ヨハネ20:11-18 「名前を呼んで」
この世界の初め、神様はアダムに一つの使命を与えらました。それがこの世界のあらゆる生き物の名前を付けることでした。アダムが名前を付ける前は、地を這う生き物だとか、家畜だとか、翼のある鳥でした。けれど、アダムが名付けた瞬間に、それらはもう他とは混ざることのない固有で、特別の存在となりました。まるで名前を付けられた瞬間に、その存在が生まれたかのようにです。ですから名前とは、単なる呼び名ではありません。それは他の大多数と切り分けて、その固有の存在を認めるということです。あなたは十把一絡げのその他大勢ではなくて、この世界にたった一人の存在ですよ。とこう告げることなのです。
空っぽの墓の前で泣きたたずむマリアです。ペテロとヨハネが帰って行っても尚、彼女はそこを動くことができません。マリアにとってイエス様はそれほど大きな存在だったということです。マリアには過去に7つの悪霊が憑いておりました。自分でもどうすることのできない衝動を抱えて、彼女はずっと過ごしてきました。悪霊が働くとき、彼女の意識はもはや自分のものであって自分のものではありません。体と心が乗っ取られて、自らを傷つけ、叫び続ける毎日。彼女はそんな悪霊を7つも蓄えておりました。そんな彼女の悪霊を追い出し、平穏な日常をもたらしたのがイエス様でした。イエス様のためなら命すら惜しくない。イエス様は彼女の全てでした。そのイエス様が死んだのです。そして、今、その体が無くなっている。人生の拠り所を失って、彼女は茫然自失、たたずむしかありませんでした。
どれくらい経ったでしょう。マリアは墓の中を覗き込みますと、そこに二人の御使いがおりました。更には、墓の外にはイエス様が立っておられました。けれど、マリアはその方がイエス様だと気付きません。イエス様は問います。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」イエス様は、その必要はありませんよと語りかけているのです。私がそれだと。しかしマリアは見ていても見えていない。真意を汲み取ることができません。
ガリラヤのマグダラ出身のマリアは、今、故郷を離れてエルサレムにいます。それは単に過ぎ越しの祭りに来たのではありません。悪霊を追い出してもらった彼女は、全てを捨ててイエス様に従い、共に旅をし、イエス様の十字架に立ち会い、そして今、この墓の前にいるのです。彼女はイエス様に付き従う熱心な弟子の一人でした。しかしそんな彼女でも、目と鼻の先にいるイエス様に気付くことができません。これはマリアの不信仰でしょうか。そうではありません。死の現実が私たちにとってそれほど圧倒的な力だということでしょう。
しかし、そんな彼女の目が、心が、一瞬にして開かれるのです。「マリア」。目の前にイエス様が立っても、直接会話をしても気付けない。そんな彼女の目が、このたった一言で開かれたのです。頑なな心を一瞬で溶かす魔法の言葉。それがこのイエス様の呼びかけです。
名前とは、その者の存在そのものです。十把一絡げであった存在が、名前によって唯一無二の存在とされる。イエス様と出会う前、人々は彼女を指さして言いました。悪霊に憑かれた女。気が狂った危ない女。誰も彼女を名で呼ばない。彼女の表面に見える異常さばかりを話題にして、彼女の心の叫びには誰も気を留めない。しかし、唯一イエス様だけは彼女自身に関心を寄せ、同情され、寄り添われる方でした。イエス様が「マリア」と呼ばれるそのところには、彼女の存在を一切を認め受け入れるイエス様の憐れみがある。悪霊たちが去っても、空っぽの心では悪霊がより多くを引き連れて帰ってくると言います。しかし、マリアの心は、このイエス様の心によって満たされたのです。そして今、再びイエス様の心に触れられて、マリアの目は開かれるのです。
ザアカイがイチジク桑の木の上にいるときも、イエス様は彼に近付いてきて言いました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」誰の声も聞こえない。一切の希望を奪われて、もう絶望しかないと嘆くその者の目を開けるイエス様の呼びかけは、私たちにも向けられています。その他、大勢ではない。イエス様はその人をご覧になられる。マリアを、ザアカイを、そしてあなたをです。
この世界の初め、神様はアダムに一つの使命を与えらました。それがこの世界のあらゆる生き物の名前を付けることでした。アダムが名前を付ける前は、地を這う生き物だとか、家畜だとか、翼のある鳥でした。けれど、アダムが名付けた瞬間に、それらはもう他とは混ざることのない固有で、特別の存在となりました。まるで名前を付けられた瞬間に、その存在が生まれたかのようにです。ですから名前とは、単なる呼び名ではありません。それは他の大多数と切り分けて、その固有の存在を認めるということです。あなたは十把一絡げのその他大勢ではなくて、この世界にたった一人の存在ですよ。とこう告げることなのです。
空っぽの墓の前で泣きたたずむマリアです。ペテロとヨハネが帰って行っても尚、彼女はそこを動くことができません。マリアにとってイエス様はそれほど大きな存在だったということです。マリアには過去に7つの悪霊が憑いておりました。自分でもどうすることのできない衝動を抱えて、彼女はずっと過ごしてきました。悪霊が働くとき、彼女の意識はもはや自分のものであって自分のものではありません。体と心が乗っ取られて、自らを傷つけ、叫び続ける毎日。彼女はそんな悪霊を7つも蓄えておりました。そんな彼女の悪霊を追い出し、平穏な日常をもたらしたのがイエス様でした。イエス様のためなら命すら惜しくない。イエス様は彼女の全てでした。そのイエス様が死んだのです。そして、今、その体が無くなっている。人生の拠り所を失って、彼女は茫然自失、たたずむしかありませんでした。
どれくらい経ったでしょう。マリアは墓の中を覗き込みますと、そこに二人の御使いがおりました。更には、墓の外にはイエス様が立っておられました。けれど、マリアはその方がイエス様だと気付きません。イエス様は問います。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」イエス様は、その必要はありませんよと語りかけているのです。私がそれだと。しかしマリアは見ていても見えていない。真意を汲み取ることができません。
ガリラヤのマグダラ出身のマリアは、今、故郷を離れてエルサレムにいます。それは単に過ぎ越しの祭りに来たのではありません。悪霊を追い出してもらった彼女は、全てを捨ててイエス様に従い、共に旅をし、イエス様の十字架に立ち会い、そして今、この墓の前にいるのです。彼女はイエス様に付き従う熱心な弟子の一人でした。しかしそんな彼女でも、目と鼻の先にいるイエス様に気付くことができません。これはマリアの不信仰でしょうか。そうではありません。死の現実が私たちにとってそれほど圧倒的な力だということでしょう。
しかし、そんな彼女の目が、心が、一瞬にして開かれるのです。「マリア」。目の前にイエス様が立っても、直接会話をしても気付けない。そんな彼女の目が、このたった一言で開かれたのです。頑なな心を一瞬で溶かす魔法の言葉。それがこのイエス様の呼びかけです。
名前とは、その者の存在そのものです。十把一絡げであった存在が、名前によって唯一無二の存在とされる。イエス様と出会う前、人々は彼女を指さして言いました。悪霊に憑かれた女。気が狂った危ない女。誰も彼女を名で呼ばない。彼女の表面に見える異常さばかりを話題にして、彼女の心の叫びには誰も気を留めない。しかし、唯一イエス様だけは彼女自身に関心を寄せ、同情され、寄り添われる方でした。イエス様が「マリア」と呼ばれるそのところには、彼女の存在を一切を認め受け入れるイエス様の憐れみがある。悪霊たちが去っても、空っぽの心では悪霊がより多くを引き連れて帰ってくると言います。しかし、マリアの心は、このイエス様の心によって満たされたのです。そして今、再びイエス様の心に触れられて、マリアの目は開かれるのです。
ザアカイがイチジク桑の木の上にいるときも、イエス様は彼に近付いてきて言いました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」誰の声も聞こえない。一切の希望を奪われて、もう絶望しかないと嘆くその者の目を開けるイエス様の呼びかけは、私たちにも向けられています。その他、大勢ではない。イエス様はその人をご覧になられる。マリアを、ザアカイを、そしてあなたをです。