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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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170924 ヨハネ14:13-21 「もうひとりの助け主」

ヨハネ14:13-21 「もうひとりの助け主」

 イエス様は弟子たちの元を離れることについて、それはどうしても必要なことなんだと。それは、あなたたちの信仰の行き着く先を備えることなんだと。こう、おっしゃられました。そして、そのゴールに続く道こそが主イエスの道。十字架の道であると前回学びました。この道は、決して平坦な道ではありません。イエス様がそうであったように、孤独や苦しみを伴う道です。けれど、必ずゴールへとたどり着く道です。進んで進んで、挙句、行き止まりというような道ではなくて、たとえ狭く、険しくとも、必ず天の住まいへと続いている道。だから私たちは、勇気と誇りを持って、この主イエスの道を歩むのです。
 しかしです。そうは言ってもと、やはり思うところではないでしょうか。私たちはペテロやパウロやルターとは違います。ただの凡人です。たとえば、イエス様のような信仰のカリスマ。自分を引っ張ってくれる偉大な指導者が側にいてくれるならば、私たちはそんな心配はしないのかもしれません。地方の教会でたまに500人、1000人と集まる教会には、得てしてカリスマ的な牧師がいたりします。この先生に着いていけば何の問題もない。そういう信仰は楽なものです。何も考えず、盲目的にただそこに追従すればいい。けれど、イエス様は弟子を置いて先に行かれるのです。一人ひとりが十字架の道を自らの足で歩むことを問われる。妥協せず、自らの意思で信仰の道を歩み続けるようにと言われるのです。
 ・・・本当に歩めるものでしょうか。確かにこの道は天の住まいへと続く道。限りあるこの地上の世界で、唯一永遠の祝福へと続く道です。けれど、その道はあまりに険しく、孤独で苦しい、十字架の道だと言うのです。私たちにその覚悟はあるでしょうか。イエス様が共におられないで、本当に私たちは主イエスの道を歩めるものなのでしょうか。
 大丈夫だと言いたいところですが、実はそれは無理だとイエス様は承知しているのです。私たちの覚悟や意思だけで、到底この道を歩むことは不可能だと、イエス様はとっくに理解しています。ペテロですらそうなのです。私たちの誰が、私は大丈夫と言えるでしょうか。けれど弟子たちの不安も、私たちの不安も、それは全てイエス様の承知するところです。だからこそ、イエス様は父なる神に取り次がれるのです。私たちにもう一人の助け主をお与えになるようにとです。そして事実、助け主はペンテコステの出来事を持って、一人ひとりの信仰者の内に住まわれ、その者をそれぞれの十字架の道へと導びかれたのです。
 「もうひとりの」というのはイエス様の他にという意味です。イエス様のような助け主ということです。イエス様のような助け主がいつでも共におられるなら、確かに、これほど心強いことはありません。けれどです。問題は、この助け主は目に見えないお方だということです。
 目に見えないのですから、私たちは感じるしかありません。では皆さんは日頃どれだけこのお方を感じておられるでしょうか。信仰者の内に、聖霊なる神は確かに住んでくださるのです。私たちの内側にあって、真理を語り、神を証ししてくださるお方がおられる。これはイエス様が約束された事実です。にも関わらず、内なる聖霊の声が聞けないでいることはないでしょうか。聖霊は口を閉ざしているのでしょうか。どこかに隠れてしまっているのでしょうか。そうではありません。それは私自身が聖霊なる神を押し退けているからです。心の王座を聖霊に譲らず、私自身がしがみついているからです。私の考え。私の感情。私の利益。私の、、、。私たちはあまりにも私、私となってはいないでしょうか。それでは聖霊の声を聞くことも、その導きを知ることもできません。私たちはまず静まるべきです。そして祈り、御言葉に聞くべきです。私が私自身を譲る時、聖霊なる神は確かに私を導き、語りかけてくださるのです。

170917 ヨハネ14:5-12「わたしが道であり」

ヨハネ14:5-12「わたしが道であり」

 行き先が定まっている旅と、そうでない旅では、道中の不安は全く違います。この一歩が、目的地に一歩近づく。行き先が決まってさえいれば、その一歩は決して無駄にはなりません。けれど、行き先がわからなければ、進むことも戻ることもできません。人生という旅は、闇の中を歩むようなものです。一歩先で何が起こるかわからない。私たちには光り輝く目的地が必要です。そのために、イエス様は私たちの行き着く先を用意されるのです。
 さて、目的地があるなら、当然そこに続く道があります。それが主イエスの道です。私たちはこの主イエスの道を歩いて天の住まいへと向かうわけですが、問題はこれが楽な道ではないことです。それは「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」と言われた道。つまり天の住まいが用意される以前、救いが完成する以前には、イエス様が直々に「ついて来ることができません。」と言われたその道です。つまり十字架の道なのです。
 私たちは思います。イエス様と共に歩めば何の心配もない。不安もない。信仰の歩みは祝福に満ちた栄光の道だと。弟子たちもそう思いました。だから、何を置いても、イエス様とともにあることを彼らは願いました。けれども、その道は栄光の道ではあるけれど、決して平坦な道ではありません。それは十字架の道です。主イエスとともに歩むということは、私もまた十字架を歩まなければならないということです。だからこそ、救いの完成が必要だったのです。天の住まいが整えられなければならなかったのです。行き先がはっきりせずして、進むことは敵わないのがこの道だからです。
 ローマの南東の門から真っ直ぐに伸びる石畳の軍用道路でアッピア街道があります。このアッピア街道で、ペテロ晩年の有名な逸話が残っています。ペテロは晩年、ローマの伝道に尽力を注ぎました。けれど、時代は皇帝ネロの時代。ローマの大火の責任を押し付けられ、キリスト教の迫害は表面化していきます。次々と目の前で信者たちが捕らえられ、獅子の餌とされたり、串刺しにされたり、もう明日にも根絶やしにされるという有様。ペテロに付き添う弟子たちは、ペテロに今すぐローマを離れるように、反キリストの思惑通りにさせないようにと嘆願するのです。ペテロは弟子たちの意を酌み、涙ながらにローマを離れます。アッピア街道です。すると、その街道で輝かしい人と出会うのです。ペテロにはそれが主イエスであることがすぐにわかりました。彼はむせび泣きながら主に尋ねます。「クォ・ヴァディス・ドミネ」(主よ。どこに行かれるのですか。)すると主が答えます。「あなたが私の民を捨てるのなら、私はローマに行って、再び十字架にかかろう。」我に返った老使徒ペテロはアッピア街道を引き返します。ペテロはこのローマで死を迎えることとなるのです。
 イエス様が十字架にかかられるとき、イエス様を否認し、裏切ったペテロです。その彼が十字架の道を歩みます。何が彼をそのように変えたのでしょう。それは十字架の先を見据えたからです。復活の主とお会いして、信仰を貫き通すことの幸いを見出したのです。
 私たちもまた同じです。信仰の道は十字架の道。それは多くの人には理解されない狭き道です。イエス様はあざけりと、罵声の中、一歩一歩、十字架の道を歩まれました。私たちが信仰に生きる時、やはり私たちは多くの遠慮ないあざけりと罵声を耳にします。信仰の戦いを強いられるのです。
 来週の日曜日には小学校で運動会があります。信仰のゆえに休みなさいと言うこともできますが、これまで一緒に練習してきたクラスのみんなへの責任もあります。教会は夕方に礼拝を設けて彼らの信仰を応援したいと思います。
 子どもであろうと、信仰に生きることを選べば、そこに多かれ少なかれ戦いがあります。大人であれば更に多くの誘惑があることでしょう。そんなとき、私たちは世の常識という声に耳を傾けていても、何の助けもありません。私たちは主の御声に聞き、主の御すがたに倣うのです。十字架の道は決して失望に終わりません。その道は天の御国に続く道。天の住まいはすでに用意されているのです。

170910 出エジプト20:13 「殺してはいけない」

出エジプト20:13 「殺してはいけない」

 幼稚園で聞いた話です。ある時、ひとりの男の子が園庭の隅でとかげを切り刻んでいたんだそうです。慌てて止めさせようとしたら、その子が言いました。「大丈夫だよ。命は3つまであるからね。」なんとも笑えない話です。
 「人はなぜ人を殺してはいけないのでしょうか。」これは、昔、テレビの討論番組の中で、ある青年が発した質問です。日本中の有識者と言われる人々がありとあらゆる返答をしましたが、しかし、これと言った回答が得られないままになっている永遠のテーマです。皆さんだったら何と答えますか。
 色んな考えがあるでしょう。ある人は言います。死んだ者を生き返らすことはできないからだと。また、殺しを認めてしまったら、いずれ自分が殺されるから。と言う人もいるでしょう。私はこれを考えるとき、まず命の価値を知る必要があると思います。命の価値が希薄になっているために、それが尊ばれないのだと思うのです。
 子育てをしておりますと、人一人が育つのに、どれほど大きな犠牲が払われているのかがわかります。子育てってのは大変です。自分の時間も労力もお金も愛情も、一切を注ぎ込んで育てるわけです。投げ出したくもなりますが、投げ出すわけには行かない。親としての責任をもって、精一杯関わって子育てをするのです。でも、だからこそです。私はこの子たちが愛おしくて仕方ない。そこに犠牲があればあるほど、その存在が愛おしくなってくるというものです。そして、つくづく思うのは、自分がこのように育つのにも、沢山の犠牲があったんだろうなぁということです。
 自分がどれほど大切にされているか、自分がどれほど愛されているか。このことは、自分の存在価値に繋がります。命の尊さに繋がります。そして、どれほど愛されているかということは、どれほど犠牲が支払われてきたかによってわかるのです。犠牲のない中で、余りある中から与えることは誰にでもできます。しかし足りない中、犠牲のある中で与えることには、愛が必要です。こどもの内はそれが犠牲とは気付かなかったのですが、親の身になって、どれほどの犠牲が支払われてきたことか、どれほど大切にされて来たかを知るのです。私たちは、この身のために支払われた犠牲を覚えなくてはなりません。両親が、家族が、友人が、どれほど犠牲を払ってきたか。そして何よりも、神がどれほどの犠牲を支払っておられるかに目を向けなければなりません。
 「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:8)親にとって、子どものために命を捨てるという思いはどこかで共感するところです。けれど、他人のために子どもの命を捨てるということは、どうあっても共感できないことではないでしょうか。しかし、神は、私たちのために、その尊いひとり子の命を犠牲とされたのです。イエス様は十字架で叫びます。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」自分の子どもが、心から助けを叫ぶその声を、父なる神は無視したのです。そして自らその裁きの御手を降ろされた。それはいったい、どれほどの悲しみでしょうか。
 イエス様を十字架に架けることは、父なる神のみこころでした。ご計画でした。けれどだから神は何の躊躇もなかったかと言えば、そんなことはあり得ない。天地万物の創造主なる神、全てを統べ治める神が、痛みと苦しみを伴って、ひとり子の命を見捨てられたのです。私たちの命は、この犠牲の上に置かれているのです。そしてこれが私たち一人ひとりに付けられた命の価値です。私たちの命の代価として、イエス様の命が支払われたのです。
 だから聖書は、殺してはいけないと言います。そのひとりのために、イエス様の命が犠牲となったのです。ですから、その命を奪うことは、父なる神の苦渋の選択を足蹴にすることです。イエス様の尊い犠牲を無意味にすることになるのです。神がそれほどまでの犠牲を負って、私たちを生かすのはなぜでしょうか。それは私たちが命を殺す者ではなくて、生かす者となるためにです。私たちは身代わりとなったイエス様に相応しく生きたいと思います。目の前の一人に、イエス様の命を見出す者となりたいのです。

170903 ヨハネ14:1-4 「天の住まいを見据えて」

ヨハネ14:1-4 「天の住まいを見据えて」

 「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」と言われたあの時から、全てを投げ打ってついて来た弟子たちです。仕事も家族も故郷も、あらゆるものを投げ打って、イエス様に付いてきた彼ら。ところが、ここに来て、イエス様は「わたしが行くところへは、あなたたちは来ることができない。」と、こう語られるのです。聞き捨てならない言葉です。なんて情けないことを。見損なわないでください。というのが弟子たちの思いではなかったか。ペテロは言います。「わたしはあなたのためにはいのちも捨てます」けれど、イエス様は無情にもペテロの否認を予告されます。それは「わたしが行くところへは、あなたたちは来ることができない。」という言葉を、身を持って知る出来事です。
 イエス様は「心を騒がしてはなりません」とおっしゃいます。しかし、イエス様が共におられなくなると言うのに、心を騒がずにいられるものでしょうか。
 これから体験することは、彼らの予想だにしない出来事です。それはイエス様の受難であり、十字架の死です。いったい誰が、神の救いのご計画がイエス様の死であると想像できたでしょうか。彼らはこの後、主イエスの喪失という、これまでにない絶望を経験いたします。事実、弟子たちはこの出来事に散り散りに逃げ隠れることしかできませんでした。辛うじて、ペテロがイエス様を追って大祭司の庭にまで行きました。けれど、人々の追求に、イエス様との無関係を装う始末でした。これが現実です。私たちは振りかかる様々な問題に対して、心を騒がせないわけにはいられない、弱い弱い存在なのです。それでも、イエス様が共におられる。この確信が私たちの支えです。私は弱く愚かで、どうしようもない。けれど、イエス様は決して私を見放さず、共にいてくださる。今日、語りかけてくださる。そう信じるからこそ、私たちは立ち上がれるというものです。
 それなのにイエス様は、これから弟子たちを置いて独り行かれると言われる。実は、どのような試練に会うことよりも、このイエス様に置いていかれるということに、私たちは不安を感じるのです。イエス様に見限られる。もうお前のことは知らない。と言われているようなものです。ですからペテロは、私はついて行きます。いのちを捨てます。と必死にアピールしたのです。
 けれど、その心配はそもそもの前提条件が違っているのです。確かに、イエス様は彼らを置いて行かれます。けれど、それは彼らを見捨てたわけではありません。彼らの住まいを用意するためだと言われます。イエス様が先に行かなければ、彼らの目指すべき住まいはないと言うのです。
 イエス様は十字架の道を歩まれます。それは誰もついては行けない道です。けれど、イエス様がよみがえって彼らと再会した後、彼らはそれぞれの十字架の道を歩むのです。ペテロはローマで逆さ十字架に架かって死んだと言われています。何がペテロを変えたのでしょう。それは復活のイエス様と出会ったから。そして、それは天の住まいの約束を手に入れたから。つまり信仰の行き着く先を見据えたからです。
 行き先のわからない船に乗ることは、これほど不安なことはありません。私たちは、私たちの天の住まいがすでに用意されている。つまり、救いがすでに定まっているということによって、今置かれている信仰生活を、心騒がせることなく、歩むことができるのです。

170827 ヨハネ13:36-38 「つまずきを糧に」

ヨハネ13:36-38 「つまずきを糧に」

 イエス様は言いました。「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
 けれど、どうでしょう。イエス様の弟子であることは、イエス様の側にいることだけで、すでに明らかではなかったでしょうか。どこまでもイエス様について行く。それが彼らの弟子としての覚悟でした。「主よ。どこにおいでになるのですか。」ところがイエス様は「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」と言われます。イエス様は共にはおられなくなる。だから彼ら自身がイエス様の弟子に相応しいか、世から問われるようになる。もちろんイエス様はこの後の十字架、そして復活、昇天を意識して言っています。けれど、弟子たちにはそれがわかりません。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」イエス様に認められようとするペテロの必死さの表れです。しかし、ご承知のとおり、彼はこの後数時間後にはつまずいてしまうわけです。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」ペテロだけではない。弟子たちは皆、イエス様を置いて逃げさるのです。
 けれど、私は思うんですが、彼らがつまずくのは、これはもう仕方がないことではなかったかとです。彼らにとって、イエス様は全てだったのです。どんな困難もイエス様と共にあればこそ耐えてこれたのです。そのイエス様がいなくなれば、それは頼る大樹を失ってしまった鳥の如く、弟子たちはそこに留まり続けることなどできないのです。イエス様はもちろん、そんなことは百も承知でして、責めているわけでも、つまずいてはいけないと言っているのでもない。ついて来ることができない、その先で、あなたの覚悟が問われる。あなたの信仰が試される。その時、あなたはついて来なさい。とこう言っているわけです。
 信仰生活につまずきは避けられません。何のつまずきもなく、生涯を終える。理想を思い浮かべますが、実際はそういうわけにはいきません。私たちは時につまずきを覚え、もう信仰なんてどうでもいいと投げ出したくなることがあるのです。イエス様はそのような人の弱さを責めることはなさいません。そういうことはある、と言っている。しかし、そのままではいけない。倒れたならば、もう一度起き上がりなさい。私が先で待っているから、私のところまで歩き出しなさい。そう言っておられる。挫折を知ってなお立ち上がる信仰こそが求められているのです。
 慰めは、これは私たちの力によるのではないということです。ルカ22:32「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」もう一度立ち直る。このこともまた主のとりなしのゆえに可能なことです。イエス様はあらかじめとりなしていて下さる。私たちの弱さを全部承知で、今抱えている不安も、恐れも、怒りも、全て承知で、それを否定するのではなくて、待っていて下さる。そして尚も期待して下さっているのです。
 一足飛びには行かないかもしれません。落ち込んでいるときに元気を取り戻すことは時間がかかることかもしれません。しかし、主はとりなし、待ち続け、そして用いて下さるのです。ペテロが後に教会のリーダーとなっていくことに大いに慰められます。彼は言い訳のできない大きな失敗をするのです。けれど、だからこそ、イエス様は彼をリーダーと選ばれたのでありましょう。自信満々に己を誇るリーダーではありません。自分の弱さに打ちひしがれ、その弱さを覆う主の愛に気付かされたリーダーです。他人の愚かさに同情し、寄り添うことのできるリーダーにです。私たちは失敗を繰り返します。過ちを犯します。己の愚かさに腹が立ちます。しかし、それは無駄ではありません。挫折を通り越して、私たちはより強くなれる。より優しくなれる。主は弱さを知るその者をこそ用いて下さるのです。