ヨハネ10:22-30 「わたしの羊」
エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。と言います。宮きよめの祭りとは何でしょう。それは、紀元前2世紀中頃のこと、時の支配者シリヤ・セレウコス朝の王アンティオコス4世エピファネスによってエルサレム神殿が徹底的に汚されたことに対して、ハスモン家の祭司マタティアとその子ユダ・マカベアが武装蜂起し、この強大なシリア軍との戦いに勝利したことを記念して祝われるようになったものです。
で、この宮きよめの祭りの時に、神殿のソロモン廊で、ユダヤ人指導者たちがイエス様を取り囲んで問い質すのです。「あなたがキリストなら、はっきりそう言ってください。」エルサレム中が、ユダ・マカバイの偉業を讃え、それと同時に今またローマの属国となっている現状を嘆いている。皆がユダ・マカバイに代わる救い主の存在を待ち望んでいる。そういう雰囲気の中でのこの質問です。つまり、あなた本当にユダ・マカバイに代わる救い主なんですか?もっと言うなら、あなたはこのユダヤに独立を再びもたらすつもりはあるんですか?とこういう質問だったわけです。
ユダヤ人指導者と言っても、一枚岩ではありません。サドカイ派の人々は、権力と結びついていましたから、ユダヤの独立を願いません。けれどパリサイ派の人々は違います。神の民としての自負が強い彼らは、現状の、異教の国に従属する状況を良くは思っていません。また、彼らよりももっと過激にユダヤ独立を画策する熱心党の人々もおりました。実はユダヤの中には、誰かが武装蜂起をリードしてくれるなら、これに加わって立ち上がろうと考えている人たちが少なからずおりました。立ち上がるまではできなくても、これを支えよう。応援しようという人たちは沢山いたのです。イエスが神の子と言うのは許せない。けれど、イエスが救い主であると言うのなら話は別です。もしイエスが我こそはユダヤに真の独立もたらす救い主だとはっきりと宣言するならば、これを認めても良い。
すると、この質問に対してイエス様は、わたしは永遠のいのちを与えるという意味で救い主なのだと、こうおっしゃられるのです。このことはもう何度も話したのに、あなたたちはちっとも信じない。それは、あなたたちがわたしの羊に属していないからだ。わたしの羊ならわたしの声を聞き分けるはずですから。とこうおっしゃるのです。
救い主に対する人々の間違った期待を正すイエス様です。私は救い主だけど、ユダヤの独立を企てるような者ではないですよ。永遠のいのちを与える者ですよ。それこそが救い主なんですよ。しかし、このことは、更なる人々の反感を買うこととなります。31節「ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。」こうして、十字架へのカウントダウンが着々と数えられていったというわけです。
さて、イエス様は言いました。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。」私たちはこのイエス様の声に、今一度聞きたいと思います。先には、イエス様はご自身が羊のためにいのちを捨てる羊飼いであることを語りました。ここでは、イエス様が命を懸けるその羊についてを語られます。「わたしの羊は、わたしの声を聞き分けます。」少なくともイエス様は、ご自身の民に対して、どうせあなたがたにはわからないから、好きにしたら良いよ。と無関心を装おう方ではなくて、ご自身の声を聞き分けるように。ご自分の声を聞いて従うように。わたしの羊なら当然そうするでしょう。と、期待してくださる方だと言うことです。あなたを命懸けで守るから、あなたもわたしの声を命懸けで聞きなさい。と、真剣にその関係を築こうとしてくださるイエス様です。
時にその言葉は私たちには不自由で、面倒で、聞き流したくなることもあるかもしれません。けれども、それは神の期待の表れでもある。神は私たちが神の愛に応えることに、諦めておられないのです。何度も何度も神を裏切り続ける愚かな私を見放さない。私たちが神の言葉に聞き従うのはこの神の愛に由来するものです。救いのためのノルマではありません。自分の名誉のためでもありません。もうあなたのことはうんざりだ。もうあなたには何の期待もしない、ということは決してなくて、真剣に、諦めずに、私に関わり続けてくださる方がおられる。ですから、私たちもまた真剣に、諦めずに、この方の声を聞き分けるのです。
エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。と言います。宮きよめの祭りとは何でしょう。それは、紀元前2世紀中頃のこと、時の支配者シリヤ・セレウコス朝の王アンティオコス4世エピファネスによってエルサレム神殿が徹底的に汚されたことに対して、ハスモン家の祭司マタティアとその子ユダ・マカベアが武装蜂起し、この強大なシリア軍との戦いに勝利したことを記念して祝われるようになったものです。
で、この宮きよめの祭りの時に、神殿のソロモン廊で、ユダヤ人指導者たちがイエス様を取り囲んで問い質すのです。「あなたがキリストなら、はっきりそう言ってください。」エルサレム中が、ユダ・マカバイの偉業を讃え、それと同時に今またローマの属国となっている現状を嘆いている。皆がユダ・マカバイに代わる救い主の存在を待ち望んでいる。そういう雰囲気の中でのこの質問です。つまり、あなた本当にユダ・マカバイに代わる救い主なんですか?もっと言うなら、あなたはこのユダヤに独立を再びもたらすつもりはあるんですか?とこういう質問だったわけです。
ユダヤ人指導者と言っても、一枚岩ではありません。サドカイ派の人々は、権力と結びついていましたから、ユダヤの独立を願いません。けれどパリサイ派の人々は違います。神の民としての自負が強い彼らは、現状の、異教の国に従属する状況を良くは思っていません。また、彼らよりももっと過激にユダヤ独立を画策する熱心党の人々もおりました。実はユダヤの中には、誰かが武装蜂起をリードしてくれるなら、これに加わって立ち上がろうと考えている人たちが少なからずおりました。立ち上がるまではできなくても、これを支えよう。応援しようという人たちは沢山いたのです。イエスが神の子と言うのは許せない。けれど、イエスが救い主であると言うのなら話は別です。もしイエスが我こそはユダヤに真の独立もたらす救い主だとはっきりと宣言するならば、これを認めても良い。
すると、この質問に対してイエス様は、わたしは永遠のいのちを与えるという意味で救い主なのだと、こうおっしゃられるのです。このことはもう何度も話したのに、あなたたちはちっとも信じない。それは、あなたたちがわたしの羊に属していないからだ。わたしの羊ならわたしの声を聞き分けるはずですから。とこうおっしゃるのです。
救い主に対する人々の間違った期待を正すイエス様です。私は救い主だけど、ユダヤの独立を企てるような者ではないですよ。永遠のいのちを与える者ですよ。それこそが救い主なんですよ。しかし、このことは、更なる人々の反感を買うこととなります。31節「ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。」こうして、十字架へのカウントダウンが着々と数えられていったというわけです。
さて、イエス様は言いました。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。」私たちはこのイエス様の声に、今一度聞きたいと思います。先には、イエス様はご自身が羊のためにいのちを捨てる羊飼いであることを語りました。ここでは、イエス様が命を懸けるその羊についてを語られます。「わたしの羊は、わたしの声を聞き分けます。」少なくともイエス様は、ご自身の民に対して、どうせあなたがたにはわからないから、好きにしたら良いよ。と無関心を装おう方ではなくて、ご自身の声を聞き分けるように。ご自分の声を聞いて従うように。わたしの羊なら当然そうするでしょう。と、期待してくださる方だと言うことです。あなたを命懸けで守るから、あなたもわたしの声を命懸けで聞きなさい。と、真剣にその関係を築こうとしてくださるイエス様です。
時にその言葉は私たちには不自由で、面倒で、聞き流したくなることもあるかもしれません。けれども、それは神の期待の表れでもある。神は私たちが神の愛に応えることに、諦めておられないのです。何度も何度も神を裏切り続ける愚かな私を見放さない。私たちが神の言葉に聞き従うのはこの神の愛に由来するものです。救いのためのノルマではありません。自分の名誉のためでもありません。もうあなたのことはうんざりだ。もうあなたには何の期待もしない、ということは決してなくて、真剣に、諦めずに、私に関わり続けてくださる方がおられる。ですから、私たちもまた真剣に、諦めずに、この方の声を聞き分けるのです。