ローマ5:17-21 「創造と堕落」(罪の由来)
第6問
【問】それでは、神は人をそのように邪悪で倒錯したものに創造なさったのですか。
【答】いいえ。むしろ神は人をよいものに、また御自身のかたちに似せて、すなわち、まことの義と聖とのうちに創造なさいました。それは、人が自らの造り主なる神をただしく知り、心から愛し、永遠の幸いのうちに神と共に生き、そうして神をほめ歌い賛美するためでした。
第7問
【問】それでは、人のこのような腐敗した性質は何に由来するのですか。
【答】わたしたちの始祖アダムとエバの、楽園における堕落と不従順からです。それで、わたしたちの本性はこのように毒され、わたしたちは皆、罪のうちにはらまれて生まれてくるのです。
第8問
【問】それでは、どのような善に対しても全く無能で、あらゆる悪に傾いているというほどに、わたしたちは堕落しているのですか。
【答】そうです。わたしたちが神の霊によって再生されないかぎりは。
人は生まれついての罪人であると私たちは前回学んだことでした。ではなぜ神は人を罪ある者として作られたのでしょう?もしもそうなら、人が生まれついて罪人であることの責任は、創造主たる神にあるとは言えないでしょうか。けれど、ハイデルベルク信仰問答は、微動だにせず答えます。「いいえ。」なぜなら神は人を良いものに造られたからだと言うのです。神が創造された時、人は良いものだった。それならば、罪は神に由来いたしません。しかしやはり最初の質問に戻ります。ではなぜ人は生まれついて罪人なのでしょう。
それは、アダムとエバの楽園における堕落と不従順によってであり、それゆえ、人の本性は毒されて、彼らに連なる全ての人類は罪のうちに生まれるようになった、とハイデルベルク信仰問答は答えます。つまり、罪は人に由来すると言っているのです。それは人類の最初の人が罪を犯したことにより、人の本性が毒されたんだと。それはつまり、自分の思うままに生きたい。自分の好きに生きたいという本性です。神と共に生き、神の願うところを喜びとしていた人の本性が、自分の思うままに、自由に生きることを望むように毒されてしまった。堕落の正体とは、実は、このことに他なりません。神のみこころから自分の願望へと思いを向けさせる。これが私たちの毒された本性であります。そして、この毒された本姓のゆえに、人は皆、罪の内に生まれるようになったのだとです。
ではなぜそのような可能性すら残したんだ。神は全知全能ではないか。とおっしゃるでしょうか。園に置かれた唯一食べてはならない一本の木。善悪の知識の木。そんなもの創造されなければ良かったのに・・・。しかし、そうではないのです。この食べてはならない不自由な木こそ、神と私たちとの関係を保つ恵みの木だったのです。
無自由と不自由は全く違います。無自由というのは、選択の余地が無いということです。私たちの意思が全く問われない、ただ服従するだけの存在ということです。不自由というのは、選択に制限があるということです。ルールがある関係です。神様は創造の御業において、人を意思なく服従するだけの存在としては造られませんでした。敢えて選択の自由を与えられた。食べてはならない不自由な木の実を用意された。そうすることで、人は初めて自発的に神に従う存在、神に応答する存在となることができたのです。
神様は、わざわざ間違えるような場所に善悪の知識の木を生えさせたのではありません。他のあらゆる木に混ざって、この一本があるわけではない。園の中央に、いのちの木とたった2本、明らかに目に留まるように生えさせたのです。ですから、人がこれを間違えて食べるということはありえません。もし食べるとすれば、それは意図的な反逆と言わざるを得ません。しかし、意図して食べないとすれば、それは神への従順となる。そしてそれを食べずとも、自由にしても良い木の実は無数にあるのです。もしも堕落の由来を神のせいだと言うのなら、その人は意志のある存在として、神に応答する存在としての自分を完全に否定しています。それはなぜ自分を命じられるままにしか動けないロボットのように造って下さらなかったのかと、嘆くようなものなのです。人が神を信仰するのには、何かしらの禁令が必要でした。そして、もっともリスクのない禁令として与えられたのがこの善悪の知識の木から食べないという命令だったのです。
ハイデルベルク信仰問答は「どのような善に対しても全く無能で、あらゆる悪に傾いているというほどに、わたしたちは堕落している」と言います。もう、どうしようもない。と言います。けれど、ここに脱出の道をも見出しています。それは「わたしたちが神の霊によって再生され」ることです。私たちは本当に無能です。今ある恵みに目を向けず、どうしても不自由な一本に目が行ってしまいます。これはもう、そうなのです。けれど、神の霊によってであれば、不可能に思える私たちの再生もなされるのです。
第6問
【問】それでは、神は人をそのように邪悪で倒錯したものに創造なさったのですか。
【答】いいえ。むしろ神は人をよいものに、また御自身のかたちに似せて、すなわち、まことの義と聖とのうちに創造なさいました。それは、人が自らの造り主なる神をただしく知り、心から愛し、永遠の幸いのうちに神と共に生き、そうして神をほめ歌い賛美するためでした。
第7問
【問】それでは、人のこのような腐敗した性質は何に由来するのですか。
【答】わたしたちの始祖アダムとエバの、楽園における堕落と不従順からです。それで、わたしたちの本性はこのように毒され、わたしたちは皆、罪のうちにはらまれて生まれてくるのです。
第8問
【問】それでは、どのような善に対しても全く無能で、あらゆる悪に傾いているというほどに、わたしたちは堕落しているのですか。
【答】そうです。わたしたちが神の霊によって再生されないかぎりは。
人は生まれついての罪人であると私たちは前回学んだことでした。ではなぜ神は人を罪ある者として作られたのでしょう?もしもそうなら、人が生まれついて罪人であることの責任は、創造主たる神にあるとは言えないでしょうか。けれど、ハイデルベルク信仰問答は、微動だにせず答えます。「いいえ。」なぜなら神は人を良いものに造られたからだと言うのです。神が創造された時、人は良いものだった。それならば、罪は神に由来いたしません。しかしやはり最初の質問に戻ります。ではなぜ人は生まれついて罪人なのでしょう。
それは、アダムとエバの楽園における堕落と不従順によってであり、それゆえ、人の本性は毒されて、彼らに連なる全ての人類は罪のうちに生まれるようになった、とハイデルベルク信仰問答は答えます。つまり、罪は人に由来すると言っているのです。それは人類の最初の人が罪を犯したことにより、人の本性が毒されたんだと。それはつまり、自分の思うままに生きたい。自分の好きに生きたいという本性です。神と共に生き、神の願うところを喜びとしていた人の本性が、自分の思うままに、自由に生きることを望むように毒されてしまった。堕落の正体とは、実は、このことに他なりません。神のみこころから自分の願望へと思いを向けさせる。これが私たちの毒された本性であります。そして、この毒された本姓のゆえに、人は皆、罪の内に生まれるようになったのだとです。
ではなぜそのような可能性すら残したんだ。神は全知全能ではないか。とおっしゃるでしょうか。園に置かれた唯一食べてはならない一本の木。善悪の知識の木。そんなもの創造されなければ良かったのに・・・。しかし、そうではないのです。この食べてはならない不自由な木こそ、神と私たちとの関係を保つ恵みの木だったのです。
無自由と不自由は全く違います。無自由というのは、選択の余地が無いということです。私たちの意思が全く問われない、ただ服従するだけの存在ということです。不自由というのは、選択に制限があるということです。ルールがある関係です。神様は創造の御業において、人を意思なく服従するだけの存在としては造られませんでした。敢えて選択の自由を与えられた。食べてはならない不自由な木の実を用意された。そうすることで、人は初めて自発的に神に従う存在、神に応答する存在となることができたのです。
神様は、わざわざ間違えるような場所に善悪の知識の木を生えさせたのではありません。他のあらゆる木に混ざって、この一本があるわけではない。園の中央に、いのちの木とたった2本、明らかに目に留まるように生えさせたのです。ですから、人がこれを間違えて食べるということはありえません。もし食べるとすれば、それは意図的な反逆と言わざるを得ません。しかし、意図して食べないとすれば、それは神への従順となる。そしてそれを食べずとも、自由にしても良い木の実は無数にあるのです。もしも堕落の由来を神のせいだと言うのなら、その人は意志のある存在として、神に応答する存在としての自分を完全に否定しています。それはなぜ自分を命じられるままにしか動けないロボットのように造って下さらなかったのかと、嘆くようなものなのです。人が神を信仰するのには、何かしらの禁令が必要でした。そして、もっともリスクのない禁令として与えられたのがこの善悪の知識の木から食べないという命令だったのです。
ハイデルベルク信仰問答は「どのような善に対しても全く無能で、あらゆる悪に傾いているというほどに、わたしたちは堕落している」と言います。もう、どうしようもない。と言います。けれど、ここに脱出の道をも見出しています。それは「わたしたちが神の霊によって再生され」ることです。私たちは本当に無能です。今ある恵みに目を向けず、どうしても不自由な一本に目が行ってしまいます。これはもう、そうなのです。けれど、神の霊によってであれば、不可能に思える私たちの再生もなされるのです。