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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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170219 ヨハネ9:6-12 「彼は行って、洗った」

ヨハネ9:6-12 「彼は行って、洗った」

 殺意を向けるユダヤ人指導者たちを後に、イエス様は宮を出ます。すると、通りに並ぶ大勢の物乞いの中に、一人の生まれつきの盲人がおりました。弟子たちはイエス様に尋ねます。「彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエス様は答えます。「神のわざがこの人に現れるためです。」
 これまでも様々な人を癒やしてこられたイエス様。いったいどんな奇跡がなされるのかと期待するところです。すると、イエス様は「地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗」られたのでありました。そして言います。「行って、シロアムの池で洗いなさい。」自分が汚しておいて、池で洗いなさいって言うんですから、いったい何のいたずらかと思います。だって、イエス様はお言葉一つで彼の目を治すことができるのです。なのになぜこんな回りくどいことをするのでしょうか。しかも、この場面。イエス様は盲人を連れてシロアムの池に行ったのではありません。泥を目で塗って、「洗ってきなさい。」と言って、ほっぽり出すのです。やっぱりちょっとしたいたずらなのでしょうか。
 いえ、イエス様がそうされたからには、やはりそこに意味があるのです。つまり、イエス様は彼の信仰を見ようとされた。そのために、彼の目が即座に開かないように、泥で塞がれたのではないでしょうか。
 イエス様は様々な方法で人々を癒やされます。しかしその時、決まってその人の信仰を試されます。なぜなら、病の癒やしはいっときの癒やしであり、イエス様が望まれるのは、罪からの癒やし、永遠の救いに他ならないからです。10人のツァラアトにかかった人がイエス様に癒やされて、祭司に見せに行った出来事がありました。けれどその中で感謝に戻って来たのは、たった一人でした。病が癒やされることは必ずしも救いに繋がるとは限りません。多くの人はラッキーと言って済ましてしまいます。ですから、イエス様は癒されると同時に、その人の信仰をご覧になられる。長血の女性を癒された後にわざわざ人前で告白させるのもその為ですし、ツロの地で汚れた女性をしばらく冷たくあしらったのもその為です。
 宮の前で座っていた彼には、イエス様の噂は色々と聞こえていたことでしょう。様々な病がイエスという方によって癒された。もう彼にとっては、イエス様に会いたい想いでいっぱいです。しかし、ここでの彼の期待は、あくまでもイエス様の癒やしです。病気を治してくれることです。評判の良い医者にかける期待と同じです。そんな彼の前に、今、イエス様と弟子たちのやりとりが聞こえてきた。否が応でも彼の期待は高まったことでしょう。それだけに、イエス様の為さることは、彼にとって意外で、そしてある種の失望観をもたらしたのではなかったか。
 今日の箇所では、たった一行、「彼は行って、洗った。」とありますけれども、そのようにするには、色んな葛藤と戦いがあったことと思います。しかし、だからこそ、イエス様はこのような方法を取られたのではないか。つまり、この言葉に従うのには、沢山の疑問と不安、そして人々の噂と向き合いながら、それでも尚、信じて歩く決意が必要だからです。
 たとえば、この場で、イエス様が彼の目を癒やされたなら、彼は即座にイエス様を見て感謝したでしょうが、しかし同時に、それでおしまいでしょう。癒やしてくれてありがとう。目を見えるようにしてくれてありがとう。しかし、彼は自分の弱さや不満、計算高さ、そういったあらゆるものと向き合うことをしないまま、癒やしの興奮の中でイエス様を忘れていくでしょう。けれど、イエス様は彼の目を閉ざしたまま、従うようにと命じられた。結果を見ないまま従えと言われた。彼の信仰を問われた。彼はそれに従ったのです。
 神様のご計画は時に私たちの想像を遥かに超えます。しかし私たちはこれに、それは相応しくないとか、都合がよくないとか、あれこれと言うことはできません。なぜなら、神の救いのご計画は、私たちにとってはもっとも理解しがたい馬鹿げたものだからです。神の御子の死を通して、救いは完成した。これは私たちの考えを遥かに超えたことです。どう思うかが問われているのではありません。問われているのは信じることです。

170212 ヨハネ9:1-5 「神のわざが現れるため」

ヨハネ9:1-5 「神のわざが現れるため」

 私たちは病気にせよ、悲惨にせよ、何か不幸があるときに、それに見合った理由を見つけようと必死になることはないでしょうか。なぜ、このようなことが起こるのか。それに対して、こういう理由なら仕方ない。と諦めるための納得の行く理由を探すのです。こんな罪を犯した。こんな失敗をした。だから今このような結果に陥っているのは仕方ない。そのような理由を探して、ようやくこの不幸を受け止める。納得しようといたします。
 でも、生まれつきの不幸の場合どうするのでしょうか。それは本人の罪や行いに見ることができません。ですから、これは先祖の罪の結果である。だから仕方が無い。とこういう風に納得をさせようとするのです。実はこういう考え方は珍しくありません。家族に何か不幸があったとします。すると、先祖の供養をしてないからでしょ。と、こういう話になる。あるいは風水が悪いだとか。前世がひどかったからだとか。新興宗教や霊感詐欺と呼ばれるものは大抵がこのようなものです。本人には確認のしようのないことに、なぜ人は飛びつくのでしょうか。それは多くの人は現状に理由を求めるからです。理由をつけないと現状に耐えられないのです。
 私たちは不幸の理由を過去に見出そうといたします。けれどイエス様は違います。イエス様は未来に理由を見られます。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」過去ではない。未来のために、今のこのこと、この時がある。これがイエス様の今の捉え方だと言うのです。今、辛いことがある。不幸がある。しかし、神のご計画はこれをも用いて働かれる。後に振り返るとき、このことが御心であることを知る。これがイエス様の人生についての、ものの捉え方です。
たとえば、この盲人が、イエス様と出会い癒されていきます。彼も彼をとりまく多くの人も、彼の現状を憂い、彼の過去に問題があると考えました。このことは何かの罰なのだとです。しかし彼が盲人であるがゆえに経験した、このイエス様による奇跡。このことが、これから後2000年もの年月の間、人々を励まし続け、主イエスを証し続けることになると誰が想像できたことでしょう。ただ神はそれをご計画しておられました。
 昨年の春に宣教区の青年会主催で星野富弘美術館に行きました。富弘さんの詩は絵葉書でよく見かけますが、実際に画かれた詩画は、さらに心に迫ってくるような気がいたしました。念願の中学校の体育教師となった富弘さんが、そのわずか2か月後、クラブ活動の指導中に、頸髄(けいずい)を損傷する大事故を起こしました。何とか一命をとりとめたものの、手足の自由を完全に失いました。24歳のことでした。手足が動かなくなったとき、どれほどの絶望だったでしょうか。きっと全てを呪ったことでしょう。恨んだことでしょう。過去の自分を振り返っては後悔ばかりしたことでしょう。なんで、体育教師なんかになったのか。なんで、子供たちの前で見本をしたのか。なんで、なんで、なんで・・・。けれど、神様は富弘さんの過去ではなくて未来を見ておられました。何でもできると突っ張っていた富弘さんは、食事もトイレもお風呂も、自分一人ではできません。誰かに支えられて、助けられて、生きる中で、本来の自分はただ神の憐れみの中に生かされている存在であることに気付いていくのです。雑草一本、小さな虫の一つにある生命を心から尊び、感動する富弘さん。事故があったとき、誰が富弘さんのこのような未来を思い描いたことでしょう。神様だけが知っておられました。神様は彼のこの痛み、苦難をも用いてくださったのです。
 私たちは思います。なんで私はこんな目に遭わなきゃいけないのか。いったい、何がいけなかったのか。けれど、過去を振り返るだけでは、そこには希望はありません。取り返しのつかない絶望と、あらゆる者に対する怒りだけが蘇ってきます。しかし、この試練の先にある未来に、神のご計画があるということを見るとき、私たちは今のこの時に意味を見出すことができる。困難が希望へと変えられるのです。

170212 出エジプト20:2-17 「主なる神の宣言」

出エジプト20:2-17 「主なる神の宣言」

 新年礼拝で、今年は十戒を通して私たちキリスト者の生き方についてを学びましょうと言いました。実は昨年、KGKの大嶋重徳主事がこの十戒の講解を出版し、私自身大変学ばされました。ぜひ皆さんと分かち合いたいと思いまして、こうして十戒の講解を始めたという次第です。
 さて今日はまだイントロダクションです。まずは十戒(律法)の役割を確認しておきましょう。一つは、私たちの罪を指摘して、私たちを弱さと向き合わせることです。そして主の恵みに目を向けさせるのです。つまり、私たちは律法を通して自分たちが神ならぬ者、愚かな罪人であることを知るのです。それゆえ、律法は私たちの目を恵みへと向けさせます。なぜなら私たちは律法によって、私たちの内には救いがないということを知るからです。
 二つ目は、私たちに正しい基準を設けて、私たちの生き方を整えるということです。私たちは救われた者ですが、世の価値観に影響されずにはいられません。私たちは相変わらず罪を犯してばかりの者です。しかし、律法は私たちが、神のみこころから逸れていないか。自分勝手に進んではいないか、といつも教えてくれるのです。自分がどこにいるかがわかれば私たちは正しい進路をとることができます。十戒は人生における灯台です。私たちの今ある所を示し、進むべき方向を知らしてくれるのです。
 そして十戒の三つ目の役割は、私たちを世と区別させ主を証しする者とするということです。私たちが自らを律法に照らして生きるということ。これがすでに世との特異点です。もちろん、私たちは神の律法を全うすることは適いません。その姿は世の人とどこが違うのかと指さされるかもしれません。けれどです。失敗の度に神に立ち返ろうと願うその姿勢が、すでに地の塩たるのです。

 さて、今日の箇所で神様はモーセに十戒を授けられます。ではその語り始めは何でしょう。それは「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」です。十戒を学ぶにあたって、実はこのところが非常に大事です。十戒と言うととかく十の戒めだけに目が行きがちです。けれど、十の戒めの前に、実は主なる神の宣言がある。ここを見逃すと、十戒は私たちを縛る足枷となってしまいます。律法は単なる義務となるのです。
 これに先立って、神はエジプトの地で10の奇跡をお見せになりました。海の底を通ってエジプト軍の追手から逃れさせてくださいました。天からのマナとうずらで、彼らを毎日養ってくださいました。今、イスラエルにこの戒めを与えられる主は、すでに彼らの生活に深く関わる、恵み豊かな神でした。つまり神は、ご自身の偉大さを明らかにした上で、提案を持ちかけられたのです。「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(19:5-6)そして民はこれに答えます「私たちは主が命じられたことを、みな行います。」(19:8)ですから、この契約は神から一方的に押し付けられたものではありません。神の恵みを体験した民が、この恵みに留まりたいと願い、自ら応じたのです。そして、その結果として与えられたのが十戒です。 ですから、神は民を罰せようとして十戒を与えているのではありません。十戒を通して、民をご自身との関係の中に留めようとしているのです。

170129 ヨハネ8:48-59 「噛み合わない言葉」

ヨハネ8:48-59 「噛み合わない言葉」

 仮庵の祭りが終わって翌日、宮で語られるイエス様の様子がずっと続いています。これまで、散々に議論してきて、ユダヤ人指導者たちはイエスとは何者かと探ってまいりました。そして最後に彼らが辿り着いた結論は、イエスは悪霊に憑かれているということであり、石で裁かれるべき存在だということでした。いったいなぜ、このような結論に至るのでしょうか。
 思い出したいのは、この一連の議論の最初にあった姦淫の女性の事件です。宮で話を始められたイエス様のもとに、姦淫の現場を取り押さえられた女性が引きずり込まれました。そして、この女性の処置をイエス様に尋ねるのでした。モーセの律法に照らせば、それは石打にすべきできごとです。しかし、人を処刑することは皇帝の許可なくしてはできないことでした。どちらを選んでも相手に攻め口上を与える。そういう質問に、イエス様は答えます。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に投げなさい。」他人を裁こうとするあなたたちこそ、自らの罪と向き合いなさい。とこうおっしゃられる。この言葉を聞いて、年長者から順々にその場を離れたのでありました。この時は石を収めたのです。自らが他人を裁く立場にないということに気付いたのです。けれどです。その彼らが、未だに宮に残っていて、イエス様と議論を交わしているのです。これをどう理解すればいいのでしょう。つまり、彼らが本当に石を投げたかったのは、姦淫の女性にではなくて、イエス様に対してだったということです。
 そもそも姦淫を裁くのなら、女性だけでなく男性も引き出されるべきです。彼らがそれをしなかったのは、彼らの意図が姦淫の女性を裁くことではなくて、その状況を用いてイエス様を陥れるためだったからです。つまり彼らが本当に石を投げたかったのは最初からイエス様でありました。
 イエス様と彼らの会話を見ていると、どうも嚙み合っていません。今日の箇所でユダヤ人指導者たちは、たとえばイエス様が「だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」と言いますと、すぐに反応して、「どんなに偉大なアブラハムも預言者も、みんな死んだのに、どうしてそんなことを言うのか」と反論します。また「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」とイエス様が言いますと、すぐに「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」とこう切り替えします。イエス様の言葉の真意を捕えようとはせず、言葉尻だけを捕えて非難しているように思います。
 結局のところ、彼らの議論は相手を理解しようとしてではなくて、自分の正義を押し付けているだけです。だから、どれだけ時間をかけても理解し合うことはありません。平行線のまま彼らは当初予定された結論へと向かうだけです。私たちは気をつけなければなりません。私たちの願う結論が、相手への理解を妨げることがあるということをです。
 今日は礼拝の後、教会総会があります。私たちは相手を理解するという気持ちを持たなければなりません。相手を非難するための議論は何も生み出しません。結論ありきで話し合いに臨んでも一向に解決を生み出すことはありません。結論はひとまず置いておきましょう。どれだけ自分の正義に自信を持っていても、私たちはまず相手に聞くということから始めようではありませんか。