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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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180922 ヨハネ21:1-14 「招かれる食事」

ヨハネ21:1-14 「招かれる食事」 

 週の初めの日にイエス様と出会って、その8日後に再び出会っているわけですから、当然弟子たちは、そのまた8日後にイエス様と出会えると思ったと思うのです。けれど、その時には、イエス様は現れなかった。そこで、イエス様の先の言葉「しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」(マルコ14:28)を思い出しまして、よし、ガリラヤに行ってみよう。とこういうことになったのでありましょう。2節を見ると、7人の弟子がガリラヤに向かったようです。残りの者は、もしかするとこの後イエス様がここに来られるかもしれないからと、エルサレムに留まり二手に分かれたのでありましょう。
 ところがです。ガリラヤに着いた弟子たちは、そこで何をするかと言いますと、漁に出ると言うのです。なんとも拍子抜けな話ではないでしょうか。ここはイエス様を探すところではないでしょうか。そのために来たのです。ただただイエス様に会いたい一心です。ですから、ここは何を置いても、まずイエス様を探し出すのが先決ではないでしょうか。ところが、彼らは呑気にも漁に出ると言うのです。
 これが復活のイエス様と出会っていないのなら不思議ではありません。希望を失って、意気消沈して、彼らはそれぞれの生活に戻ろうとするというのはわかります。けれど、彼らは復活のイエス様とすでに会っているのです。なのに、イエス様を探さないで漁に行くとは、おいおい、違うだろ。と突っ込みたくなります。
 けれどです。よくよく考えますと、私たちも大差ないのではないかと思ったりもするのです。パウロは「十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していた」と言いますが、私たちもまた、イエス様以外には何もいらないと、その感動に打ち震えた者であります。けれど同時に、その感動がいとも簡単に冷めていくかも経験するのです。学校や職場、ご近所との付き合いの中で、いつの間にか、みこころよりも、日常の平安だけを求めている自分がいたりします。テレビやラジオ、様々なメディアが垂れ流す一方的な価値観に、何の違和感も持つこともなく受け入れている自分がいます。それはそれ、と、様々なことに折り合いを付けているうちに、いつの間にか、信仰は教会でと無意識に線引をしている自分がいたりするのです。
 夜通し漁をして魚が取れなかったのに、岸辺に立つ人が指示する通りに網を降ろしたところ、今まで経験したこともない大漁となりました。驚くべき奇跡が起きたのです。けれど、ペテロとヤコブとヨハネにとっては、これは単なる奇跡ではありません。それは3年前の召命の出来事を思い起こさせるもの。そしてこの方がイエス様その人であることを知らせるものでした。そのために、イエス様は再び、同じ奇跡を再現なさるのでした。
 岸に泳ぎ着いたペテロの前にもう一つ興味深い場面が用意されています。それはイエス様ご自身が、炭火で魚を焼き、パンを用意されていたのです。そして、イエス様はパンを取り、魚を取って彼らにお与えになりました。お気付きの通り、5,000人給食の再現です。イエス様の名を全イスラエルに轟かせた奇跡の再現です。そして同時に、それは最後の晩餐の再現でもあります。わたしを覚えるためにこれをしなさい。と定められた特別の食事。イエス様が千切り渡すそのパン切れを受け取りながら、彼らは皆、イエス様の十字架と復活に思いを馳せるのです。
 今日の箇所を振り返って確認すべきことは一つです。なぜイエス様は同じ奇跡を繰り返されるのか。それは私たちが忘れるからです。私たちの情熱はすぐに冷えてしまうからです。どれだけイエス様の栄光に心躍らせても、私たちは放っておけば、すぐに日常の中で埋没してしまうのです。だから私たちは繰り返し、主の恵みに触れる必要があるのです。礼拝の度に、聖餐式の度に、祈祷会の度に、そして食事の度に、私たちは主の恵みに触れる。これこそが私たちの信仰の命綱です。過信してはいけません。たとえ復活のイエス様と出会っても、その傷口を確認しようとも、私たちの感動はいとも簡単に冷めていきます。私たちは主の食卓に集う必要があるのです。

180916  ヨハネ20:30-31 「ヨハネの願い」

ヨハネ20:30-31 「ヨハネの願い」

 ヨハネは福音書の結びにあたって、その執筆理由を記します。それはヨハネの最も伝えたいこと。それは「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るため」。今まで散々にイエス様の様子を思い出しながら書いてきたのは、全てこのためだと言うのです。
 この時代、ローマ皇帝は神の子と呼ばれ、崇められておりました。また、自らをキリストと語る者たちも数多く現れました。実はヨハネによる福音書の執筆に先立つ数十年前、紀元66年ですけれどもローマとユダヤの間でユダヤ戦争が勃発し、紀元70年エルサレムが陥落。エルサレム神殿も無残に破壊されました。ユダヤ人は国を追われて、ほうぼうに離散し、住み着いたそれぞれの地でコミュニティーを造り、会堂や祈り場で礼拝を捧げるようになっておりました。今、この福音書を書いているエペソも、そのようなユダヤ人が多く移り住んだ地でした。当然、国を追われたユダヤ人が望んだのは、救世主の到来です。彼らには具体的な救世主像がありました。それは古くはモーセやダビデのようであり、新しくはユダ・マカバイのような人物。つまり、再び民をまとめ上げ、神からの約束の地を取り戻して、自分たちを導いてくれるところの救い主です。そして、それに応えるかのように、にせキリストが多く現れたのです。そういう時代背景にあって、ヨハネは、そうじゃないんだと。ローマ皇帝でも、にせキリストでもない、キリストはイエス様に他ならないんだと、こう伝えたいのです。そのために私はこれを書いたんだとです。
 そして、そのための根拠となる出来事をヨハネは厳選して記すのです。それは6つの癒やしの記事と、十字架と復活の出来事。「イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。」とあります。他の多くのしるしが信仰に関係がないというのではありません。ヨハネはすでに世に広まっていた他の福音書を意識しています。もうすでに多くのしるしは書かれているのです。ヨハネはその足りないところを埋めるかのように、それでいて、これだけでも信仰に導かれるようにと、吟味し配慮しながら、この福音書を記すのです。
 ヨハネの福音書が、他の福音書と随分と趣が違うのは、このヨハネの情熱故にです。マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書はイエス様が何を教え、何を為されたのか、とにかくイエス様を忠実に記すことに焦点を置きます。けれど、ヨハネの場合、イエス様を記すのは同じですが、そこで明らかに読者を意識します。これを読む者が、イエスが神の子キリストであることを、信じるために。また信じて、いのちを得るために。ですから、あのときのイエス様の言葉はこういう意味だったとか。その当時はわからなかったあの言葉には実はこういう意味があったと言うように、要所要所にヨハネの解説が記されるのです。
 さて、老使徒ヨハネは今、自らの最後を覚悟しながら、この福音書を記しています。なぜなら、イエス様の復活の証人として、このお方を後世に語り継ぐ責任があるからです。けれど、ヨハネ自身は天に召されるときが迫って来ている。文字という形で、イエス様は時間と空間を超えて届けられるのです。
 ヴィッテンベルク教会の扉に95カ条の提題を貼り付けたことから宗教改革は口火を切りました。それは瞬く間にヨーロッパ全土広まり、世界を二分することとなりました。これを可能にしたのか、グーテンベルクによる活版印刷の技術です。つまり、活版印刷によって、これまで教会が独占していた聖書が民のものとなったのです。聖書を通して直接イエス様を知った者たちが、ルターとともに立ち上がったのです。書かれた文字ではあるけれど、御言葉にはそのような力があるのです。それは人々をイエス様と出会わせ、イエス様に倣う者へと創り変える力です。イエス様を神の子キリストと信じさせ、イエス様の名によっていのちを得させる力です。そして、今、時代と空間を超えて、イエス様はこの聖書を通じて私たちに語りかけるのです。

180909 ヨハネ20:19-29 「信じる者になりなさい」

ヨハネ20:19-29 「信じる者になりなさい」

 福音書の中でトマスが語る場面が今日の箇所とは別に2箇所あります。一つはイエス様がラザロの死を宣言されて、彼のもとに行くとおっしゃった時に、トマスが弟子仲間に向かって言いました。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」実はこのラザロの出来事よりも前に、イエス様はエルサレムで石打ちにされそうになりました。そこで、一行は、ヨルダン川の向こう側に退いていたのです。ですからイエス様がラザロのもとに行くとおっしゃった時、あの危険な地にもう一度戻るのか、と弟子たちは怖気づいたのです。ところがトマスは言います。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」もう一つのトマスのセリフは、最後の晩餐の席で、イエス様が弟子たちの場所を備えに行くと宣言される場面です。トマスが尋ねます。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」どちらの場面も、トマスの発する言葉は、イエス様に付いて行く。その決意から来る言葉です。言葉数は少ないですが、イエス様に向ける想いは誰よりも熱いのがトマスであります。
 ですから、彼の頑なな言葉は、彼の疑い深さというよりは、むしろ彼のイエス様に対する情熱から来る裏返しではないかと思うのです。それは精一杯のトマスの強がりではなかったか。盛り上がる弟子たちの報告を聞き、自分一人、置いてきぼりをくらったような寂しさや悔しさを覚えて、思わず口にしたのがこの啖呵ではなかったか。皆が見て信じたのに、自分だけが見てもいないものを信じるとは口が裂けても言いたくないトマスなのです。でも、これって実は、俺もみんなと一緒に喜びたかった。よみがえられたイエス様に会って話したかった!という想いの、裏返しですね。彼を苦しめるのは、頑なにするのは、実は、イエス様を慕うその強烈な想いゆえでありました。
 1週間が経って、戸に鍵がかけられていましたが、いつの間にか、イエス様は皆の真ん中に立っておられました。そして言います。「平安があなたがたにあるように。」それは自分だけが取り残されたと嘆くトマスのために、1週間前を忠実に再現するイエス様であります。そして、今度はトマス一人に向けて言います。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」それはまさにトマスの言葉の再現。自分だけは見ていないと苦しむトマス。しかし、イエス様は見ておられた。聞いておられた。イエス様の言葉を聞いた瞬間、トマスは自身の不信仰に気付かされるのです。これはトマスにとっての鶏の声です。自らの愚かさに直面する場面。主イエスの偉大さにひれ伏す場面。主は全てをご存知で、全てをお許しになって、尚、私を招いてくださっていると知らされた場面でありました。
 「私の主、私の神よ。」これはトマスの心からの信仰告白です。今更、傷跡を指で突つくことはいたしません。その必要がない。なぜなら、イエス様はトマスの痛みを知っていてくださったからです。トマスの悲しみを見ておられた。8日目のこの日、イエス様はまさにトマスのためだけに現れてくださったのです。
 私たちがイエス様を信じる根拠はまさにここにあるのです。イエス様を信じるのに、その傷跡を見る必要はありません。イエス様は私を知っておられる。私を見ておられる。確かにトマスはイエス様の傷跡を見て信じました。けれどそれは、傷跡を通して、イエス様の憐れみに触れたということに他なりません。イエス様の眼差しがある。私たちが見ずとも、イエス様は見ておられる。イエス様は私たちの叫びに耳を傾け、私たちの痛みに寄り添い、私たちに関心を持って関わってくださるお方です。妬みや無知や偏愛。私たちの内に信仰を妨げる要素は幾らでもありますが、イエス様の愛はどんな時も変わらない。だからこそ、私たちはこのお方を安心して信じることができるのです。

180902 Ⅱコリント1:12「神から来る誠実」

Ⅱコリント1:12「神から来る誠実」

 「神から来る純真さと誠実さ」とあります。この「神から来る」というのが大事です。誠実とは嘘偽りなく、真心から事に当たる私たちの生きる姿勢のことです。しかし、それだけでは駄目だと言うのです。どれだけ嘘がなくても、どれだけ真心からであっても、それが神から来る誠実でなければいけない。言い換えると、それは肉的な知恵によらないということです。神の恵みによるということです。
 例えばです。嘘偽りなく、真心から、誠実に、仕事に励んでいる人がいるとします。その気持ち、その姿勢には、何の偽りもない。けれどその結果、多くの人の心を踏みにじったり、犠牲にしたりすることがあったらどうでしょうか。オウム真理教の多くの信者は、ある意味ただただ誠実であったと言えるでしょう。滅びることによって救済がある。彼らの中に、嘘偽りはなく、それは真心から相手のためにと振る舞ったのです。けれど、だから彼らは正しかったとは絶対に言えません。その時、その瞬間に、己の価値観に誠実であったとしても、それはどこか、独りよがりの自己陶酔ということがあり得るのです。
 ですから、私たちの誠実を図る物差しが必要なのです。
 私たちは何かを振る舞うとき、それは自分の気持ちに誠実であるかを問うでしょうか。それとも相手にとって誠実であることを意識するでしょうか。しかし、真に問うべきは、神に対してであると、聖書は教えているのです。
 パウロはコリントの人々に対して、誠実に振る舞ってきたことを誇っています。しかし、それは彼らの顔色を伺ってということではありません。パウロは神の恵みによって、誠実に振る舞ってきた。あなたがたに対しても、神の恵みに恥じぬようにと、誠実に、己の利得によらずに行動してきた。と言うのです。
 世の中を見ると、真面目に生きることが馬鹿馬鹿しく思うことがあるかもしれません。誠実な人が、悪者どもの食い物にされる。長い年月ひたすらに誠実を尽くしてきて、挙げ句、何も報われないということがあるかもしれません。そうではなくて、手段を問わず、結果を出すほうが大事だと言うのが、この世の教えかもしれません。けれど、それは神を知らない人の論理です。なぜなら、神はその過程をも全て、ご覧になっておられるからです。そして、私たちに神の恵みに相応しく生きてほしいと願っておられるからです。
 ミカ6:8「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、【主】があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。」
 私たちの一つ一つの振る舞いの物差しは神の御心であります。イエス様こそが見本です。イエス様はどのようなお方だったでしょう。イエス様は見返りを期待して振る舞う方ではありませんでした。状況によって言動が違う方ではありませんでした。人々の敵意の中、弟子たちの無理解の中、たとえ指導者たちの怒りを買うことになろうとも、イエス様はぶれません。なぜでしょうか。それはイエス様が他でもない父なる神に対して誠実であろうと尽くされていたからであります。
 私がまだ学生だった頃、日曜日にちょっとした用事がありまして、教会に欠席の連絡をいたしました。牧師夫人に「ごめんなさい。お休みします。」すると「私に謝る必要はないですよ。もし謝るならイエス様に謝ってください。」と予期しない胸を刺される返事でありました。けれど、その通りです。神の前に誠実であるとはそういうことです。私は牧師夫人に「わかりました。大丈夫ですよ。」と言ってもらいたかったのです。休むということにちょっとした罪悪感を持っていて、誰かに、それを許してほしいと思っていた。でも全ては神の前に図るのです。私の言葉は、振る舞いは、神の前に誠実だろうか。その小さな黙想が私たちを主イエスの似姿へと整えていくのです。