闇を、誰に見せることもできないその隠された罪を、光の下へと照らし出すために来られました。そして私たちに罪を悔い改めさせ、その救いに招くために来られたのでした。
 そして、この光はこの世の闇に対して、圧倒的な勝利をもたらします。ヨハネ1:5に「光はやみの中に輝いている。やみはこれに勝たなかった。」とあります。光と闇と言いますと、何か相対する2つのもののように思います。しかし、実際はそうではありません。闇は光に勝たなかった。比べ物にならない、圧倒的な勝利が光にはあるのです。暗い部屋の中でロウソクの火を灯すということはできます。しかし、明るい部屋の中で闇を灯すということはどうやってもできません。闇と言いますと、何か得体のしれない、化け物のような物があるかのように思いますが、闇の正体は光の欠如です。ですから光が現れれるところ、闇は必然と消えざるを得ないのです。光なるキリストは罪を滅ぼし、死に勝利いたしました。ですから、この方にこそ救いがあるのです。
 この光たるお方、イエス様が私たちを指して「あなたがたは世の光です。」と言われたということを、私たちはどのように受け止めているでしょうか。闇に対して圧倒的な勝利をもたらす光なるキリスト。このイエス様と同じ例えを用いて私たちをご覧になられる主イエスの眼差しがあるのです。もちろん、私たちは自らが光を放つ太陽のようにはなれません。私の内には闇もある。汚れもある。けれど、私たちが光なるキリストを見上げて生きるとき、私たちはこの光で照らされる月のようにはなれるというものです。昔の人々は月や星明りを頼りに夜の海を航海したと言います。闇夜に輝く月は、それはそれは大きな道しるべです。ですから、たとえ自分自身では光を放つことができなくても、私たちは世の光となれるのです。罪人である私が、主イエスの憐みのゆえに今日を生かされる。弱い私が、今日という日を感謝して生きるなら、私たちは世の光です。自分の力を振りかざして、他人を蹴落として勝ち取る成功談ではありません。最も身近な大切な人にすら寄り添うことのできない不自由な私たちが、一日の終わりに後悔と恨みごとしか思い浮かばないような私たちが、主の十字架の恵みに照らされて、今一度感謝に引き戻される。そういう信仰の現実こそが、私たちを世の光として浮かび上がらせるのです。

161009 ヨハネ8:1-11 「赦しの宣言」

ヨハネ8:1-11 「赦しの宣言」

 イエス様が宮で教えておられるところに、パリサイ人たちが姦淫の現場で捕らえた一人の女性を引き連れてやってきます。そしてイエス様に尋ねました。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」嫌らしい質問ですね。石打ちを止めるようにと言えば、それは律法を蔑ろにすることですし、石打ちせよと言えば、それはローマ皇帝への越権行為とみなされます。どちらを答えようと窮地に陥ってしまう質問。そもそも、姦淫をした男性の姿が見えませんから、彼らもまた、まともに裁こうとはしていないのです。これはイエス様を陥れることだけを目的にした茶番劇でした。
 イエス様はこの一連の騒動には加わろうとはしません。しかし、彼らが問い続けてやめなかったので、身を起こして言われます。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエス様は再びしゃがみこみ、地面に書かれるのでありました。それまでの喧騒が止み、皆がそのことばを反芻します。そして自らの姿に恥じ、一人また一人とその場を去っていくのでありました。
 さて、注目したいのは、この後のイエス様と女性の会話であります。これまで出来事は女性を発端としながら、女性を無視して進められました。しかし、ようやくに私たちはこの女性に目を向けることができます。
「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」「誰もいません」「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
 誰もいません。しかしどうでしょう。誰もいないことはないのです。目の前にはイエス様がおられます。他の者がいなくなった後イエス様が石を投げつける可能性も無いわけではないのです。けれど、彼女は「誰もいません」と答える。つまり彼女は、イエス様が自分を罪に定めないと信じたのです。
 しかしです。実はこの場にはもう一人の人物がいます。他ならぬ彼女自身です。ですから「あなたを罪に定める者はなかったのですか。」というイエス様の質問は、実に様々な意味合いを持っています。一つはあなたを糾弾していたパリサイ人や律法学者たちは今もいますか?という質問。そして、わたしはあなたを罪に定めると思いますか?という質問。そして、もう一つは、あなたはあなた自身を赦せますか?という質問です。
 実は、私たちを一番最後まで赦さないのは、他人でも、神様でもなく、他ならぬ自分なのです。他人との関係は言ってしまえば、逃げ出すことができます。赦されない関係ならそれ以上関わらないことも選べます。けれど、どこに行こうと、どれだけ時が経とうと、逃れられない関係がある。それは神さまと、自分です。誰一人神の前から逃げおおせる者はおらず、誰一人自分自身から離れることはできません。しかし、神はすでに御子の贖いをもって私たちを赦してくださったのです。厄介なのは後者です。私の過ちを、存在を、いつまでも責め続けるのは他の誰でもありません。私です。神が赦しても尚、赦せずに攻め続けるのは私なのです。
 しかし彼女は「誰もいません」と答えます。それはもう罪なんてどうでもいいという開き直りではありません。人々が去りイエス様だけになった時点で、彼女はそこから逃げ出すこともできたのです。けれど彼女はそこに留まりました。それは彼女が自らの罪に悔いている証拠です。彼女はイエス様に罰せられる覚悟で留まります。しかし、そこにいるイエス様を見て、彼女はイエス様が罰せられないことを知り、そして、彼女自身、赦されることを受け入れるのです。自己受容は本人の決断ではありません。それは赦しの結果です。けれどその結果に至らなければ、どれだけ赦されようと救いには至りません。神の赦しは、自己の赦しに結びついて救いとなるのです。自分を赦せないことが不信仰だとは言いません。それは時間がかかるものです。しかしその間は赦せない憎しみに縛られ続けるのも事実です。反省は大事ですが、否定する必要はありません。全ては神の最善に導かれています。私たちは神の赦しにもっと身を委ねて良いのです。

161002 ヘブル13:1-3 「兄弟愛を持って」

ヘブル13:1-3 「兄弟愛を持って」

 兄弟というのは、不思議な関係です。兄、弟と言いますと何か切っても切れない特別の関係のように思えるわけですけれども、法的に関係を数えると、それは2親等です。兄弟は直接的な関係のようでいて、実際は親を経由しての関係というわけです。1節には「兄弟愛をいつも持っていなさい。」とあります。では兄弟愛とはいったい何なのでしょう。それはつまり、同じ父を持つ者同士の愛ということです。もちろん血縁の兄弟ではありません。私たちはイエス様の贖いのゆえに、罪赦され、父なる神の子となる特権をいただいた者。つまり父なる神の養子です。それゆえ、私たちは兄弟姉妹とされたのです。ですから私たち兄弟姉妹の関係とは、父なる神を介しての関係です。普段何気なく話して接しているようですけれども、そこにいる兄弟は、神の子として繋がる兄弟。同じ父を持つところの姉妹なんですね。もしも、父なる神との関係を失えば、兄弟姉妹の関係をも失ってしまう。父ありきの関係というわけです。ですから、私たちは兄弟愛を考えるとき、まず自分自身が神としっかりと結びついている必要があります。その上で、共に同じ恵みに与る者としての交わりが生まれるのです。
 教会は清く正しい者の集まりではありません。そうであれば、ここに私の居場所はありません。そうではなくて、赦された罪人の集まりです。神の憐れみのゆえに、一方的に救いに与り、神の子とされた者の集まりです。ですから、教会には生々しい衝突や問題が起こり得るのです。そんな時、私たちは互いが兄弟としてある関係であることをきちんと見て取る必要があります。つまり、父なる神を介して結ばれた関係です。
 私が父なる神に愛されたように、この兄弟も愛されている。私のためにイエス様がいのちを捨てられたように、目の前のこの姉妹のためにもイエス様はいのちを捨てられた。そういう間接的な見方を持つのです。私たちはどれだけ親しい間柄であろうとも、いえ、親しくなって距離が近くなるほど、相手の嫌な部分も見えてきます。自分とは違う受け入れられない部分が気になってきます。これは結婚された方には特にわかるところではないでしょうか。恋人同士のきらびやかな関係ではありません。身近だけに、今まで見えていなかった現実が見えてくる結婚生活。私たちは着飾った相手ではなくて、素の相手を見るようになります。もし私たちがお互いを直接に結びつけようとするなら、私たちはそういった違いばかりが目についてしまうでしょう。けれど、私たちは互いの間に、父なる神を見る者です。子なるキリストの十字架を見る者です。そうすることで、私たちはその目の前の兄弟姉妹を、心から愛せるようになるのです
 2節、3節では、具体的な愛し方が記されます。それは、形ある行為として相手をもてなすということ。そして、相手に寄り添う思いやりの気持ちをもって行うということです。父なる神を間において、私たちは相手の弱さを受け止めるができるようになります。しかし、それは強者の施しではありません。自分自身が恵みのゆえに救われた者に過ぎないことを知り、それゆえ、相手の弱さに寄り添うのです。自分も肉体を持っている。罪も弱さも抱える身である。だからこそ、私たちは目の前の兄弟を心から思いやることができるのです。