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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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170820 ヨハネ13:31-35 「循環する愛」

ヨハネ13:31-35 「循環する愛」

 イエス様は、私たちに愛し合うことを命じる時、「私が愛したように」と言っています。愛の見本を示されています。各々が自分勝手に思い込んでいる愛ではなくて、イエス様が愛されたように。では、このイエス様を見る時、私たちが今まで愛と信じ、教えてきたことは本当に愛だと言えるのでしょうか。
 ヨハネはエペソで書いた手紙の中で、この新しい戒めについて「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛して下さったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」と、解説しています。相手のために自分の最も大切なものを犠牲とする。この犠牲の大きさに、愛の本質が表れていると言うのです。愛というのは相手のためにどれだけ犠牲を負えるかということです。ですから、私たちが普段ささやく愛と、イエス様が問うている愛とではまったく意味が違っています。互いに愛し合いましょう、とは耳に優しい教えですが、実際は、互いに犠牲を負いましょうと言う戒めに他なりません。
 私たちはできることなら、誰かのために犠牲を負うのではなくて、誰かが自分のために犠牲を負ってほしいと願う者ではないでしょうか。愛するよりも愛されること、与えるよりも受けることを求める者ではないでしょうか。あなたが愛してくれるなら、私も愛します。それは見返りを求める愛、条件付きの愛ではないでしょうか。
 しかし、それはある意味で当然なのです。なぜなら、私たちは愛し合う存在として造られたからです。一方的ではなく、互いに愛し合う存在。神様の愛に応答する存在として造られたのです。問題は、神から離れた罪人である私たちは根本的に愛を欠如しているということなのです。ですから、まず愛されたい。いえ、愛されなければならない。しかし全ての人がそうなのですから、誰も自分から愛せない。中には奇特な人がいて、自分から愛そうとするのですが、自らの内の愛はすぐに枯渇し、満たされない思いはやがて敵意と変わっていく。
 だから、と言いましょうか、イエス様はこの戒めを誰彼となく語られるわけではありません。それは弟子のみに語られます。イエス様を信じる者に語られるのです。それは弟子のみが、イエス様の初めの愛を知るからです。イエス様を信じる者だけが、すでに愛を受けているからです。そして、イエス様はこの愛を、ご自身ではなくてあなたの隣りにいる兄弟姉妹に返しなさいと言っておられるのです。
 愛し愛される関係。けれど、それはたった二人の間で愛し合うということではありません。イエス様は居並ぶ弟子たちの間で互いに愛し合いなさいと言われます。イエス様が語る愛は循環する愛なのです。二人きりであれば、見返りがなければ愛せなくなります。けれど循環する愛は、その場で見返りがなくても、必ず愛は返ってくるのです。問題は最初の一人にいったい誰がなれるのかという話です。そして、その愛はイエス様から出ているのです。私たちはイエス様から無限の愛をいただきます。イエス様がまず弟子の足を洗われたのはそのことを知らせるためです。あなた達の足は私が洗った。あなたたちの乾いた心は私が愛で満たした。だから、あなたたちは足を洗い合える。あなたたちは愛し合える。イエス様の与える戒めには、すでにその原資が用意されているのです。
 教会は互いを愛しあいます。愛が循環するところです。私が誰かのために仕える。犠牲を負う。しかし、私の知るところ、知らないところで、私のために仕え、犠牲を負っている人がいる。何よりも私たちを、命を捨てて愛されたお方がいるのです。最初の一人はイエス様です。では二人目は誰でしょう。それは最初の愛に触れた者です。愛された者です。イエス様によって愛を満たされている人が、次の一人になることができる。それは私たちなのです。

170813 ヨハネ13:21-30 「情け深いお方」

ヨハネ13:21-30 「情け深いお方」
 
 ユダの裏切りがイエス様によって指摘され、実際にユダがそれを行動に移す場面です。この箇所を読みますと、いつも思うのが、なぜ他の弟子たちはイエス様による裏切りの指摘を理解出来なかったのか。ということです。イエス様の行為を見れば、裏切り者が誰かは明らかだと思うのです。ところが、彼らに気付いている様子はありません。彼らはいったいどれだけ鈍いのでしょうか。
 気になって色々と調べましたら、ある説教者がこのようなことを言っていました。つまり、それは弟子たちにとって当たり前の光景であった。と言うのです。イエス様一行は車座になって食事を取っています。イエス様の右には、イエス様が愛されていた弟子ヨハネが座ります。では左には誰が座るのか。それがユダでした。ユダはいつもイエス様の側に置かれていました。ユダの役目が財布持ちということもあったかと思います。いつでもイエス様の御用に応えられるように、イエス様の側に置かれていた。それだけユダはイエス様に信頼されていたということです。ですから、食事の折、イエス様が身近に接するユダにパンを渡すという行為も、イエス様から言付けられてユダが食事の席を立つことも、さほど珍しい光景ではありませんでした。更に言うなら、イエス様が「パン切れを与える者」と言ってから、実際に与えるまでには、しばらくの間があったと考えられます。過ぎ越しの食事で苦菜を食べる際に、ハロセットと呼ばれる果物のピューレにつけるのですが、これは過ぎ越しの食事の中頃のことです。一方イエス様による弟子の裏切りの告知は洗足の直後のことですから、実際のパン切れを渡しのは、少し経ってからと言えるのです。
 何が言いたいかと言いますと、弟子たちはユダのことを、それほど気に留めていなかったということです。過ぎ越しの食事は作法通りに進み、彼らの気は緩みました。もはや、彼らは、イエス様の言ったことを気してはいませんでした。なぜなら、イエス様がユダを名指しにはしなかったからです。さすがにイエス様がユダを名指しにすれば、弟子たちも食事どころの騒ぎではなかったでしょう。けれど、イエス様は、遠回しに伝えるのみです。そして、案の定、弟子たちの気持ちは別に移っていきます。・・・ただ一人を除いてはです。イエス様がなぜ、裏切りを告知するのか。その割には、直接に名指しすることをしないのはなぜか。それは、イエス様がただ一人に向けてこのことを語っているからです。
 ユダを弟子たちの前で糾弾する意図はイエス様にはありません。けれど、彼をそのままにはしていられない。イエス様はユダを放ってはいられない。だから、イエス様は彼だけにわかるように伝えます。「私は全て知っているよ。」と、ユダにサインを送るのです。
 裏切りの告知があってから、実際にパンを渡されるまでの間、ユダはどのような思いだったでしょうか。不安、恐れ、やましさ、憤り、絶望。そんな思いがグルグルと駆け巡ったことでしょうか。思うに、罪が指摘されたユダは、ある意味チャンスだったのです。彼は行動を起こす前に、自らの罪を指摘されたのです。そして皆に知れることなく、悔い改める、やり直すチャンスを得たのです。耳を真っ赤にして、恥ずべき自分と直面して、しかし、それは神に立ち向かうために避けては通れないプロセスです。私たちは自らの罪に気付いて初めて、悔い改めることができる。神に立ち返ることができるのです。しかし、そんな私たちのジャマをするのが、こんな罪深い私を神は赦してくれるはずはない。という思いです。ユダは最後の最後で、イエス様を信じられなかった。もうだめだと決めつけたのです。
 私たちは見誤ってはいけません。イエス様は赦すために罪を暴くのです。そして赦すために命を捨てられるのです。私がどれだけ己の愚かさに嘆こうと、私がどれだけ自分の罪深さに絶望しようと、イエス様の赦しは揺らぎません。なぜならこの赦しは、私の義によって成るのではなくて、イエス様の流された血潮によって成るからです。たとえ自分を信じられなくても、イエス様の憐れみに疑う余地はありません。私たちは自分で決めつけるのではなくて、イエス様を頼り、悔い改めて神に立ち返ろうではありませんか。

170809 民数記12:1-10 「神のしもべモーセ」 赤羽聖書教会 野寺恵美師

民数記12:1-10 「神のしもべモーセ」

 旧約聖書では、モーセのように「地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」と評された人はいません。聖書に於ける「謙遜」とは、普段私たちが使う意味とは違い、全く何も持たないので神の助けなくしては一瞬たりとも生きられない人のことです。主にある乞食、これがモーセの真の姿です。神から召された時「私はいったい何者なのでしょう」と、自分が神の召しに値する者ではないことをよく知っていました。カナンを目指す旅で様々な難題に直面する中でも自分の無力さと主の全能なることをますます思い知っていきました。7節ではモーセは神から「彼はわたしの全家を通じて忠実な者」と評され、二度も「わたしのしもべ」と呼ばれました。これほどの評価を受けた人は他にいません。「忠実な」とは「信頼して任せられる」という意味です。中身は空っぽでありそこにそっくり神の霊が宿る100%主に支配されている主の奴隷です。そういうモーセだからこそ、神さまは対等に話し、その姿を目の前に現し、イスラエルを導くことを委ねます。
 ミリヤムとアロンの誤りはここにあります。彼らは主に用いられていくうちに、自分のうちに主の目に留めてもらえるような何かがあるのだと思うようになっていったのでしょう。だから自分たちがモーセより劣るはずがないという不満が生じます。主の恵みが見えていませんでした。神の主権に文句を言うミリヤムを主はさばかれます。モーセは何も言いませんが、主が答えられました。人々の一番忌み嫌う病に冒され、7日間宿営から締め出されました。私たちには神が見えているでしょうか?ミリヤムやアロンのように、自分が神の働きを委ねられて活躍しているからといって、報いを得られる、あの人よりもっと大きな地位や称賛を得られると期待してはいないでしょうか。神がどんな方か知らなければなりません。神を知らないから自分しか見えないのです。他の人と比べるしかありません。神を知ると自分を高くすることなどできません。モーセのように、自分には何もないこと、神の前にはたださばかれる以外にはない者であることを知ります。これが神を知る者、「神のしもべ」です。モーセにとっては、神のみこころ、神のことばこそがすべてでした。
 平和を考えさせられる8月。戦時下、日本の教会はミリアムやアロンのように自分たちに都合のいいように神のことばを用いながら国策に積極的に協力しました。その結果、ミリヤムのように7日間どころか70年間神に見捨てられました。
 私たちは何者で、神はどんな方なのでしょうか。神こそがこの天と地の真の主権者です。神は世の悪をさばかれます。神は今も生きて働いておられます。私たち教会が果たすべき責任はこの神に忠実に従って生きることです。この世でどうにかして生き残るとか、少しでも世から認められようとすることではありません。生き残り、認められるために教会は存在しているのではありません。たとえ生き残れなくとも、認められなくとも、神のみこころを忠実に行っていくのです。神のことばが教会のいのちです。私たちキリスト者のいのちです。この神を侮る者は、預言者ミリヤムであっても、大国の王パロであっても、神のさばきを受けます。
 モーセのように謙遜にみこころを行う者となりましょう。