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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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181021 マタイ5:5 「柔和な者は幸いです」

マタイ5:5 「柔和な者は幸いです」

 御霊の実の8つ目は柔和です。例のごとく、柔和という字を辞書で調べますと「やさしく、おだやかなさま。」とありました。しかしです。優しさとは随分と曖昧で漠然としています。たとえば、争いごとが嫌いで自己主張をしない人。事を成り行きに任せる人。こういう人は言ってみれば優しい人です。けれど、それは責任感のない人と言えるわけです。事なかれ主義と言っても良いでしょう。じゃあ聖書が言う柔和な者とは、本当にそういう人かと言いますと、そうではないように思います。
 柔和とは何か?イエス様のこの山上の説教の言葉は詩篇の引用から来ていることは明白です。「しかし柔和な人は地を受け継ぎ豊かな繁栄を自らの喜びとする。」(詩篇37:11)この詩篇での「柔和な人」という言葉は、実は第3版や新共同訳では「貧しい人」と訳されていた言葉です。つまり「柔和」と「貧しさ」どちらのニュアンスも含んだ言葉だということです。山上の説教でも、まず「心の貧しい人は幸いです。」とあって「柔和な人」です。ですから、ここで言う柔和はただ単に優しいとか、おだやかという性格を指しているのではありません。それは心の貧しさから来るところの柔和。つまり神に対する徹底的な謙遜。罪に対する絶望的な悲しみ。これらの土台の上に築かれるところの柔和です。自分の内には何一つ誇るところのないことを認め、この世におけるあらゆる地位も特権も所有物も要求しない。これが柔和だと言うのです。
 柔和な人の例は、イサクに見ることができます。ある時イサクはせっかく掘った井戸をペリシテ人に埋められます。すると、彼は別の地に移動して井戸を掘ります。しかし、そこもまたペリシテ人によって埋められます。イサクはどうしたでしょう。争って奪い返したでしょうか。交渉したでしょうか。掘ったのはイサクですから、それは正当な主張です。けれど、イサクはそうしません。彼はまた別の地で井戸を掘る。これが柔和な人イサクです。
 つまり柔和とは、自分の主張や権利を敢えて主張せずに神にゆだねる姿勢を指すのです。しかし、それは決して概念的なものではありません。具体的にそのことが他者に対する態度に現れて来なければなりません。ロイド・ジョンズは言います。「私たちはみな他の人に自分の罪をとがめられるよりは、自分で自分をとがめるほうを好む。私は自分のことを、罪人であると言う。しかし、他の人にあなたは罪人だと言われるのを本能的にきらう。これが、今ここに提起されている原則である。」これは本当にその通りだと思うのです。神の前に、自らが愚かであることを認めることは、ある意味で福音に向き合えばそうせざるを得ません。私たちは祈りの内に罪を悔いることができます。けれど、同じことを目の前の人に対してできるかと問われれば、これは何と難しいことでしょう。もうひと段階、明確な確信が必要です。曖昧な、漠然とした罪人告白ではなくて、私たちが誰にも見せたくない内なる醜さを、目の前の兄弟姉妹に赤裸々に告白することができるかという極めて具体的な話です。自分自身の罪を他人の判断によって裁かせることができるかという話です。本当の意味で優しく穏やかで過ごすためには、他者に対して徹底的にへりくだり、権利を主張せずに、むしろ委ねることが求められるのです。
 そう考えると、柔和というのは何と難しいことでしょう。私たちはすぐに主張したくなります。私にも正義があると言いたくなる。それがコリント教会を分裂寸前に追いやったことを知っていてもです。
 私たちは柔和が御霊の実であることを覚えたいのです。御霊の実は、御霊の働きを無くしては、決して誰も結べないという事実をです。しかし、御霊の働きがあるならば、たとえどのような者であっても実を結ぶ者とされるということをです。確かに、私たちは柔和とは相容れぬ者です。けれど、私たちを柔和な者とするのは、私ではなくて聖霊です。聖霊は私たちを、御言葉をもってイエス様と向き合わせ、貧しき身であることを悟らせ、罪に悲しむ心を育て、握りしめた権利を手放させてくださるのです。罪人に過ぎない私たちは、目の前にいる、決して完全ではない兄弟を受け入れ、認めることができるようになる。柔和は、教会の実として豊かに結ばれるのです。

181014 Ⅰペテロ1:23 「いつまでも残るもの」

Ⅰペテロ1:23 「いつまでも残るもの」

 100年先の教会を思い描くとすれば、どのような教会でしょうか。時代は加速度的に変化して行っています。それは私たちの想像を遥かに超えることです。私が子供の頃、夢だったスーパーカー、コストや燃費度外視の車は、今や完全電気化、そして無人運転が実用化しようとしています。公衆電話は無くなり、ネット社会の発展は流通や社会の仕組み自体を変化させています。人々の生活は様変わりし、歴史を振り返っても、近代のこの移り変わりは類を見ないものではないでしょうか。
 例えば、今、私たちは超高齢化社会を生きています。けれど言ってしまえば、100年後には、もうその超高齢化すら過ぎ去っているのです。第1次ベビーブーム、第2次ベビーブームが現在の日本の歪な人口構造を造ったわけですが、その後、第3次ベビーブームなるものは来ませんでした。ずっと、人口減少の一途を辿っています。私は第2次ベビーブームの世代ですが、恐らく、この世代がいなくなった後は人口はどの世代も軒並べて少ないという時代がやって来るでしょう。国立社会保障・人口問題研究所の「日本の将来推計人口」によると、およそ100年後の2110年、日本の人口は5000万人を切っていると予想しています。今の人口の半分以下です。労働力の減少は、外国人への門戸をより広げるでしょうし、産業のAI化はさらに拍車が掛かっていくでしょう。これからドローン技術の開発で、様々なことが無人で行われるようになるとも言われておりますが、そうすると入間基地の役割も、随分と変わってくるでしょう。つまり私たちの身近なこの町も100年経てば驚くほど様変わりするという話です。
 修道院などと違い、教会は社会と隔絶されたところではありませんから、当然、社会の変化は教会にも影響を及ぼします。教会員の生活が様変わりするわけですから、それも当然です。けれど、教会のあり方として、変化に対応すること以上に大切なことがある。100年後教会に入ったら、そこにはキリストがいなかったということでは笑い話にもなりません。ましてや神の歴史の中で、現代は終末の時代です。イエス様の十字架と復活によって神の国が到来し、その完成を待ち望む間の時代。その日は盗人のようにやって来ると言います。100年先があるとも限らない。ですから100年後の教会は、100年先を想像して考えるのではありません。それは今、私たちが懸命に建て上げるこの教会の延長線上にある。100年先にはこうなっていたい。という話ではなくて、今、私たちがどのような教会でありたいか、ということが問われているのです。
 教会とは「エクレシア」。これはもともと「カレオー」召集するという言葉から来ています。意味は、神によって特別に召し集められた人々の群れです。つまり教会は会堂ではないということです。教会堂の規模や、財産、見てくれを指しているのではありません。キリスト者の群れとして、どのようであるか。その姿勢が問われているのです。
 どのように時代が変わり、教会を取り巻く環境が変わろうとも、決して変わってこなかったものがあるわけです。私たちはここを見失ってはなりません。ペテロやパウロといった使徒たちの時代。その後の迫害を生き抜いた使徒教父達の時代。ローマ国教下、アウグスティヌスを始めとする教父時代。それは異端と戦い教理を確立していった公会議時代でもありました。他宗教との戦争に明け暮れ疲弊した中世時代。ルターやカルヴァン達が活躍した宗教改革時代。競うように未開の地に宣教した大航海時代、そして現代。教会を取り巻く環境は驚くほど変化してきました。けれど、その時代時代に生きるキリスト者を招き、救いに導かれたのは、色あせることのない神のことばに他なりません。私たちが養われる霊の糧、神のことばは、パウロが語り、教父たちが守り抜き、ルターやカルヴァンが取り戻したまさにその「生きた、いつまでも残る、神のことば」でありました。2000年間、変わらずに語られている神のことば。それはつまり、神の約束は変わらないということであります。神の約束が時代と共に変わるのであれば、私たちの希望は不確かです。変わらないからこそ教会はどの時代にあっても希望なのです。こここそは変えてはならない教会の生命線なのです。

181007 マタイ11:11-19 「神の前に正しい人とは?」 原市場聖書教会 若村和仁師

マタイ11:11-19 「神の前に正しい人とは?」 若村和仁師

 皆さんは人と自分を比べたことがあるでしょうか?「自分と人と比べたことがない」という人はいないのではないでしょうか?聖書の時代から、人間の本質は変わらないのです。それは弟子たちを見ればわかります。マタイ18章では、イエス様に弟子の一人が「この中でだれが一番偉いか」と問いかけました。それに対してイエス様はこう言われました。「ですから、誰でもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。」(マタイ18章4節)一番偉くなりたいなら、自分を低くしなさい。と言われるのです。
 今日の聖書個所では天の御国で一番小さい者について書かれています。天の御国で一番小さい者は、「女から生まれた者の中で一番偉大であると言われているバプテスマのヨハネより、偉大である。」と語ります。ということは、天の御国に入れる人であれば、地上の誰よりも偉大であるということです。この偉大とは、私たちがバプテスマのヨハネよりも能力的に偉大であるということではなく、イエス様から受ける恵みが誰よりも偉大である。ということなのです。では天の御国へ入れる人とは、どのような人でしょうか?それは、自分の罪を悔い改め、イエスキリストが自分の罪の為に死んでくださったことを信じ、口で告白する人(クリスチャン)です。天の御国に入れる人とは、偉大な神様の恵みを素直に受け入れたクリスチャンということです。
 ですからこの地上で神様に喜ばれる偉い人とは、「自分の弱さを正しく知り自分を低くし、悔い改めイエスキリストを信じ受け入れた人」なのです。このイエスキリストの救いの計画に耳を傾けない人々に「耳のあるものは聞きなさい」と語りかけられました。それは、16節~18節にたとえられていますが、当時のユダヤ人たちが、バプテスマのヨハネの言葉にも、イエスキリストからの言葉にも、耳を傾けなかったからです。
 当時一番神様に近い民族とされていたユダヤ人たちこそが、神様の言葉に聞くことができず、神様から遠い存在になっていたのです。ユダヤ人たちは、自分たちの口伝律法であるユダヤ法に基づいて、人と比べ、自分のほうが儀式を守っているということを自慢していました。イエス様はそのような儀式主義の人々に、神の前に正しいかどうかを証明するのは、「・・・知恵が正しいことはその行いが証明します。」と19節で語っています。
 「神様の前に正しい人」であるかどうかは、私たちがまず謙虚に「御言葉に聞く者」であるかが問われています。そして、その御言葉を「実践すること」が神様の御心を実現する、正しい歩みの一歩となるのです。

180930 ヨハネ21:15-19 「やり直しの朝」

ヨハネ21:15-19 「やり直しの朝」

 イエス様は食事が終わって、ペテロに問います。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」しかも3度も同じ質問を繰り返します。これはどういう意味なのでしょう。ペテロの声が小さくて聞こえなかったのでしょうか。それとも彼の返事に納得がいかなかったのでしょうか。それにしても3度も繰り返すなんて、明らかに普通ではありません。ここにはイエス様の質問以上の意思が込められています。ここで思い出されるのは、3度イエス様を否んだ、あの大祭司の庭での出来事です。
 最後の晩餐の折、イエス様は弟子たちの下を去ること、そして弟子たちがご自身についていけないことを話されます。しかしそれを聞いたペテロは宣言しました。「あなたのためにはいのちも捨てます。」イエス様は言います。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」そして、その後、イエス様は捕らえられ、ペテロは大祭司の庭で確かに三度イエス様を否定するのです。三度目に鶏が鳴き声を聞かせた時、ペテロは自身の裏切りに気付き、愕然としたことでした。イエス様を知らないと言う。それはつまり、イエス様と自分との関係を否定することです。一度目、二度目、彼は自分の言葉の意味を全くわかっていませんでした。ただ必死に降り掛かった火の粉を払うのみです。しかし三度目の「そんな人は知らない。」とペテロが口にした瞬間、鶏が声を上げたのです。そして同時に、ペテロは自分が躍起になってイエス様を否定していた事実に気付かされます。「あなたのためにはいのちも捨てます。」と言うペテロに嘘偽りはありませんでした。けれど、実際は主を否み続けるペテロなのです。自身の弱さ、愚かさ、浅はかさ。彼は、自分自身のちっぽけさに涙し悔いるのです。
 復活されたイエス様はペテロに問います。「あなたはわたしを愛していますか。」一度目、二度目。ペテロはその意図に気付きません。けれど、三度同じ質問が語られる。イエス様の問いかけは、見ようによってはとても残酷だと思うのです。「あなたのためにはいのちも捨てます」と言ったのはペテロの本心だったのです。けれども、実際にはイエス様との関わりを否定してしまいました。ペテロは自分でもどうすることのできない弱さがあることを知りました。今、ペテロは「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と答えます。それは嘘偽りない本心です。けれど、そのペテロの決意すら、いとも簡単に揺らいでしまう現実があることをペテロは体験したのです。一度目、二度目、彼は何も考えずに返事をします。けれど三度目の質問に答えるとき、彼は自分の弱さと直面して、答えざるを得ないのです。そして、言ってみれば、その自身の弱さと向き合わせるために、その愚かさを知って尚答えさせるために、イエス様は敢えて三度繰り返される。そして、その上で「わたしの羊を飼いなさい」と言われるのです。
 つまり、これからリーダーとして立つペテロに、イエス様はまず彼の弱さと向き合わせるのです。自信満々に己を誇るのではなくて、自らの弱さ愚かさを自覚させ、そして、主イエスの憐れみに立つ己であらせるのです。誰が一番偉いかと競い合っているリーダーではなくて、人の殿につく、弱さに寄り添えるリーダーとして、今、ペテロの決意を問うのです。
 「しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。」(ルカ22:26)ペテロの失敗は全ての福音書に記されます。それは、彼が生前、事ある毎に自分の失敗を語っていたということでしょう。「私はこんなにも愚かだった。弱い者だった。私もあなたたちと変わらなかった。けれど、イエス様はこのような者を用いてくださった。だから、あなたも遅くはない。あなたたちも必ず用いられる。」イエス様は私たちに自らの弱さ、愚かさに向き合うことを求められます。私たちは弱さの内にイエス様の憐れみを見るからです。多く許された者は多く愛することができるからです。