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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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170326 ヨハネ10:1-18 「わたしは良い牧者です」

ヨハネ10:1-18 「わたしは良い牧者です」

 10章1節~5節のところで、イエス様は、羊の周りには実は盗人と牧者がいること、そして正しい牧者の下でこそ、羊たちは安心して過ごすことができることを語られます。しかし、弟子たちにはイエス様が語ることの意味が理解できません。そこで、イエス様は改めて、この良い牧者とはわたしのことだよと解き明かされるわけです。
 良い牧者と悪い牧者。それは普段はわかりませんが、危急の時になると明らかです。良い牧者は、羊のためにいのちを捨てます。一方、悪い牧者、偽物の牧者は羊を置き去りにして逃げ去ってしまうのです。イエス様は9節で「わたしは門です」とも言っています。羊を守るために設けた囲い。この囲いを出入りするためには門を通らなければなりません。良い牧者であるイエス様は、文字通りこの出入り口を塞ぐ門となって、羊の安全を確保する。命懸けで羊を守ると言っておられるのです。
 イエス様の奇跡を証言したばっかりに、ユダヤ人指導者たちによって、外に追い出された癒された盲人。これは単に神殿の外に追い出されたという意味ではありませんでした。これはユダヤ社会からの追放を意味します。すなわち、神の永遠の恵みから追い出されるということです。その人はこの地上での恵みだけでなく、死んだ後の祝福をも取り去られるのです。ですから、当時の指導者たちの裁きというのは絶対だったわけです。皆、彼らの裁きに怯えながら、従がわざるを得ない。口答えしない。そうでなければ生きていけないのです。ところが、イエス様は、そうではないと語られる。ユダヤの社会の中で、怯えながら、不本意に暮らしていくのとは、全く別の生き方があると語られるのです。あなたがたが本当についていくべき真の牧者がいるんだと語られる。そして、私こそがその牧者なのだと語られるのです。
 この癒された盲人には、このことがすぐに理解できました。彼が生まれて初めて自分の目で見たのが、この二人の牧者の姿でした。一人はイエス様、一人はユダヤ人の指導者たち。今まで何も見えなかった彼には、どちらが本物であるかすぐにわかりました。どちらが自分の人生に責任をもって下さる方かがわかりました。イエス様です。なぜなら、イエス様は彼の目を開いたのです。そして、人々に捨てられた自分のもとに駆け寄ってくれたのです。彼は自分の人生を真に囲って下さるお方が誰であるかを悟りました。そこで、彼は、これまでの人生と決別し、イエス様と共に生きるということを選びとることができたのです。
 私たちの牧者は誰でしょうか。私たちが頼りにするところはどこでしょうか。世には多くの偽牧者がおります。言葉巧みに、自分こそがキリストであると、私たちを惑わします。それは実際に力ある者として、魅力ある者として、私たちの前に現れます。甘い言葉を持って私たちに近付きます。私たちは耳に優しいその教えにうっとりいたします。しかし、そのような偽牧者は、狼が来ると羊を置き去りにして、いとも簡単に逃げ去ってしまうのです。簡単に梯子を下ろします。
 私たちはまことの良い牧者と共にあるべきです。イエス様こそ、私たちの付き従うべき牧者です。なぜならイエス様は羊のためにいのちを捨てるお方だからです。上辺の華やかさが、私たちを救うのではありません。この世の権力が私たちを守るのではありません。ただ、私たちのために命を捨てる、この愛が私たちを救うのです。

170319 ヨハネ9:35-41 「失われた羊は見つけられ」

ヨハネ9:35-41 「失われた羊は見つけられ」

 イエス様によって目が癒やされた盲人は、そのお方が神から出た方と証言したことで、会堂から追い出されました。これは社会的な死を意味します。目が癒やされて希望を抱いたのもほんのひとときの事でした。さぞかし悲嘆に暮れたことでしょうか。自分の強情さを後悔したでしょうか。しかし、そうはなりませんでした。イエス様が彼を見つけ出されたからです。
 イエス様は彼に声をかけます。「あなたは人の子を信じますか。」ここで言う「人の子」とは旧約聖書でしばしばメシヤを現す用語です。つまり、イエス様は「あなたは救い主を信じますか。」と尋ねているのです。もちろん。彼はそのつもりです。けれど、その救い主がどこにいる誰なのか、彼は知りません。ましてや目の前で語りかけられる方がそうだと、彼に言い切れるはずがありません。そんな彼にイエス様は「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」と。彼は間髪を入れずに応えます。「主よ。私は信じます。」彼はイエス様の前に平伏したのでありました。
 さて、イエス様は「わたしはさばきのためにこの世に来ました。」と言っています。この「さばき」とはもともとは「切れ目を入れる。分け目をいれる。」絡みついているものをきれいに解きほぐして分けるという意味です。では何と何を分けられるために来られたのか。それは見える者と見えない者とをです。ただし、単純に目が見える見えないというわけではありません。41節を見ると「私たちは目が見える。」と言っている者こそが見えない者。霊的に盲目な罪人だと、こう言っています。パリサイ人たちは、私たちは目が見える、罪の結果である盲人たちとは違うと誇っていました。だからこそ、彼らは自らの罪に気付かない霊的な盲目です。盲目かそうでないか、それは自らの罪に対して、盲目かそうでないか。イエス様はここをさばかれる。ここに線引をされるために来られたのです。
 そう考えると、盲人が宮から追い出されるという出来事を否定的にばかり見るのは間違いではないでしょうか。なぜなら、彼は宮を追い出されて後、主イエスの礼拝に招かれたからです。彼は仕分け線を越えたのです。
 覚えておきたいのは、神は、イエス様は、見つけ出してくださる方だと言うことです。信仰のゆえに居場所を失った一人ひとりをイエス様は決して放ってはおきません。主イエスを信じる信仰のゆえに宮から追い出される。私たちはこのことを恐れます。不安を感じます。何か私たちの根本が失われるような気がして、現状に留まろうとします。しかし、そうではないのです。宮から追い出された彼は、主イエスの交わりに招かれたのです。主イエスの礼拝がそこにはあったのです。失うよりも更に大きな祝福を用意して主イエスは声をかけられるのです。
 目が見えなかったその人が、今、目が開かれて主イエスを救い主として見上げる者とされました。この一連の盲人の癒やしは、このところまでを含んでが癒やしなのです。イエス様を信じて終わりではありません。それではその人はあらゆる関係から締め出されたままです。そうではない。その人は主イエスの礼拝に入れられるのです。教会に加えられるのです。私たちはキリストを信じるがゆえに、世と一線を引く者です。区別された者です。けれど、不安がる必要がありません。それは同時に主イエスの礼拝に、主イエスの教会に加えられたということだからです。

170312 ヨハネ9:24-34 「真実がもたらすもの」

ヨハネ9:24-34 「真実がもたらすもの」

 安息日に盲目を癒やされた男性に対して、パリサイ人から再度の尋問がなされる場面です。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。と言います。もはや、盲人の目がどう癒やされたかという話ではなくなっています。彼らはとにかく、イエスを罪人として訴える口実が欲しいのです。そのための証言を引き出したいのです。
 すると、盲目であった彼は答えます。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」イエスを訴えようとして、そのための証言を集めているパリサイ人に比べて、この盲目であった彼はイエス様について何も知りません。彼はイエス様の顔すらも知らないのです。彼が知るのはただ一つだけ。それは「私は盲目であったのに、今は見えるということです。」イエス様の99を知りながら、肝心の1の部分が一向に理解できないパリサイ人たち。一方で、イエス様のことで知るはただ一つだけ、その他のあらゆる部分は何も知らないという盲人だった彼。しかし、どちらがイエス様の本質を見抜いているかと言いますと、明らかにそれは、この盲人だった彼でした。イエス様を知るとは、イエス様についてあれこれと調べ上げて、知識を増すということではありません。それはイエス様の表面的なことを知るだけ。その本質を知るには至ません。そうではない。イエス様を知るとは、イエス様と出会うことです。生きて働かれる主イエスの取り扱いを覚えるということです。「私は盲目であったのに、今は見えるということです。」これ以上に知るべきことがあるでしょうか。それは理屈ではないのです。それは体験です。私の内に起こる変化です。その出会いさえあれば、教会生活の長さは関係がありません。神学書の読んだ数は問われません。それは否定できない確信となって、その人を信仰に導くのです。
 彼の両親が危惧したことは、当然彼も知っていたことです。「イエスをキリストであると告白する者があれば、その者を会堂から追放する」。ですから、適当に話を合わせることも出来たのです。パリサイ人たちがどんな回答を求めているのか。彼にも予想が付いたでしょう。彼らの喜ぶ回答をすることもできた。しかし彼はそうはしません。「あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」と問い返す。つまり、自分もあの方の弟子になりたい。と、こう心に決めているのです。そして言います。「神は罪人の言うことはお聞きになりません。・・・もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」実は冒頭、パリサイ人たちは「神に栄光を帰しなさい。」と言って尋問を始めました。この言葉は「神ご自身に真実を語ることによって神に栄光を帰す。」という意味です。そして、まさに彼は真実だけを語ったのです。
 では真実を語った結果、彼はどうなったのでしょうか。神に栄光を帰したのだから、さぞかし褒められたことでしょうか。いえ、彼は神の前に正直であった結果、追放されたのです。つまり、ユダヤ社会から爪弾きにされた。村八分にされたのです。あんまりの結果です。けれど、これが信仰者の道なのです。イエス様は世の権威と相容れないお方です。いえ、世の権威がイエス様を受け入れないのです。そんな中、イエス様の旗印を立てるということは、世から追い出されるということなのです。イエス様の弟子となるとは、いったい何なのかと考えてしまいます。怖気づきます。けれど、私たちはここが事の結末ではないということを覚えたいのです。世から追い出されて、終わりではない。むしろ世から出ることができたからこそ、私たちは新しい世に入れられるのです。
 私たちが必死にしがみついているこの世は、本当にそれだけの価値があるでしょうか。神に偽ってでも留まり続けるのはなぜなのでしょうか。神に栄光を帰しなさい。神に偽りなく生きる者は悔いることがありません。一方、後ろめたい気持ちを抱えながら妥協する人生は後悔ばかりです。私たちは悔いることのない真実を歩んでまいりましょう。

170305 出エジプト20:3 「ただ神を認めて」

出エジプト20:3 「ただ神を認めて」

 「あなたにはわたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」この十戒の第一戎を読むと「だからキリスト教は好きになれない」という意見をよく聞きます。八百万の神々を信じる神道や、あらゆる教えを吸収して発展してきた仏教などに慣れ親しんできた日本人にとって、唯一神を信じるキリスト教は排他的で独善的な宗教だと、こうなるのでしょう。そして、これはある意味で、事実だと思います。キリスト者はこと神に関しては、絶対に譲れない一線を持っています。だからこそ、キリスト者は時の権力者から弾圧を受ける対象となってきたのです。ダニエルも、パウロも、高山右近も、みなその信仰のゆえに苦しみを受けました。たとえ脅されようとも、頑なに信仰を貫き通す。権力には従わない。キリスト者にはそんな融通の利かない一面があります。なぜなのでしょう。それは決して賢い生き方には思えません。その場の空気を読んで、多数に便乗した方が、よっぽど楽じゃないですか。信仰は行いではなくて心の問題ではないでしょうか。なのになぜキリスト者たちは、融通を利かせないのでしょうか。適当に折り合いをつけないのでしょうか。それはつまり、キリスト者とは絶えず自分を見ておられる神の存在を意識しているからに他なりません。
 このところ「わたしのほかに」と訳されている部分の、もともとの意味は「わたしの顔の前に」という意味です。「神様の面前で」ということです。つまり、私たちは絶えず神様の前に立っているということを意識しなければなりません。それは何も、神様に見張られているということではありません。むしろ、いつもあなたに気をかけ、目を留めて、期待を寄せておられる方がおられる。そして、このお方は、あなたがその期待に応えることを望んでおられるということです。
 イエス様の裁判の折、ペテロはイエス様を3度否みます。すると鶏が鳴き、ペテロは我に返って己の過ちに気付き、外に飛び出して激しく泣くこととなります。ご存知ペテロの否認の出来事です。この時、イエス様は「振り向いてペテロを見つめられた。」とルカの福音書にあります。この時の主のまなざしが、ペテロを非難していないことは明白です。主は、あらかじめ、ペテロの三度の否認を知っており、それゆえに、立ち直ったら兄弟を励ましなさい。と命じられていたからです。そのまなざしは、ペテロを労わっていた。気遣っていた。この後、自らの愚かさに打ちひしがれる弟子の身を案じておられた。そして、大丈夫だ。必ず立ち直れるから。とエールを送っておられたのです。神の面前に立つとは、そのような神のまなざしをいつも覚えて振る舞うということです。
 そして、このような神のまなざしは、当然、私たちの応答を求めます。神は私たちを見守るだけでなく、私たちとの双方向の関係を築きたいと願って下さるからです。私たちは、ほかの神々を認めることはできません。それはまことの神のまなざしを裏切ることです。これは、心が狭いとか、独善的だとか、そういう問題ではないのです。なぜ、ほかの神々があってはならないのか。それは、あなたを見ているまことの神がおられるからです。神があなたを労り、あなたに気をかけ、あなたを特別の存在として認めておられるのです。私たちは赤の他人のことは気になりません。他人でないから気になるのです。神もあなたを他人とは見ません。特別な存在として気に留め、ご覧になってくださるのです。
 寛容な神とは何でしょうか。色々な神々と並び立つ神とはどんなものでしょう。それは全くもって信じるに値しないものです。「ああ、その願いは私の専門外だから、別の神様のところに行ってください。」という神々です。「あなたは私の氏子ではないから、助けることはできませんよ。」という神々です。
 私たちは、私をいつも見てくださる唯一の神のまなざしを覚えながら、これに相応しい者でありたいと思います。それは裁きを恐れるからでなく、報酬を求めてでもなく、神の愛に見守られるがゆえにです。

170226 ヨハネ9:13-23 「盲目のパリサイ人」

ヨハネ9:13-23 「盲目のパリサイ人」

 シロアムの池で目の泥を洗い流した盲人の彼は、目が見えるようになっていました。今まで彼は、音だけの世界に生きていました。色や景色は、彼にとっては想像すらできない、存在しないものでした。それが、今、彼の目に飛び込んでくる。世界が変わったのです。彼は自分の身に起きた奇跡に打ち震えたことではなかったでしょうか。
 彼の変化にいち早く気付いた近所の人達の間では騒ぎとなりました。それはそうでしょう。みんな彼の変化に驚き事の真相を迫ったのです。ところがその内の一人が、この盲人だった彼をパリサイ人の下に連れて行きました。すると、パリサイ人は、彼の癒しが安息日に起きたということに嚙みついたのです。
 安息日規定というのは、ご存知十戒の第4戒に基づく、もっとも基本的な律法の一つです。安息日を守るというのは具体的な行動を伴うことなので、他の戒めと比べて罪を判別しやすい戒めです。それだけにユダヤ人たちはこれを信仰の試金石として重要視してきました。彼らからすると、泥を捏ねることも、塗ることも、洗い流すことも、全て労働でした。
 しかしです。考えたいのは、そもそも安息日とはどういう日だったかということです。もちろん、それは神がこの世界を創造され、7日目に創造のわざを休まれ、ご自身の創造の賜物であるこの世界をご覧になり、これを良しとされた、その日になぞらえて、神が命じられた安息の日のことです。ではその意図するところは何でしょうか。それは神のわざに目を向けるということです。そのために自らの手を休めるということなのです。つまり、安息日規定の目的は、休むこと、ではなくて、神を覚えること。そして、神を称えること。つまり神を礼拝することにこそあるわけです。たとえば安息日を守るために、働かずに部屋にこもって、一日布団を被って過ごす。これ、安息日を守っているかと言いますと、否ですね。休むことは、神に思いを馳せるためです。自分のために過ごさないためです。
 であるならば、安息日に、目の前の人を救うことは、みこころに背いていることになるのでしょうか。少なくとも、この出来事を通して、毎日を呪いと嘆き、妬みの中で過ごしていた一人の盲人が、目を開いて、明日に期待して生きるようになったのです。彼は神の恵みに触れて、神を讃える者となりました。そして、多くの人が彼のうちに現れた神のわざを目にして驚きました。この出来事が、神のみこころに背いているとは、私にはとても思えません。
 なぜ、パリサイ人たちは、彼のこの変化を見て、まず喜んでやれないのでしょうか。それはパリサイ人たちが彼の変化を知らないからです。パリサイ人は彼が生まれつきの盲人であることを疑います。つまり彼の以前の姿を知らないのです。彼が神殿の前に座るのは今に始まったことではありません。恐らくは、物心が付いてから毎日、神殿の前で物乞いをしていたことでしょう。しかし、パリサイ人たちは彼に気付かない。関心がないのです。だから、彼の変化に気付かない。それが如何に素晴らしい出来事か、共に喜んでやることができないのです。彼らはその日が安息日であることを知っています。ところが目の前で起きた神のわざを決して見ようとはしないのです。
 いったいどちらが盲人なのかと言わざるを得ません。岩戸の中に隠れる伝説の如く、安息日に神は休んでおられないとでも言うのでしょうか。そんなことは決してありません。神は安息日にも神です。だからこそ、私たちは神を礼拝するのです。私たちはことの表面だけを見て判断しないようにしたいと思います。神のみ教えに従うということは、神のみこころに生きるということです。そして神のみこころは、私たちが神を愛し、人を愛することに他なりません。目の前の一人を愛すること。一人に仕えることに制限はありません。なぜなら、それは同時に神を愛することでもあるからです。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち。しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」