FC2ブログ
プロフィール

Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

訪問者
最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
検索フォーム
リンク
QRコード
QR

180325 ヨハネ17:6-19 「世にある彼らのために」

ヨハネ17:6-19 「世にある彼らのために」

 この祈りは、最後の晩餐においてなされたイエス様のお話しの締めくくりに持たれたものです。長いお話しの間、イエス様の胸にあった一貫した想いは何でしょう。それが今日の祈りの中に出てきます。それは「わたしはもう世にいなく」なること。そして、「彼らは世に」いることです。
 11節「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。」イエス様はこれから「世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光」を成し遂げるために十字架へと向かわれます。罪なきお方が、人類の罪を一身に背負って生贄となるために死に向かわれる。そのイエス様が最後まで思いを向けるのは、他でもない、愛する弟子たちの今後についてでした。
 イエス様は愛する弟子たちのために祈ります。世のためじゃない。と弟子たちをわざわざ世から取り分けて祈ります。なぜなら、弟子たちはすでに世のものではなくて、神のものであり、御子のものだからです。11節の「彼らは世にいますが」という言葉は、口語訳聖書では「彼らはこの世に残っており」と訳されています。弟子たちは世に残らされます。さらには15節に「わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく」ともあります。つまり、イエス様は神のもの、ご自身のものと言われた愛する弟子たちを世に置き去りにすると言うのです。
 何が言いたいかと言いますと、イエス様のこのとりなしの祈りには、ただ単に弟子たちとの別れを惜しんで、彼らの今後の生活の安全と祝福を祈っているというものではなくて、もっと明確な意図と言いますか、目的を持って彼らを敵意の中に置いていくのだと言うイエス様の決意が見え隠れするわけです。ではそれは何か。それは10節に「わたしは彼らによって栄光を受けました。」とあるように、残される弟子たちの存在が神の栄光を現すからです。つまり弟子たちの存在を持って、世は神を讃えるのです。彼らの世にあっての生き方が、神の義と愛を証明するのです。そのために、イエス様は、弟子たちがご自身に着いて来るのを良しとはされず、世に残されたと言うのです。つまりは、イエス様の使命を引き継ぐべく、弟子たちを留められた。弟子たちの地上の生活は、乗り遅れた待ちぼうけの日々ではなくて、イエス様から特別に託された使命の生活なのだと言うことです。だから、イエス様は弟子たちの地上の歩みのために、彼らの守りを祈られます。
 そもそも存在をもって栄光を現すことは、私たち人間の本来の使命でした。「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。これを形造り、また、これを造った。」(イザヤ43:7)とあります。けれど、人に罪が入り、それが適わなくなったのです。私たちは神の栄光どころか、神を貶める存在と成り果てました。なんで私なんて生まれてきたのか。と自分自身の存在を否定し、いのちを下さった神を否定してしまう。あの人さえいなければ、と神の被造物に呪いをかける。そんな存在となってしまいました。けれど、今、主はもう一度、私たちに持つべき使命を託されます。私たちを見て、人々が神の創造の御業を褒め称えるようになるのです。毎日の生活に、私たちは右往左往します。失敗を繰り返し、ため息を付くことばかりです。けれど、それでも尚、イエス様は、私たちの存在が神の栄光を現すと言ってくださるのです。そして、この使命に私たちが全うできるようにと、イエス様は祈ってくださるのです。

180318 ヨハネ17:1-5 「大祭司の祈り」

ヨハネ17:1-5 「大祭司の祈り」

 この祈りは古くから大祭司の祈りと呼ばれています。祭司とは、民をとりなし、民の声を神に届けるのが努めです。人々の悔い改めの心を神に届けるのです。その祭司の中でも大祭司は特別な存在で、それは単に祭司たちのまとめ役ということではなくて、唯一人、神の臨在のもとに訪れる資格を持つ存在だと言うことです。ヘブル書を読みますと、イエス様こそが真の大祭司であることが記されていますが、この祈りは、まさにイエス様が真の大祭司であることを表明するような祈りです。天の神様の前に、自分自身をとりなし、残される弟子たちをとりなし、これから弟子となるであろう者たちをとりなす。それがこのイエス様による大祭司の祈りです。
 自分自身をとりなす。というのは、なんだか変な感じがしますが、祭司たちがまず自らの罪のための生贄を捧げることは律法で決められていたことでした。義なる神の前には祭司であろうと罪人に過ぎません。何の準備もなしに神の前に出ることは死です。ですから、祭司たちはまず自分のために生贄を捧げる。イエス様はその手順に沿われて、まず自分自身のために祈ります。ところがイエス様が祈るのは、命乞いでも、弁明でも、改心でもありません。世界が始まる前に一緒に持っていた栄光を現してください。というものでした。
 栄光を現すとはどういうことでしょう。4節を見ると、イエス様が神様のわざを成し遂げることだとあります。では「わざ」とは何か。2節にはイエス様が永遠のいのちを与えることだと。そして永遠のいのちはと言いますと3節、神とイエスを知ることだとあるのです。
 ここで言う「知る」とは単に知識を得るということではなくて、体験としてわかるという意味です。そのものに触れて、感じ取っていく。神のわざ、ご計画であるところは、私たちに永遠のいのちを与えること。それは何か、不老不死のような死なない何かではなくて、神様とイエス様に直接に触れ合い、理解し合う、そういう密な関係の中に入れられるということです。そして、それこそが、三位一体の神がこの世界の始まる前に持たれていたご計画だと。それを成し遂げることが、神の栄光であり、子の栄光なんだとイエス様はこの祈りを通じて教えてくださっているのです。そのために十字架がある。復活がある。イエス様はこのとりなしの祈りの冒頭で、これから起こる出来事を持って栄光が現れるようにと祈られるのです。
 ゲツセマネの祈りとよく対比される大祭司の祈りですが、ゲツセマネの祈りはこれから起こる苦難の大きさ、それはただ一人罪なきお方が、「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。」と祈らざるを得なかった全人類の罪の途方もない大きさを意味しているわけですが、そのような中でもイエス様は祈りを続けられました。「しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」この「みこころ」というのが、今日の大祭司の祈りで言うところの「世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光」であります。
 私たちはこの2つの祈りから、これから起こるイエス様の受難。十字架の出来事が、神のひとり子が投げ出したくなるような途方もない苦難であるとともに、父なる神もイエス様も双方に渇望してやまない神のご栄光そのものであったことを見るのです。つまり、イエス様は仕方なくこの道を行かれたのではありません。イエス様は自ら、栄光のためにこの道を歩まれるのです。
 どちらもイエス様の本心です。目に見える現象には、もう一つ別の視点があるということです。私たちの人生においても、みこころなら取り去ってくださいと願う杯があります。しかし同時に、その杯を用いられる神のご計画があります。その時何が正解で何が導きか私たちにはわかりません。わかっているのは、この瞬間、この生涯を用いて神の栄光がなるという事実です。ここを見失わなければ、私たちはどのような苦難にもどこかで大丈夫と心落ち着かせることができるのです。

180311 ピリピ4:4 「喜びの秘訣」

ピリピ4:4 「喜びの秘訣」

 御霊の実の2番目は「喜び」です。御霊が働かれる時、喜びがある。これが聖書の記すところです。教会にいる一人ひとりに喜びがあるとき、教会は世に対して光となります。一方で、教会に喜びがなければ、教会は世に対する言葉を失うのです。
 けれど、喜ぶということは言うほど容易いことではありません。わかっていても喜べないという時は誰しもあるのです。忙しすぎて余裕がない。自分のもっとも気にしている点を指摘されて凹んだ。精一杯に取り組んできた案件が失敗に終わって落ち込んだ。その失敗を人前で指摘されて笑い者にされて恥ずかしかった。クラスの誰もが味方してくれない中で、必死に作り笑顔をした・・・。いつも喜んでいなさいとは、もちろん、そうできれば良いに決まっていますが、私たちの日常を考えれば如何に非現実的かと思わざるを得ません。
 ではパウロはどのような意味で勧めているのでしょうか。たとえば、喜べない状況においても、無理にでも喜ぶようにすれば、だんだんそれを喜べるようになる。いわゆるポジティブ・シンキングの勧めなのでしょうか。そうではないと思います。なぜなら、喜びなさいと命じるパウロは、この時獄中におり、普通に考えれば喜べるような状況にはないからです。けれど、彼の手紙を読みますと、彼はそこかしこに喜びを語っています。それは決して無理している様ではありません。心から喜んでいる。つまりパウロが「いつも喜んでいなさい。」と言う時、それはたとえ困難な状況の中でも「いつも喜んでいられる」という実体験をもとに語っているのです。
 なぜパウロは困難な状況の中でも、喜びを見いだせるのでしょうか。4:1ではパウロはピリピ教会の人々を「私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。」と呼びます。つまり喜びの原因はあなたたちだと言っています。この手紙の至る所で同じように言います。実はピリピ書に留まらず、新約聖書で「喜び」という言葉が使われるとき、ほとんどは自分のことではなくて、相手を喜ぶという意味で使われています。ここにどんな状況の中でも喜ぶことの秘訣があります。つまり、喜びというのは自分の状況を見て無理して笑顔を作ることではなくて、誰かとの関りの中で湧いてくるものだということです。
 たとえば皆さんがオリンピックで金メダルを獲ったとします。苦労して苦労してようやくつかんだ金メダル。けれど、誰もそのことに関心を寄せてくれない。喜んでくれないとしたらどうでしょう。空しくはないでしょうか。逆に、たった一人でも自分の頑張りを労ってくれて、喜んでくれたなら、その存在はどれほどの喜びでありましょうか。喜びというのは喜ばれるという体験を通して実感するものです。そして誰かを喜べるという現実は私たちに生きる希望を与えてくれます。喜びは分かち合うことによって生まれるのです。
 自分ばかり見ていれば、ふさぎ込むことも多いでしょう。行き詰った現状に不安ばかりが沸いてくるでしょう。けれど、パウロがここで言っているのは、自分の置かれたあらゆる状況を無理してでも喜べとではなくて、どのような状況でも、喜び喜ばれる関係が持てる。少なくとも、私はあなたがたを喜んでいる。だからあなたがたも私を見て喜んでくださいとではないでしょうか。孤独の中にあって、自分を知り、理解し、助けてくれる存在は喜び以外の何者でもありません。どのような時にも私に向けられている喜びの知らせを聞くならば、それはこの上もない喜びではないでしょうか。
 しかしそれでも喜べない時があるかもしれません。その一人がいない孤独を感じるときです。本当に苦しい時は自分を喜んでいる人などいない。と考えがちです。だからこそ、パウロは「主にあって」と言うのです。他の誰でもない。私たちは、私たちを喜んでおられる主を知っています。自分を喜べなくても、仲間を喜ぶことができる。その仲間すら喜べないとしても、主イエスを喜ぶことはできる。それは私に先立って、私を喜んでくれているイエスさまがおられるからです。
 私たちは今喜んでいますでしょうか。私たちの存在を喜んでくれる仲間がいます。私たちを生かすために喜んでその身を差し出されたお方がいます。私たちが今ここにあることがたくさんの喜びを産んでいるのです。私たちはこれを喜ぶのです。だから喜べるのです。

180304 コロサイ1:9‐14節 「霊的な成長のために祈ろう」 齋藤満師(東北宣教プロジェクト)

コロサイ1:9‐14節 「霊的な成長のために祈ろう」 齋藤満師

 今日の箇所は、パウロがコロサイの教会に宛てた手紙の一部です。そこには救われた教会に必要な、霊的成長についての祈りが書かれていました。今日はこの4つの祈りから、私たちが残された地上の生涯において、みことばと祈りによってどのような成長を目指すべきかを学びたいと思います。
 今日の箇所にはパウロの4つの祈りがあります。それを要約するとこうなります。
 ①神の御心を知ることができるように(9節)。「霊的な知恵を理解力によって」とありますが、霊的知恵とは「神の前にそれが正しのかを、状況に応じて判断する」ことを意味します。また、理解力とは、もともと総合するという意味の動詞から出ている言葉で、霊的な様々な判断から総合的に判断することを意味します。しかし、パウロは私たちにそうした能力があるといっているのではありません。「霊的」につまり、聖霊の助けにより、また神様から与えられる知恵によってそうした判断ができるようになることを祈り求めるように言っているのです。
 ②神を知ることによって成長するように(10節)。私たちが神の御心を理解する時、それが主にふさわしく、主の喜ぶ歩みをすることにつながります。それではなぜそれが神を知り、成長することにつながるのでしょうか。それは、私たちがこの世で主の道に歩むなら、必ず世との摩擦、試練を経験するからです。その闘いの中で、私たちはまさに神との人格的な対話を経験し、神が自分にとってどんな存在であるのかを確信させられ、成長することができるのです。
 ここまでの2つの祈りは「神を人格的に知る祈り」と言い換えることができると思います。神をさらに人格的、体験的に知って行くことが、この世の残りの歩みに不可欠であるとパウロは知っているのです。
 ③神によって強められ、忍耐することができるように(11節)。ここでは2つの違う忍耐が祈られます。最初の忍耐は「自分のいる所にとどまること」を意味する言葉。つまり信仰にとどまることを意味しているでしょう。また次の「寛容」と訳されている言葉は「容易に怒らない」忍耐を示しています。たとえ理不尽な誤解や、迫害の試練にあっても、容易に怒ることなく、耐え忍んでいく。しかし、それは私たちの力では到底できないこと。ここでもパウロは、私たちの力や根性ではなく、神の栄光の権能、つまりこの全宇宙を創造した権威によって、あらゆる力によって強められてその忍耐いただけるように祈っています。
 ④天の相続を約束された神に喜びをもって感謝を捧げられるように(12節)。最後にたどり着く祈り、それは神への喜びと感謝が捧げられるようにでした。私たちには全く分不相応な、莫大な神の財産を相続する資格を無償で与えくださる神。そのために私たちの罪を赦すために十字架によって私たちを贖った主イエス様を覚えます(13,14節)。忍耐の限りを要求された主は、それでも自分の受ける天の栄光を見て、喜び、神に感謝しました。私たちもこの天にあるものに目を留めるとき、あらゆる艱難と試練のなかでも喜びをもって神に感謝する生活へと導かれます。
 今日はパウロの教会のために祈った祈りから学びました。この4つの祈りが示している生き方。ここに私たちのモデル、究極の最終目標であるイエスさまの姿があります。是非この祈りから学んだことを心に刻み、祈り、栄光から栄光へ主と同じ姿に変えられる人生を今週も送りたいと願います。

180225 ヨハネ16:25-33「勇敢でありなさい」

ヨハネ16:25-33「勇敢でありなさい」

 25節から28節にはイエス様が語られる、やがて来るその日の様子が記されています。その日はどのような日かと言いますと25節には「わたしはこれらのことを、あなたがたにたとえで話しました。もはやたとえで話すのではなく、はっきりと父について伝える時が来ます。」とあります。また26節には「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。」とあります。その日には、弟子たちはイエスの名によって祈り、そして父の御心をはっきりと聞くようになると言うのです。
 私たちも普段、主イエスの名によって祈ることです。ひかり幼稚園の園児たちは流石なもので、まだ言葉もおぼつかないような幼子であっても、イエス様の名前で祈ることの大事を知っています。けれど、ではなぜ主イエスの名で祈ることが大事なのでしょうか。
 皆さんはカトリックで聖母信仰があるのはなぜかおわかりでしょうか。ざっくり言えば、それは天の父なる神があまりにも聖いお方なので、このお方の名前を直接祈ることは恐れ多いからです。それは主イエスに対しても同じで、たとえ祈りにおいても、三位一体の神であられるお方の名前を口にするなど恐れ多い。そこで、主イエスの母にとりなしてもらおう。代わりにお願いしてもらおう。これが聖母信仰へと発展していったわけです。マリア様、どうぞこのことをよろしくお願いしますね。と祈る。しかし、今日の箇所のイエス様の言葉を聞きますと、そうじゃないんだとわかるわけです。「あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません。」つまりですね。私たちの祈りをイエス様が聞かれまして、それを父なる神のもとに持っていって、今度は、ごにょごにょごにょと神が語られた言葉を、私たちのところに来て伝えられる。そういうことじゃないんだと。かつての預言者はそうでした。神のことばを預かって民に伝えました。けれど私たちの祈りは「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。」イエス様の名によって、直接神が聞かれるのだと、こう言われるのです。
 つまりイエス様は私たちが神様の前に出るときに、わたしの名を自由に出してくれて良いよ。と言われているのです。例えるなら、超人気の高級ディゾートホテルの受付でオーナーの名前を出したら、VIP待遇で迎えられたようなものです。その名前にはその方の威光があるのです。だから私たちは、主イエスの名を出すことによって、自由に神に祈り聞くことができるのです。これは、アダムとエバが、園を追い出されて以来、決してあり得なかった恵みです。これを聞いた弟子たちは「今、分かりました」と言うほどに、興奮を隠しきれませんでした。
 けれど、どうでしょう。イエス様はなぜやがて来るその日の恵みを語るのでしょうか?それは、やがて来るその日の前に、患難があるからです。分かったと言った彼らがイエス様を一人置いて逃げ帰るのです。だから、イエス様は彼らがその困難にあっても希望を失わないようにと、前もってその日の恵みを語られるのです。ですから、イエス様が本当に言いたいのは、最後の一言。「勇気を出しなさい」。第3版の聖書の表現だと「勇敢でありなさい。」であります。
 イエス様がここでおっしゃる「その日」は、すでに起きた十字架と復活であり、今、この福音書を最初に読むであろうエペソ教会の人々にとっても、現代に生きる私たちにとっても、それはすでに起きたこと。すでに私たちのものとなっています。私たちは主イエスの名によって何でも自由に神に願うことができます。けれど、それだけではありません。後の日の希望が語られる理由は、今を耐えるため。それはいつの時代の信仰者にも当てはまる真理です。困難の中で見つめるべきは、後の日の希望です。私たちは日々の困難にのみ目を向けてはいけません。その先に用意されている恵みを見るべきです。私たちは今自由に祈ることができます。しかしやがては顔を合わせて主とともにあるのです。私たちは永遠の希望を持っています。永遠の希望は、死に勝利するところの希望です。