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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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171022 ヨハネ14:22-31「愛することは従うこと」

ヨハネ14:22-31「愛することは従うこと」

 ヤコブの子ユダ(別名タダイ)とイエス様の会話は噛み合っていないように思えます。しかし、イエス様の言葉は、これまでの流れの中で、一致しています。イエス様の23節の言葉は21節の言葉を再度言い直した言葉です。さらにその前には、イエス様は「互いに愛し合う」という新しい戒めを命じられ、そして、天の住まいを用意する話をされています。このイエス様の話の流れから察するに、イエス様の話の最中にユダが横槍を入れた。恐らくは、「いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。」というイエス様の言葉に、敏感に反応してのユダの言葉でしょう。けれどイエス様は話を逸れるのを嫌ってそのまま続けられた。というのが真相でしょう。
 「わたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。」、「わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。」イエス様を愛することは、イエス様のことばを守り従う中に現れるとおっしゃるのです。愛することは、従うこと。けれど私たちが普段想像する愛というのは、もっと違うものではないでしょうか。愛というのは尊敬することであり、存在を喜ぶことであり、相手に憐れみをかけることであり、相手のために忍ぶことはないでしょうか。愛が従うことと言われると、まるで主従関係のようで、どこかいびつな感じがいたします。しかし、こと神との関係においては、愛とは従うことだとイエス様は言っておられます。
 最初の人アダムに、神は唯一取って食べてはならない善悪の知識の木を用意されました。なぜ、そんな木を用意されたのか。そんな木が無ければ、人は罪を犯す事はなかったのに。けれど、そうではありません。この木こそ、人が神を愛していることを証明する木であり、人が神ならぬ身であることを知るための木でした。全てを食べて良いとされれば、そこに愛が問われることはありません。不自由な一本の木があることで、神の命令に沿って歩むという、被造物としての本来あるべき神に応答する生き方が生まれるのです。私たちがどれだけイエス様を愛しているかは、私たちがどれだけイエス様に従うかによって証明されます。では善悪の知識の木に代わる、イエス様の戒めは何でしょう。それはイエス様が与えられた「あなたがたは互いに愛し合いなさい。」という新しい戒めです。
 イエス様を愛すると言いながら、わたしたちが互いに愛し合わないということはあり得ないのです。もし、わたしたちが互いを愛し合えないのなら、憎しみを持って兄弟を見るなら、その人は実はイエス様を愛してはいないのです。これは、厳しいですが、そうなのです。イエス様を愛しなさい。と問われれば、私たちは平気で愛していますと応えるかもしれません。ペテロのようにです。けれど、あなたの隣りにいるその人、あなたが苦手とするその人、あなたに敵対するその人を心から愛しなさいと言われればどうでしょう。そうでなければイエス様を愛していることにはならないと言われればどうでしょう。果たして、私たちはイエス様を愛していると言えるでしょうか。
 そんなことは無理だと言われるでしょうか。しかし、イエス様はそのようにされたのではなかったでしょうか。私たちこそ、そのように愛された者ではなかったでしょうか。神に敵対していた私たちを、傷つくことをいとわずに、愛し受け入れてくださったのは、他ならないイエス様でした。私たちはこのイエス様を通して、兄弟姉妹を見るのです。そこには私と変わらない赦された罪人がいるのです。イエス様はその一人のためにも、尊い命を投げ出されたのです。
 好きになれと言われているわけではありません。愛せよと言われているのです。私たちの感情がどうであれ、その人が主の愛する者であることを私たちは認めるべきです。それが他でもない主イエスを愛すということなのです。

171015 ヨハネ14:16-17 「真理の御霊」

ヨハネ14:16-17 「真理の御霊」

 ルネッサンスの3大発明と言えば何でしょう。羅針盤、火薬、そして活版印刷です。ヨハネス・グーテンベルクによって発明された活版印刷は、ルネッサンスにおいて、たいへん重大な役割を果たしました。この発明は世界を二分します。すなわち、活版印刷の技術によって、聖書が民衆の手に渡り、宗教改革がなったのです。今年は宗教改革500年の年でありますけれども、ルターに始まる宗教改革のうねりは、ドイツ語による翻訳聖書の登場によって、後戻りできない運動へと発展していったのです。
 「30年前は誰も聖書を読んでいなかった。すべての人は聖書の存在すら知らなかった。例えば、わたしは20歳になっても、まだ聖書を見たこともなかった。日曜日の『教会暦による説教集』に書かれているもの以外には福音書も、書簡も存在しないと思っていた。やっと、図書館で一冊の聖書を見つけた。」当時の多くの人々にとって聖書は隠された書物でした。聖書の内容はローマ・カトリックのフィルターを通ったものでしかなく、それを疑う術すらありませんでした。ところがルターは図書館で一冊の聖書を見つけました。彼はたちまちその虜となり、彼は読むことにより聖書に精通していきました。聖書から彼はその神学を学び、聖書から彼はこれまでのローマ・カトリックの教理の矛盾に気付きます。ルターの宗教改革の全ては、一冊の聖書との出会いから始まったのです。
 ルターの信仰の源は、聖書に対する全き信頼です。聖書を謝りなき神の言葉として読む。だからこそ、彼は聖書に矛盾する教会の伝統を退けることができたのです。聖書を神の言葉として読むなど、合理主義の世の中に生きる私たちには、馬鹿げたことのように思うかもしれません。けれど、です。聖書はそもそも合理的な書物ではありません。私たちの常識で読んでも理解できるようには書かれていません。聖書は理不尽でご都合主義な物語に思えます。しかし、それが被造物である私たちの限界なのです。
 今日の箇所に、もう一人の助け主とは真理の御霊だとあります。実は、ここに聖書を読み解くカギがあります。神の御心は神ご自身によって明かされなければ理解できよう筈がないのです。ことばとなって来られたイエス様と、その御心を私たちの元へと結び合わせる真理の御霊。この三位一体の神への信頼と謙遜を抜きにして、聖書は決して理解できるものではありません。逆に言うと、信仰を持って読むとき、神のことばは聖霊を通して、私たちにはっきりと語られるということです。
 皆さんも経験があることではないでしょうか。聖書を読み始めて間もない頃、聖書を読んでも読んでも、ピンとこないということはなかったでしょうか。色んな解説書や注解書を読み漁って、その意味はわかったけれど、どうも腑に落ちない。ところが、ある日を境に、急に聖書の言葉がわかるようになる。目からうろこが落ちたように、読めば読むほど、心に響くものがある。いったいこの変化は何から生じるところでしょうか。それは、つまり、聖書は知識によって読むものではなくて、信仰によって読むものだということです。 
 どうせ読んでもわからないなどと心配する必要はありません。聖霊なる神が聖書を明らかにしてくださるのです。ならば、私たちはもっともっと聖書に親しむべきでしょう。聖書は読むほどに、新しい発見がある書物です。今日私に語りかける神からのメッセージなのです。

171008 創世記3:8-9 「あなたはどこにいるのか」 朝霞聖書教会 田村将師

創世記3:8-9 「あなたは、どこにいるのか」

「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』」

 「あなたは、どこにいるのか。」これは、神である主の、人に対する切実なる呼びかけです。この時、最初の人アダムとその妻は主の御顔を避けて園の木の間に身を隠していました。なぜ、彼らは主の御顔を避けて隠れなければならなかったのでしょうか。その理由は、3章1節から7節までを見ると分かります。人は、神のことばに背いて、食べてはならないと命じられていた善悪の知識の木から取って食べてしまったのです。その結果どうなってしまったのかが、8節に描かれているのです。
 人は神の前に出ることができなくなりました。それまでの信頼に満ちた神との親しい関係はもはや失われてしまいました。人にとって喜びであり楽しみであった神との関係は、恐怖とおののきに変わりました。面と向かって神の御顔を拝することができなくなったのです。自ら神に背く行動を取ったために、神の前に出ることができません。人は罪責感と、恐れにかられるようになりました。
そのような人に対して神である主が語りかけられたのが、冒頭のことばです。「あなたは、どこにいるのか。」このことばは、神が本当に人間の居場所が分からないために口にされたものではありません。神は全知全能のお方ですから、人がどこに隠れているのか、もちろんご存知であったはずです。神が問われているのは、人の物理的な所在ではなく、人の霊的な所在です。つまり、神との関係において、「あなたは、どこにいるのか」と尋ねられているのです。
 神である主は、このように人の霊的な状態を危惧しておられるお方です。人が、ご自身との関係においてどのような状況にあるのかを案じておられるのです。そして、自ら人に歩み寄り、ご自分に背いて離れて行ってしまった者を探し出そうとされるのです。神である主のこの姿勢は今日も変わりません。主は、私たち一人一人を探し求めておられるのです。このお方に、私たちはどのように応答すべきでしょうか。

171001 出エジプト20:14 「姦淫してはならない」

出エジプト20:14 「姦淫してはならない」

 たった一行の戒め。具体的な性に関する戒めは、レビ記18章に詳しく記されています。ここでは、性に対する基本的な倫理感が教えられています。
 わたしのおきてと定めを守るように。と言われます。出エジプトを果たし、約束の地カナンを目指す荒野での道中で、彼らは神と契約を交わし神の民とされますが、彼らにはエジプトでの性に対する価値観や倫理観が深く浸透しておりました。具体的には近親婚、不倫、人身御供、同性愛、獣姦などです。これらは実際に、エジプトにおいて、カナンにおいてなされていたことで、この時代の感覚で言うと、それほど問題視されていなかったことでした。しかし、主は明確にこれらを禁じられます。私たちからしますと、そのような間違った性関係を禁じることは、まぁある意味、当然のことじゃないかと思われるかもしれません。しかし実はこういった性に関する倫理観というのは聖書独自の教えなのです。日本でも性倫理が問われるようになったのは近年に入ってからです。それはキリスト教の影響です。日本では古くから、夜這いの風習がありますし、性器がご神体の神社もあります。遊郭なども公に認められたりしました。慰安婦の問題で、韓国だけでなく諸外国との温度差があるのは、そもそもの倫理観が違うからです。橋下徹氏がまだ大阪市長であったとき、犯罪抑止のための性のはけ口として風俗を勧める発言をしましたが、いわば、その程度の倫理観なわけです。この国の倫理観は壊れています。しかし、聖書は不品行を避け、姦淫を避けるようにと教えます。これは実は画期的なことなのです。
 民はこれを聞いて不自由さを感じたことでしょうか。そして、現代の私たちも、だからキリスト教は息が詰まると言われるでしょうか。実際に、そのような批判を教会は受けてきました。教会の戒めは、余りにも今の時代には合わない。古めかしい。自由恋愛が叫ばれる今の世の中で、不倫も同性愛も、婚前交渉も、愛情表現の一つではないかと、こう言うのです。しかし、聖書ははっきりとそれは違うと言います。間違ったこの世の価値観を引きずったまま、神の民として生きることは相応しくありません。彼らは、神の民とされたのです。ならば、神の民としての生き方があります。私たちも同じなのです。
 さて新約聖書では、この姦淫してはならないという戒めを、単なる倫理観ではなく、より積極的に夫婦関係を築くための大切な要素として理解します。結婚という枠組みの中で性の祝福を語るのです。パウロは、結婚した夫婦について、互いにこの性の権利を奪い取ってはならないと第一コリント書で語っています。互いを愛すること、愛されることを拒んではならないと語るのです。それは、結婚してなお、互いの想いが外に向けられないためにです。性の営みというと、教会では、とかく否定的に思われやすいですが、しかし夫婦におけるそれは、二人を一体とするための大切な要素です。夫婦の正しい関係が築かれていないから、互いは再び外の世界へと目を向けるのです。埋まらない欲求を埋めるために、簡単に誘惑になびいてしまうのです。正しい結婚の枠の中に生きる。これが、誘惑を祝福と変える秘訣です。
 さて姦淫は神が定められた正しい夫婦関係を破壊することです。そして、このことは未来の夫婦関係を破壊するという意味において、結婚以前の私たちの在り方をも規定しているのです。パウロは繰り返し不品行を避けるようにと命じています。結婚以前に性交渉を持つことは、将来の伴侶に対して性の比較材料を持つと言うことに他なりません。最も信頼すべき夫婦関係が、見えない誰かと比べられることをいつも不安に思いながら過ごさなければならないとすれば、これは本当に残念です。愛するから関係を持つのではありません。愛するから祝福の時を待つのです。そしてその誠実が、相手との信頼を築いていくのです。男女ともに結婚前の貞操を保つこと。それは将来の伴侶への信頼を築くことなのです。