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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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181230 ルカ1:46-56 「しあわせものと呼ぶでしょう」

ルカ1:46-56 「しあわせものと呼ぶでしょう」

 マリアという存在は、キリスト教会の中で特別です。マリアは自身のことを「ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。」と言いますが、事実、後の時代の人々は、マリアのことを聖母マリアと呼んで、神格化していきました。1962~1965年に行われた第2バチカン会議の『教会憲章』では、「神の恵みにより、キリストの諸神秘に関わった聖なる母として全ての天使と人間の上に高められたマリアが、特別な崇敬をもって教会から讃えられる事は当然である。」と記されています。マリアには天使と人間の上の地位が充てがわれているのです。古来、マリアほど幸せ者と称えられた人は他におりません。
 マリアは「力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの、主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。」とも言っています。力ある方が私に大きなことをしてくださったから、救い主の母となったから、神の尊い器となったから、だから人々は私を幸せ者と思うでしょう、とです。
 そして、それは確かにその通りなのです。マリアが素晴らしいのではなくて、素晴らしいのはマリアの宿した神の御子である。これはその通りなのです。マリアが特別信仰深かったとか、美しかったとか、資産家だったとか、努力家だったとか、そういうことではない。御子の誕生に用いられた女性という一点で、マリアは他の誰とも違う特別の評価を後世から受けるのです。
 けれどです。それは人々の評価です。マリア自身の評価ではありません。彼女は、自分の身に宿ったいのちが特別だったから神に喜んだのではなくて、神が目を留めてくださった。神の目から見れば卑しいはしために過ぎないこんな私に、神は関心を寄せてくださった。だから彼女は幸せ者だと告白しているのです。
 世の人々はその身に起きる結果に目を留めます。その人の肩書きを評価します。聖母となったマリアをです。けれど、私たちが心から望むのは、肩書きを外した私そのものを認めてもらうことではないでしょうか。
 世の中はあまりにも私たちの肩書きや結果を求めてきます。会社では売上成績が、学校では学力順位が。ご近所づきあいでは、夫の年収や子どもの進学先、乗っている車に住まいの大きさ。あらゆるものが評価の対象になるのです。私たちは少しでも他人からの評価を得るために、様々な仮面を被って生きることが強要されます。相手にとって価値のある私。魅力ある私。そうでなければ、誰も私に見向きもしてくれない。だから必死に自分を装うのです。けれど、そこには本当の意味での信頼関係はありません。条件付きです。あなたが私の役に立つ限り友達ですよ。あなたと一緒にいることが、私にとって得である限り、私はあなたを愛しますよ。けれど、そういった関係に私たちは決して満足できません。それは私を見ていない関係だからです。私でなくても構わない関係だからです。私が期待に応えられなくなれば、立ちどころに消えてしまう関係。私よりも優れた誰かが現れたら、もう用済みになって捨てられるのです。私たちが望むのは変わらない愛です。有名になった私じゃなくて、成功して活躍している私ではなくて、たとえ有名にならなくても、成功しなかったとしても、私という存在を認めてくれる。そういう存在をです。
 イエス様とはまさにそのようなお方なのです。ナザレの片田舎で、マリアという少女に目を留めていた人がいったい何人いたでしょう。後の時代の人々は、皆マリアを幸せ者と呼びます。聖母マリアをです。けれど、その時代。彼女を心から喜び、関心を寄せていた人が果たして何人いたでしょう。しかし、救い主はそんな彼女に目を留められたのです。
 この眼差しはマリアだけに向けられているのではありません。マタイ然り、ザアカイ然り、そして、私たちもまた然りです。世は私たちの肩書きを見るでしょう。私たちの結果を求めるでしょう。もし私たちに何の肩書きも無く、結果も出なければ、人々は見向きもしないでしょう。けれど、主はご覧になっておられる。主は私に目を留めてくださるお方なのです。

181223 ルカ2:1-7 「待望の日」

ルカ2:1-7 「待望の日」

 今年はアドベントという括りで、この降誕の出来事を見ています。待望の日を振り返りますと、その日は準備のない、行き当たりばったりの末の出来事。ヨセフとマリアは皇帝の一言で、右往左往する日常の中で、この日を迎えます。決して我が子の誕生を、万全を期して備えたわけではないのです。ホントだったら、住み慣れた我が家で、きれいな産着を着せて、ふかふかのベッドに横たえたかったと思うのです。我が子の出産に、色んな夢があったと思うのです。けれど、そういう計画は全てご破算にされる、この世の力というものがある。彼らの存在は吹けば飛ぶような小さなものであります。けれど、神は、そういう意図せぬ計画、不本意な決断すらも、最善と導かれ、この日を迎えるのです。
 もしキリストが、皇帝のような待遇で生まれていたなら、王宮のフカフカのベッドの上で生まれていたなら、いったい誰が、このキリストによって救われるでしょうか。もし神が高いところから私たちを見下ろして、長い蜘蛛の糸を登りきった者だけを救われるような方なら、いったい誰が、この救いに与ることでしょう。イエス様は宮殿ではなくて家畜小屋で。ふかふかのベッドではなくて飼い葉桶で。産まれる必要があったのです。イエス様はナザレではなくて、ベツレヘムで産まれる必要があったし、そのためには、皇帝の住民登録の号令が必要だった。そうでなければ、イエス様は極一部の、限られた者だけを対象とする救い主であったことでしょう。ヨセフとマリアにとってそれは降り掛かった災難でしか無かったとしてもです。
 私たちの人生を揺るがし飲み込むような、世界や時代の力というものがあります。私たちの目を奪うようなきらびやかで、心地良い出来事があります。逆に、私たちの人生を遮るような出来事がときとしてあります。なんでこんなことになったのかと、口を開けば不平不満しか出てこないような、そういうことがあります。自分だけが神に見放されたのかと思うような出来事が突如として降りかかることがある。けれど、クリスマスの出来事を見ますと、それら一切のことが用いられて、神のご計画が成るのです。その出来事の意味は、私たちの内には無くとも、神のご計画の内にはあるのです。そしてそのことを、私たちは振り返って知るのです。
 主の降誕を待ち望むアドベントを、ヨセフとマリアは、計画通りに過ごしたわけではありません。彼らにはもっと違った計画があったことでしょう。きれいな産着も着せたいし、ふかふかのベッドも用意したかった。住み慣れた家で、その日を迎えたかった。けれど、実際は、彼らにはどうすることもできない状況の中で、懸命にその日その日を過ごすことしかできなかったのです。これは、主の再臨を待ち望む私たちも同じです。その日がいつかはわからないし、明日に何の保証があるわけでもありません。私たちは今日という日の意味すらわからない。でも、だからこそ、私たちは今日を主の前に恥ずかしくないように生きるのみです。主のご計画の中にある今日なのです。一切の出来事が、主の手にあって用いられたのです。であるならば、私の今日という日も、主のみこころのままにあるべきです。

181216 ルカ1:24-25、39-56 「エリサベツとマリアのアドベント」

ルカ1:24-25、39-56 「エリサベツとマリアのアドベント」

 24、25節を見ますと、当時不妊というのが恥とされていたこと。そして、そういう偏見にエリサベツ自身が大変心痛めていたことがよくわかります。ですから、今、こうして子を身ごもったことについて、やった嬉しい!という喜びよりも、長年の張りつめていた気持ちがふっと軽くなったような安堵を覚えるエリサベツでした。「落ち度なく」を合言葉に、精一杯仕えて来たエリサベツ。彼女は人一倍、周囲の評価に怯えていたでありましょう。「安静にしていた。」とありますのは、第3版では「引きこもって」と訳されていた言葉です。年老いた身ですから人一倍気を遣っていたということでしょうが、それと同時に、年老いた身の妊娠を揶揄する声を避けたのではないか。興味本位で無責任な噂が飛び交っていたと思うのです。エリサベツのこれまでの苦しみや葛藤といったものまできちんと伝われば良いでしょうが、多くは表面的で刺激的な情報、そして膨れ上がった噂だけが広まっていく。老女の妊娠は人々の好奇心をあおる、格好のネタであったことでしょう。
 一方、マリア。ガブリエルによって妊娠を告知された彼女は、戸惑い恐れつつも、そのことを受け入れます。しかし、だから彼女は、一切のことに安心したかというと、そんなことはありません。なぜなら、他人のことを興味津々に噂する世間の目はマリアにも向けられているからです。主が共におられる。そこに疑いはありません。だからと言って、人々のあらぬ言動や好奇の目に傷付かないかと言いますと、決してそんなことはありません。何と言っても、マリアはまだ12歳そこそこの少女なのです。繊細過ぎる年頃。もしお告げが本当なら、このことはいずれ隠しておけなくなります。お腹が大きくなっていくのを止める術は無いからです。きっとあらぬ噂が飛び交うでしょう。先のことを想像すると、そこには不安しかありません。そこで彼女は村を出ます。ガブリエルが告げたエリサベツのもとに急いで向かいます。心細かったのです。一刻もはやくエリサベツに会いたかった。なぜなら、エリサベツだけがマリアの身に起こった全てを理解してくれるだろうからです。エリサベツもまた、神の不思議を体験しているその人だからです。
 マリアはエリサベツのもとに着き、あいさつをします。すると、エリサベツの体内の子が躍り、聖霊に満たされて言います。「あなたは女の中で最も祝福された方。」エリサベツはマリアがあれこれと説明するまでもなく、状況を把握したのです。そして、マリアを祝福します。マリアはマリアで、エリサベツの体の変化に神の取扱いの不思議と確かさを見ます。そして、何より誰にも言えず一人抱えるしか無い事を、初めて他人の口から祝福されて、わが身に起きた不思議を神の幸いとして改めて実感するのです。
 「マリアは、三カ月ほどエリサベツのもとにとどまって、家に帰った。」とあります。同じ立場に置かれた二人だからこそ、二人は互いの支えとなりました。その痛みも悲しみも戸惑いも喜びも自らと重ね合わせる二人だからです。心の底からわかり会える二人。この二人に比べれば、ヨセフもザカリヤも遠く及びません。救い主の誕生という大きな使命を背負うために、まずこの交わりが二人には必要だったのです。
 実はこのような交わりは私たちも経験している所です。すなわち、神の家族の交わり。信仰による交わりです。なぜなら、私たちが置かれている日常は、私たちの最も深い所を共感できないからです。私たちはどれだけ親しい人といましても、どこかで信仰のゆえの孤独を覚えます。久しぶりの同窓会で、懐かしさと共に違和感を覚えたりします。友人たちが盛り上がる話題にどこか共感できていない。居心地の悪さを感じます。何か根本的な部分で自分は違うと気付かされるのです。私たちはまことの神を知らない偶像の国において、挫けそうになる心を抱えて、必死に踏ん張り続けています。孤独に耐えています。けれどです。私たちは、唯一教会にあっては、心安らかにその荷を下ろすことができる。分かつことができるのです。私たちには、その孤独を、不安を、喜びを、共感する信仰の仲間がいる。これは何と幸いなことでしょう。一人で立っていられるほど、私たちは強くはありません。敢えて言います。私たちの信仰はこの交わりの中でのみ支えられるのです。

181209 ルカ1:26-38 「マリアのアドベント」

ルカ1:26-38 「マリアのアドベント」

 御使いガブリエルは「おめでとう」と言い「こわがることはない」と言います。しかし、そんなわけにはいきません。御使いの祝福の言葉は、マリアにとってはあまりにも突然で、重たい言葉なのです。マリアはこの時12歳くらいだったと言われています。ヨセフと婚約中であったマリアは将来を夢見る少女でありました。人並みに結婚して、貧しくても夫と二人その日の糧が与えられ、そしてできれば子どもを授かって・・・。ところが、御使いの知らせは彼女の淡い夢を無残に打ち砕くのです。婚姻中に妊娠すれば、当然父はヨセフと皆思うでしょう。けれどヨセフがそれを否定したらどうでしょう。姦淫は石打です。そしてマリアがどれほど否定しても、これからお腹はどんどん大きくなっていくのです。ヨセフは裏切られたと傷付くでしょう。怒って婚約を解消するかもしれません。いえ、たとえ彼がそれを許しても、本当の意味でもう心を通わすことはできないかもしれません。マリアのお腹を見るたびにヨセフは惨めになるでしょう。ですから、マリアの今直面した試練と言いますのは、おめでとう。と言われるような単純なものではないのです。これからの人生を一変させるお告げなのです。
 けれど彼女は御使いの言葉を信じ受け入れます。そこにはエリサベツの存在がありました。エリサベツはマリアの親戚にあたります。子が産めなかったエリサベツは、きっと幼いマリアを実の子のようにかわいがっていたことでしょう。ですから不妊の女の悲しみを幼いマリアも身近に見ていたに違いありません。そのエリサベツに子が与えられたと言うのです。もしそうだとしたら、それは何と素晴らしいことでしょう。エリサベツの身に起きた奇跡をマリアは自分のことのように心から喜びます。神のなさることは全て時にかなって美しい。それは間違いなく主のなさることに違いありません。そして主がなさるなら、私に告げられたことも、その通りになるに違いない。マリアはエリサベツの出来事を聞いて、神にとって不可能なことは何もないことを知るのです。そしてこの全能のお方が私と「共におられる」。彼女は答えます。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」
 マリアの今後は、どう想像しようと困難に満ちています。けれど、どのような困難があろうと、主が共におられる。老女と処女に子を授ける方、全能なる神が共におられる。ここに平安があるのです。困難が取り去られることが平安であると、私たちは思いがちです。けれど聖書は、信じれば困難が無くなるとは言ってくれません。神に選ばれたマリアの人生は、むしろ波乱万丈となりました。けれど、どのような時でも、どのような状況でも、主が共におられる。たとえ炎の中であろうとも、水の中であろうとも、そのところで、私たちはインマヌエルなる主がおられることを知る。私たちは試練や苦しみの中で、なお平安を得るのです。
 「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」イザヤ43:1c-2
 日々の現実の歩みは私たちに様々な不安を招きます。目まぐるしい毎日に、私たちは息も付けぬほどです。将来を考えるとき、先のことを思う時、私たちにとってそれは希望である以上に、襲い掛かる不安です。けれど、それらは決して私たちの恵みを奪い去ることはできません。イエス様は、遠く高い所で私たちのもがく姿を見ておられる方ではなくて、私たちが置かれるそのところに降りて来て下さった方。私が嘆いているまさにその所に共にいて下さる方だからです。
 「高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」ローマ8:39

181202 ルカ1:5-23 「ザカリヤのアドベント」

ルカ1:5-23 「ザカリヤのアドベント」

 イスラエルにとって子が生まれるというのは=神からの祝福と考えられておりましたから、不妊というのは神の祝福が及んでいないという風に考えられていました。ですから、不妊の夫婦というのは、それだけで肩身の狭い思いをする、そのような社会でした。ザカリヤとエリサベツの二人は特に世襲制の祭司家系でありますから、周囲からのプレッシャーは尚の事。人々の何気ない、善意からの一言に彼らは傷付き、心痛め、悲しみ、しかしそれでも誰かを憎むことなく、神を恨むことなく、落ち度無い生活を過ごしてきた二人でした。
 神殿で香を炊く務めは祭司にとっても特別の務めでした。生涯に一度だけ、一度当たれば次からはくじから避けられて二度とできないほど名誉ある務め。ザカリヤは高まる胸を押さえながら、落ち度無く、慎重にと、この務めを果たしていたことでしょう。すると、そのような彼の下に、御使いが現れるのです。「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって、あふれるばかりの喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます。」年老いたザカリヤにとって子が欲しいという願いは、もう随分前に諦めたことでした。しかし、それでも捨てきれない願いというものがあります。年をとったから。妻が不妊だから。頭でわかっていて、そのように自分自身に言い聞かせて、むしろ願い続けることのほうが理不尽だということが身に沁みてわかって、やがて祈ることすらやめて、しかし、それでも捨てきれない願いというものがある。御使いはそのような心の奥底に閉じ込めた願いを聞かれて、「あなたの願いが聞き入れられたのです。」と語ったのでした。
 ザカリヤの姿を見ながら、祈り続けることの困難を覚えます。これは何も、子どもが与えられるかどうかということだけの話ではありません。私たちの人生には、長い年月をかけてあきらめざるを得ない祈りというものが時にあるものです。自分の身に降りかかった不幸や試練を、私たちは長い時間をかけて、少しずつ受け入れ、心に折り合いをつけていきます。祈り続けることよりも、祈りを止めることで、心の安らぎを得ることがあります。
 しかしです。ザカリヤとエリサベツを見る時、これまでの長い長い悲しみの日々。祈りが聞かれないと嘆いたその沈黙の日々には、意味があった。まさにこの時のためであったと知るのです。
 長い悲しみの末に、もう人の手には完全に不可能になって、子が授かる。ヨハネの誕生はそうでなければならなかったのです。なぜなら、常識では考えることのできない、信じられない奇跡だからこそ、マリアに勇気を与えることができたからです。エリサベツが若ければ、マリアにとって何の力添えにもならなかったことでしょう。彼女がもう何人も子どもを産んでいる人だったら、それは何の不思議でもありません。彼女が不妊の女だったからこそ、そのことに苦しみ、涙した日々をマリアが知っているからこそ、エリサベツの存在はマリアが神に委ねる後押しとなったのです。彼らの悲しみの日々が必要だったのです。
 つまり、ザカリヤとエリサベツの願いは、これ以上無いみこころの時に適えられたということです。これが神の時と言うのです。これまでの彼らの人生は、忍耐の人生でした。悲しみを抱えた人生でした。それは、自分たちの思い描く方法、自分たちの思い描く時、自分たちの願いどおりにならないことに対する悲しみでありました。しかし、彼らは悟ります。自分たちの願いを遥かに超えた神のご計画があることをです。むろん、このことは私たちにとっても言えることです。私たちは、私たちの思い通りを神に強要します。私の願う方法が最善であると信じています。だから、事が思い通りに進まない時、神はどこにいるのかと嘆くのです。しかしそうではありません。神のご計画こそが最善なのです。私たちは今日、思い通りにいかないことに嘆く必要はありません。ザカリヤとエリサベツは、不妊のまま年を重ねる必要があったのです。全てのことを用いて、神は最善をなしてくださるのです。神の時は最善の時。それは私たちの人生にも備えられています。