Ⅰテサロニケ4:13-18 「希望ある人生」
聖書の中の聖書と言われるヨハネ3:16は「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と記されています。本来、人は滅びるしかない存在でありますが、御子を信じるならば、私たちは決して滅びることなく、永遠のいのちを持つ。これが聖書の語る希望です。
しかしです。滅びることなく、永遠のいのちを持つとは、どういう意味なのでしょうか。人は皆死にます。信じる者、信じない者を関係なく、死は全ての者に訪れます。これは疑いようのない事実です。では、それは滅びるということとは違うのでしょうか。人は皆死ぬのであれば、永遠のいのちとは言えないのではないでしょうか。死は人にとって、希望ではなくて絶望ではないでしょうか。
実は聖書は死後の取り扱いについて2つの視点から語ります。一つは霊においては、私たちはキリストの贖いのゆえに滅ぼされることなく、永遠の神と共にある永遠のいのちとされること。そしてもう一つ、肉においては、死んで朽ち果てる者ですが、キリストが再び来られる日には、新しい体をいただいてよみがえることです。ですから、一方ではすでにもう永遠のいのちの中に入れられているのであり、もう一方では、これから後に用意されている。これはどちらがではなくて、どちらも正しい。神にあって矛盾なく約束されているところです。
私の母教会の友人が交通事故で意識不明の状態になったことがあります。丸2日経ちまして、奇跡的に意識を取り戻しました。私たちは彼のために祈り、その時間は永遠かと思うような時間を過ごしました。けれど、後になって本人に聞きますと、彼にとってそれは一瞬の出来事で、事故をしたと思ったら次の瞬間には、もう病院のベッドだったと言うのです。つまり眠っていたようなものです。彼の回復は、2日間とも言えますし、一瞬とも言える。それはどちらが正しいということではありません。どちらも正しい。永遠のことを、私たちの側から見れば、それは後の日の希望です。しかし、先に召された者から見れば、それは一瞬の出来事で、すでにある希望なのです。
では、そのことはいったい何を意味するのでしょうか。ここから急に身近な話になるわけですが、だから私たちは天の御国に具体的な兄弟姉妹の姿を思い浮かべることができる。先に召された兄弟姉妹との再会を天の希望とすることができるのです。墓を掘り返したら骨がある。そこにあるのだから天国にはまだ入れられていないし、よみがえりもしていない。という話ではありません。古いゾンビ映画を思い浮かべる必要は全くありません。天の御国は遠い遠い未来のいつかやって来る希望ではなくて、すでにある希望です。私たちの愛する兄弟姉妹は、すでに神の永遠の中にあり、やがて私たちもまた同じところに入れられるのです。

ヨハネ17:20-26 「彼らによって信じる人々のために」
今日の箇所の冒頭20節でイエス様は祈ります。「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」イエス様のとりなしの祈りは、弟子たちだけでなく、これから後に福音に触れて、信仰に入れられる一人ひとり、まだ見ぬ信仰者にまで拡大するのです。そして、そのまだ見ぬ信仰者も含めた「すべての人」を一つにしてくださいと祈られます。なぜなら、そのことによってイエスが神によって遣わされたことを世が信じるためだと言うのです。
「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。」とイエス様は祈ります。また、「わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。」とも言っています。私たちの個性や意思は神が与えられた賜物でありますから、「一つになる」とは、私たちが誰かの代わりになるとか、誰かと同じになるという意味では決してあり得ません。それは無理な話です。しかし、私たちが霊的に「一つになる」ということはあり得ます。エペソ4:3-5には「平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」とあります。私たちが受けた救いはただ一つだということです。神の御子の死によってもたらされる罪の贖いと救い。私たちはこの救いを共有することで一つなのです。言い方を変えますと、この救い以外で私たちが一つとなれる要素はどこにもないということです。
学生の頃、KGK主事であった唄野先生から「夫婦は宇宙人」と教わったことがあります。夫婦はそれほど異質な存在だと。もう何十年と夫婦として年月を重ねた先生が語られるのですから重みがあります。まして夫婦ですらない関係であれば、尚の事です。私たちは全く違う生き物。けれど、そんな私たちが一つとするところがある。性別も、国籍も、年代も、職種も、状況も、価値観も、あらゆる違いを超えて私たちを一つとするものがある。それが、キリストの十字架の愛だと言うのです。私たちの最も深い部分で大切にしているものを共有する。これこそキリスト者が一つとなるところです。そしてだからこそ、私たちがこの一つなる愛に結ばれている時、世の人々はその信じがたい一致を見て、イエス様が神より遣わされたキリストであることを信じるようになると言うのです。
「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」とイエス様は祈られました。「あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。」とも、「また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。」とも言われました。これまで、イエス様の祈りは世に残される弟子たちに向けてのものでした。しかし、イエス様の関心は、実は私たちで留まりません。私たちを救い、導き、そして、私たちを用いてその先へと向けられています。イエス様は私たちの先を見ておられるのです。私たちはですから、一つなる主を覚えながら、それぞれの託された地へと出ていくのです。教会は私たちのホームです。ここは遣わされる場ではありません。帰るべきところであり、出発するところです。私たちの担うべき地は世の中にあるのです。日常にあるのです。キリストの救いは神の奇跡によって広まるのではありません。キリストの救いは私たちのことばによって伝わるのです。キリストの救いは私たちの愛の一致によって証明されるのです。

出エジプト20:17 「欲しがってはならない」
第十戒は私たちが他人の家を欲することを禁じています。しかし、ここで言う家とは、単なる住まいだけの話ではなく、その生活の有り様、置かれている状況、あらゆることに通ずる内面の欲望を戒めているのです。
では実際に欲しがらないでいられるのかという話です。例えば隣人の家が目に入らないようにと、人里離れれば私たちは欲望を遠ざけることができるでしょうか。そういうことではないと思います。たとえ隣人の家を見ずとも、欲望は私たちの奥底から沸々と湧いてくるものではないでしょうか。
欲望というのは厄介なもので、その思いは、際限なく膨れ上がっていきます。いくら新しいものを手に入れようとも、これで満足とは決してなりません。TVのCMは絶えず、私たちに語りかけます。この新しい商品があれば、あなたの生活はもっと便利に、もっと豊かになりますよ。幸せになれますよ。けれどです。実際にそれが手に入れば、私たちはそれで満足するかと言いますと決してそうではありません。満足できない。まだ足りない。なぜなら、もっと便利に、もっと豊かに、というその誘惑は、今のあなたは足りないですよ。と不安を煽っているからです。つまりそれは、あるものを見ずに、無いものを見させようとしているのです。だから現状に対して感謝ではなくて、不満しか出てこなくなる。アダムとエバが、善悪の知識の木の実を見て、自分たちの自由にできない不満を覚えます。少し周りを見渡してみれば、そこには思うままに取って食べても良いあらゆる木の実が用意されていたわけです。けれど、彼らにはもうそれらは見えない。彼らの目は不自由な木の実に釘付けです。これが欲望の恐ろしいところです。欲望は恵みから目を逸らさせてしまいます。そして挙句、彼らは神との約束を破ってでも、その実を盗もうとするのです。
隣人の家を欲しがるとは、そこに自分の家との違いに目を向けるということです。自分の家には無いものを見つける。そして自分は足りないと思う。そしてやがては自分が不当な扱いを受けているようにすら思えてくるのです。私たちは他人の成功を羨んだり、自分の現状を恨んだり。けれど他人の家を見て、自分に無いものを数える生活は、私たちに何ら幸せをもたらしません。神様が今日与えてくださる恵みは不十分なのでしょうか。足りないのでしょうか。イエス様はある時、言われました。「信仰の薄い人たちよ。ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。」天の父は知っておられるのです。知っているからこそ、今日、私たちの必要を満たしてくださる方なのです。私たちは今日も養われています。今日を生かされています。ここに目を向けない時、私たちは足りなさを追う羽目になります。隣人の家ばかりが目に入るようになるのです。

第一コリント15:3-5 「もっとも大切なこと」
パウロは、最も大切なことはイエス様が死なれたこととよみがえったこと。つまり、「十字架とよみがえり」であると教えています。なぜそれが大事なのか。それは「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと。」とあります。「私たちのため」だから大事。しかしイエス様が十字架にかかって死なれたのは、2000年も前の話です。それがいったいなぜ私たちのためなのでしょうか。
このことを理解するためには、さらに、ずっとずっと昔の話に遡らなければなりません。それはこの世界の初めの話です。聖書は「はじめに神が天と地を創造された。」とあります。もともと神様がおられて、神様がこの世界と全ての命を、人間を造ったと言うのです。日本では神というのは私たちの願いを聞いてくれる神です。たとえば真夏に日照りが続いて、地域一帯が大飢饉となります。すると、雨の神を祀って雨を降らせてもらおうという具合にです。日本では、まず必要があって、それに応じた神々を造ってきたのです。そして、その時々の状況を見て、今日はこっちの神、明日はあっちの神と、神々を取捨選択してきたのです。ですから、この国の人と神々の関係は人が主で神々が従です。
けれど、聖書が言う神は全く違います。私たちが造った神々ではなくて、この世界も、私たちも、全てを造られた神がおられると言うのです。このことは、全ての者は神にとって価値ある存在だということを意味します。神の創造は無意味ではあり得ないからです。他の人から私がどう見られているか、それはわかりません。人と自分を比べれば、優越感に浸ったり、劣等感を覚えたりするのが私たちです。いつもその違いに悩み、苦しむ私たち。けれど神から見れば、私たちは比べようのない大切な神の作品なのです。これがそもそもの神と人との関係です。人は神との関係の中で、本来の生きる意味を見出し、神から必要とされる生涯を過ごしていたのです。
ところが人は、この創造の神を否定して、自分の思いのままに生きることを選びました。神様が唯一つ食べてはいけないと言われた木の実を食べたのです。それは神に従うことよりも、自分の思いを優先したと言うことです。これが罪です。罪とは自己中心の思いのこと。神に感謝し、神を賛美し、神を礼拝するはずの人間が、自分を喜び、自分を褒め称え、あまつさえ自分を神とする。これが罪です。そして、この罪のゆえに、人は神からの栄誉を受けることができなくなってしまったのです。
神様と人との関係は、もう以前のような麗しい関係ではなくなりました。人は神の作品として、神に必要とされて生きる栄誉を失いました。神様を恐れて、顔を隠して生きなければならなくなりました。永遠の神と共にある時、私たちも永遠の存在でした。しかしそこから離れた時、私たちは限りある存在でしかありません。私たちは、罪のゆえに神に受け入れられない存在であり、滅びるしかない存在となってしまいました。
さて前置きが長くなりましたが、だからこそ神様は、ご自身のひとり子であるイエス様を人として地上に送ってくださったのです。神の御子イエスの命と引き換えに私たちの命を救われようとされたのです。つまり罪の生贄を用意されたのです。罪を罰せずにいることは神様にはできません。しかし、神様はご自身が造られた作品である人間が滅びるのを良しとはなさいません。神は義であるとともに、愛のお方です。そこで神は、人々のために自ら生贄を用意されました。それがイエス・キリストという方であり、十字架の出来事だったのです。
そしてこのイエス様がまことに神の子であったことを証明するのが、イエス様の復活というわけです。人は死にます。これは逃れることのできない事実です。どれだけお金を積もうとも、どれだけ名声を集めようと、死を免れることはありません。私たちは死の圧倒的な力を知っています。じわじわと迫りくる死の影に私たちはどれほど恐怖を覚えることでしょう。けれど、イエス様は死して終わること無く、よみがえられたのです。これ以上の神証明はありません。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。」(ヘブル9:27-28)一度目にイエス様が来られたのは、私たちの罪を負うためでした。しかし二度目、イエス様がよみがえられたのは私たちの救いのためにです。イエス様が死んだままであるなら、それは単なる偉大な教師の死でしかありません。しかし、イエス様はよみがえられたのです。それゆえ十字架は私たちの救いとされたのです。十字架はもはや処刑ではなく、敗北でもなく、復活・勝利の象徴とされたのです。
