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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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180218 ヨハネ16:17-24 「しばらくすると」

ヨハネ16:17-24 「しばらくすると」

 イエス様の一連の話は非常に長いものとなっていまして、毎回細切れに読んでおりますと、何だかよくわからなくなってくるのですが、その目的に関して言えば極めて明瞭で一貫していると思います。それは残される弟子たちへの励ましです。これからご自身の十字架を控え、イエス様はそれがひとときの別れであり、天の住まいを用意することであること。世はイエスさまに向けていた敵意を弟子たちに向けるけれども、もう一人の助け主が遣わされるから大丈夫だと語られます。今はわからなくても、いずれわかるときが来る。だからともかくわたしの話を聞いて心に留めておきなさい。と、このように語って来られました。

 さて、男の視点からではありますが、出産というのは本当に凄いことだなぁと思うわけです。出産は命がけです。大きな大きな痛みと苦しみを伴います。それはひとときのことではなくて、人によっては長時間、幾日にも及びます。ところが、不思議なことに、母親は生まれた子の産声を聞き、その子を胸に抱いた時、その大変な出産の苦しみを忘れるというのです。もちろん厳密に言えば、痛みや疲労が消えるわけではありません。けれど、それ以上に喜びを感じる。幸せを感じる。生まれきた命に溢れんばかりの愛しさを感じる。つまり、もたらされる喜びによって、苦しみが上書きされるというのです。出産の最中は永遠にも思える苦しみが、振り返ると一瞬のように感じる。生命の神秘のなんと凄いことかと思います。
 18節19節にある「しばらくすると」という言葉は、長さの単位のミクロと同じ言葉が使われています。ミクロは1ミリの千分の一。「しばらく」と聞くと、それなりの期間があるように思いますが、実はミクロのような「しばらくすると」です。イエス様が見えなくなる。イエス様がいなくなることは、弟子たちにとっては永遠とも思える悲しみをもたらします。迫害を受けて、信仰が試されて、それは永遠にも感じる時間です。けれど、それは決して永遠ではないのです。永遠のように感じるミクロのしばらく。そして同様に、またしばらくすると、イエス様を見ることができるようになるのです。本物の永遠から見ましたら、私たちの地上の歩みはまるで一瞬。今私たちが抱える悲しみも苦しみも決して永遠のことではなくて、「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る。」それはひとときのことであり、必ず終りが来ることであり、やがては永遠の祝福へと入れられると、こうおっしゃられるのです。
 私たちの日常にも、イエス様が見えなくなることがあるかもしれません。神様なんていないと思えるような「しばらく」。祈っても祈っても、ちっとも聞かれている気がしない「しばらく」があるかもしれません。私たちはそこでもう何の希望も見えないように思うわけです。苦しみが永遠に続くとしたらそれはもう絶望です。しかし、それは決して永遠ではなくて、必ず終わりが来ると。そしてまた、イエス様を見ると約束されているのです。永遠のように感じているその苦しみが、喜びによって上書きされるときが来る。だから私たちは決して絶望する必要はないのです。

180214 出エジプト20:16 「真実を隠さず」

出エジプト20:16 「真実を隠さず」

 偽らないということは、ただ単に嘘を言わないということではありません。真実を語るということです。本当のことを知っていながら黙っている。真実は別にあるけれども、関わるのが面倒なので話さない。確かに嘘は言っていませんが、しかし、真実も言っていない。これは偽っているのと同じではないでしょうか。この第九戒は証言することを放棄する無責任な態度についても戒めているのです。
 第3版までの新改訳聖書には「あなたの隣人に対し」とありましたが、新しい聖書には「あなたの隣人について」(出20:16)とあります。前回この証言という言葉は、裁判での証言を指す言葉だと言いましたが、そのことがより強調された訳し方になっているわけです。証言台に呼ばれ、証言を求められている。その証言如何によって、その人の処遇が定められる。そしてその人に関わる無数の人生が左右される。そういう重苦しい場面で今、偽りの証言をしてはならないと命じられる。つまり、あなたの言葉の重みを、十分に理解して語りなさい。とこう言っているわけです。
 そのように問われますと、私たちは証言することに躊躇してしまうわけです。いったい何と証言すれば良いのか。どう答えるのが正解なのか。自分の証言が、決定的な何かとなってその人の今後を左右すると言うのなら、自分はそんなにも重たい十字架は背負いたくないとは思うのです。現代の裁判では、黙秘権が認められています。自分に不利益になる発言は拒否することができる。これは証言者の権利です。けれど、私たちは考えなければなりません。私たちが話さないことの影響をです。と言いますのも、証言台に立つのは私一人とは限らないからです。私が話さないその裏で、無数の発言がなされる。中には悪意を持った発言もある。確かに私が発言をしなければ、私はその人の結果を左右することはないかもしれない。けれど、私が発言しないために、多くの身勝手な発言がその人の人生を左右するかもしれない。そのようなこととなれば、それはまた別の十字架を背負うことにはならないでしょうか。
 面白いことに、誘惑するという一事について、サタンほど勤勉な存在はありません。サタンは僅かな空きも見逃さず、誘惑することを狙っています。ですから私たちは黙って過ごすわけにはいかないのです。真実を語らなければならないのです。私が語らずとも、と。私たちはそう思いたいでしょう。実は、偽りの証言をするということ以上に、黙っているという誘惑は大きいです。けれど、真実に口を閉ざせば、サタンの思う壺です。「平安だ。平安だ。」という言葉は耳に優しくて、誰もがその言葉になびきやすいのです。
 罪を悔い改め、イエスを救い主として信じなければ、決して永遠の命を得ることはない。これが聖書の語るところです。けれど、世の中が語るのはもっと安易です。この車を手に入れれば、幸せになれますよ。この保険に入ればあなたの将来は何の心配もありませんよ。この人脈さえ得れば、あなたの人生は勝ち組ですよ。そうして皆が永遠の問題から目をそらせようとしています。なぜなら聖書が問うところは重たすぎるからです。けれど、それは必ず来る現実です。私たちは夢見て生きよではなくて、やがて来る現実に備えよと、声を上げなければならないのです。
 Ⅱテモ4:4には次のようにあります。「というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。」真理に耳を背け、偽りにそれていく時代です。正しいことを押し曲げてでも、権力に擦り寄ろうとする世の中です。そのような時代に私たちが求められていることは何でしょう。それは時代に影響されないことばを伝えることです。「時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」一言で言えば、真実を語りなさい。ということです。偽りの時代だからこそ、私たちは真実を語る。福音を伝えなければならないのです。

180204 ルカ6:27-38 「憐れみ深い愛」

ルカ6:27-38 「憐れみ深い愛」

 御霊の実の最初に数えられるのは「愛」です。では愛とは何でしょうか。私たちの交わりの内に愛の実を結びなさい。というとき、それはいったいどういう意味なのでしょうか。いつの時代の人々にとっても、求めてやまないのが愛でありますけれども、求めてやまない愛を結ぶなんてことなんて果たしてできるものでしょうか。
 第1コリント13章は愛の書として有名で、よく結婚式の時に読まれたり致します。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません・・・」愛というのは、もう、御霊の実の全ての要素の根源と言ってもよいかと思います。それほど愛というのは大切であり、素晴らしいもの。
 しかし、思うのです。愛とは本当に寛容なのでしょうか。ねたまないのでしょうか。いやいや、愛憎という言葉があるように、愛するがゆえに妬みが生まれるし、憎しみも生まれる。自慢もしたくなるのではないでしょうか。聖書が言う愛はとても美しいんですが、それは現実離れした綺麗ごとのようではないでしょうか。結婚式で第1コリント13章が読まれて、これから二人の間に愛を育んでいきましょう。と語られます。愛は寛容とありますから、相手の過ちを赦しましょう。愛はねたみませんから、相手を束縛してはいけません。愛は苛立たないはずですから、常に穏やかな心でいなくてはいけません。・・・いや正直言って、それは無理な話です。もしも、第1コリント13章がそのような意味で結婚式で語られるとすれば、それはなんと残酷な話ではないでしょうか。
 百歩譲って、そのような愛があるとしましょう。けれど、どうでしょう。イエス様は「あなたがたの敵を愛しなさい。」と言われるのです。これは何と現実離れした要求ではないでしょうか。そんなことできるものかと思ってしまいます。人から敵意を向けられるというのは、本当に辛いことなのです。憎しみ返すとまでは言わなくとも、せめて関わりたくない。と思うのが私たちです。奪い取られそうになれば、必死になって奪われまいとするのは当たり前な話です。自分を愛してくれる者を愛するのが、私たちの精一杯の現実です。ですから私たちはイエス様の言葉に戸惑うのです。
 しかしです。実は、このことは私たちの努力によってどうにかなる類の話ではないのです。私たちが必死になって愛そう。見返りを求めないで与えようと思いましても、それは無理なのです。愛することはそんなに簡単なことではありません。愛とは御霊の実なのです。つまり、御霊の働き無くして、私たちに真の愛は生まれないのです。
 では御霊はどのように働くのでしょうか。前回確認しましたように、御霊は私たちをキリストへと導きます。つまり、私たちが御霊によってキリストの愛に触れる時、私たちは愛する者とされるのです。言い換えるなら、キリストの愛を知らずして、愛する者とはなれないのです。
 以前のこと。私にはどうにも愛せない人がおりました。その人の発言に傷付きました。なんでこの人はこうなのか。イライラして、腹が立って、どうにも受け入れることができませんでした。ところがある時、彼のことで苛立っている最中に、なぜか十字架のイエス様の祈りが心に浮かんできたのです。「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは自分では何をしているのかわからないのです。」ご自身を十字架へと追いやった敵のために、とりなしの祈りをするイエス様。このイエス様の祈りの前に、自分は何と愚かで情けない者なのかと迫られたのです。私自身が取るに足りない者であり、ただただ憐れみによって赦された者に過ぎないのに、自己中心な正義をもって私は他人を裁いている。いったい何様なのかと思わされたのです。そして、そのことを恥じ、心から悔いた時、あれほど嫌っていた彼に対して何の苛立ちも感じなくなったのです。
 愛することは、愛されていることから始まるのです。敵のためにすら命を捨てられたイエス様の愛に触れられて、私たちはようやく愛を知るのです。そして赦された者として赦し、愛された者として愛するように変えられるのです。

180128 ヨハネ16:5-16「その方が来ると」

ヨハネ16:5-16「その方が来ると」

 最後の晩餐の席で、イエス様は残される弟子たちを思い、様々な励ましの言葉を残されました。それは、その時、その場で理解できるものではありません。けれど、後になって、イエス様が彼らの元から離れて、世がイエス様ではなくて、弟子である彼らを迫害するようになった時に、効力を発揮する励ましの言葉、約束の言葉。それがすなわち、助け主、聖霊が来られるという約束でした。
 5節の終わりに「しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません。」とあります。晩餐の始まり近くでは、トマスがイエス様の話に必死になって喰らいつくという場面がありました。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」(14:5)ちょっと前までは、やんややんやと弟子たちはイエス様の話に声をあげておりました。晩餐の前には、ペテロは、イエス様に「主よ。どこにおいでになるのですか。」と尋ね、「あなたのためにはいのちも捨てます。」とまで、言っておりました。けれども、イエス様の話を聞くに連れ、彼らは口を開かなくなっていきます。そして、イエス様の口から、ご自身が世を去られること。世から弟子たちが憎まれること、迫害を受けること、会堂から追放されることを聞く段になっては、もはや言葉すら出ません。つまり、ようやく彼らはイエス様の本気を感じ取ったのです。彼らは、徐々に、これは冗談ではないんだと悟っていく。そして、言いようのない悲しみにはち切れそうになっていったのでした。
 ところがイエス様は言われます。むしろ、それは喜ぶことなんだとです。それはイエス様が共にいることよりも、あなたがたにとって益となるんだと。こう言われるのです。
 では、イエス様が共におられること以上に、聖霊が来られてもたらされる「益」とは何でしょうか。イエス様は言われます。8節「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」そしてもう一つ、13節「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」聖霊は誤りを認めさせ、真理に導くと言うのです。だから、イエス様が共におられること以上に、聖霊があなたがたと共におられなければならないんだと。言い換えると、聖霊が来られなければ、たとえイエス様と共にいたとしても、私たちは、自らの誤りを認めることはできないし、真理の教えに導かれることは無いということです。これは驚くべき真実です。
 私たちは、イエス様が今ここにいてくださったのなら、イエス様が見える形で、共にいて、時にはトマスに対してのように、ご自身の傷跡を見せられて、触れさせてくださるなら、何の疑いもなく信じられるのに。と、こう思うところではないでしょうか。けれど、本当にそうでしょうか。実際にイエス様を目の前にしても、その奇跡を見て、その教えを直接に聞いても、パリサイ人たちはこれを信じなかったのです。弟子たちはイエス様の栄光を散々に体験し、その教えにどっぷりと浸かっていたにも関わらず、イエス様の真意を自ら理解することはできなかったのです。私たちはそうではないと、果たして誰が言えるでしょうか。断言いたしますが、もしもイエス様が皆さんの前に表れて、共に過ごしてくださったとしても、聖霊が来られなければ、決してイエス様を救い主であると信じることはできません。
 確かに、救いの御業はイエス様によってもたらされました。イエス様の十字架の死によって、罪が贖われ、救いが完成しました。これは紛うことのない事実です。けれど、そのことを私の信仰として認められるかどうかは、私の理解とか決意とかではなくて、聖霊の働きに拠るとイエス様はおっしゃられるのです。つまり、聖霊は、2000年前のあの出来事、神のご計画を、私のこととして結び合わせてくださるお方なのです。
 聖霊は「あなたがたをすべての真理に導き入れます。」とあります。真理とは何でしょう。イエス様は「わたしが道であり、いのちであり、真理なのです。」とおっしゃいました。イエス様こそが真理です。聖霊は私たちをイエス様と結び合わせるお方です。