ヨハネ9:6-12 「彼は行って、洗った」
殺意を向けるユダヤ人指導者たちを後に、イエス様は宮を出ます。すると、通りに並ぶ大勢の物乞いの中に、一人の生まれつきの盲人がおりました。弟子たちはイエス様に尋ねます。「彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエス様は答えます。「神のわざがこの人に現れるためです。」
これまでも様々な人を癒やしてこられたイエス様。いったいどんな奇跡がなされるのかと期待するところです。すると、イエス様は「地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗」られたのでありました。そして言います。「行って、シロアムの池で洗いなさい。」自分が汚しておいて、池で洗いなさいって言うんですから、いったい何のいたずらかと思います。だって、イエス様はお言葉一つで彼の目を治すことができるのです。なのになぜこんな回りくどいことをするのでしょうか。しかも、この場面。イエス様は盲人を連れてシロアムの池に行ったのではありません。泥を目で塗って、「洗ってきなさい。」と言って、ほっぽり出すのです。やっぱりちょっとしたいたずらなのでしょうか。
いえ、イエス様がそうされたからには、やはりそこに意味があるのです。つまり、イエス様は彼の信仰を見ようとされた。そのために、彼の目が即座に開かないように、泥で塞がれたのではないでしょうか。
イエス様は様々な方法で人々を癒やされます。しかしその時、決まってその人の信仰を試されます。なぜなら、病の癒やしはいっときの癒やしであり、イエス様が望まれるのは、罪からの癒やし、永遠の救いに他ならないからです。10人のツァラアトにかかった人がイエス様に癒やされて、祭司に見せに行った出来事がありました。けれどその中で感謝に戻って来たのは、たった一人でした。病が癒やされることは必ずしも救いに繋がるとは限りません。多くの人はラッキーと言って済ましてしまいます。ですから、イエス様は癒されると同時に、その人の信仰をご覧になられる。長血の女性を癒された後にわざわざ人前で告白させるのもその為ですし、ツロの地で汚れた女性をしばらく冷たくあしらったのもその為です。
宮の前で座っていた彼には、イエス様の噂は色々と聞こえていたことでしょう。様々な病がイエスという方によって癒された。もう彼にとっては、イエス様に会いたい想いでいっぱいです。しかし、ここでの彼の期待は、あくまでもイエス様の癒やしです。病気を治してくれることです。評判の良い医者にかける期待と同じです。そんな彼の前に、今、イエス様と弟子たちのやりとりが聞こえてきた。否が応でも彼の期待は高まったことでしょう。それだけに、イエス様の為さることは、彼にとって意外で、そしてある種の失望観をもたらしたのではなかったか。
今日の箇所では、たった一行、「彼は行って、洗った。」とありますけれども、そのようにするには、色んな葛藤と戦いがあったことと思います。しかし、だからこそ、イエス様はこのような方法を取られたのではないか。つまり、この言葉に従うのには、沢山の疑問と不安、そして人々の噂と向き合いながら、それでも尚、信じて歩く決意が必要だからです。
たとえば、この場で、イエス様が彼の目を癒やされたなら、彼は即座にイエス様を見て感謝したでしょうが、しかし同時に、それでおしまいでしょう。癒やしてくれてありがとう。目を見えるようにしてくれてありがとう。しかし、彼は自分の弱さや不満、計算高さ、そういったあらゆるものと向き合うことをしないまま、癒やしの興奮の中でイエス様を忘れていくでしょう。けれど、イエス様は彼の目を閉ざしたまま、従うようにと命じられた。結果を見ないまま従えと言われた。彼の信仰を問われた。彼はそれに従ったのです。
神様のご計画は時に私たちの想像を遥かに超えます。しかし私たちはこれに、それは相応しくないとか、都合がよくないとか、あれこれと言うことはできません。なぜなら、神の救いのご計画は、私たちにとってはもっとも理解しがたい馬鹿げたものだからです。神の御子の死を通して、救いは完成した。これは私たちの考えを遥かに超えたことです。どう思うかが問われているのではありません。問われているのは信じることです。
殺意を向けるユダヤ人指導者たちを後に、イエス様は宮を出ます。すると、通りに並ぶ大勢の物乞いの中に、一人の生まれつきの盲人がおりました。弟子たちはイエス様に尋ねます。「彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエス様は答えます。「神のわざがこの人に現れるためです。」
これまでも様々な人を癒やしてこられたイエス様。いったいどんな奇跡がなされるのかと期待するところです。すると、イエス様は「地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗」られたのでありました。そして言います。「行って、シロアムの池で洗いなさい。」自分が汚しておいて、池で洗いなさいって言うんですから、いったい何のいたずらかと思います。だって、イエス様はお言葉一つで彼の目を治すことができるのです。なのになぜこんな回りくどいことをするのでしょうか。しかも、この場面。イエス様は盲人を連れてシロアムの池に行ったのではありません。泥を目で塗って、「洗ってきなさい。」と言って、ほっぽり出すのです。やっぱりちょっとしたいたずらなのでしょうか。
いえ、イエス様がそうされたからには、やはりそこに意味があるのです。つまり、イエス様は彼の信仰を見ようとされた。そのために、彼の目が即座に開かないように、泥で塞がれたのではないでしょうか。
イエス様は様々な方法で人々を癒やされます。しかしその時、決まってその人の信仰を試されます。なぜなら、病の癒やしはいっときの癒やしであり、イエス様が望まれるのは、罪からの癒やし、永遠の救いに他ならないからです。10人のツァラアトにかかった人がイエス様に癒やされて、祭司に見せに行った出来事がありました。けれどその中で感謝に戻って来たのは、たった一人でした。病が癒やされることは必ずしも救いに繋がるとは限りません。多くの人はラッキーと言って済ましてしまいます。ですから、イエス様は癒されると同時に、その人の信仰をご覧になられる。長血の女性を癒された後にわざわざ人前で告白させるのもその為ですし、ツロの地で汚れた女性をしばらく冷たくあしらったのもその為です。
宮の前で座っていた彼には、イエス様の噂は色々と聞こえていたことでしょう。様々な病がイエスという方によって癒された。もう彼にとっては、イエス様に会いたい想いでいっぱいです。しかし、ここでの彼の期待は、あくまでもイエス様の癒やしです。病気を治してくれることです。評判の良い医者にかける期待と同じです。そんな彼の前に、今、イエス様と弟子たちのやりとりが聞こえてきた。否が応でも彼の期待は高まったことでしょう。それだけに、イエス様の為さることは、彼にとって意外で、そしてある種の失望観をもたらしたのではなかったか。
今日の箇所では、たった一行、「彼は行って、洗った。」とありますけれども、そのようにするには、色んな葛藤と戦いがあったことと思います。しかし、だからこそ、イエス様はこのような方法を取られたのではないか。つまり、この言葉に従うのには、沢山の疑問と不安、そして人々の噂と向き合いながら、それでも尚、信じて歩く決意が必要だからです。
たとえば、この場で、イエス様が彼の目を癒やされたなら、彼は即座にイエス様を見て感謝したでしょうが、しかし同時に、それでおしまいでしょう。癒やしてくれてありがとう。目を見えるようにしてくれてありがとう。しかし、彼は自分の弱さや不満、計算高さ、そういったあらゆるものと向き合うことをしないまま、癒やしの興奮の中でイエス様を忘れていくでしょう。けれど、イエス様は彼の目を閉ざしたまま、従うようにと命じられた。結果を見ないまま従えと言われた。彼の信仰を問われた。彼はそれに従ったのです。
神様のご計画は時に私たちの想像を遥かに超えます。しかし私たちはこれに、それは相応しくないとか、都合がよくないとか、あれこれと言うことはできません。なぜなら、神の救いのご計画は、私たちにとってはもっとも理解しがたい馬鹿げたものだからです。神の御子の死を通して、救いは完成した。これは私たちの考えを遥かに超えたことです。どう思うかが問われているのではありません。問われているのは信じることです。