ヨハネ13:31-35 「循環する愛」
イエス様は、私たちに愛し合うことを命じる時、「私が愛したように」と言っています。愛の見本を示されています。各々が自分勝手に思い込んでいる愛ではなくて、イエス様が愛されたように。では、このイエス様を見る時、私たちが今まで愛と信じ、教えてきたことは本当に愛だと言えるのでしょうか。
ヨハネはエペソで書いた手紙の中で、この新しい戒めについて「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛して下さったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」と、解説しています。相手のために自分の最も大切なものを犠牲とする。この犠牲の大きさに、愛の本質が表れていると言うのです。愛というのは相手のためにどれだけ犠牲を負えるかということです。ですから、私たちが普段ささやく愛と、イエス様が問うている愛とではまったく意味が違っています。互いに愛し合いましょう、とは耳に優しい教えですが、実際は、互いに犠牲を負いましょうと言う戒めに他なりません。
私たちはできることなら、誰かのために犠牲を負うのではなくて、誰かが自分のために犠牲を負ってほしいと願う者ではないでしょうか。愛するよりも愛されること、与えるよりも受けることを求める者ではないでしょうか。あなたが愛してくれるなら、私も愛します。それは見返りを求める愛、条件付きの愛ではないでしょうか。
しかし、それはある意味で当然なのです。なぜなら、私たちは愛し合う存在として造られたからです。一方的ではなく、互いに愛し合う存在。神様の愛に応答する存在として造られたのです。問題は、神から離れた罪人である私たちは根本的に愛を欠如しているということなのです。ですから、まず愛されたい。いえ、愛されなければならない。しかし全ての人がそうなのですから、誰も自分から愛せない。中には奇特な人がいて、自分から愛そうとするのですが、自らの内の愛はすぐに枯渇し、満たされない思いはやがて敵意と変わっていく。
だから、と言いましょうか、イエス様はこの戒めを誰彼となく語られるわけではありません。それは弟子のみに語られます。イエス様を信じる者に語られるのです。それは弟子のみが、イエス様の初めの愛を知るからです。イエス様を信じる者だけが、すでに愛を受けているからです。そして、イエス様はこの愛を、ご自身ではなくてあなたの隣りにいる兄弟姉妹に返しなさいと言っておられるのです。
愛し愛される関係。けれど、それはたった二人の間で愛し合うということではありません。イエス様は居並ぶ弟子たちの間で互いに愛し合いなさいと言われます。イエス様が語る愛は循環する愛なのです。二人きりであれば、見返りがなければ愛せなくなります。けれど循環する愛は、その場で見返りがなくても、必ず愛は返ってくるのです。問題は最初の一人にいったい誰がなれるのかという話です。そして、その愛はイエス様から出ているのです。私たちはイエス様から無限の愛をいただきます。イエス様がまず弟子の足を洗われたのはそのことを知らせるためです。あなた達の足は私が洗った。あなたたちの乾いた心は私が愛で満たした。だから、あなたたちは足を洗い合える。あなたたちは愛し合える。イエス様の与える戒めには、すでにその原資が用意されているのです。
教会は互いを愛しあいます。愛が循環するところです。私が誰かのために仕える。犠牲を負う。しかし、私の知るところ、知らないところで、私のために仕え、犠牲を負っている人がいる。何よりも私たちを、命を捨てて愛されたお方がいるのです。最初の一人はイエス様です。では二人目は誰でしょう。それは最初の愛に触れた者です。愛された者です。イエス様によって愛を満たされている人が、次の一人になることができる。それは私たちなのです。
イエス様は、私たちに愛し合うことを命じる時、「私が愛したように」と言っています。愛の見本を示されています。各々が自分勝手に思い込んでいる愛ではなくて、イエス様が愛されたように。では、このイエス様を見る時、私たちが今まで愛と信じ、教えてきたことは本当に愛だと言えるのでしょうか。
ヨハネはエペソで書いた手紙の中で、この新しい戒めについて「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛して下さったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」と、解説しています。相手のために自分の最も大切なものを犠牲とする。この犠牲の大きさに、愛の本質が表れていると言うのです。愛というのは相手のためにどれだけ犠牲を負えるかということです。ですから、私たちが普段ささやく愛と、イエス様が問うている愛とではまったく意味が違っています。互いに愛し合いましょう、とは耳に優しい教えですが、実際は、互いに犠牲を負いましょうと言う戒めに他なりません。
私たちはできることなら、誰かのために犠牲を負うのではなくて、誰かが自分のために犠牲を負ってほしいと願う者ではないでしょうか。愛するよりも愛されること、与えるよりも受けることを求める者ではないでしょうか。あなたが愛してくれるなら、私も愛します。それは見返りを求める愛、条件付きの愛ではないでしょうか。
しかし、それはある意味で当然なのです。なぜなら、私たちは愛し合う存在として造られたからです。一方的ではなく、互いに愛し合う存在。神様の愛に応答する存在として造られたのです。問題は、神から離れた罪人である私たちは根本的に愛を欠如しているということなのです。ですから、まず愛されたい。いえ、愛されなければならない。しかし全ての人がそうなのですから、誰も自分から愛せない。中には奇特な人がいて、自分から愛そうとするのですが、自らの内の愛はすぐに枯渇し、満たされない思いはやがて敵意と変わっていく。
だから、と言いましょうか、イエス様はこの戒めを誰彼となく語られるわけではありません。それは弟子のみに語られます。イエス様を信じる者に語られるのです。それは弟子のみが、イエス様の初めの愛を知るからです。イエス様を信じる者だけが、すでに愛を受けているからです。そして、イエス様はこの愛を、ご自身ではなくてあなたの隣りにいる兄弟姉妹に返しなさいと言っておられるのです。
愛し愛される関係。けれど、それはたった二人の間で愛し合うということではありません。イエス様は居並ぶ弟子たちの間で互いに愛し合いなさいと言われます。イエス様が語る愛は循環する愛なのです。二人きりであれば、見返りがなければ愛せなくなります。けれど循環する愛は、その場で見返りがなくても、必ず愛は返ってくるのです。問題は最初の一人にいったい誰がなれるのかという話です。そして、その愛はイエス様から出ているのです。私たちはイエス様から無限の愛をいただきます。イエス様がまず弟子の足を洗われたのはそのことを知らせるためです。あなた達の足は私が洗った。あなたたちの乾いた心は私が愛で満たした。だから、あなたたちは足を洗い合える。あなたたちは愛し合える。イエス様の与える戒めには、すでにその原資が用意されているのです。
教会は互いを愛しあいます。愛が循環するところです。私が誰かのために仕える。犠牲を負う。しかし、私の知るところ、知らないところで、私のために仕え、犠牲を負っている人がいる。何よりも私たちを、命を捨てて愛されたお方がいるのです。最初の一人はイエス様です。では二人目は誰でしょう。それは最初の愛に触れた者です。愛された者です。イエス様によって愛を満たされている人が、次の一人になることができる。それは私たちなのです。