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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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161120 ヨハネ8:31-47 「本当の自由」

ヨハネ8:31-47 「本当の自由」

 自由という言葉を聞いて、皆さんはどういうイメージを持たれるでしょうか。好きなことに時間とお金を懸けて、自由気ままに暮らしてるというようなイメージでしょうか。けれど、自由に、思いのままに過ごす。というのは、言葉でいうよりも難しいことだと思います。と言いますのも、私たちは何かを決断する時、絶えず何か目に見えないプレッシャーというものを受けているからです。特に、長いものには巻かれろというのが、大人の対応だと教えられる日本では、何か自分の好きなように、気ままに過ごすというのは、自由人というよりは、むしろ「KY」空気の読めない人と言われる次第です。
 ですから、このようなプレッシャーの中でも、尚、自分の思い通りに生きることができるとしたら、それは確かに自由人なのかと思ったりもします。しかし、ことはそう簡単にはいかないのです。なぜなら、自分の思いのままに生きるということが必ずしも自由であるとは言えないからです。
 自分の願うままを選択して失敗した人の代表に、アダムとエバがいます。彼らは神の言葉に従うよりも、目に見て美味しそうな善悪の知識の木の実を食べるという選択をしました。それは神に従って生きるよりも、自分の思いのままに生きる、つまり自由に生きることを選んだということです。しかし、どうでしょうか。それは自由のように見えて、実は己の欲望に対して、蛇の誘惑に対して、絶望的に不自由なものではなかったでしょうか。
 今日の箇所には「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」とあります。真理はあなたがたを自由にする。つまり、真理を知らないままでは自由ではないというわけです。では、何に対して自由ではないのかと言いますと、それは、「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」と言いますように、「罪」に対して自由ではないんだと言っています。ここが違うんですね。自分の好き勝手に振る舞えるというのが自由ではなくて、罪に対して自由になる。これが聖書の言うところの自由です。人はいつも罪に対して不自由です。私たちの自由と思える振る舞いも、全て罪の影響を受けています。けれど、真理に留まる時、私たちはこの罪の影響から離れて、真の自由を得るのだと言うのです。
 そして、この自由を持って何を選び取るのかが問われているのです。パウロはコリント人への手紙第一の中で、偶像に捧げられた肉について、偶像の神などいないのでそれを食べても罪ではないけれども、もしそのことで兄弟がつまずく可能性があるなら食べるべきではないと言います。そして言います。「ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。」(8:13)さらに彼は「私はだれに対しても、自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。」(9:19)とも言っています。パウロは自由な意思を持って、不自由な従順を選び取るのです。これこそが私たちが得た自由です。
 神に聞き従うことを律法と捕らえるうちは、それは不自由なものです。けれど、私たちは敢えてそれを選び取るものです。ならば、それはむしろ自由ではないでしょうか。罪を選ばない自由。神の御心を選び取る自由。誰も彼もが、自分の思い通りに、自分の願い通りにと生きている世の中で、敢えて信仰を選び取ることのできる私たちは、罪に対してどれほど自由な存在でありましょうか。

161113 ルカ12:16-21 「神の御手にある人生」 収穫感謝礼拝

ルカ12:16-21 「神の御手にある人生」

 このたとえ話が語っているところは、どれだけ蓄えがあろうとも、それが私たちの将来を保障してくれるわけではないということです。私たちは蓄えがあれば将来安心して暮らせると思います。健康保険をかけたり、貯金をしたり、財テクに励んだり、けれど、どれだけ将来のために蓄えても、その肝心の将来が来る保障はどこにもありません。私たちはいつ交通事故に遭うかもしれないし、いつ不治の病にかかるかもしれません。私たちに心配の種は尽きません。
 しかし、イエス様は心配する必要はありませんよ。と言っておられるのです。なぜなら、それは神様がわたしのことを見守っているから、いつも共にいて下さるから、だから心配する必要はありませんよ、と言って下さっているのです。
 イエス様はこれに続けて、空を指差して言いました。ほらあの鳥を見なさいとです。空の鳥は種も蒔かないし、刈り入れも、倉庫に納めることもしません。確かに、そうですね。鳥が、種をせっせと蒔いて、そして水をやって、雑草を引き抜いているのを私は見たことがありません。鳥たちは食べることをあれこれと心配しません。なぜなら、神様が養って下さるからです。また、野のゆりを見なさいとも言いました。ゆりはとっても綺麗な花を咲かせます。けれど、ゆりの花が、他の花よりも綺麗になることを願って、今日は赤の花びらにしようか、それとも青の花びらにしようかと、悩んでいるのを見たことはありません。ゆりはどうしたら綺麗に見えるかなんて、考えたことも悩んだこともないですけれど、神様がゆりに一番似合う花びらをくださって、こうして綺麗に咲いているのです。
 神様は空の鳥も野のゆりも養って下さいます。ならば、あなたのことは、なお更、大切にしないはずはありません。と、こう言われる。創造の最後に、神の霊を吹き込まれて造られたのが人間です。神様のとっておきの作品が人間です。ですから、神様は鳥や花ももちろん大切だけど、それ以上に、私たち一人ひとりのことを大切だと言って下さる。だから神様が共にいて下さるってことは、私たちにとって安心なのです。
 考えてみれば、私たちの毎日は、気付いていないけれど、神様からのプレゼントでいっぱいです。私たちが生きるために必要なもの、水も空気も太陽も、全部神様からのプレゼントです。私たちは神様によって今日という日を生かされているのです。神さまは私たちのことを、私たち以上にご存知で、私たちの必要を備えて下さるお方です。将来どうなるかは私たちにはわかりませんが、神さまは私たちの将来を知っていてくださいます。そして最善へと導いてくださいます。私たちはこの一点を信じればいいのです。そうすれば、私たちは明日の心配を手放すことができるのです。

161106 ヘブル13:4-6 「いま持っているもので」

ヘブル13:4-6 「いま持っているもので」

 イエス様はここでさらに具体的な信仰生活の実践が語られています。それは結婚と金銭についてです。
 4節「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行う者とをさばかれるからです。」不品行は日常的な性的不道徳を意味し、姦淫は結婚外の男女の肉体関係を意味します。どちらも結婚という祝福を汚す行為であり、聖書は信仰者にこれを避けるようにと命じています。何を今更と思われるでしょうか。そんなことは当たり前じゃないかと。けれど、考えてみますと、当たり前じゃないんですね。現代の世にあっては、たとえば結婚をするまで純潔をまもるだとか、生涯、夫婦で添い遂げるだとか、そういう価値観は、まるで古い化石のような扱いを受けています。それは世にあっては、もはや当たり前じゃない価値観に成り下がっているんですね。しかし、だからこそ、聖書ははっきりと言います。寝床を汚してはいけません。とです。結婚の祝福に留まるように。とです。なぜなら、それらの悪は全て、結婚という尊い関係を汚してしまう行為に他ならないからです。
 5節「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』」これもまた、古めかしい教えだという声が聞こえてきそうです。金銭を愛して何が悪い。それが資本主義と言うものだとです。けれど、そのお金が原因で起こる事件が後を断ちません。相続を機に、家族に争いが起こったという話をよく聞きます。時に殺人すらも起こります。お金があれば何でもできると勘違いする人が巷には溢れかえっています。犯罪ですら、お金で揉み消すということが実際にあるくらいです。お金は力です。お金は私たちの生活を保証し、私たちの価値すらも高めてくれます。お金さえあれば幸せが約束されているように思います。けれど、だからこそ、私たちはそれに囚われる人生を送ってはいけません。私たちの人生を保証するのは神ただお一人です。お金ではありません。それはいつ失われるかわからない頼りないものです。
 大事なのは、結婚にせよ、金銭にせよ、「いま持っているもので満足する」ということでありましょう。私たちはたくさんのものを持っています。今日必要なものをいただいています。私たちはこれを感謝すべきです。他人と見て、比べるとダメですね。あれが足りない。これが足りない。とすぐに思います。あれがあればもっと幸せでいられるのに。これがないと幸せには決してなれない。そうやって足りないものばかりを見ている人生は、決して幸せは得られません。いやいや、足りないのは、今あるものへの感謝です。足りない何かではなくて、与えられているものに目を向ける時、初めて、私たちの人生は豊かなものとされるのです。
 私たちは今日という日を自分の力で生きていると思っています。けれど、実はそうではありません。私たちは今日を生かされているのです。主の豊かな恵みによって養われています。だからこそ、主が「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」と約束してくださることが、私たちの喜びとなるのです。主とともにいることの幸いを覚えるとき、私たちはこの世の何を失うことも恐れません。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」このように告白することのできる人生は、何と平安でありましょうか。
 欲を満たす人生に際限はありません。。私たちは今持っているもので満足する。今あるものを感謝するのです。もし、私たちが、今日を生かされているということに目を向けるなら、私たちの人生はたちまち豊かなものへと変わるのです。

161030 ヨハネ8:21-30 「あなたがたが信じなければ」

ヨハネ8:21-30 「あなたがたが信じなければ」

 「あなたがたは自分の罪の中で死ぬ。」と、イエス様は3度、同じ言葉を語ります。なんとも無慈悲で絶望的な宣言ではないでしょうか。イエス様は人々の滅びを語ります。天の神の義しい裁きを語ります。しかし、これは私たちが聞かなくてはならない事実です。イエス様を信じるかどうかは、今の幸せをもたらすためではありません。生活の便利だとか、降りかかる災難の回避だとか、そういう類の話ではありません。それは死んで後を左右する問題です。私たちに必ず訪れる死というものが、永遠への希望となるのか、それとも永遠の絶望となるのかが問われているのです。
 ところが私たちは、どれだけそのような危機感を持って、イエス様の言葉を聞いているだろうか、と思うのです。たとえばです。よく映画などでは、タイムスリップをして、過去を変えることで、悲惨な未来を変えるという話が出てきます。愛する人が事故にあって死んでしまう。けれど何かの拍子に過去にタイムスリップをいたします。目の前には死んでしまったその人が何もなかったかのように生きている。皆さんだったらどうしますでしょうか。そのままにいれば、歴史は繰り返されるのみ。恐らくは必死になって、事情を説明して、事故が起きるはずのその現場に近付かないようにと説得するのではないでしょうか。どれほど馬鹿と思われても、信じてもらえなくても、とにかくしがみついてでも思い留まってもらうのではないでしょうか。ところがです。現実の世界では、私たちはそのような必死さをもって、主イエスを証しすることがありません。それは、イエス様の問いかけがどれほどの重みを持っているか、わかっているようでわかっていないのです。罪の悲惨さ、滅びの確かさをリアルに感じ取っていないのです。
 エゼキエル33:7-16には神の警告を悪人に語るようにと命じられています。イエス様はまさしくこの言葉通りに民に教えられます。そして、このエゼキエルの箇所には、これを命じる天の神様のみこころが語られています。「わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」ですから、イエス様が「もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」と語るとき、そこには、私はあなたがたが滅びることを喜ばない。あなたに滅んでほしくない。だから心から悔い改めなさい。・・・そういう、特別の思い入れがあるのです。
 愛する人が滅びるということをリアルに感じるなら、私たちはもっと必死になるのではないでしょうか。そうならないのは、どこかで、まだ大丈夫と考えているからでありましょう。けれど、イエス様は言われます。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」悔い改めるということは、実は時間的制限のある行為なのです。いずれ、イエス様を捜すけれど、イエス様は去って行かれるときが来る。このことは、イエス様が繰り返し語られることでありました。
 私たちは、ついつい遠慮します。こんなことを突然言っても聞いてもらえない。変に思われるかもしれない。関係が途絶えてしまうかもしれない。そう考えると、明日にしよう。また今度にしよう。いつか、相手が自分から聞いてきたらにしよう。と、こんな風に思いがちです。けれど、私たちの希望はイエス様の言葉を聞いた人々の反応です。大勢の人々が、イエス様を信じたのです。私たちは変な遠慮から、そして自信の無さから、相手は福音を望んでいないと考えがちです。けれど、そうでしょうか。死は全ての人に訪れます。誰もがその時を恐れています。その先を知らぬ者に死は圧倒的な恐怖です。ですから多くの人はこのことを考えないようにして、今だけを見て生きています。しかし、それはいつ爆発するかわからない時限爆弾を抱えて生きているようなものです。いつ訪れるかわからない死。誰もがこの不安から解放されたいと願っています。そして福音は唯一、この死の問題に解決を与えるのです。
もちろん、だからすべての人が喜んで聞いてくれる。とは言いません。パリサイ人はそのためにイエス様を殺そうとするのです。けれど、その福音を必要としている人もやはりいるのです。最初は敬遠しつつも、福音の真髄に触れるに連れ、ここに希望を見出す人がいる。他の誰でもない。私たちがそうでした。私たちもこの信仰のバトンを継いでいきましょう。