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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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180121 ヨハネ16:1-4 「その時が来れば」

ヨハネ16:1-4 「その時が来れば」

 一昔前に比べて、私たちは本当に待てなくなっているように思います。社会が便利になるに連れ、時間が正確になるに連れ、私たちは間違いなく我慢ができなくなって来ている。時計で有名なシチズンによるアンケートによりますと、6割の人がエレベーターを待つ限界は1分。それ以上になるとイライラすると答えたそうです。歩行者の信号待ちの限界は30秒。コンビニのレジ待ちは2分。恋人との待ち合わせの限界は20分なんだそうです。つまりそれだけ、日本人は時間を正確に把握しているということでもあるでしょう。ネット注文すれば翌日にはもう届きます。行き先を検索すれば、乗り換える電車の時刻が瞬時にわかります。今ではもう、そうでなければイライラしてしまうほどに、それは当たり前のこととなりました。この傾向は、私たちの信仰にも影響しているように思うのです。祈り終えた瞬間には答えを求める。それが無ければ、不満を覚える。なぜこんなことが起こるのか。なぜ自分なのか。なぜ神は沈黙されるのか。時に私たちは、神にすらレスポンスの速さを要求するのです。
 しかし、イエス様は「その時が来ればわかるようになります。」と言われるのです。言い換えれば、その時にならなければ、決してわからない。ということです。なぜ神は沈黙されるのでしょう。なぜ神は祈りに応えてくれないのでしょう。それは、そうされない神の意図があるからです。神様は聞いていないわけではありません。ただ、今じゃないと言われる。それは私にとって、すぐに答えを得るよりももっと大事なことなのです。
 イエス様は「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。」とおっしゃいました。これらのこととは、これから起こるご自身の十字架を前提として、残される弟子たちに語られたイエス様の言葉。つまり、最後の晩餐でのイエス様の一連のお話しです。しかし弟子たちにはそれがピンと来ません。なぜなら、目の前にいるイエス様は、お言葉一つで病人を癒やし、罪の赦しを宣言し、死人を蘇らせ、大波を静まらせるお方だからです。彼らには、イエス様の死などこれっぽっちも想像できません。ましてや、十字架による処刑などあり得ないことです。
 それは仕方がないのです。彼らは、それを理解するだけの目を持っていません。神は永遠の中から私たちの人生をご計画されます。けれど、私たちが見られるのはせいぜい過去と今だけなのです。今のこの時を切り取って、私たちは一喜一憂します。置かれた状況の中で、時に神の祝福を感謝し、時に神の沈黙を呪います。けれど、神は最初から最後まで全てを知られた上で、今を用意されているのです。ですから私たちは、今だけを見て、神のご計画を結論付けるのは早すぎます。それは今、わからないかもしれません。けれどエジプトに奴隷として売られたヨセフのように、やがてそのことのゆえに感謝するときが来るのです。私たちの人生を評価するときはまだです。
 弟子たちの無理解をよそにイエス様は語られます。あらかじめ語っておくことが大事だからです。そうすれば、たとえ今それがわからなくとも、時が来て、これが主イエスのご計画であったと知れるのです。そしてそれらの言葉が本当に必要なのは、イエス様がいなくなってからのことだからです。私たちに対しても、やがてに備えて語られている言葉があります。終わりの日についてです。その日は盗人のようにやって来ます。戸が閉められるその日がやって来ます。今は理解出来ないかもしれません。けれど、イエス様の言葉がやがて私たちを救うのです。今大事なのはわかることではありません。それはいずれわかることです。大切なのは、心に蓄えておくことです。

180114 出エジプト20:16 「偽りの証言をしてはならない」

出エジプト20:16 「偽りの証言をしてはならない」

 偽りを捨てるということは、口で言うほど易しくはありません。なぜ、偽りの証言をするのか。それは多くの場合、自己保身のためだからです。子どもたちを見ているとよくわかります。彼らは叱られたくない一心に、平気で嘘をつきます。どれだけ状況が揃っていても、認めません。僕じゃない。その嘘が余計に怒りを買うことに頭が回りません。彼らの嘘は非常に反射的です。恐らく何も考えずに、口から出ているのです。
 親として、そういう姿を見ると本当に悲しくなるわけです。正直に叱られているほうがどれほどマシか。と思います。子どもの言うことに何を大げさなと思われるでしょうか。けれど、その小さな嘘の本質は罪です。自分の身可愛さに、他人に責任をなすりつけようとする。他人を罪人に陥れようとする。子どもだからと笑って過ごせることではありません。世の中には叱らない親も増えてきています。けれど、私はきちんと叱らなければならないと思っています。それは、子憎しということではありません。親として子に期待をしているからです。大切な存在だと認めているからです。だから、偽りの人生を歩んでほしくない。人と人との関係を嘘で塗り固めてほしくない。相手を信頼する人生を歩んでほしいと思うからです。親は子に正しい道を教える責任があるのです。
 そして、その思いはまさに、父なる神が私たちに対して抱いている思いなのではないでしょうか。父なる神の前に、私たちは言い訳ばかりしている子どもと同じではないでしょうか。私たちの必死な言い逃れを、天の父なるお方は悲しんではおられないでしょうか。
 嘘は所詮偽物ですから、辻褄を合わせるためには、更なる嘘を必要とします。中には、嘘も時には必要だと言われるでしょうか。相手の為を想っての嘘は嘘じゃないのでしょうか。私が学生の頃「ライフ・イズ・ビューティフル」という映画がありました。それはアウシュビッツ収容所に入れられた親子の話で、父のグイドは息子のジョズエに、悲惨な現実の中でも希望を失わないために、これは大掛かりなゲームだと息子に嘘をつくのです。子を想う親心を描いた名作。けれど、私の評価は違います。現実を見せないという親の嘘は、本当に子にとって幸せなのか。それはまやかしではないのか、と思うのです。映画の最後、父グイドはドイツ兵に連れられて行きます。それを見る息子を心配かけまいと、大げさな行進で笑顔に画面から消えていきます。そして銃声が聞こえる。ジェイドは父の死を知らぬまま、翌日、戦争が終結し、彼は解放軍の戦車に乗って笑顔に収容所を出るのです。映画はそこで終わります。しかし、思うのです。この子の現実はそこから始まるのではないでしょうか。たとえば、ゲームだと笑って過ごしたその裏で、沢山の仲間たちが死んでいったことだとか、父が自分のための嘘を突き通すために、周りの人を巻き込んで多くの悲惨があったことだとか。彼はそれをどう受け止めるでしょう。その傍らにもはや父はいないのです・・・。私は、子に向かって夢の中で生きよと言うよりは、むしろ、現実を教え、そこに立ち向かう手立てを教えるのが親の責任ではないかと思うのです。
 聖書にはしばしば、偽預言者が出てきます。彼らは何を語るのか。それは、人々の望む言葉を語ったのです。人々の耳に心地よい偽りの言葉。まやかしの言葉。預言者エレミヤが涙を流して民の滅びを預言し、その悔い改めを迫る隣で、偽予言者たちは「平安だ。平安だ。」と安易な慰めを口にしたのです。その結果が何をもたらすか、考えもなしにです。
 十戒は、偽りの証言をしてはならない。とあります。証言という言葉からわかるように、これは元々、裁判での証言を指している言葉です。今でも裁判所で証言をするとき、証言者は偽らないことを宣誓しなくてはいけません。もし偽れば、偽証罪に問われます。それほど念を入れる。なぜなら、その証言如何によって、一人の人の人生が左右されるからです。私たちの軽はずみな発言が、取り返しのつかない大きな結果を生み出すからです。だからこそ、私たちは偽りで誤魔化すわけにはいきません。
 偽りの証言をしてはいけないとは、真実を語らなければならないという意味でもあります。たとえ、周りの全ての者が平安だと言ったとしても、神の真実が別にあるのなら、私たちは語らなければなりません。福音は人の罪をあばきます。しかしそれゆえに神の救いに導くのです。

180107 ガラテヤ5:16-26 「御霊に満たされて進む」

ガラテヤ5:16-26 「御霊に満たされて進む」

 あるときイエス様は言われました。「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」またイエス様は「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(8節)とも言っています。注意したいのは、私たちが弟子となったから、多くの実を結ぶのではありません。多くの実を結ぶその生き方がイエスの弟子と呼ばれるのです。確かに、あの人の生き方はイエス様のようだ。と、その人の生き方に見いだされる多くの実が、人々をして、イエス様の弟子と認めさせるのです。
 では、多くの実とはいったい何かという話です。このぶどうの木の例え話は、この後、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」と続き、一連のまとめとして17節で「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」と語られます。イエス様のことばに留まることとは、イエス様の愛の中に留まるということであり、それは具体的には、わたしたちが互いに愛し合うことだと言うのです。今日の箇所でパウロが御霊の実として数えていることも同じです。御霊の実とは何か抽象的な何かではなくて、具体的に私たちの間に見られる喜びであり、平安であり、寛容であると言うのです。そして、私たちの互いに愛し合うその様子を見まして、世の人々は私たちの中にキリストを見る。私たちをキリストの弟子と認めるのです。逆に言いますと、もし、私たちの間で愛が見られず、憎み合ったり、批難し合ったり、陰口ばかりであれば、およそキリストの名に相応しく無い私たちであれば、それはキリストの名を汚すことであり、人々は決して私たちをキリストの弟子とは認めないということです。
 このように聞きますと、これは何と重たい看板でしょうか。互いに愛し合うとは、聞こえの良い教えですが、実際にそれを実行するとなりますと、これが大変難しいのです。キリストの贖いのゆえに義とされた私たちですが、私たちは今もなお、私たちの内にはびこる肉の思いを捨て去ることができません。制御できないおぞましい感情が、内側から沸々と湧き出ることすらあります。パウロは御霊の実を数えます。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」。しかし私たちの現実は、中々そうではいられないのです。では、それは、絵に書いた餅なのでしょうか。無駄なこと。無意味なこと。私たちキリスト者は、高望みしている夢想家なのでしょうか。
 今年、私たちは、この御霊の実について学んでいくわけですが、まずその最初に覚えておかなくてはならないことは、これは御霊によってでなければ、決して結ぶことのできない実であるということです。私たちの努力では限界がある。無理がある。一生懸命、愛そうと思う。頑張って喜んでいる。無理やり平安だと思い込もうとする。こういうことでは、決して得ることはできない実なのです。私たちはついついそのようにしがちです。特に真面目な人ほどそうです。一生懸命、御霊の実を結ぼうとします。けれど、そうじゃない。それは肉の思いで、実を結ぼうとしているのと同じです。そうではなくて、御霊によって結ばせていただくのです。
 イエス様は「わたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら」と言われました。ですから、絶えずイエス様のことばに聞くことが大事です。イエス様のお姿に倣うことが大事です。「愛さなければ」「喜ばなければ」ではなくて、イエス様ならどうされるか。イエス様はどう言われたか、と聞くことが大事です。なぜなら、御霊の実を追い求めれば、それはイエス様にこそ行き着くからからです。
 具体的に想像したいのです。私たちの交わりが真に愛に溢れ、喜びに満たされるところをです。心から互いを心配し、尊敬し、柔和で自制に満ちた交わり。人々はそこにキリストを見るのです。このような交わりを私たちは夢物語で終わらせてはいけません。私たち一人ひとりが、そのようにイエス様の御心を求め、御霊の語りかけに身を委ねる時、確かに私たちに愛が生まれ、喜びが溢れ、平安に満たされるのです。