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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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170521 ヨハネ11:17-29 「わたしはよみがえりです」

ヨハネ11:17-29「わたしはよみがえりです」

 マルタはイエス様が来られたと聞いて出迎えに行き、そして言います。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」文句の一つも言いたいところでしょうか。その割には冷静な印象もうかがえます。三日間泣き疲れて、少し呆然としているといった様子でしょうか。イエス様はそんなマルタを気遣って言います。「あなたの兄弟はよみがえります。」すると、マルタは答えます。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
 民の多くはパリサイ人たちから聖書を学びましたから、彼らの神学の影響を受けています。それは復活の信仰です。義人は終わりの日によみがえり、悪人はゲヘナの火で永遠に滅ぼされる。マルタとマリヤも、そのような終末観を持っておりました。マルタは答えました。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」これはまさに当時のパリサイ人たちが信じていた復活信仰です。終わりの日に神の民はよみがえらされる。そしてこれは、私たちも信じるところではないでしょうか。
 しかしです。そのような復活信仰が、果たして本当に慰めとなるのだろうか。とも、思わされるのです。いえ、これが間違いだと言いたいのではありません。ダニエル書12章には復活の希望が記されています。そしてそれは確かな真実です。神の民は終わりの日に目を覚まし、永遠のいのちにいれられる。しかしです。この教えが、この教理が、果たして今まさに家族を失って悲しみを抱えるその者に、いったいどれほどの慰めとなるのだろうか、と思わされるのです。
 たとえばです。皆さんの愛する人が亡くなったとします。その人はイエス様を信じているから終わりの日によみがえりますよ。悲しまなくていいですよ。と言われたら、皆さんは納得がいくでしょうか。「だから何?」とはならないでしょうか。終わりの日にある信仰者のよみがえり。それは確かに私たちの希望ですけれども、今の悲しみを和らげる慰めとはならないのではないでしょうか。
 そうではなくて、愛する人は今、まさに天国で神と共にいる。遠い遠い先の、終わりの日の希望ではなくて、まさに今、その人は天国にいて、神との交わりの内に加えられている。そして、私たちも死ねばそこに加えられる。だから神のみもとに行ったとき、愛する人との再会が待っている。と、こう聞かされるならば、これは何と慰めではないか。希望ではないか。と思うのです。
 そして、イエス様はまさしく、このことを言っておられるのではないでしょうか。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
イエス様は復活を語ります。人は例外なく死にます。よみがえったラザロも、マルタやマリヤもやがては死ぬのです。けれど、それは肉体の死でしかありません。その人の魂は、神の御手にある。それはその人の命がそれ以前に神のもの、永遠のものとされているからです。今の世の命と来るべき世での命は別々のものではありません。私たちは神の国で、命をリセットして、新しい命をやり直すということではなくて、もうすでに新しい命とされた今と繋がっている永遠を過ごすこととなる。私たちはイエス・キリストの贖いを信じて罪赦された時点で、すでに新生した者なのです。新生した者とは、神に生きる者。つまり永遠のいのちに生きる者です。
 だからこそです。私たちは愛する人が今、神のみもとで安らいでいると言って良いのです。その人はすでに苦しみから解放されて、永遠のいのちに中にある。これこそが、私たちが持つ希望であり、そして慰めです。

170514 ヨハネ11:1-16 「私たちは神の栄光のために」

ヨハネ11:1-16「私たちは神の栄光のために」

 エルサレムから南東わずか3kmという位置にベタニヤという小さな村がありました。イエス様はエルサレムを訪れるとき、このベタニヤのマルタとマリヤ、そしてラザロの家によく滞在されました。イエス様にとって、この兄弟は、この家族は、特別な存在でした。心許せる友のような存在でした。そのラザロの危篤の知らせがイエス様の下へとやって来たのです。これはイエス様としても気が気でなかったのではないでしょうか。しかし、イエス様は、ラザロの大病を聞きながらも、なお2日間、そのところに留まられました。これはいったいどういうことなのでしょうか。イエス様は、たった一人を救うために、ある時は敵対するサマリヤの地に足を運ばれ、ある時は荒れ狂うガリラヤ湖を超えて対岸まで行かれます。私たちが知るイエス様は、何を置いてでもラザロの下に駆け付けるお方ではなかったでしょうか。ところが、イエス様はラザロの一報を聞いても決して慌てず、尚も2日間その所に滞在されたのです。
 5節には「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。」とあります。そして6節には「そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かされたときも、そのおられた所に二日とどまられた。」とあります。ここが納得いかないのです。イエス様は愛していたから、とどまられた。と言います。けれど、私たちは思います。愛していたのに、とどまられたのか。とです。愛するということと、とどまるということが、どうしても結びつかないのです。
 たとえ、間に合わなくてもです。すぐに駆けつけたというその事実が、マルタとマリヤを慰めるのではないでしょうか。イエス様は急いで駆けつけて来てくれた。確かに間に合わなかったけれど、イエス様はラザロのために精一杯を尽くしてくれた。だから、これは仕方がなかったんだ。という具合にです。残されるマルタとマリヤを想えば、一刻でも早く駆け付けるのが愛ではないでしょうか。私たちも葬儀をします時に、それは何のためにするのか、と言えば、それは残された者たちの慰めのためにするわけです。イエス様は、そんなこともわからないんでしょうか。やっぱり神の御子である方は、人情の機微に疎いお方なのでしょうか。
 もしもこれがイエス様でなければ、それは人情がない話となるでしょう。けれど、そうではないのです。イエス様はこの出来事を、全く別の見方をしています。イエス様は「私たちの友ラザロは眠っています。」と言うのです。人々は皆、ラザロは死んだといいます。そして事実ラザロは死にました。けれど、イエス様だけは、そのラザロを眠っていると言われる。言うことができる。なぜなら、イエス様にはラザロを再び目覚めさせる権威があるからです。
 イエス様はラザロの死に際して言われました。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」わたしはラザロたちを愛している。だからこのところに留まった。なぜなら、これこそが神の栄光のためだからだ。とこう言われます。ラザロを再び目覚めさせるお方にとって、どれだけ早く駆けつけるかということに関心はありません。それよりも、ラザロが神の栄光のために用いられるために、そしてラザロの死が意味あるものとされるために。これがイエス様の関心事です。だから留まられた。誰もが否定できない神の栄光のわざを為さるためにです。もしかしてとか、偶然が重なってとか、そういう余地の少しもないように。それゆえラザロの確かな死は、イエス様の確かな栄光へと繋がっていくのです。
 私たちは何のために生き、何のために死ぬのでしょうか。それは神の栄光のために生き、神の栄光のために死ぬのです。多くの人にとって死は終わりであり、敗北であり、そこに大した意味はありません。寿命だからと諦めるか、運が悪かったとするか。しかし、私たちは死すらも用いられるのです。パウロは言います。「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ1:21)私たちにとって死は勝利と変えられているのです。

170507 出エジプト20:7 「主の御名を唱える者」

出エジプト20:7 「主の御名を唱える者」

 主の御名をみだりに唱えてはならない。とあります。「みだりに」というのは、「むやみやたらに」とか「無計画に」とか「考えなしに」という意味です。むやみやたらに御名を唱えてはいけない。つまり、主の御名を軽んじてはいけないよ。という意味です。
 ですから、イスラエルの民は、神の御名を唱えることに、とても慎重でありました。その昔、モーセが神にイスラエルの民を引き連れてエジプトから連れ出すよう命じられたときのことです。モーセは神の名を尋ねました。すると神は答えられます。「わたしは、『わたしはある』というものである。」この『わたしはある』というのが神様の実態を表す名前です。ヤハウェという名前です。イスラエルの民は、このヤハウェという名前をむやみやたらに唱えないように、その名を読む時にはアドナイ(我が主)と読み替えるほどに徹底していました。それは彼らの信仰の現れです。けれど、それは果たして主なる神の望まれるところでしょうか。罰を恐れて、単にその名前を口にしなければいいと考えている民。その結果、神の御名の発音すら失ってしまう民。そのような関係を主なる神が求めておられるとは到底思えません。
 むやみやたらに御名を唱えない。それはつまり、自分のために神の名を利用しない。神を私物化しないということです。神は私たちの願いを適えるための便利な道具でしょうか。それとも私たちを権威付けるための何かでしょうか。私たちがもし、神を私物化し、自己実現のために利用するとしたら、どれだけ神の御名を呼び替えようとも、それはこの第3戒を破っているのです。イエス様を誘惑するために、サタンは神の言葉を引用しました。自らの考えを神によって権威付けようとしたのです。文脈を無視して、自分の都合のよい解釈だけで神のみことばを語る。これは異端やカルトの典型的な特徴です。信じてもいないのに口先だけで祈ったり、ポーズだけの信仰であったりということもまた同じです。平日神を忘れて過ごし、休みの日にだけ信仰者を気取るのもそうでしょう。私たちはあまりにも軽々しく主の御名を口にします。しかし、その結果がもたらす悲劇には一向に目を向けていません。「主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」と言われているのです。
 みだりに唱えることが禁じられているのです。つまり、正しく主の御名が唱えられることは禁じていません。いえ、むしろ、そうあるようにという暗黙の期待がここには込められています。ハイデルベルク信仰問答の問99の答えにこのようにあります。「要するに、わたしたちが畏れと敬虔によらないでは神の聖なる御名を用いない、ということです。それは、この方がわたしたちによって正しく告白され、呼びかけられ、わたしたちのすべての言葉と行いとによって讃えられるためです。」間違いのないように口を閉じたり、呼び名を変えたりということが求められているのではありません。キリスト者として正しく主の御名を用いなさい。ということです。
 では正しく主の御名を用いるとはどういうことでしょうか。それは畏れと敬虔によってということでしょう。裏表なく真心からということでしょう。主はからし種ほどの信仰があれば、山をも動かすとおっしゃいました。けれど、私たちはどこかで疑っています。山よ動けと祈りながら、山など動くはずがないと思っています。神を信じますと言いながら、神などいないと疑ってしまいます。エレミヤ33:2-3には次のようにあります。「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」神を信頼する者の声を、神は遮ることはなさいません。むしろ、わたしを呼べとおっしゃってくださる。私たちは主の御名をみだりに唱えてはいけません。本気で唱えるのです。そこには私たちの理解を越えた主の大いなる答えが用意されているからです。

170430 ヨハネ10:31-42 「主のわざの目的」

ヨハネ10:31-42「主のわざの目的」

 イエス様を再び石打ちにしようとする、ユダヤ人指導者たちに問いかけられます。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」すると、ユダヤ人たちは答えます。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」
 確かに、自分自身を神と等しくするなど、冒涜と言われても仕方ありません。彼らの指摘は一見正しく聞こえます。しかし、考えなければならないのは、それを指摘する彼らはいったい何者か、ということです。
 イエス様はここで詩篇82篇のみことばを引用します。どういう意味でしょうか。単に聖書でそういう前例があるんだから、私も別に神の子と言ってもいいでしょ。という意味でしょうか。けれど、実際に引用された詩篇82篇を見てみますと、そう単純な話ではないように思います。
 82篇1節「神は神の会衆の中に立つ。神は神々の真中で、さばきを下す。」この箇所で、神々の真中でとあります。これは神が他の神々を認めているということではありません。これは神の任命を受けて、裁きの務めを果たしている者たちのことです。その彼らの真中で神はさばきを下す。つまり、彼らが下す裁きに権威を与えているのは神だということです。そして、そういう神のさばきを司る彼らのことを、当時、尊敬を込めて『神々』と呼んでいたのです。6節にも「わたしは言った。『おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。」とあります。では、神々と呼ばれた人々が素晴らかったかと言いますと、むしろ人々から神々と呼ばれているその人を非難している。神の尊い務めを担うべきあなたがたが、いったいどういうつもりで不正なさばきを行なっているのか。と、こう言っています。そして8節「神よ。立ち上がって、地をさばいてください。まことに、すべての国々はあなたが、ご自分のものとしておられます。」と、真のさばき主なる神を讃美して閉じられるのです。
 この詩篇82篇をイエス様は引用されるのです。ユダヤ人指導者たちは、イエス様が神の子と語るそのことを非難し、さばきます。けれど、他人をさばく彼らこそ、神の子と呼ばれる尊い使命についていたのではなかったでしょうか。そして、そのような者こそ自らの身を深く省みなければならないのではなかったか。つまり、あなたたちこそ、本来神の子と呼ばれるべき者たちではないですか。そして、あなたたちこそその使命に相応しくあるべき者ではないですか。では、あなたたちの成しているわざはいったい何なのですか。とこのように問うているのです。
 イエス様はご自身のわざについて語られます。そのわざを見れば、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知る。とこう語られます。そして事実、イエス様の良いわざは、指導者たちも認めざるを得ないものでした。今、神の子としてその使命を帯びている、2組の対照的な姿があるのです。愛のわざに励み、それによって神の栄光を現すイエス様。そして、他人の粗を探しては、非難し陥れようとする指導者たち。果たしてそのわざは、どちらが父なる神と共にいることを証しするでしょうか。
 イエス様のわざは、神の愛を体現したものです。失われた者が見つけられ、死んでいた者が生き返り、孤独の内にある人、何の希望も見いだせずにいた人、自分自身の存在する価値をまったくに見出せない人、そのような一人ひとりが、イエス様のわざによって愛を知り、神を知ったのです。イエス様のわざは単なる奇跡や振る舞いに留まりません。その人の生き方そのものを変えるわざ。それはその人に目を留め、関わろうとし、実際に足を運ばれる。神の愛に基づくものだからです。では、果たして、私たちのそれは神の愛に基づくものでしょうか。