第2テモテ3:14-17 「聖書信仰」
エレミヤ36:21~32にはエレミヤからの依頼を受けて神のことばをまきものに記すバルクの様子が記されます。バルクが記した神のことばは国中の話題となり、すぐに王の耳にも入ります。王はその巻物を持ってこさせて家来に読ませました。その巻物は神からの忠告のことばでした。「ユダの国はバビロンの国によって滅ぼされる!」国が滅ぶなど、王にとってこれ以上に聞きたくないことばはありません。怒った王は巻物を切り刻んで、暖炉で焼いてしまいました。神はもう一度新しい巻物を書くようにエレミヤに命じられ、そしてエレミヤはバルクにそのことを命じるのです。王が切って捨てた巻物をもう一度書くことは、王に逆らうことです。王の怒りを買って、いのちを失うかもしれません。けれど、バルクはもう一度神のことばを書き記します。それは神のことばこそが、聞くものを生かす、いのちのことばだからです。
この出来事は、聖書記者と神との関係を如実に表しております。巻物を書くのは、バルクであり、エレミヤであり、時代時代の聖書記者たちです。その時代の制約の中で、苦心し、決断をもって記します。しかし、同時に、この聖書の真の執筆者は神でもあるのです。パウロはこのことを謙虚に受け止めてきました。だからこそ、聖書を唯一絶対の信仰の規範として受け入れたのです。
近代の教会史の中で、特に、科学的アプローチの影響を受けて、聖書の文体を時代検証し、聖書本文を切り刻んで理解しようとする人々が起こりました。聖書のこの箇所はモーセの時代のものであり、この箇所は第2神殿の再建の後である。と言った風にです。この言葉はイエス様が言った言葉だけど、このところはパウロの教えであるとかです。そのようにして、聖書の中から信頼できる言葉とできない言葉を色分ける作業がなされました。学術的には大変知的好奇心を刺激する試みであったのかもしれません。けれど、そのようにして色分けされた聖書は、もう信頼できる神のことばではありませんでした。
一方で、聖書が神のことばであることを強調するあまり、その時代に用いられた聖書記者も文脈も歴史的意味も無視して御言葉を自分勝手に継ぎ接ぎしようとする人々もおりました。例えば、神は愛です。という御言葉を取り上げ、一方でキリストは罪人を救うために来られたということを持ってきて、続けて、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。との御言葉を読むなら、なるほど、キリスト者となれば一切の罪に責任がなくなるのだと思ってもおかしくありません。けれど、それが神のみこころに叶う聖書の読み方なのかと問いますと、決してそうではない。自分の望むことを正当化するために御言葉を取捨選択することは、神がその時代に語られたメッセージを無視することに他なりません。それぞれのテキストには、それぞれの時代の聴衆に語られたメッセージがあります。まずはその聖書箇所がそれぞれの時代に向けて語るところを理解し、その意味するところを、現代の私たちの生活の中で適応させて行かなければなりません。
一つ恥ずかしい証をします。私がまだ神学校の1年生のこと。初めて学ぶ神学の教えは大変興味深く、目が開かれる思いがしました。知識が増すことへの純粋な喜び。ですから私は初めての説教演習で、今まで知らなかったことを発見する説教をするんだと、意気揚々に資料を漁りました。しかし結果は散々な評価でした。新しさを求めて準備したその説教は、いつの間にか立場を違えて、書かれたテキストを無視した説教となっていたからでした。
私たちが聖書を読むのに、新しさは要りません。今まで誰も語らなかった教えは、それが御言葉を無視しているから語られなかったのです。申命記4:2には「私があなたがたに命じることばにつけ加えてはならない。また減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を守らなければならない。」とあります。パウロは「あなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。」と言っています。御言葉がその時代に何と語り、今の私に何と語っているか。代々の信仰者が語り継いできた教えを頼りに、御言葉に真摯に向き合う私たちでありたいと思います。

ヨハネ21:24-25 「恵みは十分にある」
ヨハネの弟子たちは、ヨハネが召された後、ヨハネ先生が残したイエス様の回想録を教会の教えとして広めるわけですが、その時この21章を付け加えたと考えられます。なぜでしょうか。本来ならば、20章で筆は置かれていたわけです。けれど、弟子たちは、ペテロの再召命の場面を書き記し、ヨハネの使命について言及します。それはつまり、イエス様の使命が引き継がれる場面を書き残したということです。
当時、キリスト教会は、もうすでに舞台をエルサレムからローマ各地に移しておりました。彼らのほとんどは、キリスト者と言いながらイエス様を直接見たことも聞いたこともない。彼らにとっては、ペテロであり、ヨハネであり、パウロこそが先生であったわけです。コリントの教会が分裂騒ぎを起こしていた時、彼らはパウロに付く、アポロに付く。と言い合っていたわけですが、それは文字通り、パウロ先生に習おう。アポロ先生を信じよう。という争いでもあった。そこでパウロはイエス様こそが土台なんだと。だから、私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者だと考えなさい。と言っていたわけです。これはヨハネの弟子たちも同じでした。ペテロが殉教し、ある意味で神格化されそうな当時の雰囲気があったのです。迫害の中死んでいったペテロやパウロを称える当時の状況があった。そんな中、どうしても記さなければならなかったのは、それはイエス様に由来した、使命に生きる弟子たちの生き様であり死に様なんだと言うことではないでしょうか。
イエス様こそが、とはヨハネが特に意識して記したことです。ご自身を良い羊飼いであり、門であり、ぶどうの木だと語られたイエス様の言葉を記します。イエス様こそが道であり、光であり、いのちだとも記します。そして、「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るため」にこの書を書いたとも言っています。ですから、ペテロやヨハネのことで特筆すべきは、彼らがどれだけ優れているかではなくて、彼らがイエス様の福音を引き継いだということではないでしょうか。自分たちの先生を祭り上げる空気の中で、そうじゃない。イエス様から先生たちに引き継がれた福音は、次に私たちが引き継がなければならないんだと。ヨハネの弟子たちの決意がこの21章に見て取れるのです。
さて、21章の結語は、20章のそれと比べると、子どもの言い訳じみていて、非常に野暮ったく感じます。けれどです。書き方どうこうというのは、21世紀の今の感覚で思うところでして、その意味するところは、私たちの神観、聖書観に繋がる、とても重要な一文であると思うのです。
ここでは二つの点に注目したいと思います。一つは、単に書ききれないと言っているのではなくて、世界もその書かれた書物を収められない。と言っている点です。つまり彼らはイエス様を単なる偉大な先生とは見ていません。彼らはイエス様がこの世界に収めきれないお方。被造物に収まることのない創造主なる方と見ているのです。神である方を書き尽くすこと。知り尽くすことなど、被造物である人間には到底できない。ここに神のことばに対する謙虚さがあります。これこそ、私たちの倣うべき姿です。私たちは神を知りたいと思い、聖書を読みます。イエス様を理解したいと願い、神の言葉に聞きます。けれど、私たちは被造物である限界を知らなければなりません。私たちが神を知った。わかったと言うのなら、それは私たちの驕りです。人が最初に持った誘惑は、神のように知る者になりたいというものに他ならないのです。
もう一つの注目すべき点は、この福音書が、収めきれないイエス様の全貌の中で、敢えて書き記された書物であるという点です。つまりイエス様の全貌は見えないけれども、イエス様を救い主として信じ、イエス様の名によっていのちを得るために必要な教えは、十分この中にあるんだということです。そして私たちにとってもこれで十分なのです。

ヨハネ21:20-23 「この人はどうですか」
「まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」これはペテロの殉教を予言した言葉でありました。これを聞いて、ペテロは「はい。従います。」とは言いません。彼は振り向いて、イエスが愛された弟子、ヨハネを見ながら問うのです。「主よ、この人はどうなのですか。」ここに、主を愛し続けた弟子と、主に愛された弟子が並び立つのです。
ペテロは何かあると、まっ先にイエス様に付き従い、その行動力ゆえに他の弟子たちからも一目置かれておりました。彼はヤイロの娘が死んで蘇る場面に立ち会い、イエス様の栄光ある姿をヘルモン山にて目の当たりにし、ゲツセマネでもイエス様の身近くに呼ばれました。自分こそはイエス様の一番弟子。ところが、そこにはいつも、ヤコブとヨハネの兄弟が一緒でした。ペテロから見れば、なぜこの兄弟、とりわけヨハネがいつも御側に呼ばれるのかがわからない。ヨハネなど、年若いだけの生意気な鼻垂れ小僧ではないか。確かに、ヨハネは、いつも三羽烏として呼ばれ、イエス様の御側に置かれるのですが、ペテロに比べると目立って活躍いたしません。なのにイエス様に愛されるのはいつもヨハネです。ペテロがヨハネに嫉妬したのは無理からぬことです。もちろん、聖書はそこまで記しておりません。ただ、ペテロの問いがあるだけです。ですからこれは想像でしか無いわけですが、ペテロは自身が与えられた使命の大きさに圧倒されて、自分よりも弱く活躍もない若造のヨハネを捕まえて、安心しようとしたのではないか。「ああ、あのヨハネはあなたとは違う。わたしに従う者は、みな望まないところに連れていかれる。それは誰もが担えるものではない。だからこそあなたに言うのだ。皆の見本として、立派に使命を全うしなさい。」と言って欲しかったのではないでしょうか。
さて、これに対してイエス様の返答は素っ気ないものでした。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」関係ない。と言われるのです。主の召しは、その人その人に個別に与えられる使命だと。主に従う者が100人いれば、その従い方は100通り。それは比べ得るものではありません。パウロはローマ12:3で「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。」と言っていますが、これはまさにその通りでして、誰かの真似をして生きることも、誰かと比較して落ち込むこともない。神が求められるのは、あくまでも神が与えられた恵み、賜物に応じて精一杯に生きるということであります。
ペテロはイエス様の言葉どおり迫害の中に殉教したと言われています。ヨハネは逆に殉教の恵みにあずかることは無かったですが、最後まで生き延び、それゆえ福音書を残します。二人とも、賜物に応じて精一杯に生き、そして死んでいったのです。私たちもと思うのです。私たちはすぐに「この人はどうなのですか」と問いたくなります。しかし、それは純粋なその人への関心というよりは、むしろ、自身への言い訳にはなっていないでしょうか。自分よりも若い人。ドジな人。活躍していないように見える一人を指さして、「この人はどうなのですか。」と、安心しようとしてはいないでしょうか。自分よりも楽をしていると見えるその一人を指さして、「この人はどうなのですか」と糾弾してはいないでしょうか。そして内心では、自分をアピールする材料にしてはいないでしょうか。
違います。人にはそれぞれ委ねられた使命があります。殉教すること、しないことに優越感も劣等感もありません。目に見えて活躍する兄弟姉妹に、嫉妬も羨望も持つ必要はありません。委ねられた使命が違うのです。「あなたの道を行きなさい。」と主は私たちに語り掛けておられるのです。

第2ペテロ1:3-8 「知識には自制を、自制には忍耐を」
今、社会全体がキレやすくなっていると言います。子どもも大人も関係なく、ほんのちょっとしたことがきっかけに、キレて暴れだします。ある程度、そのようにキレていたほうが、得をすると言いましょうか、楽に生きられる。たとえ暴れてでも自分を主張したほうが良い。そういう共通の認識がどこかにあるのです。一昔前のように、耐え忍ぶということが単純に美徳とは考えられないのです。自分の気持ちに正直に生きるのが良い。我慢するのは良くない。とても耳ざわりの良い勧めがまことしやかに語られています。
けれど、自分の気持ちに正直に生きることは果たして正しいのでしょうか。タバコやお酒、ギャンブルや性衝動、DV、あらゆる欲望に対して、私たちは自分の気持ちを優先して良いものでしょうか。聖書は感情のままに自由に振る舞ってはいけないと教えます。なぜなら、人が自分の気持ちに正直に生きることは、基本的には神に従って生きるということと相対するからです。私たちの本質は罪人である。このところを見失うと私たちの目指すべきところも、ぶれてしまいます。
自分の気持ちや感情に正直になるとは聞こえが良いですが、私たちの正直は罪の影響を受けています。そして、その行き着く先は滅びであることは、実は私たちも知るところです。もちろん、だから何事にも我慢しなさい、と言いたいのではありません。自分の怒りや欲望に対して、気分や感情ではなくて、理性を持って、知識によって、向き合いなさいと言いたいのです。
ところがです。今日の聖書箇所を見ますと、知識には自制をと書かれています。今まで散々に、自制のためには知識が必要だと見てきましたのに、聖書はその逆を言うのです。知識には自制を。つまり、物事に対して怒りや感情をもってではなくて、神のことばという新しい物差しで測ることは大事ですけれど、注意しないと、その神のことばすらも私たちは自分勝手に受け止めてしまう傾向があるということです。
都合よく受け止められた神のことばは、都合よく利用され、それはもはや私にとっての都合の良いことばでしかありません。つまり、それは何の物差しにもならないということです。私たちの怒りや欲望を鎮めるどころか、むしろその怒りや欲望を正当化とする都合の良いことばと成り下がってしまいます。相手を裁き、自分を義人とするために神のことばが悪用されるのです。知識というのはある種の力です。神のことばは相手を黙らせる切り札ともなり得ます。それだけに、この知識には、自制が必要なのです。
さらには自制には忍耐をとあります。自制は一度きりの決断ではないということです。当たり前の話ですが、それは何度も何度も繰り返し問われる資質です。自制することは、ある意味で、不自由であり、面倒です。投げ出したくなります。けれど、私たちはそこに留まらなければならないのです。タバコやお酒を辞めるために100回自制しようと、101回目に誘惑に負ければ、それまでの苦労は水の泡となります。1000回忍耐しようと、1001回目で投げ出せば、元の木阿弥です。怒りなどの感情も、どれだけ平静を保とうと、一度怒りに身を任せれば、もう止まらない。タガが外れてしまうのです。そう考えると、これは私たちには不可能に思います。聖書は現実離れなことを言っていると思います。だからこそ、これらの資質の一切に、愛を加えなさいとペテロは言うのです。
私たちは失敗します。気持ちに流されます。すぐに我慢できなくなる弱い者です。けれど、主はその弱さに寄り添われたお方では無かったでしょうか。忍耐とは、失敗しないということではありません。それは留まることであり、諦めないことです。自制することに諦めない。たとえ100回が無駄になろうと、たとえ1000回が白紙に戻ろうと、私たちはまた積み上げれば良いのです。

マルコ1:35 「祈り」 松原湖バイブルキャンプ主事 鈴木聖仕師
さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所に出て行き、そこで祈っておられた。
1.日常の祈り
イエス様の祈り。それは日常の祈りだったということです。そして、イエス様がどんなに忙しい中であっても祈りの時間を、神様との時間を聖別しておられたということ。時には朝早く暗いうちに起きて、時には、群衆に別れを告げ山で。
2. 誘惑に陥らないように祈る
ルカ 22:40 これは、ゲツセマネの祈りです。イエス様は弟子たちに誘惑に陥らないように祈っていなさいとおっしゃられました。ここでは弟子たちはイエス様が祈っているときに眠ってしまうのです。誘惑に陥るとはサタンの策略にハマることです。そう考えると祈りはサタンの策略にハマらないためにあるといえます。逆に言えば祈らないとサタンの策略にはまってしまうかもしれない。ということす。教会の中などの祝福のあるところにサタンは巧妙に入ってきます。サタンは巧妙です。疲れているときに、隙のあるときに攻撃を仕掛けてきます。そんなときには特に祈ることが重要です。自分の思いや自分の力により頼まないために、サタンの付け入る隙を与えないために神様との会話が私たちにはどうしても必要です。神様との会話をしているだけで、サタンは攻撃をやめてしまいます。イエス様が近くにいるときにサタンは何もすることができないからです。
3. 他の人のために祈ること
マタイ 5:44、エペソ 6:18
自分の敵を愛し、迫害するもののために祈るようにすすめています。いや命令しています。学校の、職場の、家族のあの人のために祈るように。どんな時も私たちは生きておられる主に祈りをささげる。祈りも自分の力でしない。御霊によって祈る。聖霊の力に頼って祈る。
でも時に祈れないことがあります。そんな時は、誰かに祈ってもらうことです。自分で祈る祈りと誰かに祈ってもらう祈りこれは同じ神様が働いてくださる祈りです。他の人のために祈ること、祈れない時には祈ってもらうこと、これはとても大切です。祈りは私たちクリスチャンの呼吸です。呼吸が止まると私たちは生きてゆけません。祈らなくても呼吸はとまりません。でもクリスチャンとしての呼吸は止まっているんです。神様との関係はなるべくあったらいいとか、たまに必要とかではなく、いつも必要です。絶えず必要です。
今年の松原湖バイブルキャンプでは「10%アップ」をキーワードにお支えください。
みなさまのキャンプのための祈りの時間を10%アップ。松原湖の夏キャンプへの参加者10%アップ、奉仕者10%アップ、献金額10%アップにご協力ください。
この度キャンプサンデーにお招きいただいたこと、尊い捧げ物を心から感謝申し上げます。この小さきもののためにもお祈りいただければ幸いです。
