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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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180826 ヨハネ20:11-18  「名前を呼んで」

ヨハネ20:11-18  「名前を呼んで」

 この世界の初め、神様はアダムに一つの使命を与えらました。それがこの世界のあらゆる生き物の名前を付けることでした。アダムが名前を付ける前は、地を這う生き物だとか、家畜だとか、翼のある鳥でした。けれど、アダムが名付けた瞬間に、それらはもう他とは混ざることのない固有で、特別の存在となりました。まるで名前を付けられた瞬間に、その存在が生まれたかのようにです。ですから名前とは、単なる呼び名ではありません。それは他の大多数と切り分けて、その固有の存在を認めるということです。あなたは十把一絡げのその他大勢ではなくて、この世界にたった一人の存在ですよ。とこう告げることなのです。
 空っぽの墓の前で泣きたたずむマリアです。ペテロとヨハネが帰って行っても尚、彼女はそこを動くことができません。マリアにとってイエス様はそれほど大きな存在だったということです。マリアには過去に7つの悪霊が憑いておりました。自分でもどうすることのできない衝動を抱えて、彼女はずっと過ごしてきました。悪霊が働くとき、彼女の意識はもはや自分のものであって自分のものではありません。体と心が乗っ取られて、自らを傷つけ、叫び続ける毎日。彼女はそんな悪霊を7つも蓄えておりました。そんな彼女の悪霊を追い出し、平穏な日常をもたらしたのがイエス様でした。イエス様のためなら命すら惜しくない。イエス様は彼女の全てでした。そのイエス様が死んだのです。そして、今、その体が無くなっている。人生の拠り所を失って、彼女は茫然自失、たたずむしかありませんでした。
 どれくらい経ったでしょう。マリアは墓の中を覗き込みますと、そこに二人の御使いがおりました。更には、墓の外にはイエス様が立っておられました。けれど、マリアはその方がイエス様だと気付きません。イエス様は問います。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」イエス様は、その必要はありませんよと語りかけているのです。私がそれだと。しかしマリアは見ていても見えていない。真意を汲み取ることができません。
 ガリラヤのマグダラ出身のマリアは、今、故郷を離れてエルサレムにいます。それは単に過ぎ越しの祭りに来たのではありません。悪霊を追い出してもらった彼女は、全てを捨ててイエス様に従い、共に旅をし、イエス様の十字架に立ち会い、そして今、この墓の前にいるのです。彼女はイエス様に付き従う熱心な弟子の一人でした。しかしそんな彼女でも、目と鼻の先にいるイエス様に気付くことができません。これはマリアの不信仰でしょうか。そうではありません。死の現実が私たちにとってそれほど圧倒的な力だということでしょう。
 しかし、そんな彼女の目が、心が、一瞬にして開かれるのです。「マリア」。目の前にイエス様が立っても、直接会話をしても気付けない。そんな彼女の目が、このたった一言で開かれたのです。頑なな心を一瞬で溶かす魔法の言葉。それがこのイエス様の呼びかけです。
 名前とは、その者の存在そのものです。十把一絡げであった存在が、名前によって唯一無二の存在とされる。イエス様と出会う前、人々は彼女を指さして言いました。悪霊に憑かれた女。気が狂った危ない女。誰も彼女を名で呼ばない。彼女の表面に見える異常さばかりを話題にして、彼女の心の叫びには誰も気を留めない。しかし、唯一イエス様だけは彼女自身に関心を寄せ、同情され、寄り添われる方でした。イエス様が「マリア」と呼ばれるそのところには、彼女の存在を一切を認め受け入れるイエス様の憐れみがある。悪霊たちが去っても、空っぽの心では悪霊がより多くを引き連れて帰ってくると言います。しかし、マリアの心は、このイエス様の心によって満たされたのです。そして今、再びイエス様の心に触れられて、マリアの目は開かれるのです。
 ザアカイがイチジク桑の木の上にいるときも、イエス様は彼に近付いてきて言いました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」誰の声も聞こえない。一切の希望を奪われて、もう絶望しかないと嘆くその者の目を開けるイエス様の呼びかけは、私たちにも向けられています。その他、大勢ではない。イエス様はその人をご覧になられる。マリアを、ザアカイを、そしてあなたをです。

180819 ヨハネ20:1-10 「見て、信じた」

ヨハネ20:1-10 「見て、信じた」

 マリアからイエス様の遺体が誰かに奪われたと聞いて、ペテロとヨハネは墓に駆け出します。二人は競うように走ります。若いヨハネが先に到着し、ペテロが遅れて着きました。
 すると確かに墓の石がどけられていました。ペテロが先立って墓の中を確認すると、そこには、亜麻布がきれいに置かれ、頭を包んでいた布は、離れたところに丸めてありました。それはつまり、イエス様の死体が盗まれたわけではないということです。遺体泥棒なら、わざわざそのようなことはいたしません。何せ、イエス様はローマ兵が番をしているのです。眠っていたとはいえ、いつ目を覚ますかわからない番兵が、墓の唯一の出入り口を守っている中で、そんな悠長なことはいたしません。これはそういうことではありません。ここには荒らされた様子は少しもない。
 もう一人の弟子のヨハネはこの様子を「見て、信じた。」とあります。何を信じたのでしょうか。遺体が無いという現実を信じたということでしょうか。いえ、それは「認識した」というレベルの話です。そうではなくて「見て、信じた。」というのは、見えている状況を見て、その結果、見えないものを信じた。つまり、イエス様は誰かに奪われたのではなくて、ご自身で布をほどいてそこに置き、出て行かれたということを信じた。つまり、イエス様がよみがえられたということを信じたのです。これは、口で言うほど簡単な話ではありません。事実マリアは復活に思いが至らないで泣き崩れたのです。空の墓を見て復活を信じるには発想の飛躍が必要です。信仰の目が必要なのです。
 ところが、次の1節が問題です。たった今、「見て、信じた。」と言ったばかりのヨハネの信仰を真っ向から否定しているからです。どういうことなのでしょうか。信じていなかったのでしょうか。勘違いだったのでしょうか。私はやっぱりヨハネはイエス様の復活を信じたのだと思います。しかし、それでも、「彼らはイエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。」つまり、ここで考えなければならないのは、今この補足説明を書いているのは、他でもない年老いたヨハネ自身であったということです。ヨハネは、これ以降の初代教会の激動の時代を生き抜いて、今、1世紀の終わりにこの福音書を記しています。ステパノの殉教以降、キリスト者は方々へと散らされていきます。ユダヤ教からの迫害は、やがてローマからの迫害へと発展していく。多くの仲間たちが捕らえられ、信仰のゆえに命を奪われていく。死に行く彼らも、それを見届けるしかできないヨハネたちも、共々に考えられない試練の中を通らされていったのです。しかし、そのような中で、ヨハネは理解するのです。イエス様が死人の中からよみがえってくださったことの意味をです。安易な慰めなど、死を前にした者には何の力もありません。安全な席に座る者には死に行く者に共感する資格すらありません。ヨハネは皆の指導者でありながら、どれほど己の無力を恥、苦しんだことでしょうか。常日頃、あれほどイエス様の復活を教えながらも、いざという時に、かける言葉も無い。いったい、どれほどの空虚さを味わったことでしょうか。けれど何十、何百の仲間の死を見守りながら、彼は知るのです。イエス様が死人の中からよみがえられたというそのことが、死に行く者にとってどれほど希望であり、見守る者にとってどれほど慰めであることか。だからこの9節を加えずにはおられなかったのです。
 私たちもキリストの復活を信じています。多くの人が「見ても、信じない」中で、「見て、信じた」ことは、とても素晴らしいことです。けれども、それで理解したとは言えません。それは信仰の歩みの中で、日々知らされていくところです。様々な試みを通して、積み重ねた祈りを通して、その恵みは増し加えられていくものなのです。

180812 ガラテヤ4:12〜20、第2コリント7:16 「善意を信頼して」

ガラテヤ4:12〜20、第2コリント7:16 「善意を信頼して」

 ガラテヤ4:12〜20はパウロの語る福音に熱心に応答していたガラテヤ教会の人々が、パウロがいなくなって後、福音に反発するようになった現実と、その背景にある惑わせる者の存在についてを記してます。17節に「あの人たちは」とあるのがそれです。ガラテヤ教会をパウロが去って後、残された人々に熱心に関わる人たちがいたのです。けれど、その熱心には下心がありました。人々を福音の恵みから引き離し、自分たちに引き寄せるためだったのです。
 熱心に関わってくれるというのはやっぱり嬉しいものです。自分に興味を持ってくれている。自分を心配してくれている。そのような相手に私たちは心許すところです。以前、学会員のおばあさんとお話をしました。そのおばあさんが言いますには、どういう教えかとか、難しいことはよくわからないけれども、学会員の人が色々と声をかけて良くしてくれたので、私も学会員になったと言います。だんだんと親しくなっていくと、やがて熱心に関わってくれた義理もあって、断りきれず入会したというのです。人は自分に向けられる熱心さに感動します。熱心さというのは人の心を動かすに十分な理由となるのです。
 しかし、だから私たちも熱心でありましょうと言いたいのではありません。いえ、キリスト者が熱心であることは大切なことではありますが、それでも熱心さは御霊の実ではありません。熱心さは御霊によってもたらされるものではなくて、私たち自身から出ているものです。大切ですが、方向を間違えると、他人をつまずかせたり、欺いたり、裁いたりする原因ともなります。それは熱心であればあるほどそうなのです。もう一度言います。御霊の実は熱心ではありません。善意です。
 では善意とは何かという話です。辞書を調べますと善意についてこのようにありました。①良い心。②他人のためを思う親切心。③好意的に相手の言動などを受け止めることとありました。御霊の実が、敢えて親切と善意とに分けられていることを考えますと、この善意で確認するべきはこの3番目の用法についてでしょう。御霊の実は教会の実、交わりの中に結ばれるものです。私たちが自我を棄てて御霊によって歩むとき、私たちの交わりは御霊の実を結びます。具体的には、相手の言動を好意的に受け止めるようになると言うのです。交わりにおいて、これはとても大事な視点ではないでしょうか。
 どれだけ相手のためを思って親切にしようとも、受け止める側しだいでその結果はいかようにも変わります。たとえば、誰かにお願いごとをしようと声をかけますが、その人は通り過ぎてしまいました。無視をしたのでしょうか。嫌われているのでしょうか。それとも、ただ単に忙しくて気付かなかっただけでしょうか。どちらもあり得ますね。ならば、私たちは後者で受け止めたいのです。
 私たちはあらかじめ敵意を持って相手の言動を受け止めてはいないでしょうか。相手が何をしても何を話しても、敵意のフィルターを通しては、決して御霊の実は結ばれません。もちろん、私たちに向けられるあらゆる言動が、私たちにとって全て親切であるとは限りません。嫌味もある。批判もある。ですから、その信頼は裏切られるかもしれません。いや、もうすでに傷を付けられた関係かもしれない。けれど私たちは、それでも善意でもって備える者でありたいと思います。相手の善意を信頼する者でありたいと思うのです。
 第2コリント7:16には「私はすべてのことにおいて、あなたがたに信頼を寄せることができることを喜んでいます。」とあります。問題多いコリント教会を、このように言うことができるまでには、いったいパウロにどれほどの忍耐があったでしょうか。しかし、パウロは彼らを諦めませんでした。きっと彼らは大丈夫と信頼し続けたのです。パウロのこの言葉は信頼の結果です。相手を疑い出したらキリがありません。善意とは相手を信頼する心です。私がまず信頼するのです。そうすればその善意は双方向に育つでしょう。

180805 エペソ2:1-10 「あなたのできばえは?」 赤羽聖書教会 野寺恵美師

エペソ2:1-10 「あなたのできばえは?」 赤羽聖書教会 野寺恵美師

 ユダヤ人と異邦人。教会の中でも相容れず揉めていたこの両者、でも行き着く先は共に「死」「神のさばき」。一方、神にあるのは「豊かさ」「あわれみ」「たくさん」の「愛」。神はこの「大きな愛」をもって「背きの中に死んでいた ~ つまり異邦人もユダヤ人もひっくるめた ~ 私たちを」「共に生かし」「共によみがえらせ」「共に天上に座らせて」下さいました、「キリストにあって」。「共に生かす」あわれみ豊かな、私たちをたくさん愛して下さる神が、罪の中でなんの抵抗もできずに死んでいた私たちに新しい「命をつくって」下さり、その「命に生かして」下さるのです。罪の中にどっぷりとつかっていた時、死んでいた時には、自分がどこにいるのか、自分のいるところがどんなに汚いのか麻痺してしまってわかりません。息を吹き返して初めて感じることができるのです。罪の中で何もできずに死んでいた私たちが自分は罪深い人間だと自覚すること、それこそが確かに生きている証拠です。罪の中から救い出されて生かされたのです。「ともによみがえらせて下さった」確かにイエスの再臨の時に私たちはよみがえって新天新地に行くことができます。でもこの地上で生きている今も実はよみがえりの命を生きているのです。たとえ見た目には苦しみの多い、泣くこともつぶやくこともある、誰からも顧みられないようなちっぽけな人生のように見えても、それは朽ちることのないよみがえりの命であり、決して無駄な、無意味なものではないのです。「ともに天上に座らせて下さった」これは「神の右の座」に着いて神と共に神の国を治めることです。いえ、現に今治めているのです。人にはどう見えようと、自分でどう考えようと、神は私たちをご自分のパートナーにして下さっています。今している勉強、子育て、家事、仕事、友達とのおしゃべりや遊ぶこと、食べることでさえみな、神の右腕として神の国を治める仕事なのです。
 私たちは「神の」作品です。誰が何と言おうと作者はその作品のことを一番よく知っています。その作品を一番輝かせることができます。神は私たちが一番自分らしくいられるように、輝いていられるように、すべてを備えていて下さいます。責任をもって導いて下さいます。そうして私たちを通して、神の御栄光を、神の豊かな恵みを、神の大きな愛を現されるのです。罪の中にどっぷりとつかって身動きもとれずに、木偶の坊のように死んでいた私たちが、神の作品として生かされ、永遠のいのちをいただいて、神の右腕として手足を自由に動かして、全身全霊で神の良い働きができるのです。何という幸せでしょうか。しかも独りぼっちではありません。イエスさまが私たちの模範としていつも一緒にいて下さり、教会の兄弟姉妹が共に神の働きをする同労者としているのです。何とすばらしい神さまからのプレゼントではありませんか。それをいただいて歩みましょう。