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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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170423 ヨハネ10:22-30 「わたしの羊」

ヨハネ10:22-30 「わたしの羊」

 エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。と言います。宮きよめの祭りとは何でしょう。それは、紀元前2世紀中頃のこと、時の支配者シリヤ・セレウコス朝の王アンティオコス4世エピファネスによってエルサレム神殿が徹底的に汚されたことに対して、ハスモン家の祭司マタティアとその子ユダ・マカベアが武装蜂起し、この強大なシリア軍との戦いに勝利したことを記念して祝われるようになったものです。
 で、この宮きよめの祭りの時に、神殿のソロモン廊で、ユダヤ人指導者たちがイエス様を取り囲んで問い質すのです。「あなたがキリストなら、はっきりそう言ってください。」エルサレム中が、ユダ・マカバイの偉業を讃え、それと同時に今またローマの属国となっている現状を嘆いている。皆がユダ・マカバイに代わる救い主の存在を待ち望んでいる。そういう雰囲気の中でのこの質問です。つまり、あなた本当にユダ・マカバイに代わる救い主なんですか?もっと言うなら、あなたはこのユダヤに独立を再びもたらすつもりはあるんですか?とこういう質問だったわけです。
 ユダヤ人指導者と言っても、一枚岩ではありません。サドカイ派の人々は、権力と結びついていましたから、ユダヤの独立を願いません。けれどパリサイ派の人々は違います。神の民としての自負が強い彼らは、現状の、異教の国に従属する状況を良くは思っていません。また、彼らよりももっと過激にユダヤ独立を画策する熱心党の人々もおりました。実はユダヤの中には、誰かが武装蜂起をリードしてくれるなら、これに加わって立ち上がろうと考えている人たちが少なからずおりました。立ち上がるまではできなくても、これを支えよう。応援しようという人たちは沢山いたのです。イエスが神の子と言うのは許せない。けれど、イエスが救い主であると言うのなら話は別です。もしイエスが我こそはユダヤに真の独立もたらす救い主だとはっきりと宣言するならば、これを認めても良い。
 すると、この質問に対してイエス様は、わたしは永遠のいのちを与えるという意味で救い主なのだと、こうおっしゃられるのです。このことはもう何度も話したのに、あなたたちはちっとも信じない。それは、あなたたちがわたしの羊に属していないからだ。わたしの羊ならわたしの声を聞き分けるはずですから。とこうおっしゃるのです。
 救い主に対する人々の間違った期待を正すイエス様です。私は救い主だけど、ユダヤの独立を企てるような者ではないですよ。永遠のいのちを与える者ですよ。それこそが救い主なんですよ。しかし、このことは、更なる人々の反感を買うこととなります。31節「ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。」こうして、十字架へのカウントダウンが着々と数えられていったというわけです。

 さて、イエス様は言いました。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。」私たちはこのイエス様の声に、今一度聞きたいと思います。先には、イエス様はご自身が羊のためにいのちを捨てる羊飼いであることを語りました。ここでは、イエス様が命を懸けるその羊についてを語られます。「わたしの羊は、わたしの声を聞き分けます。」少なくともイエス様は、ご自身の民に対して、どうせあなたがたにはわからないから、好きにしたら良いよ。と無関心を装おう方ではなくて、ご自身の声を聞き分けるように。ご自分の声を聞いて従うように。わたしの羊なら当然そうするでしょう。と、期待してくださる方だと言うことです。あなたを命懸けで守るから、あなたもわたしの声を命懸けで聞きなさい。と、真剣にその関係を築こうとしてくださるイエス様です。
 時にその言葉は私たちには不自由で、面倒で、聞き流したくなることもあるかもしれません。けれども、それは神の期待の表れでもある。神は私たちが神の愛に応えることに、諦めておられないのです。何度も何度も神を裏切り続ける愚かな私を見放さない。私たちが神の言葉に聞き従うのはこの神の愛に由来するものです。救いのためのノルマではありません。自分の名誉のためでもありません。もうあなたのことはうんざりだ。もうあなたには何の期待もしない、ということは決してなくて、真剣に、諦めずに、私に関わり続けてくださる方がおられる。ですから、私たちもまた真剣に、諦めずに、この方の声を聞き分けるのです。

170416 ヨハネ11:38-44 「あなたは復活を信じますか」

ヨハネ11:38-44 「あなたは復活を信じますか」

 ラザロが死んですでに4日が経っていました。ラザロのお姉さんであるマルタとマリヤは、イエス様が来てくれさえすれば、ラザロも助かる。とそう思って、イエス様に遣いを出しました。彼女たちはイエス様を心から信頼していたのです。ところが、待てど暮らせど、イエス様は来ない。そして、とうとうラザロは死んでしまったのです。
 愛する人が死んでいくのを、ただ見守るしかないということは、いったい、どれほど辛いことでしょうか。何度も言うようですが、彼女たちは、イエス様が神の子キリストであることを信じているのです。心からイエス様を信頼していた。・・・けれど、だからこそ、思うのです。あなたがここにいてくださったなら弟は死ななかったでしょうに。あなたが来るのが遅すぎました。とです。そうでしょう。私たちも相手が医者だから、期待もするし憤りもするのです。たとえば大工さんを捕まえて、何でうちの子を治してくれないんだとは言いません。相手が病気を癒す能力があるから期待する。だからこそ、余計に思うのです。なぜあなたはここにいて下さらなかったのですか。
 そのイエス様が、今、墓の前に立って言うのです。「その石を取り除けなさい。」しかし、マルタは言います。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」マルタがイエス様の言葉に戸惑ったのもわかります。四日も経てば、肉は腐敗し死臭が漂います。それは弟の死のリアルです。彼女たちは死して尚、弟を愛していたいのです。綺麗に別れたいのです。ところが、その死の匂いは、その愛する家族ですらも顔をそむけてしまう匂いです。腐敗し、虫が湧き、体内のガスが抜けて、体液が飛び散る。そういう死の匂いです。見たくないのです。蓋をしていたいのです。そんなことをしても死の現実に直面するだけなのです。イエス様が今更何をしようと全ては遅すぎる、無駄なのです。
 けれど。本当に無駄なのでしょうか。私たちは考えなければなりません。本当に意味がないことなのでしょうか。死者の復活など科学的でない。とおっしゃる方がいます。けれど科学的であることに、いったいどれほどの意味があるのでしょうか。4日も経てば、そりゃ、臭くなっているでしょう。それが科学的な常識とある人は言うでしょう。けれど、その常識が私たちにいったい何をもたらすのでしょうか。イエス様はここで、私たちの常識に挑戦しています。私たちはいったい何を握りしめているのか。と問うているのです。
 イエス様は言うことは全く違います。「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」主イエスの希望は、死が終わりではないというものです。死の先がある。よみがえりです。永遠のいのちです。天の御国の約束です。私たちはどこかで思ってはいないでしょうか。死は全ての終わりであると。死を前にしては、何者も勝利することはできないと。マルタとマリヤも同じでした。確かに彼女たちはイエス様を信じていました。イエス様に信頼しています。それでも、弟の死という圧倒的な現実の前では、彼女たちはもう何の希望も持てないでいたのです。イエス様の奇跡も愛情も、生きている間でなければ何の意味もない。と、そう常識に照らして理解していた。でも、そうではないのです。イエス様はその死にすらも勝利されるのです。イエス様が死に勝利された。これがイースターの出来事です。そして、このお方を信じる者は、このお方と等しく扱われるのです。私たちもまた終わりの日によみがえる。私たちにとって死は全ての終わりではなくて、永遠への通過点と変えられるのです。
 「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

170409 ヨハネ10:19-21「悪霊を持ち出さずとも」

ヨハネ10:19-21「悪霊を持ち出さずとも」

 イエス様の話されることを聞いて、ユダヤ人たちの間で分裂が起こりました。イエス様の言葉に反対する者と賛同する者とにです。反対する者たちはイエス様を「悪霊に憑かれて気が狂っている。」と言いました。一方賛同する者たちは「悪霊に憑かれた者のことばではない。」と言いました。イエスは悪霊に憑かれた者かどうか。これが分裂の争点でした。
 ユダヤ人指導者たちにとって、イエス様は認められない存在でした。それは律法の権威に反する者だったからです。けれど、同時に、イエス様の為さる奇跡の数々を認めないわけにはいきませんでした。苦々しいことですが、そこには実際にイエス様によって癒される人々がいたからです。たとえ神殿から追い出しても、目が癒やされた男の口を閉ざすことはできませんでした。奇跡は事実。それを認めないことは、民衆から反感を受けるでしょう。しかし、そこに神の権威を認めることは決してできない。そこで彼らは、イエス様が悪霊に憑かれているとして、事を終息させようとしたのです。
 しかしそれは、あまりにも結論ありきの話ではないでしょうか。イエス様に神の権威を認めない。そのために導き出されたのが、悪霊でした。ここに問題があるのです。聖書に記されますから、悪霊は確かにいるのです。その存在を否定することは私たちにはできません。私たちは悪霊に対して、十分に備える必要があります。けれども、何でもかんでも、悪霊を持ち出して事を測る、というのはどうかと思うのです。
 私は以前、ある教会で悪霊追い出しの集会に出くわしたことがあります。悪霊追い出しというのは、いわゆるエクソシストです。あらゆる病や不幸の原因は悪霊にあるから、イエスの名によって悪霊を追い出さなくてはならない。と、こういう理屈です。集会の最中、参加者の中から奇声を上げて暴れる人が現れて、それに対して牧師は「イエス・キリストの名によって命じる。悪霊よ。出て行け。」そう言って、信徒に触れていきます。すると、皆次々と力を失って倒れ込んでいくのです。私にはその目の前の出来事をどう捕らえて良いのか、わかりませんでした。ただただ戸惑っていました。それは事実かもしれないし、そうでないかもしれない。けれど、1つ感じたことは、悪霊という存在にあまりにも左右されるその信仰のあり方に対する違和感でした。
 CSルイスの「悪魔の手紙」という小説があります。見習い悪魔がベテラン悪魔に人間を誘惑するための手ほどきを受けるために手紙のやり取りをするという内容です。大変興味深い小説ですが、そこで記される悪魔の一番の目的とは何か。それは人を神から引き離すことです。そのために、時には沢山の金品を用意したり、時には恐ろしい悪魔の存在をチラつかせたり。つまり、神以外のものに目を向けさせるのです。悪魔、悪霊という存在は確かに人に対して圧倒的な力を持っているように思います。けれどです。そこにあまりにも目を向けると肝心の神を見上げることができません。そもそも、悪魔が束になってかかっても、全く敵わないのが神様です。2000体もの悪霊が人に憑こうと、言葉一つで追い出す権威を持つ方がイエス様です。ですから私たちは、聖霊が私たちの内に住まわれるという事実に、もっと意識を向けるべきなのです。目の前の出来事に悪霊を持ち出して説明せずとも、私たちはそこに神の御手があることを知っています。神様のご計画はあまりにも大きくて、私たちはその一切を知ることはできませんが、しかし、その一端に触れていることはわかります。聖霊が共におられるからです。人知を超えるのは、悪霊ではなくて、神です。私たちは脇目も振らず、ただこのお方を見上げてまいりましょう。

170402 出エジプト20:4-6 「偶像を退け」

出エジプト20:4-6 「偶像を退け」

 今日の箇所は第2戒、偶像礼拝の禁止です。一見すると第1戒と第2戒は同じようなことを言っているように思えますが、その方向性は随分と違います。第1戒はまことの神のみを礼拝するようにと命じられ、第2戒はまことの神ではないものを神としない、ということが命じられている。つまり、コインの表裏のような関係。どちらも唯一の神への信仰を求めるものですが、第2戒には明確に偶像を拒否するという意志の現れが求められるのです。
 では偶像とは何でしょう。何か他の神々の像、例えば仏像とかゼウス像とか、道端にあるお地蔵さんとか、そういうものを想像されるかもしれません。もちろん、それも偶像ですけれども、この第2戒が言っている偶像は、もっと身近で、もっと広範囲のものです。
 たとえばです。偶像という言葉を英語ではアイドルと言います。一昔前のアイドルの追っかけと呼ばれる人たちは、○○命、といったハチマキをしていました。○○命。松田聖子命。とか、小泉今日子命。とかですね。この人のためになら死んでもいい、と崇拝する存在。これがアイドルというわけです。尾崎豊がなくなったとき、沢山の後追い自殺がありました。それら一部のファンにとって尾崎豊は完全に神となっていたわけです。
 偶像とは、本来神によって造られ、神のために生きる目的をもった人間が神以外のものに依存して生きる。この神以外の全てのものが偶像となり得るのです。ですから偶像を作るとは、自分に都合良く、神の代わりを作りあげるということなのです。
 あらゆる偶像は人が幸せになりたいという願望から生まれたものと言えるでしょう。では幸せは何がもたらしてくれるのか。お金があれば幸せになれると信じる人にとっては、お金こそが神となりましょう。学歴があれば幸せになれると信じる人は学歴が偶像に。あのアイドルがいれば幸せになれると言うならば、そのアイドルを偶像としているのです。偶像はその人の生き方を束縛します。人生の目的をその偶像に向けてしまうのです。そしてさらに問題なのは、その偶像が失われるとき自身の拠り所をも失ってしまうことです。お金を神としていたとして、ではそのお金に裏切られれば、その人はいったい何を目的として生きればいいでしょう。学歴は。アイドルは。神の代わりは所詮代わりでしかありません。永遠ではない。完全ではない。求めていた理想が打ち破れたとき、人はいったいどうなってしまうのでしょう。
 この第2戒を学ぶにあたって、どうしても触れなければならないのは、教会の過去の過ちについてです。先の戦争の折、教会は偶像礼拝の罪を犯しました。教会では礼拝に先立って、必ず、宮城遥拝(きゅうじょうようはい)と君が代斉唱が行われました。教団のトップが神社参拝をし、伝道報国を掲げ、天皇に仕えることがキリスト者の生き方であると教えられました。そして、これら全ては国民儀礼であるというのが当時の教会の言い分でした。教会は神の前にどうあるかを問う前に、国家の前にどうあるかと問うたのです。覚えておきたいのは、彼らも聖書の神を信じていたのです。私たちよりも信仰が劣っていたとか、信じていなかったということではなくて、むしろ、熱心に聖書の神を信じていた。けれど、そこに別の要素を並び立ててしまったのです。
 今、世の中を戦前のあり方に戻そうとする動きが急速に力をつけてきています。教育勅語を暗証させる幼稚園が批判を浴びていますが、あれがまかり通る時代を取り戻そうとする動きです。再び国民としてどうあるかを問われる時代が来るとして、私たちは再び同じ過ちを犯さないと言えるでしょうか。神を信じているから大丈夫という話ではないのです。私たちはまことの神を神として認める。ということだけでは不十分です。私たちは神ならぬものを認めない。という断固とした意思と姿勢を持たなくてはならないのです。