マタイ5:5 「柔和な者は幸いです」
御霊の実の8つ目は柔和です。例のごとく、柔和という字を辞書で調べますと「やさしく、おだやかなさま。」とありました。しかしです。優しさとは随分と曖昧で漠然としています。たとえば、争いごとが嫌いで自己主張をしない人。事を成り行きに任せる人。こういう人は言ってみれば優しい人です。けれど、それは責任感のない人と言えるわけです。事なかれ主義と言っても良いでしょう。じゃあ聖書が言う柔和な者とは、本当にそういう人かと言いますと、そうではないように思います。
柔和とは何か?イエス様のこの山上の説教の言葉は詩篇の引用から来ていることは明白です。「しかし柔和な人は地を受け継ぎ豊かな繁栄を自らの喜びとする。」(詩篇37:11)この詩篇での「柔和な人」という言葉は、実は第3版や新共同訳では「貧しい人」と訳されていた言葉です。つまり「柔和」と「貧しさ」どちらのニュアンスも含んだ言葉だということです。山上の説教でも、まず「心の貧しい人は幸いです。」とあって「柔和な人」です。ですから、ここで言う柔和はただ単に優しいとか、おだやかという性格を指しているのではありません。それは心の貧しさから来るところの柔和。つまり神に対する徹底的な謙遜。罪に対する絶望的な悲しみ。これらの土台の上に築かれるところの柔和です。自分の内には何一つ誇るところのないことを認め、この世におけるあらゆる地位も特権も所有物も要求しない。これが柔和だと言うのです。
柔和な人の例は、イサクに見ることができます。ある時イサクはせっかく掘った井戸をペリシテ人に埋められます。すると、彼は別の地に移動して井戸を掘ります。しかし、そこもまたペリシテ人によって埋められます。イサクはどうしたでしょう。争って奪い返したでしょうか。交渉したでしょうか。掘ったのはイサクですから、それは正当な主張です。けれど、イサクはそうしません。彼はまた別の地で井戸を掘る。これが柔和な人イサクです。
つまり柔和とは、自分の主張や権利を敢えて主張せずに神にゆだねる姿勢を指すのです。しかし、それは決して概念的なものではありません。具体的にそのことが他者に対する態度に現れて来なければなりません。ロイド・ジョンズは言います。「私たちはみな他の人に自分の罪をとがめられるよりは、自分で自分をとがめるほうを好む。私は自分のことを、罪人であると言う。しかし、他の人にあなたは罪人だと言われるのを本能的にきらう。これが、今ここに提起されている原則である。」これは本当にその通りだと思うのです。神の前に、自らが愚かであることを認めることは、ある意味で福音に向き合えばそうせざるを得ません。私たちは祈りの内に罪を悔いることができます。けれど、同じことを目の前の人に対してできるかと問われれば、これは何と難しいことでしょう。もうひと段階、明確な確信が必要です。曖昧な、漠然とした罪人告白ではなくて、私たちが誰にも見せたくない内なる醜さを、目の前の兄弟姉妹に赤裸々に告白することができるかという極めて具体的な話です。自分自身の罪を他人の判断によって裁かせることができるかという話です。本当の意味で優しく穏やかで過ごすためには、他者に対して徹底的にへりくだり、権利を主張せずに、むしろ委ねることが求められるのです。
そう考えると、柔和というのは何と難しいことでしょう。私たちはすぐに主張したくなります。私にも正義があると言いたくなる。それがコリント教会を分裂寸前に追いやったことを知っていてもです。
私たちは柔和が御霊の実であることを覚えたいのです。御霊の実は、御霊の働きを無くしては、決して誰も結べないという事実をです。しかし、御霊の働きがあるならば、たとえどのような者であっても実を結ぶ者とされるということをです。確かに、私たちは柔和とは相容れぬ者です。けれど、私たちを柔和な者とするのは、私ではなくて聖霊です。聖霊は私たちを、御言葉をもってイエス様と向き合わせ、貧しき身であることを悟らせ、罪に悲しむ心を育て、握りしめた権利を手放させてくださるのです。罪人に過ぎない私たちは、目の前にいる、決して完全ではない兄弟を受け入れ、認めることができるようになる。柔和は、教会の実として豊かに結ばれるのです。
御霊の実の8つ目は柔和です。例のごとく、柔和という字を辞書で調べますと「やさしく、おだやかなさま。」とありました。しかしです。優しさとは随分と曖昧で漠然としています。たとえば、争いごとが嫌いで自己主張をしない人。事を成り行きに任せる人。こういう人は言ってみれば優しい人です。けれど、それは責任感のない人と言えるわけです。事なかれ主義と言っても良いでしょう。じゃあ聖書が言う柔和な者とは、本当にそういう人かと言いますと、そうではないように思います。
柔和とは何か?イエス様のこの山上の説教の言葉は詩篇の引用から来ていることは明白です。「しかし柔和な人は地を受け継ぎ豊かな繁栄を自らの喜びとする。」(詩篇37:11)この詩篇での「柔和な人」という言葉は、実は第3版や新共同訳では「貧しい人」と訳されていた言葉です。つまり「柔和」と「貧しさ」どちらのニュアンスも含んだ言葉だということです。山上の説教でも、まず「心の貧しい人は幸いです。」とあって「柔和な人」です。ですから、ここで言う柔和はただ単に優しいとか、おだやかという性格を指しているのではありません。それは心の貧しさから来るところの柔和。つまり神に対する徹底的な謙遜。罪に対する絶望的な悲しみ。これらの土台の上に築かれるところの柔和です。自分の内には何一つ誇るところのないことを認め、この世におけるあらゆる地位も特権も所有物も要求しない。これが柔和だと言うのです。
柔和な人の例は、イサクに見ることができます。ある時イサクはせっかく掘った井戸をペリシテ人に埋められます。すると、彼は別の地に移動して井戸を掘ります。しかし、そこもまたペリシテ人によって埋められます。イサクはどうしたでしょう。争って奪い返したでしょうか。交渉したでしょうか。掘ったのはイサクですから、それは正当な主張です。けれど、イサクはそうしません。彼はまた別の地で井戸を掘る。これが柔和な人イサクです。
つまり柔和とは、自分の主張や権利を敢えて主張せずに神にゆだねる姿勢を指すのです。しかし、それは決して概念的なものではありません。具体的にそのことが他者に対する態度に現れて来なければなりません。ロイド・ジョンズは言います。「私たちはみな他の人に自分の罪をとがめられるよりは、自分で自分をとがめるほうを好む。私は自分のことを、罪人であると言う。しかし、他の人にあなたは罪人だと言われるのを本能的にきらう。これが、今ここに提起されている原則である。」これは本当にその通りだと思うのです。神の前に、自らが愚かであることを認めることは、ある意味で福音に向き合えばそうせざるを得ません。私たちは祈りの内に罪を悔いることができます。けれど、同じことを目の前の人に対してできるかと問われれば、これは何と難しいことでしょう。もうひと段階、明確な確信が必要です。曖昧な、漠然とした罪人告白ではなくて、私たちが誰にも見せたくない内なる醜さを、目の前の兄弟姉妹に赤裸々に告白することができるかという極めて具体的な話です。自分自身の罪を他人の判断によって裁かせることができるかという話です。本当の意味で優しく穏やかで過ごすためには、他者に対して徹底的にへりくだり、権利を主張せずに、むしろ委ねることが求められるのです。
そう考えると、柔和というのは何と難しいことでしょう。私たちはすぐに主張したくなります。私にも正義があると言いたくなる。それがコリント教会を分裂寸前に追いやったことを知っていてもです。
私たちは柔和が御霊の実であることを覚えたいのです。御霊の実は、御霊の働きを無くしては、決して誰も結べないという事実をです。しかし、御霊の働きがあるならば、たとえどのような者であっても実を結ぶ者とされるということをです。確かに、私たちは柔和とは相容れぬ者です。けれど、私たちを柔和な者とするのは、私ではなくて聖霊です。聖霊は私たちを、御言葉をもってイエス様と向き合わせ、貧しき身であることを悟らせ、罪に悲しむ心を育て、握りしめた権利を手放させてくださるのです。罪人に過ぎない私たちは、目の前にいる、決して完全ではない兄弟を受け入れ、認めることができるようになる。柔和は、教会の実として豊かに結ばれるのです。