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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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190120 ハイデルベルク信仰問答 問6~8

ローマ5:17-21 「創造と堕落」(罪の由来)

 人は生まれついての罪人であると私たちは前回学んだことでした。ではなぜ神は人を罪ある者として作られたのでしょう?もしもそうなら、人が生まれついて罪人であることの責任は、創造主たる神にあるとは言えないでしょうか。けれど、ハイデルベルク信仰問答は、微動だにせず答えます。「いいえ。」なぜなら神は人を良いものに造られたからだと言うのです。神が創造された時、人は良いものだった。それならば、罪は神に由来いたしません。しかしやはり最初の質問に戻ります。ではなぜ人は生まれついて罪人なのでしょう。
 それは、アダムとエバの楽園における堕落と不従順によってであり、それゆえ、人の本性は毒されて、彼らに連なる全ての人類は罪のうちに生まれるようになった、とハイデルベルク信仰問答は答えます。つまり、罪は人に由来すると言っているのです。それは人類の最初の人が罪を犯したことにより、人の本性が毒されたんだと。それはつまり、自分の思うままに生きたい。自分の好きに生きたいという本性です。神と共に生き、神の願うところを喜びとしていた人の本性が、自分の思うままに、自由に生きることを望むように毒されてしまった。堕落の正体とは、実は、このことに他なりません。神のみこころから自分の願望へと思いを向けさせる。これが私たちの毒された本性であります。そして、この毒された本姓のゆえに、人は皆、罪の内に生まれるようになったのだとです。
 ではなぜそのような可能性すら残したんだ。神は全知全能ではないか。とおっしゃるでしょうか。園に置かれた唯一食べてはならない一本の木。善悪の知識の木。そんなもの創造されなければ良かったのに・・・。しかし、そうではないのです。この食べてはならない不自由な木こそ、神と私たちとの関係を保つ恵みの木だったのです。
 無自由と不自由は全く違います。無自由というのは、選択の余地が無いということです。私たちの意思が全く問われない、ただ服従するだけの存在ということです。不自由というのは、選択に制限があるということです。ルールがある関係です。神様は創造の御業において、人を意思なく服従するだけの存在としては造られませんでした。敢えて選択の自由を与えられた。食べてはならない不自由な木の実を用意された。そうすることで、人は初めて自発的に神に従う存在、神に応答する存在となることができたのです。
 神様は、わざわざ間違えるような場所に善悪の知識の木を生えさせたのではありません。他のあらゆる木に混ざって、この一本があるわけではない。園の中央に、いのちの木とたった2本、明らかに目に留まるように生えさせたのです。ですから、人がこれを間違えて食べるということはありえません。もし食べるとすれば、それは意図的な反逆と言わざるを得ません。しかし、意図して食べないとすれば、それは神への従順となる。そしてそれを食べずとも、自由にしても良い木の実は無数にあるのです。もしも堕落の由来を神のせいだと言うのなら、その人は意志のある存在として、神に応答する存在としての自分を完全に否定しています。それはなぜ自分を命じられるままにしか動けないロボットのように造って下さらなかったのかと、嘆くようなものなのです。人が神を信仰するのには、何かしらの禁令が必要でした。そして、もっともリスクのない禁令として与えられたのがこの善悪の知識の木から食べないという命令だったのです。
 ハイデルベルク信仰問答は「どのような善に対しても全く無能で、あらゆる悪に傾いているというほどに、わたしたちは堕落している」と言います。もう、どうしようもない。と言います。けれど、ここに脱出の道をも見出しています。それは「わたしたちが神の霊によって再生され」ることです。私たちは本当に無能です。今ある恵みに目を向けず、どうしても不自由な一本に目が行ってしまいます。これはもう、そうなのです。けれど、神の霊によってであれば、不可能に思える私たちの再生もなされるのです。

190113 ハイデルベルク信仰問答 問3~5

ローマ3:9-20 「私たちの悲惨」

 私たちは悲惨だと、ハイデルベルク信仰問答は言います。どういう意味でしょうか。必ず死を迎えるこの身を悲惨と言うのでしょうか。何を手にしても決して満足することのない欲望の虜であることを悲惨と言うのでしょうか。実はここで使われる悲惨とは、もともとは「土地から離れる」という意味の言葉が使われているのだそうです。それはつまり、本来あるべきところにない。本来あるべき姿を失ってしまったことの悲惨です。では本来の私たちの姿とは何でしょう。それが律法の示す所です。すなわち神と人とを愛するという神の被造物としての本来の姿です。
 今日このところで特に覚えたいのは、私たちが神と隣人を愛することが全くできないどころか、「神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いている」者だということです。私たちの愛が足りないとか、愛し方が難しいとか、そういう話ではないのです。愛するどころか、憎んでいる。それが私たちの本質なんだとこう言っているのです。
 正直、そこまで言う必要はないんじゃないかと思ったりもします。確かに愛が足りないと言われればそうかも知れない。神を後回しにして自分のことばかりしている私かも知れない。けれど、それで神を憎んでいるとは言い過ぎではないか。他人の心配よりも自分の心配ばかりと言われればそれは確かにそのとおり。でも自分の心配を優先したのは余裕が無いからであって、決して他人を憎むほどの悪意があるわけでは決してない。そもそも、律法によって悲惨さに気付くというのは、律法を守ろうとして守れない、愛そうとして愛せない自らに気付くということですから、それは愛する方向に向いている証拠ではないか。と、こう思ったりもするのです。
 けれど本当にそうでしょうか。本当に、私たちは愛することを望んでいるのでしょうか。本当に、愛そうとしているのでしょうか。愛することとは何か。一言で言うと、それは相手のために「いのちを捨てる」ということです。では、私たちは神のために、隣人のために、いのちを捨てることを本当に望んでいるのでしょうか。私たちは口では愛している。愛そうと努力している。と言いますが、やっぱりいのちを惜しむ者ではないでしょうか。いのちを捨てたくない。犠牲になりたくない。そういう者ではないでしょうか。私は別に、だから悪いと責めたいのではありません。ただ私たちの本質の部分を明らかにしたいのです。私たちは愛する者になりたいです。誰かのために喜んで犠牲を負う者になれたらと思います。けれど、やっぱり愛せない。願うように生きられず、憎むように生きてしまう。これが私たちの本質ではないでしょうか。
 この悪に傾く心については、急な坂道を思い浮かべればよいでしょう。心が傾いているというのは、必ずしもそちらを向いているということだけではありません。神を知り、神を信じる私たちは神に向かって、天に向かって長い長い坂道を歩きます。けれど、時に休憩するのです。立ち止まるのです。するとどうでしょう。足元は坂道。イメージ的には急な崖の斜面くらいを思い浮かべればよいかと思います。そんなところで立ち止まれば、体は自然と坂を下っていくのです。足は滑り落ちていくのです。幾ら神に向いていようと、愛していますと告白しようと、足元ごと滑り落ちてしまうなら、それでは決して登り切ることは適いません。神に向かうことを願いながらも、悪に引き寄せられてしまう。これが私たちの悲惨です。
 しかし、だからこそ私たちはこの悲惨を知ることで、自らの力に頼らない、神の恵みに目が向けられるのです。もう一度思い出したいのは、そもそものこの悲惨は、唯一つの慰め、私が主のものであること失った結果でした。主に委ねて生きるということを失い、私の思うまま、自分を主人として生きるようになった結果です。だから悲惨なのです。一人では滑り落ちてしまうとしても、主とともにであれば平気です。主は私の命綱を握って、悪に傾く私たちの心を、ご自身の側へと引き止めてくださるのです。

190106 ハイデルベルク信仰問答 問1~2

ローマ14:7-8 「ただ一つの慰め」

 近年はポスト・モダニズムと呼ばれる時代です。絶対的な真理が否定され、全てが相対的に捉えられる時代。「それはあなたにとっては本当かもしれないけれど、わたしにとってはそうではない」とこう言われる時代です。このポスト・モダニズムの時代、聖書という真理の書の権威までもが脅かされているのです。もし信仰が受け止める側の心の問題だと言われるなら、もはやここには何の救いの根拠もありません。それは単なる思い込みでしかありません。私たちはそういう聖書の読み方を避けなければなりません。
 今日の説教題は「ただ一つの慰め」です。これはハイデルベルク信仰問答の第1問です。実は今年はこのハイデルベルク信仰問答を用いて、聖書の教えるところを学びたいと思うのです。信仰問答と聞きますと眉をひそめる方もおられるかも知れません。難しそうとか、面白くないと思われるかも知れません。けれど、私たちはこのポスト・モダニズムの時代に、聖書の権威に基づく普遍的な信仰の物差しを持つ必要が、やはりあろうかと思うのです。時代の流行り廃りに左右されない、他者の発言によって変わることのない確かな聖書を読み解く物差し。私たちの信仰の共通の理解を教会として持っておく必要があると思うのです。
 ハイデルベルク信仰問答は「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」という有名な問から始まります。そしてその答えを、私は主イエス・キリストのものだからと言うのです。世の中は、ポスト・モダニズムは、私は私のものだというメッセージで溢れています。「あなたの人生はあなたのものだ。だからあなたの望むように、したいように生きたら良いんですよ」と言います。一瞬、とても心地の良い話に聞こえます。けれど、その語るところの真の意味はこうです。「あなたの人生はあなたのものだから、あなたがどうなろうと、私には関係がありませんよ」。実は「あなたはあなたのもの」というメッセージは、誰もあなたを助けない。誰もあなたに責任を持たない。あなたは自分の責任で一生を生きなければならない。と、こう言っているに過ぎないのです。何と孤独な生き方でしょうか。そして何と悲惨な死に方でしょうか。私の人生の慰めが、私の生き様にかかっていると言われれば、私たちはただ溜息をつくしかありません。
 しかし聖書はそうではないと言っています。生きるにしても死ぬにしても、私は主のものだと、こう言っているのです。私は、私自身のものではなくて、キリストのもの。だからこそ、キリストは私の人生に責任を負ってくださる。父の御旨でなければ髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださる。私を聖徒として整え、祝福の人生を送らせてくださると、こう言うのです。パウロがいつも自らの死を厭わずに、信仰を告白できた根拠は、自分への自信ではなくて、主キリストの救いの確信から来ているのです。福音を正しく理解する時、私たちの人生は文字通り揺らぐことのない確信に満ちた人生と変えられるのです。
 ではこの確信は、どのようにして得ることができるでしょうか。それは3つのことを知ればいいとハイデルベルク信仰問答は言います。一つは、どれほどわたしの罪と悲惨が大きいかということ。二つは、どうすればあらゆる罪と悲惨から救われるかということ。三つに、どのようにこの救いに対して神に感謝すべきか、ということです。次回から、この3つのことを順々に学んでいくことになります。各論に入りますと、とかく忘れがちですが、これからの学びは全て、このただ一つの慰め、私は主のものとの確信に結びつくものだということです。このような学びがいったい何のためになるのか。その答えはこの第1問にこそあるのです。