ヨハネ11:17-29「わたしはよみがえりです」
マルタはイエス様が来られたと聞いて出迎えに行き、そして言います。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」文句の一つも言いたいところでしょうか。その割には冷静な印象もうかがえます。三日間泣き疲れて、少し呆然としているといった様子でしょうか。イエス様はそんなマルタを気遣って言います。「あなたの兄弟はよみがえります。」すると、マルタは答えます。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
民の多くはパリサイ人たちから聖書を学びましたから、彼らの神学の影響を受けています。それは復活の信仰です。義人は終わりの日によみがえり、悪人はゲヘナの火で永遠に滅ぼされる。マルタとマリヤも、そのような終末観を持っておりました。マルタは答えました。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」これはまさに当時のパリサイ人たちが信じていた復活信仰です。終わりの日に神の民はよみがえらされる。そしてこれは、私たちも信じるところではないでしょうか。
しかしです。そのような復活信仰が、果たして本当に慰めとなるのだろうか。とも、思わされるのです。いえ、これが間違いだと言いたいのではありません。ダニエル書12章には復活の希望が記されています。そしてそれは確かな真実です。神の民は終わりの日に目を覚まし、永遠のいのちにいれられる。しかしです。この教えが、この教理が、果たして今まさに家族を失って悲しみを抱えるその者に、いったいどれほどの慰めとなるのだろうか、と思わされるのです。
たとえばです。皆さんの愛する人が亡くなったとします。その人はイエス様を信じているから終わりの日によみがえりますよ。悲しまなくていいですよ。と言われたら、皆さんは納得がいくでしょうか。「だから何?」とはならないでしょうか。終わりの日にある信仰者のよみがえり。それは確かに私たちの希望ですけれども、今の悲しみを和らげる慰めとはならないのではないでしょうか。
そうではなくて、愛する人は今、まさに天国で神と共にいる。遠い遠い先の、終わりの日の希望ではなくて、まさに今、その人は天国にいて、神との交わりの内に加えられている。そして、私たちも死ねばそこに加えられる。だから神のみもとに行ったとき、愛する人との再会が待っている。と、こう聞かされるならば、これは何と慰めではないか。希望ではないか。と思うのです。
そして、イエス様はまさしく、このことを言っておられるのではないでしょうか。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
イエス様は復活を語ります。人は例外なく死にます。よみがえったラザロも、マルタやマリヤもやがては死ぬのです。けれど、それは肉体の死でしかありません。その人の魂は、神の御手にある。それはその人の命がそれ以前に神のもの、永遠のものとされているからです。今の世の命と来るべき世での命は別々のものではありません。私たちは神の国で、命をリセットして、新しい命をやり直すということではなくて、もうすでに新しい命とされた今と繋がっている永遠を過ごすこととなる。私たちはイエス・キリストの贖いを信じて罪赦された時点で、すでに新生した者なのです。新生した者とは、神に生きる者。つまり永遠のいのちに生きる者です。
だからこそです。私たちは愛する人が今、神のみもとで安らいでいると言って良いのです。その人はすでに苦しみから解放されて、永遠のいのちに中にある。これこそが、私たちが持つ希望であり、そして慰めです。
マルタはイエス様が来られたと聞いて出迎えに行き、そして言います。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」文句の一つも言いたいところでしょうか。その割には冷静な印象もうかがえます。三日間泣き疲れて、少し呆然としているといった様子でしょうか。イエス様はそんなマルタを気遣って言います。「あなたの兄弟はよみがえります。」すると、マルタは答えます。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
民の多くはパリサイ人たちから聖書を学びましたから、彼らの神学の影響を受けています。それは復活の信仰です。義人は終わりの日によみがえり、悪人はゲヘナの火で永遠に滅ぼされる。マルタとマリヤも、そのような終末観を持っておりました。マルタは答えました。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」これはまさに当時のパリサイ人たちが信じていた復活信仰です。終わりの日に神の民はよみがえらされる。そしてこれは、私たちも信じるところではないでしょうか。
しかしです。そのような復活信仰が、果たして本当に慰めとなるのだろうか。とも、思わされるのです。いえ、これが間違いだと言いたいのではありません。ダニエル書12章には復活の希望が記されています。そしてそれは確かな真実です。神の民は終わりの日に目を覚まし、永遠のいのちにいれられる。しかしです。この教えが、この教理が、果たして今まさに家族を失って悲しみを抱えるその者に、いったいどれほどの慰めとなるのだろうか、と思わされるのです。
たとえばです。皆さんの愛する人が亡くなったとします。その人はイエス様を信じているから終わりの日によみがえりますよ。悲しまなくていいですよ。と言われたら、皆さんは納得がいくでしょうか。「だから何?」とはならないでしょうか。終わりの日にある信仰者のよみがえり。それは確かに私たちの希望ですけれども、今の悲しみを和らげる慰めとはならないのではないでしょうか。
そうではなくて、愛する人は今、まさに天国で神と共にいる。遠い遠い先の、終わりの日の希望ではなくて、まさに今、その人は天国にいて、神との交わりの内に加えられている。そして、私たちも死ねばそこに加えられる。だから神のみもとに行ったとき、愛する人との再会が待っている。と、こう聞かされるならば、これは何と慰めではないか。希望ではないか。と思うのです。
そして、イエス様はまさしく、このことを言っておられるのではないでしょうか。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
イエス様は復活を語ります。人は例外なく死にます。よみがえったラザロも、マルタやマリヤもやがては死ぬのです。けれど、それは肉体の死でしかありません。その人の魂は、神の御手にある。それはその人の命がそれ以前に神のもの、永遠のものとされているからです。今の世の命と来るべき世での命は別々のものではありません。私たちは神の国で、命をリセットして、新しい命をやり直すということではなくて、もうすでに新しい命とされた今と繋がっている永遠を過ごすこととなる。私たちはイエス・キリストの贖いを信じて罪赦された時点で、すでに新生した者なのです。新生した者とは、神に生きる者。つまり永遠のいのちに生きる者です。
だからこそです。私たちは愛する人が今、神のみもとで安らいでいると言って良いのです。その人はすでに苦しみから解放されて、永遠のいのちに中にある。これこそが、私たちが持つ希望であり、そして慰めです。