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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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171126 ヨハネ15:18-27 「世が憎めども」

ヨハネ15:18-27 「世が憎めども」

 キリスト教会2,000年の歴史を振り返りますと、それは迫害の歴史であったと言えるでしょう。教会は時代時代で、絶えず迫害を受け、信仰の戦いを経験してまいりました。初代教会はユダヤ教によって迫害を受けました。その後は、ローマ帝国の皇帝崇拝との戦いがありました。ローマでキリスト教が国教化された後も、異端との戦いは続き、次第に腐敗していく教会の伝統との戦いが続きました。また、新天地に宣教が広がる度に、異文化ゆえの信仰の戦いが続きました。そしてそれは今に至るまで続いています。迫害の苛烈さと言うことで言えば、日本ほど、この教えに反発した国はありません。遠藤周作の「沈黙」がアメリカで映画化されましたが、その弾圧の苛烈さには世界中の人々が驚いたことでした。豊臣秀吉の命によって迫害を受け殉教した26人が、パウロやアウグスティヌスやフランチェスコなど、名高い聖人たちと同列に選ばれていることは、日本での迫害が如何に苛烈であったかを物語っています。教会の歴史を学んで知れるのは、信仰者は迫害を受けるという事実です。
 迫害と言いますと大げさに聞こえますが、皆さんも多かれ少なかれ信仰のゆえの戦いを経験するのではないでしょうか。神を優先すれば、自ずと後に回るものが出てきます。それは世間からは協調性の無い者として受け取られる原因ともなります。キリスト者は、空気の読めない、融通の利かない頑固者。そういう批判が聞こえてくるようです。私たちは神に真剣であればあるほど、世にあっては居心地の悪さを感じることではないでしょうか。
 なぜなんでしょう。なぜ、イエスを信じる者がなぜ、そのような批判や陰口、迫害に遭わなければならないのでしょうか。その理由が、今日の箇所に記されています。18節「世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。」なぜキリスト者は迫害に会うのか。なぜキリスト者は世から憎まれるのか。それは、世がイエス様を憎んでいるからだ、と言うのです。
 なぜなら、イエス様は世に対して罪を明らかにするお方だからです。全能の神の前に全ての者は罪人であることを、イエス様は指摘します。どれだけ世から賞賛を得ようと、財産を蓄えようと、家族思いだろうと関係がない。神の前にあっては救いを必要とする一人の罪人であることをはっきりと語ります。人々はこれを憎むのです。世はイエス様を憎みます。そしてだからこそ、イエス様に与する者が、世に憎まれるというのは否定できない事実なのです。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(第2テモテ3:12)とある通りです。
 私たちはこの事実から目を背けるわけにはいきません。キリスト者は世と上手くやれるというのは誘惑です。迫害にあって、人々の批難と敵意にあって、私たちには色々な声が聞こえてきます。「もっと気楽に考えればどうですか」「信仰は心の問題なんだから、表面的には長いものに巻かれるのが賢い生き方ではないですか」けれど、そうではありません。私たちが主の前に敬虔であるほど、私たちは世と相容れなくなるのです。迫害がない、摩擦がない。それは、妥協の産物です。私たちが信仰を隠すことで得られる平和とは、私たちのキリスト者としての誇りをいとも簡単に奪い取ってしまうものなのです。
 「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい。」(第1ペテロ4:16)信仰のゆえの苦しみは、私たちが神のものとされていることの証です。世は私たちを無視できないのです。なぜなら、世は私たちの内にキリストを見るからです。そして、世に妥協しない私たちの誠実が、やがては人々の偏見を解きほぐすのです。「死に至るまで忠実でありなさい。」(黙示録2:10)死を前にしても変わらないイエス様の生き様は、大勢の民の救いとなりました。私たちが主の前に忠実であれば、世に対するこれ以上の証はありません。私たちの愛するその人は私たちの内にこそキリストを見つけるのです。

171119 ヨハネ15:9-17「キリストの友となる」

ヨハネ15:9-17「キリストの友となる」

 「1年生になったら」という童謡には、友だち100人できるかな。とありますが、小学生にとって、友だちができるかどうかほど気掛かりなことはありません。いえ、小学生だけではありませんね。新しいコミュニティに入るどんな場面でも、私たちの気掛かりは、親しい友人ができるかどうかではないでしょうか。
 聖書は今日の箇所以外にも、友について幾つかの証言をしています。箴言には「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」とあります。友とは互いに研ぎあう存在だると言っています。では互いに研ぎあう存在とはいったいどのような存在でしょうか。
 「鉄は鉄によってとがれ」とあります。鉄によってではないですが、包丁を研ぐことを思い浮かべるのがわかりやすいかと思います。包丁は使っているうちに刃が効かなくなってきます。肉などを切ると、すぐに切れが悪くなってしまいます。ですから私たちは研ぎ石などを使って、刃を研いで、もう一度最初の切れ味を取り戻すわけです。この刃を研ぐということですが、一見よく切れるように刃を細く鋭くすることのように思います。けれど、そうではありません。刃を研ぐとはその逆で、刃に無数の見えない傷を付けることです。「人はその友によってとがれる」とあります。つまり、楽しさだけを共にすると言った当たり障りのない表面上の付き合いの関係を言うのではなくて、傷つけ合うほどに深く接し、しかしそれゆえに切れ味を取り戻す間柄のことを指して友と言っているのです。
 私たちには居心地の良い距離感と言うものがあります。近すぎる距離感は、鬱陶しいし、わずらわしい。離れすぎても、関係を作れない。少しくらい離れているくらいが丁度よい。けれど、聖書は言うのです。そこからさらに一歩踏み込んだところに本物の友としての関係があるのだとです。もちろん、それは傷が付く距離です。時に面倒です。時に煩わしいです。けれど、だからこそ寄り添い、影響し合えるのです。自らも傷を負う覚悟がなければ、決して寄り添うこと。友となることはできません。そしてその究極は、相手のために命を投げ出すことです。
 私たちが順調な時、私たちに好意を寄せる人はいるでしょう。群がる人はいるでしょう。けれど、人の愛は変わるのです。冷えていくのです。消えゆくのです。いざ、その愛を問われる段になって、尻込みしてしまうのです。当然です。誰だって傷付きたくないからです。ではいったい、私たちの友はどこにいるのでしょうか。
 それが他でもないキリストだと聖書は言うのです。聖書はあなたのために命を投げ出された方がおられるということを語っています。ヨハネ15:13「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」
 神の御子イエス・キリストは、私たちが滅びることを捨て置けず、ご自身の命を投げ出されたのでありました。私たちのために何の罪もなかったお方が死なれた。身代わりとなってくださった。このお方は口だけではなくて、いざと言う時に逃げ出すこともせず、私たちのために傷付いてくださった。ですからこのお方こそ、イエス様こそ私たちの真の友であると、こう言われるのです。
 さて、イエス様は、イエス様が友となられた、そのことを私たちが知ることで満足いたしません。イエス様は続けます。「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。」わたしがあなたがたに命じることとは何でしょう。17節「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」「友」という言葉と「愛する」と訳される言葉は同じ語源をもつ言葉です。あなたがたが互いに愛し合うとは、つまりは、あなたがたが互いに友となる。あなたが傷付くことを厭わず、その隣りにいる一人に寄り添っていくならば、あなたがたはわたしの友だと言うのです。私たちの友となられたお方は、私たちもまた誰かの友となることを願っておられるのです。

171112 出エジプト20:15 「盗んではならない」

出エジプト20:15 「盗んではならない」

 そもそも人はなぜ盗むのでしょうか。それはそこに飢えがあるからです。つまり満たされない思いです。満たされない思いが沸くから、羨み、妬み、そして盗むのです。
 盗んだことがあるかどうかは別としましても、人は誰しもが他人の物を羨む経験をお持ちではないかと思います。自分が持っていないおもちゃを、隣りにいる子が持っている。いいなぁ。欲しいなぁ。ではどうするのでしょうか。多くの人は諦めるか、それを手に入れる努力をします。子どもならば親を説得することでしょうし、大人ならば働いて購入する。けれど、それは手間も時間もかかる方法です。そして、どれだけ時間をかけようと手に入らない物もあります。それよりももっと確かで手っ取り早い方法があるとしたらどうでしょう。幸いなことに周りには誰もいません。今なら誰にもばれません。欲しい欲しいという思いで頭がいっぱいになれば、思わず手を伸ばしてしまう。そうならないのは、ただ単に状況が許さないからなのかもしれません。
 誰も見ていない。今ならばれない。そのような状況で、思いとどまれるかどうかは、神の存在を認めるかどうかにかかっています。神は私の振る舞いをご存知である。そして、神は私たちを正しく裁かれる。実は「盗んではならない」というこの戒めは、私たちに神の光に照らされて生きよ。と教えているのです。
 人の目だけを気にする人は、人目のないところで、思いとどまることはできません。日本では他人様に迷惑をかけてはいけないと教えられます。けれど、他人に迷惑をかけるから駄目なのでしょうか。例えば人目のない道端に落ちているお金をポケットに入れる。恐らく、誰に迷惑をかけることでもないかもしれません。多くの人はラッキーと言って罪悪感すら感じ無い。けれど、それは果たして神の前に正しいと言えるのでしょうか。相手に頼まれたことならば、迷惑はかからない。では、もう生きているのが辛いから殺してくれと頼まれれば、そうするべきなのでしょうか。いや、それは法律で禁じられているからダメだと言います。では法律で裁けないことは何をしても良いのでしょうか。法律の網をくぐって悪さをする人が後を絶ちませんが、それは賢い生き方と言えば良いのでしょうか。もちろん、そんなことはありません。マタイ16:27には「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。」とあります。神は全てを承知で、義しく裁かれる方です。ですから私たちは人の戒めを越えた、神の戒め、神の光に照らされて歩まねばなりません。
 マラキ書には「あなたがたはわたしのものを盗んでいる。」とあります。神のものを盗むな。これが神の問われる正義です。私たちは手にするものは自分のものと理解しています。そして自分のものは自分の思い通りにしても良いと。けれど、そもそもが私たちは神の憐れみのゆえに生かされている者であることを、忘れれてはいけません。恵みの初穂を献金として捧げ、一週間の初穂である日曜日を捧げ、一日の初穂である朝の時間を捧げる。日々の食事を頂く前に、感謝の祈りを捧げ、与えられた賜物をもって教会に仕える。これらは全て、神に生かされてある身を覚えるためにです。私たちが神の恵みを数えること無く、全て自分の手柄とするならば、それは神のものを盗んでいることに他ならないのです。
 この戒めから神様の言われることは、とどのつまり、あなたに必要なものは全て用意されている。ということです。自分には無いものを隣の人は持っている。この無いものに目を留めると、私たちはもう駄目です。無いことが不幸せのように感じてしまう。あるものへの感謝が失われてしまう。それは人類の初めアダムとエバからしてそうなのです。私たちの目を、無いものに向けるのは止めましょう。そうではない。頂いているものの豊かさを数えるのです。神への感謝こそが、私たちの他人への妬みを退けてくれるのです。

171105 ヨハネ15:1-8 「まことのぶどうの木」

ヨハネ15:1-8 「まことのぶどうの木」

 イエス様は言います。実を結ぶ枝でも、より多くの実を結ぶために、刈り込みをなさると。間引くことで、残った枝はより多くの養分を得て、多くの実を結ぶことができるようになる。ぶどうの木の話としては、何の不思議もないイエス様の話です。けれど譬え話ですから、イエス様の言いたいことは別にあります。ではそれは何でしょう。ぶどうの木はイエス様のことだと冒頭で語られていました。父なる神が農夫だとも。では枝とは何でしょうか。実とは何でしょうか。
 5節に「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」とあります。しかもイエス様は「わたしの枝」と限定して言います。つまり「わたしのものとなった、あなたがた」、すなわち、主イエスを信じる者、キリスト者のことを指しているわけです。ですから2節にはキリスト者に対する二通りの取り扱いが記されています。キリスト者の内、実を結ばないものは父が取り除き、実を結ぶものは父がさらに刈り込む。と、こう二通りの取り扱いが記されるのです。
 私たちはここで実を結ぶということについて考えなければなりません。実を結ぶと聞きますと、私たちはたわわな収穫物を思います。たくさんのぶどうの実を実らせた枝を思い浮かべます。それは目に見える結果、成功です。けれど、イエス様はここで目に見える結果や成功について一切触れていません。目一杯実を結んだから良くて、少なかったから悪いとか、そういう話ではなくて、イエス様が問うておられるのは、「わたしにとどまる」というこの一点です。どれだけ枝ぶりが良かろうと、葉を茂らそうと、幹から離れれば枝は枯れるしかありません。大事なのは幹につながっていることです。同じ様に、私たちキリスト者はイエス様に留まることが大事です。もし、イエス様から離れれば、それは枯れずにはおられないのです。イエス様にとどまらない者がいます。イエス様の言葉に信頼しない者。この世の価値観を手放せず、成功という幻を追いかけて、主を見失ってしまう者がいます。しかしそれでは実を結べません。
 私たちは実を結ぶということが何なのかを考えなければなりません。それは世が称えるような成功とは違うのです。伝道した人数とか、教会での活躍度とか、そういうことではありません。それは御霊の実です。ガラテヤ書に「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」とあります。それはキリストに留まる者の内からにじみ出る生き方です。木につながっているとき、枝は養分を得て実を結びます。同様に、キリストに留まっているなら、私たちは御霊の力を得て自ずと生き方が変えられるのです。ピリピ3:7「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」とあります。以前は人の評価や賞賛を求め、他人を蹴落とし、人生の勝ち組になることに躍起になっていたかもしれません。今持っていない何かを手に入れることが幸せだと固く信じていたかもしれない。けれど、そうじゃない。それは永遠を知った私たちにとって、ほんのひと時の事です。もっと大事な問題がある。もっと見るべき視点がある。キリストに留まっていれば、それが自ずと分かるようになってくるのです。
 キリストに留まることの具体的な一例が、私が主イエスのことばに留まり、主イエスのことばが私に留まるということ。御言葉に対する信頼と服従です。私たちが世のことば以上に、主イエスのことばに聞くならば、信頼するならば、私たちは必ず実を結びます。必ず生き方が変わります。私たちは神の栄光を表すものとされるのです。

171029 詩篇133:1 「一つになって共に住む」

詩篇133:1 「一つになって共に住む」

 いのちの樹教会は今年、節目の年を迎えることとなりました。それは今の会堂が建ってから21年。ようやく土地会堂の全ての返済を終える目処が着いたからです。晴れて、この土地も会堂も全てを主に捧げることができました。本当に感謝なことだと思います。
 初代宣教師であるマルチン宣教師がこの狭山の地で宣教を初められたときからずっと、私たちは毎週、教会に集い、礼拝を献げてきました。その間、牧師は交代し、教会員も代替わりをいたしました。けれど、変わらない主の礼拝が毎週持たれて来たのです。これは決して当たり前のことではありません。神の憐れみに他ならないとあらためて思わされるのです。
 福島第一聖書バプテスト教会の牧師の佐藤彰師は、娘婿の卒業式で出席した千葉にある東京基督教大学で、東日本大震災が起きました。福島第一聖書バプテスト教会は福島第一原子力発電所からわずか5キロにある教会です。当然、教会は立入禁止地域の中にありました。この日を境に、二度と入れない地域となりました。教会はある日突然に閉会を余儀なくされたのです。前日までは、そんなこと誰も思いもしなかったのです。当たり前のように日曜日が来て、当たり前のように教会に通う。そうなる筈だった。佐藤先生は千葉の学校の卒業式に出席されましたが、まさか、それが教会との決別となると誰が思ったでしょうか。避難所に避難した者、親戚縁者を頼って県外に脱出した者、尊い命を落とした者。この日を境に、皆が散り散りになるなどと、いったい誰が想像したことでしょう。
 私たちは知らなければなりません。私たちがこうして毎週集い、主の日の礼拝をささげる。共に過ごす。このことは実は、神のあわれみの中で許された特別の恵みであるということをです。ボンヘッファーは言います。「キリスト者の兄弟の交わりは、日ごとに奪い去られるかもしれない神の国の恵みの賜物であり、ほんのしばらくの間与えられて、やがては深い孤独によって引き裂かれてしまうかもしれないものである、ということがとかく忘れられがちである。」
 教会は会堂ではありません。「エクレシア」=召された者の集まりです。けれど、会堂という具体的なシンボルが、私たちを1つにまとめ上げてくれるのです。佐藤先生は震災から5日後に、ようやく一部の信徒の方々と再会し、それから流浪の1年間を過ごされました。様々な善意によって支えられた1年間。それでも先生たちは決断しました。「福島第一聖書バプテスト教会は、やっぱり福島にあるべき、戻るべき、戻りたい」今、いわき市に建てた新しい会堂に震災でバラバラになった教会員達が結集し、更に新しい兄弟姉妹が加えられて礼拝が持たれています。
 主の日の礼拝がいのちの樹教会で変わらずに持たれてきたことに心から感謝いたします。もちろん、変わることもありました。牧師は変わります。信徒も代替わりします。私たちは歳も取るし、病気にもなる。明日信仰に躓いてしまうかもしれないし、別の何かに夢中になるかもしれない。実際に様々な理由で教会を離れる人もおりました。しかし、それでも、ここには変わらずに建つ教会がある。主の日の礼拝がある。交わりがある。それはつまり、私たちの帰るべきところが変わらずにここにあり続けたということです。そして、これからもそのように建ち続ける教会でありたいと思うのです。