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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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180624 第二テモテ2:13 「神は真実を持って、私を導かれた」 ~神田英輔の証し(第二部)~ 神田英輔師

第二テモテ2:13 「神は真実を持って、私を導かれた」 ~神田英輔の証し(第二部)~ 神田英輔師

180617 ヨハネ19:17-24「図られた通りに」

ヨハネ19:17-24「図られた通りに」

 イエス様の罪状書きには何と書かれていたかという話です。そこには「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」とだけが書かれておりました。これに祭司長たちが不満を申し立てます。「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください」しかし、ピラトは「私が書いたものは、書いたままにしておけ。」と言って、彼らの要求をにべもなく払いのけました。前回までのピラトと祭司長たちのやり取りから想像しますに、これはピラトの精一杯の意地ではなかったかとも思ったりします。イエス様を尋問しても、何一つ処刑に値するものは見当たらず、ピラトは再三イエス様を釈放しようとしました。けれど祭司長たちは群衆を煽って、イエスを十字架に架けることを要求します。最後には、カエサルの名を出して、脅してきたりもしました。エルサレムで最も権力を持つローマ総督が脅されて従わざるを得なかったのです。ピラトのプライドはずたずたでした。だからこそ、彼はイエス様の罪状を「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と記させた。それは祭司長たちへの当てこすりというわけです。しかし、そのことは図らずも、イエス様の一面を正しく言い当てており、大勢の人々がユダヤ人の王と称されたイエス様の死を眺めることとなったのです。
 続く23~24節では、イエス様の着物を剥ぎ取る兵士たちの様子が記されています。当時、死刑執行人は野蛮で不名誉なものとして見られていたところがありました。だからでしょう。人気のない死刑執行人となる者には、処刑される者が着ていた衣服を奪う役得が許されていたそうなのです。彼らはイエス様の着物を4等分して分け合いました。ところが下着はそれ以上分けることができなかったので、くじを引いたわけです。その下着に関して「それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであった。」とあります。ある神学者が言うに、それは大祭司の下着が一つなぎのものであったことから、イエス様の大祭司としてのご性質を暗示していると言うのです。さらにレビ21:10には「兄弟たちのうち大祭司で、頭に注ぎの油が注がれ、任職されて装束を着けている者は、その髪の毛を乱したり、その装束を引き裂いたりしてはならない。」とあります。大祭司の衣はたとえ死を前にしても裂いてはいけない。その言葉の通り、イエス様の衣は裂かれることなく、くじによって奪い取られた。少々強引ではありますが、イエス様がご自身を生贄として、私たちを取りなされたまことの大祭司であることは、確かに言えるのではないでしょうか。私たちのために裸にされ、辱められ、傷を負ってくださったイエス様。低きを通られる大祭司の姿を記す一つの象徴的な出来事が、このイエス様の衣剥ぎであったと言えるのです。
 さて、ヨハネはこの衣剥ぎの出来事を「聖書が成就するためであった。」と結びます。詩篇22:18の御言葉です。もちろん、ローマ兵が旧約聖書の預言を知るはずがありません。彼らは自分たちの役得分を浅ましく行使したに過ぎません。けれど、それが旧約聖書の預言の成就となったとヨハネは記すのです。
 さて、イエス様の十字架を記すにあたって、殊更、ヨハネがこれらの出来事に焦点を当てたのは何のためにでしょうか。それは、図らずもなされたこれらのことが、実は、天にあっては全て図られたことだと、ヨハネは言いたかったのではないでしょうか。
 私の人生を通して神が描かれるご計画を、私たちは計り知ることはできません。私たちはその時々をただ精一杯に生きるのみです。けれど、その意図せぬ精一杯が、図らずも神のご計画に用いられる。それは私たちが成功したときのことだけではありません。恥ずかしくて消え入りたいこと、無かったことにしたいこと、その一つ一つもまた、神のご計画にあっては大切なピースだとおっしゃるのです。神のご計画は私たちに図れません。ですから、私たちは、私たちの結末を勝手に結論付けてはいけません。意味のないことのように思えることがあります。関係がないことのように思うことがあります。けれど、判断は主に任せましょう。私たちはただ与えられた今日という日を心込めて過ごすことといたしましょう。

180610 ヨハネ19:1-16「まことの王」

ヨハネ19:1-16「まことの王」

 今日の箇所を見ますと、ピラトは終始イエス様の無実を宣言し、何とか、釈放しようと試みています。ところが、ユダヤ人たちは聞く耳を持ちません。それどころか、カエサルの名を挙げて、逆にピラトを脅す始末でした。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」皇帝の名を出されて、これ以上厄介ごとに関わろうという気持ちはピラトにありません。ここにイエス様の十字架刑が決定したのです。
 それにしても、この祭司長たちです。十字架に付けろと扇動する彼らに向って「おまえたちの王を私が十字架につけるのか。」とピラトは尋ねます。これに対して、祭司長たちは「カエサルのほかには、私たちに王はありません。」と答えて、その質問を切り捨てるのです。しかし、どうでしょう。これは言ってはならない一言でした。それは彼ら自身の存在を否定する言葉。神こそまことの王と告白することに神の民の誇りを抱いてきたイスラエルのアイデンティティーを失う一言です。大袈裟だと言われるでしょうか。それは単なる言葉の綾だと。しかし、そうでしょうか。そもそもの話、彼らはイエス様がユダヤの王と称したと言って訴えたのです。それは神への冒涜だとです。その彼らが、カイザルの他に王はいないと宣言する。それは神への冒涜にはならないのでしょうか。彼らは二枚舌です。イエス様を陥れるためだけに、王の名を売ったのです。自分の都合を通すためだけに、彼らはカエサルを王と叫ぶのです。
 実は今、ユネスコの世界遺産に長崎の潜伏キリシタンが登録されることが内定しています。潜伏キリシタンは、ご存知の通り、江戸時代のキリシタン禁制の折、自らの信仰を隠さざる得なかったキリシタンたちが、様々な隠語や、隠れ蓑を用いて、内なる信仰を守り通してきました。彼らは神社の社を建ててカモフラージュとし、マリアに見立てた観音像を持って、隠れたところで礼拝をささげます。仲間の一人が死んだときは、公には仏式の葬式を施し、しかしその裏で、同じ時刻、別のところで神の祝福を祈ります。彼らは表面では幕府に従う者です。徳川を王と呼び、時に仏を拝みます。けれど、その信仰は、祭司長たちが自分たちの都合を通すために、地上の王を賛美するのとは天と地の開きがありました。彼らは信仰のために偽りました。まことの王を王とするために、意識して偽った。それは彼らの信仰を守る命懸けの戦いでした。
 「カエサルのほかには、私たちに王はありません。」その言葉の持つ意味を、祭司長たちは恐らく、意識すらしていないでしょう。イエス様を十字架に付けたい一心で、何の罪意識も持たずに叫んだことでしょう。いえ、彼らはもはや割り切っていたのかもしれません。地上の王はカエサル。神は霊的な存在で、神殿の中におられる方。そういう二心が無意識の内に生まれていたのかもしれません。いずれにせよ、意識せずに出る言葉は、その人の日頃からの本心です。彼らは常日頃、ローマ帝国に支配されることに反発し、救い主の到来を待ち望みながら、一方では宗教的な特権が守られていた現状に安住し、王の名を利用して、賢く生きることにしていたのです。しかし、その結果はどうでしょうか。実はこのヨハネの福音書が記された時、すでにユダヤはローマによって滅ぼされておりました。この世の権威を賢く利用し、折り合いを付けた挙句、彼らはその力の前に滅び去るのです。
 私たちの王とは誰かと問われるのです。地上に生きる私たちはこの世の王、権力者を意識せざるを得ません。今政治の世界は一人の巨大な権力の前に、皆が忖度し、口を閉ざします。皆が一斉に黒のものを白と呼ぶのです。しかし目先の利益を追いかけて、永遠を失ってはなりません。この世の王も権威も移り変わるのです。けれど私たちのまことの王は10年、100年、2,000年、永遠に変わるところのないお方です。私たちはこのお方を見なければならないのです。潜伏キリシタンが、なぜ過酷なその状況を耐え抜くことができたのでしょう。それは、永遠の王に希望を置いていたからです。ここに時代や状況に左右されない生き方があります。事実、彼らの信仰は400年の時を経て日の目を見ることとなるのです。

180603 コロサイ1:11 「寛容な人となる」

コロサイ1:11 「寛容な人となる」

 御霊の実の4番目は寛容です。寛容というのは相手を許す度量のことです。しかし、ここで言う許すというのは罪を赦すの「赦す」ではありません。許容するという意味での「許す」の方です。異なった思想や信条、立場を認めるという意味で使われたりします。一言で言うと、「寛容」とは、違う立場を許すと言っても良いでしょう。御霊の実は、教会に与えられる実ですから、教会は違いを認め合う交わりだと言うのです。
 しかしです。私たちは寛容でありたいとは思うのですが、これがなかなか難しいのです。自分と異なった意見や立場を受け入れたいと思うのですが、なかなかそうはできません。なぜなら、異なった意見や、異なった立場を受け入れるためには、まず自分の主張を引き下げなければならないからです。自分が我慢しなくてはいけない。だから、私たちは寛容でいられないのです。実は聖書で「寛容」と使われるとき、多くの箇所でセットになって使われる言葉があります。「忍耐」です。今日の箇所にも「どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。」とあります。寛容であるためには、同時に忍耐が求められるのです。だから、難しい。相手を責めて、排除するほうがよっぽど楽なのです。けれど、本当にそれで良いのでしょうか。それは自ら墓穴を掘ることにはならないでしょうか。ある集団で、自分とは異なる意見を排除していけば、そこは居心地の良い場所になるでしょうか。もしそれを良しとするならば、やがては自分が排除される番になるのではないでしょうか。私たちは寛容を学ばなければなりません。異なる意見を受け入れる心の余裕を持たなければなりません。
 では寛容となるためにはどうすれば良いのでしょうか。一つは、人は違う存在であると認めることです。もう一つは、人は不完全であると認めることです。
 そもそもの話、私たちは一人として同じ存在としては造られていないのです。神様は一人ひとり特別の存在として役割を与えられ、賜物を用意し、命を授けて下さったのです。パウロは教会をキリストのからだと例えます。それぞれが別の役割を持った各機関なのだと言います。一人ひとりは違う存在だからこそ、互いを補い合って、一つなるからだを営むことができるのです。実は私たちが同じでなければならないというのは、幻想です。そもそもの創造の摂理を無視することです。神は人を男と女に造られました。それは同じになるために造られたのではなくて、補い合うために造られたのです。
 面白いことに、神様はあらゆるものを創造されて、その後、自らの創造の様子をご覧になられて、それを良しとされたわけですが、唯一神様が良しとされなかった創造物があります。それが人間です。神様はアダムを見て、「人がひとりでいるのは良くない」と言われ、「ふさわしい助け手」としてエバを造られたのです。それはつまり、人は誰であれ、不完全であるということです。どれだけ才能があろうと、どれだけ蓄えがあろうと、どれだけ経験を積もうと、人は決して完全とはなり得ない。だから、人は補い合うのです。自分がどれほど正しいと思っても、その正しさは完全ではない。自分がどれだけ優れていると思っても、私たちは遠く完全には及ばない。
 私たちは自分と異なる存在を、不審に思い、邪魔に思います。けれど、その存在がなければ、私たちは本来あるべき姿ではいられないのです。私たちは一人で生きるようには造られていません。神は私たちを助け、愛し合う存在とするために、違う者、不完全な者とされました。ですから、違っていて当たり前なのです。それを無視して、同じにしようとするから寛容でいられなくなるのです。ピリピ2:3には、「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」とあります。自分の弱さを受け入れる者は、他人の弱さを受け入れられます。己の欠けを知ることが、寛容への第1歩です。

180527 ヨハネ18:28-40「真理に目を逸らさず」

ヨハネ18:28-40「真理に目を逸らさず」

 イエス様の身柄は、大祭司カヤパの下から総督ピラトの官邸に移されます。当初、ピラトは裁判に消極的でした。ピラトにはイエス様が罪人とは思えなかったのです。しかしユダヤ人たちは「私たちはだれも死刑にすることが許されていません。」と訴えます。つまり、これは死刑に相当する重要案件だ、と訴えたわけです。このように言われれば、ローマ総督であるピラトは無視することはできません。
 改めて官邸に入り、イエス様を尋問するピラトです。「あなたはユダヤ人の王なのか」するとイエス様はそれには直接答えず、逆に質問を返します。あなたの質問は、ただ単にユダヤ人の訴えを確かめるための質問、つまり裁判のための質問なのか、それともあなた自身から出る真理の探究、救い主への渇望なのか、どちらですか?と尋ねられる。そのどちらかによって返答が変わって来るからです。ピラトは「私はユダヤ人なのか。あなたの同胞と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのだ。あなたは何をしたのか。」と答えます。つまり、祭司長たちがあなたを訴えたから調べているに過ぎないんだと。私が聞きたいのは、あなたがどういう意味での王かということではなくて、何をしたのかという事実だけだとです。イエス様は「わたしの国はこの世のものではありません。」つまり、目に見える政治的な意味での国家を求めているのではないと答えられました。
 さてここで、ピラトは再び最初の質問をいたします。「それでは、あなたは王なのか。」しかしこの質問は、最初のものとは全く意味が違っています。先の質問は事務的で機械的な質問でした。しかしここに来て、彼の質問はイエス様に興味を持ってのものでした。イエス様の答えは彼の理解する王とは全く違うものでした。ピラトの理解では、それは王とは言いません。民も領地も持たない王などあり得ません。無抵抗に自らを差し出す王などいるはずもないのです。だから思わず口に出たのです。「それでは、あなたは王なのか」
 「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」イエス様の言葉にピラトはますます興味を抱きます。「真理とは何なのか」まるで先生に質問する学生のようです。初め、イエス様には全く関心を持たず、自分たちで勝手にすれば良い。と面倒臭そうに言っていたピラトが、イエス様の言葉に触れて、関心を寄せ、今その真意を汲み取ろうとしているのです。では、真理とは何なのか。当然ながら、その答えを私たちも期待するところではないでしょうか。
 ところが、その答えは記されないまま、ヨハネは突然にこのやり取りを終了するのです。「真理とは何なのか」ピラトの質問だけが耳に残り、そして、次に書かれるのは、ピラトによるイエス様の無罪宣言。しかし、民衆の声がこれに反発し、強盗であったバラバが釈放されるという出来事を記して段落が落ち着くわけです。
 何と言うんでしょうか。ヨハネの記述は、肝心なところを書いてくれません。真理とは何なのか。けれど、ヨハネはそれを記してはくれないのです。場面は一気に飛んで、イエス様がバラバの代わりに十字架に付けられることが言い渡されます。あれほどまでにイエス様に関心を寄せたピラトに一体何があったのか。と思うような描き方をするのです。
 真理を辞書で調べますと「いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道」とありました。まさしく裁判における最も大切な点です。裁判の判決は、その日の気分によって変わっていいものでもないし、誰かの気持ちを忖度して決めることでもありません。それはいつどんなときにも変わることのない真理によって、判断すべきところです。
 ピラトはイエス様の言葉を聞きながら、尚も、判決に迷いました。そこにはどういう力が働いていたのでしょう。それは祭司長たちからの圧力であり、民衆の声の圧力でありました。彼は如何なる時も変わるところのない真理ではなくて、刻一刻と変わり行く数の力に心を向けていたのです。だから、彼はイエス様が無罪だと確信したにも関わらず、そのイエス様を十字架へと引き渡してしまう。移り変わるものに目を向けた結果、彼の言動は終始一貫しない。絶えず日和見で、信念のない者となるのです。
 何かを判断する時、決断する時、私たちには必ず判断する基準が必要です。多くの人の基準は損得でしょうか。自分にとって、どちらが損か、得か。誰の味方で、誰の敵であるべきか。しかし、その損得は状況によって幾らでも変わってしまう基準です。それはもはや基準とは呼べません。その結果は今の政治を見れば明らかです。私たちは、どちらが損か得かではなくて、どちらが正しいかという基準を持たなければなりません。そして、それは言い換えるなら、どちらがイエス様の道かという基準です。イエス様ならどうなされたか。イエス様なら何を望まれたか。これが、状況に左右されない唯一の基準なのです。