ヨハネ8:31-47 「本当の自由」
自由という言葉を聞いて、皆さんはどういうイメージを持たれるでしょうか。好きなことに時間とお金を懸けて、自由気ままに暮らしてるというようなイメージでしょうか。けれど、自由に、思いのままに過ごす。というのは、言葉でいうよりも難しいことだと思います。と言いますのも、私たちは何かを決断する時、絶えず何か目に見えないプレッシャーというものを受けているからです。特に、長いものには巻かれろというのが、大人の対応だと教えられる日本では、何か自分の好きなように、気ままに過ごすというのは、自由人というよりは、むしろ「KY」空気の読めない人と言われる次第です。
ですから、このようなプレッシャーの中でも、尚、自分の思い通りに生きることができるとしたら、それは確かに自由人なのかと思ったりもします。しかし、ことはそう簡単にはいかないのです。なぜなら、自分の思いのままに生きるということが必ずしも自由であるとは言えないからです。
自分の願うままを選択して失敗した人の代表に、アダムとエバがいます。彼らは神の言葉に従うよりも、目に見て美味しそうな善悪の知識の木の実を食べるという選択をしました。それは神に従って生きるよりも、自分の思いのままに生きる、つまり自由に生きることを選んだということです。しかし、どうでしょうか。それは自由のように見えて、実は己の欲望に対して、蛇の誘惑に対して、絶望的に不自由なものではなかったでしょうか。
今日の箇所には「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」とあります。真理はあなたがたを自由にする。つまり、真理を知らないままでは自由ではないというわけです。では、何に対して自由ではないのかと言いますと、それは、「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」と言いますように、「罪」に対して自由ではないんだと言っています。ここが違うんですね。自分の好き勝手に振る舞えるというのが自由ではなくて、罪に対して自由になる。これが聖書の言うところの自由です。人はいつも罪に対して不自由です。私たちの自由と思える振る舞いも、全て罪の影響を受けています。けれど、真理に留まる時、私たちはこの罪の影響から離れて、真の自由を得るのだと言うのです。
そして、この自由を持って何を選び取るのかが問われているのです。パウロはコリント人への手紙第一の中で、偶像に捧げられた肉について、偶像の神などいないのでそれを食べても罪ではないけれども、もしそのことで兄弟がつまずく可能性があるなら食べるべきではないと言います。そして言います。「ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。」(8:13)さらに彼は「私はだれに対しても、自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。」(9:19)とも言っています。パウロは自由な意思を持って、不自由な従順を選び取るのです。これこそが私たちが得た自由です。
神に聞き従うことを律法と捕らえるうちは、それは不自由なものです。けれど、私たちは敢えてそれを選び取るものです。ならば、それはむしろ自由ではないでしょうか。罪を選ばない自由。神の御心を選び取る自由。誰も彼もが、自分の思い通りに、自分の願い通りにと生きている世の中で、敢えて信仰を選び取ることのできる私たちは、罪に対してどれほど自由な存在でありましょうか。
自由という言葉を聞いて、皆さんはどういうイメージを持たれるでしょうか。好きなことに時間とお金を懸けて、自由気ままに暮らしてるというようなイメージでしょうか。けれど、自由に、思いのままに過ごす。というのは、言葉でいうよりも難しいことだと思います。と言いますのも、私たちは何かを決断する時、絶えず何か目に見えないプレッシャーというものを受けているからです。特に、長いものには巻かれろというのが、大人の対応だと教えられる日本では、何か自分の好きなように、気ままに過ごすというのは、自由人というよりは、むしろ「KY」空気の読めない人と言われる次第です。
ですから、このようなプレッシャーの中でも、尚、自分の思い通りに生きることができるとしたら、それは確かに自由人なのかと思ったりもします。しかし、ことはそう簡単にはいかないのです。なぜなら、自分の思いのままに生きるということが必ずしも自由であるとは言えないからです。
自分の願うままを選択して失敗した人の代表に、アダムとエバがいます。彼らは神の言葉に従うよりも、目に見て美味しそうな善悪の知識の木の実を食べるという選択をしました。それは神に従って生きるよりも、自分の思いのままに生きる、つまり自由に生きることを選んだということです。しかし、どうでしょうか。それは自由のように見えて、実は己の欲望に対して、蛇の誘惑に対して、絶望的に不自由なものではなかったでしょうか。
今日の箇所には「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」とあります。真理はあなたがたを自由にする。つまり、真理を知らないままでは自由ではないというわけです。では、何に対して自由ではないのかと言いますと、それは、「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」と言いますように、「罪」に対して自由ではないんだと言っています。ここが違うんですね。自分の好き勝手に振る舞えるというのが自由ではなくて、罪に対して自由になる。これが聖書の言うところの自由です。人はいつも罪に対して不自由です。私たちの自由と思える振る舞いも、全て罪の影響を受けています。けれど、真理に留まる時、私たちはこの罪の影響から離れて、真の自由を得るのだと言うのです。
そして、この自由を持って何を選び取るのかが問われているのです。パウロはコリント人への手紙第一の中で、偶像に捧げられた肉について、偶像の神などいないのでそれを食べても罪ではないけれども、もしそのことで兄弟がつまずく可能性があるなら食べるべきではないと言います。そして言います。「ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。」(8:13)さらに彼は「私はだれに対しても、自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。」(9:19)とも言っています。パウロは自由な意思を持って、不自由な従順を選び取るのです。これこそが私たちが得た自由です。
神に聞き従うことを律法と捕らえるうちは、それは不自由なものです。けれど、私たちは敢えてそれを選び取るものです。ならば、それはむしろ自由ではないでしょうか。罪を選ばない自由。神の御心を選び取る自由。誰も彼もが、自分の思い通りに、自分の願い通りにと生きている世の中で、敢えて信仰を選び取ることのできる私たちは、罪に対してどれほど自由な存在でありましょうか。