ヨハネ13:1-20「主の模範に倣って」
13章からはいよいよ受難の様子、栄光の様子が記されていきます。その幕開けはイエス様の洗足の出来事でした。当時は、外から家に入る時には足を洗うという習慣がありました。このとき足を洗うのはしもべの仕事です。それもユダヤ人ではなくて異邦人のしもべ。つまり、その家で最も卑しい者の仕事でした。ですから、イエス様が突然に手ぬぐいを腰にまとって、たらいに水を張って、自分たちの足を洗うということに、弟子たちはどれほど驚き、そして申し訳なく思ったことでしょうか。
弟子のペテロとイエス様のやりとりを見ていると、どうも噛み合わない。ちぐはぐな印象を受けます。「決して私の足をお洗いにならないでください。」「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」ペテロの言葉はイエス様に対する申し訳無さから出た言葉です。けれど、それに対するイエス様の言葉はどうでしょう。ちょっと言い過ぎではないでしょうか。そんなに大層なことなのでしょうか。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」ペテロの続く言葉は、調子に乗った言葉に聞こえますが、イエス様が洗わなければ何の関係もないと言われたので、慌ててもっと洗ってください。もっと密接に関わっていきたいです。という思いではなかったか。しかし、そんなペテロにイエス様は「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」と言われます。手や頭は関係ないでしょ、とピシャリ。何やら、イエス様とペテロでは全く別の視点でこのことを見ているようです。
2節に「夕食の間のことであった。」とあります。4節にも「夕食の席から立ち上がって」とあります。実は、これらのことをイエス様がなさったのは、過ぎ越しの食事の最中であったというのです。過ぎ越しの食事は、かつてイスラエルがエジプトの奴隷であった時に、神がモーセを用いてエジプトから脱出させた出来事を記念して、その出来事を思い起こすための食事です。10番目の災いは生贄の犠牲の血によって、イスラエルを過ぎ越されました。そして足を洗うという行為は、イエス様がしもべの姿を取られたことの象徴的な行為です。ですから、この過ぎ越しの食事の最中で、しもべとなって仕えられるイエス様の姿はまさしくイザヤ53章の苦難のしもべを思い起こさせるのです。私たちはこのしもべとなられたイエス様の身代わりの死、贖いの業によって、罪がきよめられるのです。ですから、この洗足は、他の誰でもないイエス様によってなされる必要がありましたし、このことを断ることはイエス様との関係を失うことと言われるのです。
洗足の意味はただ単に仕え合うというだけでなく、きよめに与ることを意味しておりました。そして、それを踏まえて、このイエス様に倣って、あなたがたも互いに足を洗い合うべきと命じられています。ですから、ただ単に互いに仕え合いましょうというだけでは終わらない。私たちが仕え合うことは、キリストのきよめに結びつかなければならないのです。つまり、私の栄光となってはいけないのです。
仕え合うのは私が評価されるためでしょうか。ありがたがられるためでしょうか。違います。主が私たちに仕えられたからです。主がしもべとなられて、十字架にかかり、蘇られたからです。私たちは主の恵みの応答として、互いに仕え合うべきなのです。ピリピ2:3「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」私たちは決して自分を誇れません。私たちが誇るのはただ主イエスのみです。ここに立って、私たちは仕え合うのです。

ヨハネ12:36b-50「世をはばかって」
つい先日、あれほどまでに熱狂的にイエス様を出迎えたのはユダヤ人である彼らでした。けれど、彼らはこのわずかな期間で、イエス様は救世主とは違うと結論づけました。これはいったいどういうことなのでしょうか。
私たちは常日頃思うわけです。今ここにイエス様がいてくれたら、どんなに力強いことか、とです。そうすれば私たちがつべこべ言わなくても、イエス様さえ見てもらえれば伝わるはず。誰もがイエス様を救い主と信じずにはいられないはず。どれだけの試練に会っても、もしもイエス様が目に見えて、耳で聞こえて、肌に触れることができるとしたら、私たちは必ず乗り越えていけるはず。と、こう思うわけです。ところがです。実際には、誰よりもイエス様を見て、聞いて、体験したはずのユダヤ人が、イエス様を信じることができないでいるのです。これはいったいどうしたものでありましょうか。
ヨハネはユダヤ人たちがイエス様を受け入れなかった理由を3つ上げています。1つはイザヤ53章1節の言葉から「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。」です。これは、とても有名な受難のしもべの歌の1節です。人々の身代わりとなって苦難を受ける。これこそが救い主であると預言している箇所です。けれど、どうでしょう。当時、この預言ほど理解されない言葉は無かったのではないでしょうか。イエス様のエルサレム入城の場面で確認しましたように、彼らは熱狂的に王の王であるイエス様を歓迎しました。それは、イエス様がかつてのユダ・マカバイのように、民衆をまとめ上げて、独立の狼煙を上げてくれることを望んだからでした。誰もイザヤが語る受難のしもべなど望んでいなかったのです。「しかし、彼を砕いて、痛めることは、主のみこころであった。」と預言は続くのでした。なぜ、ユダヤ人は主イエスを信じられなかったのか。その理由は、彼らの願いが主のみこころとまったく異なっていたからです。どんなにイエス様と共にいようとも、どれだけイエス様の不思議なみわざを目の当たりにしようとも、聞く耳を持たなければ、決してイエス様を信じることはできません。彼らは神に聞こうとせず、神に一方的に求めます。無自覚の内に、神を従わせようとしています。しかしそれでは、いつまでたっても主を信じることはできないのです。
もう1つのみ言葉はイザヤ6章10節「この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」という言葉です。これは預言者として今まさに遣わされるイザヤに命じられた使命です。いったい、どういうことでしょうか。それはつまり、あらゆるものを失って、尚も残るそのところにこそ、救いがあるということです。自分の目、自分の耳、自分の心、自分勝手な理解や、考えや、悟りで立ち返っても、それは本当の救いには至らないのです。私たちは絶望を経験しなければならない。罪に対する心からの絶望。自我に対する心からの絶望です。なぜイエス様を信じることができなかったのか。2つ目の理由は、彼らが罪に対する本当の絶望を経験していなかったからです。
さて、3つ目の理由は何でしょう。ヨハネは、実は指導者たちの中にはイエス様を信じる者が沢山いたと言っています。けれど、皆そのことを隠していたのです。なぜかと言うと、パリサイ人をはばかっていたからです。パリサイ人は民の指導者です。彼らに逆らっては、会堂から追放されてしまう。つまり、彼らは目の前の生活を守るために、自らの信じるものを隠したのです。私たちは今を失うことに恐れてはいけません。永遠を失うことこそ恐れるべきなのです。

ヨハネ12:20-36「一粒の種が死ねば」
イエス様は言われます「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」一粒の麦が死ねば、豊かな実を結ぶ。当たり前といえば、当たり前の話です。いつまでも枯れない麦はありません。麦は枯れ、死んでいきます。けれど、その種は地に落ちて、やがて豊かな実を結ぶのです。もしも、いつまでもその穂にたくさんの種を抱えながら、地に落ちることのない麦であったらどうでしょう。麦としては見栄えの良い、立派な麦かもしれません。しかし、それではいつまでたっても1つのままでしかありません。地に落ちるからこそ次に繋がるのです。これは何も突飛な話ではありません。当たり前の自然の法則です。問題はイエス様が何を意図して、この麦の例えを語られたのかということです。
恐らくではありますが、これを聞く人々には、イエス様の意図するところはわからなかったと思います。イエス様は続いて「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」と語られますが、果たしてどの程度理解できたことか。私たちが全くの予備知識無しに、この所を読むとすれば、何かイエス様が武装蜂起して立ち上がるから、あなたたちも付いてきなさい。決して命を惜しんではいけませんよ。と、こんな風に読むのではないでしょうか。過ぎ越しの祭に来たギリシヤ人達はイエス様がユダヤ人たちにどのように期待されていたかを知っています。王の王として熱狂的に迎えられたことを知っています。ですから、「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」と言われて、続けて犠牲の上にこそ実がなると言われれば、ああ、この方は何ぞ血生臭いことを始めるに違いない。と、こう思ったのではなかったか。しかし、もちろん、イエス様が語られるのはそういうことではありません。
27節から32節はヨハネの福音書におけるゲツセマネと呼ばれるほどに、ゲツセマネの祈りと重なるイエス様の言葉です。つまり、麦の例えは、ただ単に自然の法則を教えているわけではないということです。犠牲の上に新しい命がなる。イエス様は明らかに十字架を見据えて、ご自身の死を見据えて語っておられます。つまりご自身の死が多くの実を結ぶ。自分が死ぬことが、人々の救いとなり、栄光を受けることに他ならない、とこう言われるのです。
その上で、イエス様は「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」と語られます。ですから、これは武装蜂起して命を惜しまずに付いてきなさい。という意味ではありません。イエス様は人々の犠牲のために死なれるのです。死なれることで栄光を受けるのです。そして、このイエス様について来なさい。と言われるのです。
この箇所は私たちの死に方を勧めているのではありません。むしろ生き方を勧めています。それは自分の思うままに生きてきた私たちに、そうではない、キリストに倣う生き方があるんだということを教えているのです。他人のために犠牲になることは愚かなことだ。と、世間は言うかもしれません。誰かのために自分が死んでしまっては元も子もない。と言われるかもしれません。それはある意味で正しいのかもしれません。けれども、そうでない生き方があります。誰かのために犠牲を負うことを厭わない生き方です。誰かのために自分を殺す生き方です。イエス様に倣う生き方です。そして、そういうキリスト者の愚かしい生き方に、世の人々は影響されていく。ここに実りがあるとイエス様は約束されているのです。

ヨハネ12:9-19 「王の入城」
いよいよ過ぎ越しの祭の1周間が始まります。ベタニヤの村に滞在されていたイエス様はエルサレムへと向かわれます。この時、イエス様を捕らえる手配書は隅々まで行き渡っていました。さぞかし、ドキドキ、ビクビクだったことでしょうか。エルサレムのような大きな町は城壁によって囲まれておりましたから、町に入るにはその城壁にある幾つかの門をくぐるしかありません。門には必ず駐屯する兵士と取税人が控えていて、一人ひとりの入城を細かにチェックしています。当然、この門番にも手配書は配られているわけです。どうでしょう。変装をしたり、身分を偽ったり、顔に覆いをかけたり。でもそれも賭けですね。門番の中に一人でも見知った者がいればアウトです。まぁイエス様は気にしなそうですが、弟子たちはそんなには平静ではいられない。きっとエルサレムの町に入るために、あれこれと知恵を絞っていたのではないかと思うのです。ところが、そのような不安は全くの杞憂に終わります。なぜなら、イエス様が来られることを聞いて、大勢の人々が駆けつけて、とても取り締まりなどできない異常な盛り上がりを見せたからです。下手にイエスに手を出せば、群衆たちがどうするかわからない。群衆に迎え入れられて、イエス様は堂々とエルサレムへと入って行かれたのでした。
群衆のこの異常な盛り上がりはいったい何なのでしょうか。ここに「しゅろの木の枝を取って」とあります。実はここに人々の感情が表れています。以前、宮清めの祭りについて説明いたしましたけれども、シリヤ・セレウコス朝のアンティオコス四世エピファネスの時代に、偶像によって神殿が徹底的に汚されるということが起こりました。これに対して、祭司マタティアが民に武装蜂起を呼びかけ、その息子のユダ・マカバイの時代になってユダヤは完全な独立を果たします。この時、宮清めがなされるわけですが、記録では「彼らは、蔦をもて飾りたる杖と、美しき小枝と、しゅろの葉とをかざして、おのが聖所の清めをなしとげ給いし主に、感謝の歌をささげたり。」とあるのです。
さて、このような歴史を知りますと、群衆が今、このしゅろの枝を振って、イエス様を出迎えるという意図がわかります。それはつまり、イエス様が第2のユダ・マカバイオスとして、ローマの支配を打ち破ってくれることを期待しているのです。
これに対して、イエス様はロバの子を見つけて、それに乗られた。とあるのです。イエス様は王であることを否定されません。しかし、どのような王か。それは人々が期待するような、皆を奮い立たせて、武装蜂起を起こさせ、やがては国を独立へと導く革命家のような王ではないと言うのです。ここでは、ゼカリヤ9:9の御言葉が引用されています。つまり、その王は柔和な王だと言うのです。ロバの子はその象徴です。群衆たちがイエス様に期待する王の有り様と、イエス様の示される王の姿との間には、天と地ほどの違いがあるのです。
さて、今日の箇所から、私たちは何を悟るのでしょうか。それは、私たちは私たちの望む救い主を見たがるということです。イエス様ならこうあって然るべき。神様なら私の願いに直ちに応えるべき。いつの間にか、その主従を入れ替えて、奴隷のように神を見下してしまうのです。そして、そのような一方的な期待は、当てが外れると今度は一方的な敵意として向けられることとなるのです。
私たちが私たちの望む救い主をイエス様に求めるなら、私たちの期待は裏切られるかもしれません。けれどそれは、主が裏切ったのではありません。私たちの主に対する有り様が間違えているのです。マリヤは御使いの驚くべき預言を聞いて言いました。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」ペテロはイエス様に深みに漕ぎ出して、網をおろすように命じられた時、言いました。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
私たちは、イエス様が現されるところを見て、イエス様が語られる所を聞くのです。これが信仰です。私たちが神を従わせようとするならば、その期待は必ず裏切られます。けれど、私たちが神に聞き、みこころの内に歩むなら、私たちは必ず祝福を得るのです。イエス様は言われます。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」

出エジプト20:12 「父母を敬う」
「あなたの父と母を敬え」とありますが、単に親子関係のあり方だけを言っているわけではないかと思います。もし、そうならば、たとえば、若くして両親を失った人で、天涯孤独という人には、この戒めは意味が無いものとなってしまいます。けれど、神が特別に与えられた戒めが、その立場によって、大事だったり、意味がなかったりするものでしょうか。ですから、これは単なる親子関係に留まらない、あらゆる人間関係に当てはまる人としてのあり方を指しているのではないでしょうか。それでも「父母を」と言うのは、それがあらゆる人間関係の中で、最も基本で、難しい関係だからではないでしょうか。
神様は人と人の最も身近な関係を、敬うことをもって築きなさいと言います。敬うとは、尊敬するということです。裏も表も知り尽くした相手を敬いなさいと言う。これは非常に難しいことではないでしょうか。
他人との関係は、ちょっとしたことで簡単に壊れてしまいます。何気ない一言で関係が一変することすらあります。だからこそ緊張しながら、配慮しながら、あらゆることに気を遣って関係を築いていきます。けれど、家族は違います。多少のわがままであっても、だらしなくても、それで関係が途切れるわけではありません。だから安心して素の自分が出せるのです。けれど、気を付けなければならないことは、安心できる関係とは、決して気遣わなくてもいい、配慮しなくてもいい関係とは違うということです。簡単に崩れない関係というのが曲者です。つまり、大抵のことは我慢してしまう。小さな棘が積もり積もってしまう。他人なら距離を空けて、時間を空けて、心の修復を持つ場面でも、家族ならそうはいかない。家族は近すぎる関係だからこそ、一旦こじれてしまうとなかなか修復が難しくなるのです。親子関係が何もしなくても築かれていくというのは嘘です。後回しにしていいということは間違いです。身近な関係だからこそ、他の人に対する以上に、気遣いと配慮をもって、敬って関係を築かなくてはならないのです。
さて聖書は別の箇所で「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる」とも言っています。親子という密接な関係は、どこかで線引をして、一定の距離を設けて、ひとりの人格として尊敬し合うべきだと言うのです。過激な言い方をすれば、親子は他人である、別人であると認めるべきだと言うのです。私たちのあらゆる関係の構築は、一人ひとりが違う存在であるという前提に立って築かれるべきです。親だからこうあるべきとか、子どもだからこれで当然とか、自分の理想を押し付けるべきではないのです。
聖書は神の家族の関係をキリストの体と各器官に例えています。この関係の築き方は私たちの肉の家族に対しても当てはめるべきだと思います。つまり、私たちは家族であろうと、同じ使命、同じ賜物をいただいているのではないということです。そして、だからこそ、私たちは互いを尊敬することができる。敬うことができるのです。自分にはない賜物をいただき、自分とは違う使命を負っている。尊敬は相手の中に自分には無い何かを見つけることで生まれるのです。違いを認めることは、敬うことの下準備です。わかってくれないで当然。理解できなくて当たり前。私たちは違う者ですから、気遣いと配慮をもって、敬う心をもって、互いを認めることといたしましょう。

ヨハネ12:1-8 「罪は目を曇らせる」
今日の話の晩餐は、どうやらマリヤの家ではなくて、らい病人シモンの家で持たれたようであります。そこにマルタは給仕を取り仕切る者として手伝いに行き、ラザロは客の一人として参加していました。ではマリヤはと言いますと、フラフラとやって来たかと思うと、おもむろにナルドの香油をイエス様の足に塗り、髪の毛でぬぐったのです。いったい何事ぞと、その場は騒然となった次第です。私たちが普段香水を使う時には、ほんの1滴を伸ばして使います。それで十分だからです。ところが、この時、イエス様に塗られたと言いましょうか、掛け流された香油の量は300gでした。つまり、一瓶全部を掛けきったわけです。いったいどれほどの匂いが立ち籠もったことでしょう。もはや晩餐どころの話ではありません。
弟子たちは当然、マリヤに憤慨いたします。それはそうでしょう。私がその場にいてもやはり怒ると思います。突然、自分たちの大切な先生が油まみれにされたのです。先生との大事な晩餐の席を台無しにされたのです。怒らないわけがない。ところが、実際の弟子の叱責の言葉を聞きますと、どうもしっくり来ません。
弟子の一人のユダが言いました。「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」ユダの指摘は極めて冷静な分析による言葉です。ユダはこの騒動の中、マリヤがイエス様にかけた香油の量とその質を見て取って、瞬時にこれを300デナリと見積もり、そしてその相応しい使いみちを指導するのです。300デナリというのは、当時の1日の労働者の賃金がおよそ1デナリですから、300人分の賃金に当たる値段です。ですから、確かにユダが言うように、イエス様にかけたその香油を売って貧しい人々に施せば、300人もの人が潤うのです。ユダの指摘は、確かにその通りです。
けれどです。やっぱりどこか違和感を感じるのです。私だったら、まず口に出るのは「先生に何をするんだ!」という咄嗟の言葉だと思います。ところがユダの言葉はそうじゃない。イエス様が油まみれになっているこの状況で、イエス様ではなくて、香油の心配をしています。そんなもったいない使い方をしてどうするんだ、とです。このユダの、状況に対する関心の寄せ方に違和感を感ずるのです。いや、今はそこじゃないでしょ。と突っ込みたくなるのです。
すると、ヨハネはこの違和感の正体を明らかにしています。それは、会計を務めていたユダは、実は前々から預かっていたお金を使い込んで穴を空けていた、と言うのです。つまり、彼の関心事はいつも、皆にばれる前にどうやってこの穴を埋めるかだったということです。ですから彼は何をしていても、何を見ても、全部お金と結び合わせてしまう。そんな折に、マリヤが事件を起こした。咄嗟に頭に浮かんで口にしたのが「もったいない」。つまり、それは彼自身の後ろめたさから来るところの怒りなのです。その証拠に、彼はこの後、祭司長たちのところに出向いていきまして、「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」と持ちかけたことが、マタイの福音書に記されています。イエス様を売ってまでも、自分の罪が明るみに出ることを防ぎたい。罪をごまかすために、別の罪を犯していることにも気付かない。罪はその人の目を曇らせてしまうものなのです。
イエス様はマリヤの奇行は、イエス様の葬りのためだと言います。もちろん、マリヤがどれだけイエス様の死を把握していたかは正直微妙です。けれど、一連の奇妙な行動の背景には、イエス様の身を案じ、気懸かりに思うマリヤがいるということは確かです。彼女は事前の手配書を見て心配していたのです。できることなら、このままエルサレムには向かわずに、どこかに逃げて欲しい。けれど、晩餐の様子を伺っていると、イエス様はエルサレムに行くことを決めてしまっておられる。このままではイエス様は捕らえられてしまう。殺されてしまう。でも私にはイエス様を引き止めることはできない。こういう葛藤の中での、彼女の咄嗟の振る舞いが、イエス様に香油を掛ける、つまり葬りの儀式だったということではないでしょうか。
ユダは咄嗟にマリヤを非難しました。それは彼の抱える後ろめたさのゆえにでした。マリヤは咄嗟にイエス様の埋葬の備えをしました。それは彼女がイエス様を想うがゆえにでした。私たちの咄嗟の振る舞いは、全て私たちの抱える心から出るものです。ですから、私たちは心の一新によって変わらなければなりません。私たちの心が恵みと感謝で満ちているなら、私たちの口から出るものは、決して人を汚しません。しかし罪で満ちているならば、私たちは周囲を汚すしかできないのです。心の一新は御霊によってです。
