ヨハネ14:22-31「愛することは従うこと」
ヤコブの子ユダ(別名タダイ)とイエス様の会話は噛み合っていないように思えます。しかし、イエス様の言葉は、これまでの流れの中で、一致しています。イエス様の23節の言葉は21節の言葉を再度言い直した言葉です。さらにその前には、イエス様は「互いに愛し合う」という新しい戒めを命じられ、そして、天の住まいを用意する話をされています。このイエス様の話の流れから察するに、イエス様の話の最中にユダが横槍を入れた。恐らくは、「いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。」というイエス様の言葉に、敏感に反応してのユダの言葉でしょう。けれどイエス様は話を逸れるのを嫌ってそのまま続けられた。というのが真相でしょう。
「わたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。」、「わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。」イエス様を愛することは、イエス様のことばを守り従う中に現れるとおっしゃるのです。愛することは、従うこと。けれど私たちが普段想像する愛というのは、もっと違うものではないでしょうか。愛というのは尊敬することであり、存在を喜ぶことであり、相手に憐れみをかけることであり、相手のために忍ぶことはないでしょうか。愛が従うことと言われると、まるで主従関係のようで、どこかいびつな感じがいたします。しかし、こと神との関係においては、愛とは従うことだとイエス様は言っておられます。
最初の人アダムに、神は唯一取って食べてはならない善悪の知識の木を用意されました。なぜ、そんな木を用意されたのか。そんな木が無ければ、人は罪を犯す事はなかったのに。けれど、そうではありません。この木こそ、人が神を愛していることを証明する木であり、人が神ならぬ身であることを知るための木でした。全てを食べて良いとされれば、そこに愛が問われることはありません。不自由な一本の木があることで、神の命令に沿って歩むという、被造物としての本来あるべき神に応答する生き方が生まれるのです。私たちがどれだけイエス様を愛しているかは、私たちがどれだけイエス様に従うかによって証明されます。では善悪の知識の木に代わる、イエス様の戒めは何でしょう。それはイエス様が与えられた「あなたがたは互いに愛し合いなさい。」という新しい戒めです。
イエス様を愛すると言いながら、わたしたちが互いに愛し合わないということはあり得ないのです。もし、わたしたちが互いを愛し合えないのなら、憎しみを持って兄弟を見るなら、その人は実はイエス様を愛してはいないのです。これは、厳しいですが、そうなのです。イエス様を愛しなさい。と問われれば、私たちは平気で愛していますと応えるかもしれません。ペテロのようにです。けれど、あなたの隣りにいるその人、あなたが苦手とするその人、あなたに敵対するその人を心から愛しなさいと言われればどうでしょう。そうでなければイエス様を愛していることにはならないと言われればどうでしょう。果たして、私たちはイエス様を愛していると言えるでしょうか。
そんなことは無理だと言われるでしょうか。しかし、イエス様はそのようにされたのではなかったでしょうか。私たちこそ、そのように愛された者ではなかったでしょうか。神に敵対していた私たちを、傷つくことをいとわずに、愛し受け入れてくださったのは、他ならないイエス様でした。私たちはこのイエス様を通して、兄弟姉妹を見るのです。そこには私と変わらない赦された罪人がいるのです。イエス様はその一人のためにも、尊い命を投げ出されたのです。
好きになれと言われているわけではありません。愛せよと言われているのです。私たちの感情がどうであれ、その人が主の愛する者であることを私たちは認めるべきです。それが他でもない主イエスを愛すということなのです。
ヤコブの子ユダ(別名タダイ)とイエス様の会話は噛み合っていないように思えます。しかし、イエス様の言葉は、これまでの流れの中で、一致しています。イエス様の23節の言葉は21節の言葉を再度言い直した言葉です。さらにその前には、イエス様は「互いに愛し合う」という新しい戒めを命じられ、そして、天の住まいを用意する話をされています。このイエス様の話の流れから察するに、イエス様の話の最中にユダが横槍を入れた。恐らくは、「いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。」というイエス様の言葉に、敏感に反応してのユダの言葉でしょう。けれどイエス様は話を逸れるのを嫌ってそのまま続けられた。というのが真相でしょう。
「わたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。」、「わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。」イエス様を愛することは、イエス様のことばを守り従う中に現れるとおっしゃるのです。愛することは、従うこと。けれど私たちが普段想像する愛というのは、もっと違うものではないでしょうか。愛というのは尊敬することであり、存在を喜ぶことであり、相手に憐れみをかけることであり、相手のために忍ぶことはないでしょうか。愛が従うことと言われると、まるで主従関係のようで、どこかいびつな感じがいたします。しかし、こと神との関係においては、愛とは従うことだとイエス様は言っておられます。
最初の人アダムに、神は唯一取って食べてはならない善悪の知識の木を用意されました。なぜ、そんな木を用意されたのか。そんな木が無ければ、人は罪を犯す事はなかったのに。けれど、そうではありません。この木こそ、人が神を愛していることを証明する木であり、人が神ならぬ身であることを知るための木でした。全てを食べて良いとされれば、そこに愛が問われることはありません。不自由な一本の木があることで、神の命令に沿って歩むという、被造物としての本来あるべき神に応答する生き方が生まれるのです。私たちがどれだけイエス様を愛しているかは、私たちがどれだけイエス様に従うかによって証明されます。では善悪の知識の木に代わる、イエス様の戒めは何でしょう。それはイエス様が与えられた「あなたがたは互いに愛し合いなさい。」という新しい戒めです。
イエス様を愛すると言いながら、わたしたちが互いに愛し合わないということはあり得ないのです。もし、わたしたちが互いを愛し合えないのなら、憎しみを持って兄弟を見るなら、その人は実はイエス様を愛してはいないのです。これは、厳しいですが、そうなのです。イエス様を愛しなさい。と問われれば、私たちは平気で愛していますと応えるかもしれません。ペテロのようにです。けれど、あなたの隣りにいるその人、あなたが苦手とするその人、あなたに敵対するその人を心から愛しなさいと言われればどうでしょう。そうでなければイエス様を愛していることにはならないと言われればどうでしょう。果たして、私たちはイエス様を愛していると言えるでしょうか。
そんなことは無理だと言われるでしょうか。しかし、イエス様はそのようにされたのではなかったでしょうか。私たちこそ、そのように愛された者ではなかったでしょうか。神に敵対していた私たちを、傷つくことをいとわずに、愛し受け入れてくださったのは、他ならないイエス様でした。私たちはこのイエス様を通して、兄弟姉妹を見るのです。そこには私と変わらない赦された罪人がいるのです。イエス様はその一人のためにも、尊い命を投げ出されたのです。
好きになれと言われているわけではありません。愛せよと言われているのです。私たちの感情がどうであれ、その人が主の愛する者であることを私たちは認めるべきです。それが他でもない主イエスを愛すということなのです。