ヨハネ21:1-14 「招かれる食事」
週の初めの日にイエス様と出会って、その8日後に再び出会っているわけですから、当然弟子たちは、そのまた8日後にイエス様と出会えると思ったと思うのです。けれど、その時には、イエス様は現れなかった。そこで、イエス様の先の言葉「しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」(マルコ14:28)を思い出しまして、よし、ガリラヤに行ってみよう。とこういうことになったのでありましょう。2節を見ると、7人の弟子がガリラヤに向かったようです。残りの者は、もしかするとこの後イエス様がここに来られるかもしれないからと、エルサレムに留まり二手に分かれたのでありましょう。
ところがです。ガリラヤに着いた弟子たちは、そこで何をするかと言いますと、漁に出ると言うのです。なんとも拍子抜けな話ではないでしょうか。ここはイエス様を探すところではないでしょうか。そのために来たのです。ただただイエス様に会いたい一心です。ですから、ここは何を置いても、まずイエス様を探し出すのが先決ではないでしょうか。ところが、彼らは呑気にも漁に出ると言うのです。
これが復活のイエス様と出会っていないのなら不思議ではありません。希望を失って、意気消沈して、彼らはそれぞれの生活に戻ろうとするというのはわかります。けれど、彼らは復活のイエス様とすでに会っているのです。なのに、イエス様を探さないで漁に行くとは、おいおい、違うだろ。と突っ込みたくなります。
けれどです。よくよく考えますと、私たちも大差ないのではないかと思ったりもするのです。パウロは「十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していた」と言いますが、私たちもまた、イエス様以外には何もいらないと、その感動に打ち震えた者であります。けれど同時に、その感動がいとも簡単に冷めていくかも経験するのです。学校や職場、ご近所との付き合いの中で、いつの間にか、みこころよりも、日常の平安だけを求めている自分がいたりします。テレビやラジオ、様々なメディアが垂れ流す一方的な価値観に、何の違和感も持つこともなく受け入れている自分がいます。それはそれ、と、様々なことに折り合いを付けているうちに、いつの間にか、信仰は教会でと無意識に線引をしている自分がいたりするのです。
夜通し漁をして魚が取れなかったのに、岸辺に立つ人が指示する通りに網を降ろしたところ、今まで経験したこともない大漁となりました。驚くべき奇跡が起きたのです。けれど、ペテロとヤコブとヨハネにとっては、これは単なる奇跡ではありません。それは3年前の召命の出来事を思い起こさせるもの。そしてこの方がイエス様その人であることを知らせるものでした。そのために、イエス様は再び、同じ奇跡を再現なさるのでした。
岸に泳ぎ着いたペテロの前にもう一つ興味深い場面が用意されています。それはイエス様ご自身が、炭火で魚を焼き、パンを用意されていたのです。そして、イエス様はパンを取り、魚を取って彼らにお与えになりました。お気付きの通り、5,000人給食の再現です。イエス様の名を全イスラエルに轟かせた奇跡の再現です。そして同時に、それは最後の晩餐の再現でもあります。わたしを覚えるためにこれをしなさい。と定められた特別の食事。イエス様が千切り渡すそのパン切れを受け取りながら、彼らは皆、イエス様の十字架と復活に思いを馳せるのです。
今日の箇所を振り返って確認すべきことは一つです。なぜイエス様は同じ奇跡を繰り返されるのか。それは私たちが忘れるからです。私たちの情熱はすぐに冷えてしまうからです。どれだけイエス様の栄光に心躍らせても、私たちは放っておけば、すぐに日常の中で埋没してしまうのです。だから私たちは繰り返し、主の恵みに触れる必要があるのです。礼拝の度に、聖餐式の度に、祈祷会の度に、そして食事の度に、私たちは主の恵みに触れる。これこそが私たちの信仰の命綱です。過信してはいけません。たとえ復活のイエス様と出会っても、その傷口を確認しようとも、私たちの感動はいとも簡単に冷めていきます。私たちは主の食卓に集う必要があるのです。
週の初めの日にイエス様と出会って、その8日後に再び出会っているわけですから、当然弟子たちは、そのまた8日後にイエス様と出会えると思ったと思うのです。けれど、その時には、イエス様は現れなかった。そこで、イエス様の先の言葉「しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」(マルコ14:28)を思い出しまして、よし、ガリラヤに行ってみよう。とこういうことになったのでありましょう。2節を見ると、7人の弟子がガリラヤに向かったようです。残りの者は、もしかするとこの後イエス様がここに来られるかもしれないからと、エルサレムに留まり二手に分かれたのでありましょう。
ところがです。ガリラヤに着いた弟子たちは、そこで何をするかと言いますと、漁に出ると言うのです。なんとも拍子抜けな話ではないでしょうか。ここはイエス様を探すところではないでしょうか。そのために来たのです。ただただイエス様に会いたい一心です。ですから、ここは何を置いても、まずイエス様を探し出すのが先決ではないでしょうか。ところが、彼らは呑気にも漁に出ると言うのです。
これが復活のイエス様と出会っていないのなら不思議ではありません。希望を失って、意気消沈して、彼らはそれぞれの生活に戻ろうとするというのはわかります。けれど、彼らは復活のイエス様とすでに会っているのです。なのに、イエス様を探さないで漁に行くとは、おいおい、違うだろ。と突っ込みたくなります。
けれどです。よくよく考えますと、私たちも大差ないのではないかと思ったりもするのです。パウロは「十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していた」と言いますが、私たちもまた、イエス様以外には何もいらないと、その感動に打ち震えた者であります。けれど同時に、その感動がいとも簡単に冷めていくかも経験するのです。学校や職場、ご近所との付き合いの中で、いつの間にか、みこころよりも、日常の平安だけを求めている自分がいたりします。テレビやラジオ、様々なメディアが垂れ流す一方的な価値観に、何の違和感も持つこともなく受け入れている自分がいます。それはそれ、と、様々なことに折り合いを付けているうちに、いつの間にか、信仰は教会でと無意識に線引をしている自分がいたりするのです。
夜通し漁をして魚が取れなかったのに、岸辺に立つ人が指示する通りに網を降ろしたところ、今まで経験したこともない大漁となりました。驚くべき奇跡が起きたのです。けれど、ペテロとヤコブとヨハネにとっては、これは単なる奇跡ではありません。それは3年前の召命の出来事を思い起こさせるもの。そしてこの方がイエス様その人であることを知らせるものでした。そのために、イエス様は再び、同じ奇跡を再現なさるのでした。
岸に泳ぎ着いたペテロの前にもう一つ興味深い場面が用意されています。それはイエス様ご自身が、炭火で魚を焼き、パンを用意されていたのです。そして、イエス様はパンを取り、魚を取って彼らにお与えになりました。お気付きの通り、5,000人給食の再現です。イエス様の名を全イスラエルに轟かせた奇跡の再現です。そして同時に、それは最後の晩餐の再現でもあります。わたしを覚えるためにこれをしなさい。と定められた特別の食事。イエス様が千切り渡すそのパン切れを受け取りながら、彼らは皆、イエス様の十字架と復活に思いを馳せるのです。
今日の箇所を振り返って確認すべきことは一つです。なぜイエス様は同じ奇跡を繰り返されるのか。それは私たちが忘れるからです。私たちの情熱はすぐに冷えてしまうからです。どれだけイエス様の栄光に心躍らせても、私たちは放っておけば、すぐに日常の中で埋没してしまうのです。だから私たちは繰り返し、主の恵みに触れる必要があるのです。礼拝の度に、聖餐式の度に、祈祷会の度に、そして食事の度に、私たちは主の恵みに触れる。これこそが私たちの信仰の命綱です。過信してはいけません。たとえ復活のイエス様と出会っても、その傷口を確認しようとも、私たちの感動はいとも簡単に冷めていきます。私たちは主の食卓に集う必要があるのです。