ルカ7:11-17「泣かなくてもよい」
幼い子を残して夫に先立たれるということは、いったいどれほどの不安と悲しみでしょうか。困難な時、共に支え合うことのできない寂しさは、どれほど心細いことでしょう。けれど、そんな中でも自らを叱咤して、懸命に生きて来られたのは、彼女が母親であったからに違いありません。小さく震える我が子の手を握り締めて、私がしっかりしなければと、必死になって生きて来たのです。この母親にとって、息子は生きる目的であり、そして希望でありました。ようやく息子は若者と呼ばれる年となり、これから母を支えていくはずでした。しかし、無情にも、そのひとり息子が今、先立っていったと言うのです。何という不幸でしょう。この女性の叫びが聞こえて来そうです。
ひとり息子に先立たれるという経験は、全ての人がすることではありませんが、私たちは少なからず、親しい人を失うという経験をしているわけです。人は皆死ぬのですから、それ自体は決して特別なことではありません。けれど、やはり自分にとって親しい人がいなくなるという現実は、言いようのない寂しさをもたらすわけです。ぽっかりと心に穴の開いたような、虚しさを感じるのです。ですから、私たちはこの母親の気持ちに共感いたします。もちろん全てわかるとは言いません。けれど、その悲しみの種類は知っております。それはどれだけ慰められても、月日を重ねても、決して埋まることのない喪失感です。他のものでは決して代用の利かない特別の痛みです。愛する人の死に無力であった自分への悔しさです。自分を置いてひとり先立って行った相手への怒りです。私たちはそれを知るからこそ、今、この女性に語り掛けるイエス様の言葉にただ驚くのです。何とも無神経な言葉かと思います。けれど、そうではありませんでした。イエス様はその母親をかわいそうに思われた。そして、その息子を蘇えらせてくださった。イエス様の言葉は、慰めでも何でもなくて、文字通りでありました。それは力ある言葉。命を与え、そして取られ、さらにもう一度与えることのできる言葉です。あなたの息子はよみがえる。だから、泣かなくてもよい。なのです。
十字架の後、イエス様を埋葬しようと墓にやって来たマリヤたちは、そこにイエス様の亡骸がないことに呆然と致しました。しかし、みつかいは言います。「あなたがたは恐れることはありません。・・・ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。」空っぽの墓を探す必要はないのです。そこにはおられないのです。よみがえられたのです。これは私たちにも言えることです。私たちも先に召されたあの兄弟、あの姉妹を覚えるとき、もはやその死に留まる必要はありません。私たちにある兄弟姉妹の記憶の最後は、死かもしれません。けれど、そこにはもういないのです。その人はすでに天の御国に入れられているのです。ですから私たちは、天の御国に入れられた兄弟姉妹の今を覚えるべきなのです。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」(黙21:3-4)

ヨハネ18:12-27 「異例の尋問」
ゲツセマネの園での大捕物の後、イエス様はローマ兵に連れられて、アンナスの屋敷に連れて行かれました。このアンナスという人は、その年の大祭司であったカヤパのしゅうとだった人物です。実は当時大祭司以上の権力を持っていたのがアンナスでした。
しかし、アンナス直々の尋問も、何の成果も出ませんでした。イエス様は慌てる様子もありません。自分には何のやましいこともない。どうぞ調べるなら調べるが良い。時の権力者を前にして、一つも動じることのないイエス様です。すると、下役の一人が、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って、平手でイエス様を打ちました。随分と横暴な仕打ちです。けれどイエス様はやはり冷静に応じられます。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」暴力を前にしても、一向にひるむことのないイエス様でありました。
今日の箇所は、このイエス様への尋問を挟み込む形で、弟子のペテロの姿が記されます。この場面、共観福音書ではペテロが鶏の声を聞いてイエス様の先の言葉を思い出し、自らの愚かさに泣き崩れる場面が描かれています。それはペテロの大失態の場面ではありますが、同時に「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」というイエス様の言葉を思い出す、慰めの場面であり、励ましの場面でもあるかと思います。
ところがです。ヨハネは、泣き崩れるペテロの様子を一切記しません。その一方で、大祭司の庭に入るのに躊躇するペテロの様子は記します。・・・何と言いましょうか。全体的にペテロに対して容赦ない書き方をしているような気がするのです。
確かに、一介の漁師上がりの田舎者が、大祭司の庭、それも厳重に見張られている裁判の場に勝手に入ることなどできるはずもありませんから、そこには、手配した者がいたのでしょう。イエス様の弟子にはアリマタヤのヨセフなど、中央に顔の利く者たちもおりました。けれど、どのように庭に入ったかは、話の本筋とは離れているような気がしますし、現に、他の福音書では省かれている記述です。あえてそれを書くことで何になるのかと言いますと、ペテロの活躍度が下がると言いましょうか。ペテロは勇んでイエス様の後を追ったのではなくて、門前で思いあぐねている所を、もう一人の弟子に促されて門をくぐるも、イエス様の弟子であることは頑なに拒否をしたということが明らかにされている。それだけではない。その後も2度、彼はイエス様の弟子であることを否定するのです。ちょうど同じ頃、イエス様はわたしにはやましいことは何もない。わたしについては幾らでも証人を呼んで聞くが良い。と、堂々と宣言しているのと重なるように、ペテロはイエス様を否定する。そしてヨハネは、それを強調するように敢えてこのような書き方をしているわけです。
ヨハネはこの場面を記すに当たって、何を語ろうとするのでしょうか。それはつまり、2つの尋問を並べて際立たせることで、キリストの弟子としてどちらであるべきかを教えているのではないでしょうか。イエス様の堂々とした姿にこそ、キリスト者の勝利があることをです。
この福音書が書かれた当時、圧倒的少数者であったキリスト者は、信仰を告白することに多くの障害がありました。キリスト者のある者は信仰による戦いに怯え、恐れ、逃れるために、キリストの弟子であることを隠そうとしました。この世に妥協しようとしました。しかし、ヨハネは言います。キリストの弟子であることを隠そうとする限り、不安は無くなることなく、恐れは収まらないということをです。確かにその日、迫害を先延ばしにできるかもしれません。しかし、それは平安とは違います。ペテロは時間が経つにつれ、恐れや不安、後ろめたさが増すばかりでした。そして、決定的なその場面、後悔の念が後を絶ちませんでした。キリスト者がキリストの弟子であることを隠して生きることは、平安をもたらさないどころか、後ろめたさを引きずるのです。後悔が生じます。一方で、イエス様の晴れやかな姿があります。堂々と信仰に胸を張る生き方です。それは十字架へと続く生き方。迫害の中を通るかも知れません。けれど、後ろめたさを感じない、晴れ晴れとしたその生き方は、私たちの心に確かな平安をもたらすのです。

ヨハネ14:1 「主の平安に生きる」
御霊の実の3つ目は「平安」です。「平安」という言葉を辞書で引きますと、「無事で穏やかなこと」ですとか、「やすらかで変わったことのないこと」とありました。穏やかな日常。やすらかな心。私たちは毎日の生活を心穏やかに過ごすことができればと思います。けれど、そう思うようにいかないのが現実ではないでしょうか。私たちはいつも不安ばかり。心が騒いで仕方がないのです。
私たちは自分の存在にいつも不安を感じています。自分自身は平気で嘘をつくし、大して人の役に立つことをしているわけでもない。他人を見れば劣っているところばかりが見えて嫌になります。いえ、他の誰かがというよりも前に、自分自身が自分の価値を見いだせないのです。挙げ句、道ですれ違った人の視線が自分を責めているようで不安になったりします。こんな自分なんていてもいなくても変わらない。日常の中のふとした瞬間に、そんな思いが湧いてきて悲しくなります。
私たちの抱える不安は尽きることがありません。平安があるようにと祈りますが、これは何か、目の前の問題が解決されて、平安という何かが得られるという話ではないのです。目の前の問題が解決しても、また別の問題が現れるだけです。人間関係の問題、将来についての問題。上手く行かない日常の中で、私たちの心は騒ぎっぱなしです。ですから私たちは、問題を解決しないと平安が得られないのではなくて、たとえ問題の渦中にあっても平安を見い出せるようでなければならないのです。
御言葉は何と言っているでしょうか。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14:1)神を信じ、またわたしを信じなさい。と言っています。これが大事だと言うのです。私たちは自分の中に、愚かで、醜い部分があることを知っています。思い通りにならない、卑屈で、強情な自分を嫌という程見ています。自分でもしたくない、自分だけはするはずがないと思うそのことをしてしまう弱さを、自分の内に見るのです。私は私を信じることができません。いえ自分のことだからこそ信じることができないのです。けれど御言葉は、自分を信じろと言ってはおりません。そうじゃない。「神を信じ、またわたしを信じなさい。」と言っています。たとえ、私たちが自分にどれだけ自信が持てなくとも、私たちのとりまく問題が山積していようとも、神を信じ、主イエスを信じることこそが大事だと言っています。私のために命を捨てられた主イエスの愛を信ぜよと言っているのです。最も大切なひとり子の命を犠牲とされた神の愛を信ぜよと言っているのです。そうすることが、私たちの心を穏やかなものとする秘訣です。
ヤコブ 1:6 には「ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。」とあります。波を見れば恐れるのは当たり前なのです。不安になるのです。そこがどこであれ、主が共におられるというこの事実に目を留めるべきなのです。主が私たちを守り支えてくださることに信頼すべきなのです。詩篇37:24にこうあります。「その人は転んでも倒れ伏すことはない。【主】がその人の腕を支えておられるからだ。」転ぶことは悪いことではありません。転んで学ぶこともあります。主が支えてくださることを知れるのは、転んだときなのです。問題を抱え、様々な心配事に不安を覚えます。自らの弱さを情けなく思います。けれど、だからこそ、私の弱さのうちに現れる主と出会うのです。
パウロは言います。「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」このように告白できる者は何と幸いなことでしょうか。一人で問題に立ち向かわなければならない者は、やがては壁にぶつかります。なぜなら問題を解決しなければ平安がないと思うからです。けれど、そうではありません。平安は主がともにおられることです。どのような問題も私たちと主を引き離すことはできません。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:38-39)いつも主は共におられる。だからこそ、私たちはどのような時にも平安を見出せるのです。

ヨハネ18:1-11「堂々と名乗りを挙げて」
イエス様が祈る中、眠りこけてしまう弟子たち。それも3度も。イエス様が弟子のペテロにかけられたセリフはイエス様の苦闘と孤独を深く思わされます。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」有名なゲツセマネでのイエス様の祈りの場面です。しかし、ヨハネはこのことを記しません。このゲツセマネの出来事で彼は、血の汗を流されるイエス様の渾身の祈りも、口づけを持ってイエス様を裏切るユダの詳細も記しません。では何を記すのか。ヨハネはイエス様が自ら名乗りを挙げて捕らえられる様子を記します。自ら十字架に向かわれるそのお姿を記します。絶体絶命に見える状況で、悪に媚びることなく、状況に流されることなく、堂々と名乗りを挙げるイエス様。それこそがヨハネが振り返っては思い起こすイエス様その人でありました。
向けられる敵意に対して「わたしがそれだ」と、堂々と名乗りを挙げるイエス様がおられます。その結果、「彼らは後ずさりし、地に倒れた」とあります。「わたしがそれだ」と告白されるギリシャ語「エゴー・エイミ」は神の聖なる御名としてこれまでも使われてきた言葉です。神様がモーセに「わたしはある」とご自身の名を明らかにされた、まさにその呼び名です。すると、人々はその御名の栄光にひるんだのです。イエス様はもう一度問われます。「だれを捜しているのか」「ナザレ人イエスを」するとイエス様は言われます。「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。」
他の福音書を見ると、イエス様の逮捕はユダ主導の元で行われて来ました。しかし、ヨハネは、それはむしろイエス様の主権によってなされたと言うのです。イエス様は進んで捕らえられたのだとです。これらのことは、ユダの裏切りによって実現したこと。しかし、ユダや祭司長やローマの兵隊によって無理やりに引き起こされた事件ではありません。これらは全て神の尊いご計画でありました。罪のない方が、人類の罪の贖いとなって死ぬ。神の御子が、神の怒りを一身に背負って死んで行く。これこそが神のご計画。聖書の語るところです。それゆえ、十字架は勝利の道。復活の栄光へと繋がっているのです。
ヨハネは振り返って、このイエス様を後世に伝えます。それは彼自身の生きる指針がこのイエス様の姿にあるからです。ヨハネの後の半生は決して平坦ではありません。信仰のゆえに人々の敵意を浴び、辛酸を舐めることがありました。迫害の中で、命を落とす者たちを見ながら、何もしてやることのできない悔しさと無力さを経験しました。しかしヨハネは思うようにならない生涯で、それでも尚、キリストを名乗る幸いを見るのです。
このことはもちろんヨハネだけのことではありません。パウロはローマの獄中にあって言います。「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。」(ピリピ1:20)これは全てのキリスト者に通ずる生き方であろうと思います。私たちの生き方であります。イエス様はゲツセマネで、闇に紛れて、逃げ出すことも出来たことでした。口を閉ざして、顔を隠して、誤魔化し続けることもできました。けれど、そうはされませんでした。イエス様は名乗りを挙げた。なぜなら、ご自身が捕らえられる先、十字架の先に、復活があるからです。私たちがキリストの名に生きる先に、よみがえりの希望があります。ですから私たちはどんな場合にもキリストを恥じることなく、大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられたいのです。
