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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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170618 ルカ15:11-24 「放蕩息子と父親の譬え」 (狭山ひかり幼稚園理事長)

父母の日礼拝 ルカ15:11-24 「放蕩息子と父親の譬え」 東喜代雄兄

170610 ヨハネ11:47-57「民の代わりに」

ヨハネ11:47-57 「民の代わりに」

 ラザロの復活は、多くの民にとってイエス様を信じる根拠となりました。それほどのインパクトがありました。しかし同時に、イエス様のその決定的な奇跡のゆえに、逆に焦りを感じる者たちもおりました。46節「しかし、そのうちの幾人かは、パイサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。」
 彼らは言います。「あの人が多くのしるしを行っている」彼らもイエスの奇跡の数々を認めざるを得ないのです。そして、その奇跡が民衆を惹き付けることも冷静に理解しています。だからこそ、イエスを放っておけないのです。イエスの存在は人々に要らぬ期待をさせてしまう。無謀な振る舞いへと人々を焚き付けてしまう。これ以上は放っておけない。イエスを捕らえるべきだ。イエスを民衆と引き離すべきだ、とです。
 さて、この訴えに口を挟んだのが大祭司カヤパでした。「あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」つまり、何をのんきな事を、と言うのです。そんな危険のある存在は、あれこれ言ってないでとっとと死んでもらったほうが私たちにとって得でしょうと。もはや躊躇している場合じゃないでしょうと、こう言うのです。
 大変恐ろしい発言です。統治者らしい発言と言ってもいいでしょう。全体のために個々の犠牲は仕方がないとカヤパは言っているのです。この場面、実際にイエス様が暴動を起こした。民を扇動した。というのならわかるのです。けれど、ここでは、そうなるかもしれない。という話です。危険性があるという話です。まるで、昨今の共謀罪の議論に似ています。疑わしきは罰せずというのが、これまでの常識でしたが、これからは疑わしきは排除する。と言うのです。そしてカヤパの発言には、そのように命じる統治者の本音が見え隠れします。それは自分たちにとって得策だ。と言うのです。国のためでも、民のためでもなく、得か損かで、一人の命を奪おうと言うのです。これが本音です。
 ここに至り、イエス様に対する議会の流れは決定します。大祭司の議会での発言は大きな意味を持ちました。公にイエス様を捕らえるためのお触れが出されたのです。それはイエス様を捕らえ、そして殺すための計画でした。
 さて、ヨハネは後になって、これらの出来事を振り返って記すわけですが、その時に、ここに一つの解説を加えています。「ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。」もちろん、大祭司カヤパがイエス様の十字架の意味を知っていたわけではありません。彼は極めて打算的にイエス様を亡き者にしようと企てただけです。けれど結果的に、彼の言うことは正しかったのです。誰一人、彼自身も理解していなかったけれども、彼の言葉には真実が含まれていました。イエス様ご自身が民の犠牲として死のうとされていたのです。それはユダヤ人だけではない、散らされている神の子たち、異邦人をも含む全てのキリスト者を神の国に一つ集めるためでありました。そしてそれこそが、父なる神の人類救済のご計画でありました。
 つまり、イエス様はユダヤ議会の思惑によって殺されるのではないのです。イエス様はカヤパの損得によって死ぬのではない。そうではなくて、イエス様はご自身の意思で、いえ、父なる神の意思に沿って、死のうとされているのです。
 神は人の手によって何ら変わるところがありません。この世の悪や、あらゆる権力によっても何ら動じるお方ではありません。神は変わらない。そして、この変わらない神が永遠のご計画の中で、私たちを神の子として一つに集めてくださったのです。私たちの希望は変わらない神による変わらない神の約束です。

170604 出エジプト20:8-11 「聖なる日を過ごす」

出エジプト20:8-11 「聖なる日を過ごす」

 この戒めは、私たちクリスチャンにとって、一番身近に試される戒めではないかと思います。毎週日曜日になる度に、試されている戒め。しかも、これが安息日と呼ばれている。平日、働き詰めで来た者にとって、日曜日にも教会に行くのなら、それは安息ではないじゃないか。と思われるかもしれません。日曜日は休む日と言うのに、教会で奉仕に追われて、いったいどこが安息なのかとです。しかし、これはどうも安息ということの意味を誤解していることから来るのではないかと思います。私たちは今一度、安息とは何かと問う必要があるように思います。
 なぜ日曜日は取り分けられたのかという話です。それは11節「それは主が六日の内に、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。」主は六日間創造の働きをなされ、七日目に休まれた。この主が休まれたことに倣ってということです。では休むとはどういう意味でしょうか。何もしない。という意味でしょうか。いやいや、「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(詩篇121:4)とも言います。主が七日目に、何もしていないことではありません。主は七日目も神の民を守っておられます。ですから、私たちは、短絡的に安息日=何もしないと考えることは間違いです。第4戒は「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」とあります。つまり、安息は、聖なる日を持つための下準備だということです。休むことの先がある。むしろそこが大切だと言うのです。ですから、安息とは何もしないことではなくて、聖なる日を持つために、働きを止めるという意味です。神の恵みを受け取るために、今、係わっている仕事。抱え込んでいる悩み。日々置かれている日常からひととき離れなさいと言っているのです。
 週の初めに敢えて日常を離れて神を想うということに意味があるのです。教会は忙しいと感じる方もおられるかもしれません。しかし、日常のままに過ごしては駄目なのです。私たちを思い煩わせる日々の出来事に埋もれてしまってはいけないのです。それらは神の恵みを見失わせます。
 学生の頃、毎度毎度の礼拝に嫌気が差して、何度かズル休みをしたことがあります。いつもよりも遅い時間に起きて、だらだらと午前中を過ごし、午後は久しぶりの友人を誘って遊びに行きました。普段ではできない日曜日を過ごしました。けれどです。一日、思う存分過ごしたようでいて、ずっと付きまとうのは罪悪感。そして、居心地の悪さ。私にとって、礼拝がいかに大切かを思い知る結果となりました。けれどです。休みが続けばどうでしょう。罪悪感がある内はまだ良いのです。けれど私たちはすぐに慣れます。そして、どうでも良くなってしまう。主の前に日を取り分けることを止めてしまえば、その日は自分だけのもの。もはや神に生かされていることすらも覚えず、その恵みに目を向けることもない。それは楽な生き方のように思えるかもしれない。自由な生き方のように見えるかもしれない。しかし、最も大切なものを失うこととなるのです。
 7日間全てを自由とはしないで、一日は神の日とする。制限ある自由が、実は大事です。それによって私たちは、神を神とし、恵みに生かされることを知るのです。

170521 ヨハネ11:30-46 「その石をとりのけなさい」

ヨハネ11:30-46 「その石をとりのけなさい」

 マルタからの使いを受けてマリヤもイエス様のもとにやって来ました。マリヤもマルタと同じ反応をいたします。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」しかしこれは、マリヤだけではありません。マリヤと一緒にいたユダヤ人たちも皆同じ復活信仰を持ち、そして、それゆえに悲しみの内に打ちひしがれているのです。
 イエス様は、彼女たちの涙を見て、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じられました。そして、涙を流される。なぜでしょうか。死がそれほどまでに彼らを縛り付けているということに憤り、そして涙されたのです。神の子キリストであると信じているはずのイエス様に対してですら、不満の声を上げずにはいられない。それほどまでに死の力は人々を一切の悲しみで塗り潰してしまうわけです。この状況に対して、イエス様は憤りを覚えるし、また同情される。誰にも訪れる死を、そんな絶望だけのものにしている罪に対して、サタンに対して憤っておられるのです。本来と言いますか、イエス様にあっては死というものは、単なる絶望ではありません。それは、永遠への希望です。神ともにある永遠です。パウロという人は「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」(ピリピ1:23)と言っていますが、これはまさしくそうなのです。けれど、私たちは愛する人を失ったとき、とてもそんな気持ちで送ることはできません。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と言わずにはおられない。なんであの人が死ななければならなかったんですか。なんでこんなにも早くに命をとりあげられたんですか。そう叫ばずにはいられない。これはもうその人のせいではなくて、死というものそのものの意味が塗り変えられているのです。そして、イエス様はこのような現状に対して憤られるのです。
 そうじゃないとイエス様は言われます。わたしを信じるなら、あなた方は死を前に、まったく別のものを見るんですよと。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」と。そして、そのことを証明するために、イエス様は命じられるのです。「その石を取りのけなさい。」これはいわば試金石ですね。
 常識で考えれば、そのことに何の意味もないのです。死体はもう腐っているでしょうし、そこに現れるのは、愛する者の朽ちた姿です。それは見たくない現実です。今は目を瞑れば明るく元気だったラザロが思い浮かびます。けれど、もしもその朽ち果てた姿を目にすれば、もうそこには生前の美しい思い出すら上書きされてしまう。その強烈な現実は、彼を思う度に目に浮かぶことでしょう。そんなことにいったい何の意味があるのか。なんでそんな残酷なことを言われるのか。人々は彼女たちを気遣って、思ったことでありましょう。しかし、だからこそ、イエス様は命じられるのです。「その石をとりのけなさい。」それは言いかえるならば、「わたしを信じなさい」とです。
 求められているのは、理解できるか。ではありません。信じるか。です。信じて石を取り除けるか。信じて一歩を踏み出すかです。これが大事です。私たちの常識に照らせば、腑に落ちないこともたくさんあるでしょう。理解の及ばないこともある。いったい何の意味があるのかと思う。けれど、だから何だと言うのでしょう。問われているのは、理解できるかではありません。それでもわたしを信じるかです。
 「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」皆さんはこの問いかけに何と答えるでしょうか。わからないから信じないと言われるでしょうか。私たちは石を取り除くべきです。それは常識という石。現実という石。理解という石。こうでなければならないという自己正義の石。イエス様のみわざはその石の向こうにあります。世の中には、人生には、理解できないこと、受け入れがたいことが沢山あります。けれど、それを妨げの石としてはいけません。なぜなら、神のなさることは、私たちの思いも理解も遥かに超えた、その石の向こうにあるからです。