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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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190217 ハイデルベルク信仰問答 問20~23

ローマ1:16-17 「まことの信仰」

 聖書は、すべての人が救われるとは言いません。御子を信じる者が救われると、はっきり語っています。このことはある人にとっては躓きの石となるでしょう。聖書の教えは、結局は選民思想だと批判する人もいるでしょう。しかし、そうでしょうか。溺れている人の手に届くところに、浮き輪はすでに投げられているのです。誰もが手を伸ばせば助かるように、それはもう用意されている。けれど、それを手にするかどうかはその人の意思によるものです。自ら浮き輪を拒絶する者に対して、神はその意思を否定することはなさいません。
 神が人との関係で一貫して求めておられることは、人が自らの意思を持って神に従い、神との関係を築き上げることです。これは創造の御業からしてそうです。神はあくまでもその人の人格を無視することはなく、あらゆる可能性を開いたまま、私たちに問いかけておられます。あなたは禁断の実を食べますか?あなたは神の御子を信じますか?どう答えるかは私たちの自由です。自由だからこそ、私たちは自らの意思を持って、神の御子であるイエス・キリストの尊い犠牲こそが、私の罪を精算するための唯一の償いであったと信じる必要があるのです。
 ハイデルベルク信仰問答は、まことの信仰が大事だと言います。では、まことの信仰とは何なのか。注目したいのは、まことの信仰が、神のみ言葉による啓示を真実と確信する「認識」と、福音を通して聖霊が起こされる心からの「信頼」の双方を伴うと言っている点です。
 信じるということは、ただ闇雲に、よくわからないけれど信じるということではなくて、きちんと確信を持って信じることが大事です。確信がないまま信じようとしても、そこには平安がありません。神を信じても救われている確信が持てないでいるので、むしろ罪意識だけが強まり、窮屈に感じたり、恐ろしくなったりするのです。ですから私たちは救われている確信を得なければなりません。そしてそのためには「確かな認識」、正しい知識が必要です。神の救いには確かな計画があります。そして神は御言葉を通して啓示されます。私たちは聖書を正しく読み、感情ではなくて、理性的にそれを認識する必要があるのです。だから私たちは今、このハイデルベルク信仰問答を学んでいるのです。聖書を通じて語られた神の救いのご計画を、整理し、理解するためにです。
 しかし一方で、ただ聖書を学べば、それがまことの信仰なのかと言うと、そうでもありません。どれだけ神の御言葉に触れ、その知識を増し加えたとしても、そもそもの神に対する信頼がなければまことの信仰には至りません。例えば私が大学生の頃にキリスト教の講義を持っていた教授は、聖書の奇跡を一切否定して、これは便宜上の話だからと教壇の上で語っておりました。この教授にとっては、聖書は人生の教訓の書ではあっても、神との関係を取り戻すため救いの書ではありませんでした。
 信頼とは、聖霊が私たちの内に起こしてくださるものです。では聖霊はどのように私たちの内に信頼を起こされるのでしょうか。それは福音を通してとあります。では福音とは何か。「声なき友の輪」の神田英輔先生は、それは神の国の良き訪れのことだとおっしゃっていました。そして教会は神の福音を広く知らせる「神の国の大使館」であり、信じる者たちは「キリストの大使」だとも。つまり私たちの信仰を生きるその日々、そしてそこで出会うキリストとの二人三脚の歩みこそがまさに福音であり、その信仰の現実の中で聖霊は私たちに神への信頼を起こしてくださるのだということです。日々の様々な葛藤や誘惑の中、時に勝利し、時に挫折し、試練の内に涙する夜を過ごしながら、それでも諦めずに祈り続け、キリストの十字架と復活に慰めを得る。気付けば試練が取り去られていることを知り、神の守りが確かにそこにあったことを知る。そういう経験を繰り返しながら、次第に神に対する疑いの一切が消えて、確かな信頼によって結び付いていることを知るのです。
 ですから、まことの信仰は一朝一夕に得るものではありません。一日一日深められていくものです。自ら聖書に聞くことを通して。そして信仰生活の苦楽を通して。神からの救いの恵みは私たちの血肉と変えられていくのです。

190210 ハイデルベルク信仰問答 問16~19

ピリピ2:6-11 「神であり人であり」

 今日のハイデルベルクの問答では、私たちの罪は、まことの神であると同時に、まことのただしい人間でなければ決して償えないと教えています。人間の罪を償うのですから、生贄は別の何かではなくて、まことの人間でなければなりません。しかし一方で、全ての人間は罪人なので、神の義に適うことはできません。神の義に適うのは、ただ神ご自身でしかありません。ですから神の前に、罪の償いとなり、犠牲の死を遂げることができるのは、まことの神であり、同時にまことの人間である、その両方の性質を併せ持つお方でなければならないのです。だからこそ私たちの仲保者となられるお方は、人としてのご性質を持ちながら同時に神でもあられる、イエス・キリストをおいて他にはいないのです。
 今日のこの学びは神学用語で言いますと、キリストの二性一人格と呼ばれるものです。救い主は神の性質である神性と、人の性質である人性を一つの人格として併せ持つお方であるという意味です。このことは神と人との仲を取り持つ仲保者としての不可欠な要素です。けれど世の常識に当てはめれば、これは全く理解できません。そのため、歴史を見ると、主イエスは神ではなくて偉大な預言者の一人だと言ったり、イエス・キリストは地上における神の仮の姿だと言ったり、実は神の被造物の最高位である天使長だったという、とんでも話まであったりします。けれど、それでは救いの計画は完成しないのです。イエス様がどれだけ正しい人で、人の中でどれだけ飛びぬけた方であっても、それが人の範疇を越えなければ、罪の影響は免れないし、神の義を満たすことは適わないのです。一方で、イエス様が神のご性質のみを持たれる方ならば、永遠なるこのお方は決して死ぬことは適わないのです。死ぬことができないとは、つまり罪の償いとはなれないということです。キリストの二性一人格は神の救いのご計画の中で理解されるべき真理です。
 さて、私たちはハイデルベルク信仰問答から学んでおりますが、このように一つ一つ順を追って確認しますと、イエス・キリストによる救いのご計画が如何に必然で、秩序だっているかがわかるかと思います。全て意味があるのです。なぜ、神である方が人となる必要があったのか。なぜ神の御子であるイエス様が死ななければならなかったのか。なぜ、このお方を救い主として信じる者は救われるのか。そして、これらのことを確認することは、私たちの救いの確かさに繋がることなのです。もちろん、救いは知識では得られません。救いは信仰によるもので、それは聖霊の働きによるものです。けれど、感情ではなくて、理性を伴う知識はその救いの確信をより確かなものとするのです。だからハイデルベルク信仰問答は、これらのことは聖なる福音によって知るのだと言っています。それは何か、超常的な閃きや感情の高ぶり、瞑想や修行の果てに得られるのではなくて、神自らが「まず楽園で啓示し、その後、聖なる族長たちや預言者たちを通して宣べ伝え、律法による犠牲や他の儀式を通して予型し御自身の愛する御子を通してついに成就」されたこの救いを告げ知らせる福音を通して、それは得られるのだと言うのです。
 私たちは聖書に聞く必要があります。それも旧約聖書から順を追ってです。神の創造に由来する本来の神と人との関係があり、堕落によって引き裂かれた関係があり、仲保者によって再び結び合わされる関係がある。そして、この仲保者になることができるのは、神であり人である方、イエス・キリストただお一人である。これが聖なる福音の証しするところです。旧約の神は残酷な神だから読まないだとか、全てのことはイエス・キリストの愛によって上書きされたのだから、新約の恵みだけに目を留めれば良いとか、そういうことではないのです。神の救いの全体像を見る必要があります。神の言葉を前に真剣さと謙遜さを忘れてはならないのです。

190203 ハイデルベルク信仰問答 問12~15

Ⅱコリント5:20-21 「ただ一人の仲保者」

 罪の償いはどうすれば良いのでしょう。神様のみこころを思われるようなことを積み重ねていけば、神はその頑張りを認めて、罪を赦してくださるのでしょうか。そうではありませんね。ハイデルベルク信仰問答は、それは決してできないと言っています。なぜなら、私たちは日ごとにその負債を増し加えているからだと言うのです。じゃあ、どうすれば良いのでしょう。
 出エジプトの折、神はモーセを通じて10の奇跡をエジプトにもたらし、それがきっかけで奴隷だったイスラエルの民はエジプトから出ることが叶いました。このときの10番目の奇跡はエジプト中の初子の命が奪われるという凄惨なものでした。けれど、イスラエルの民の初子の命は奪われなかった。なぜイスラエルの民の初子は死ななかったのでしょうか。それは、イスラエルの民が払った犠牲のゆえでありました。イスラエルの民は、神様のお告げに従って、あらかじめ羊を屠り、その血を家の門柱と鴨居に塗りました。神の裁きを免れるために、家畜の命を犠牲としたのです。「罪から来る報酬は死です。」とありますように、罪の償いは命をもってするものです。神はその家の民族の血統を見られて、罪を過ぎ越したのではありません。その家の命の犠牲をご覧になられた。罪の償いとして、命が支払われているかどうかをご覧になられたのです。
 けれどです。その生贄は、決して十分ではありませんでした。彼らは出エジプトを果たしますが、相変わらず罪を犯し、その度に償いのための命を捧げました。捧げ続けました。決してもういいよとはならなかったのです。当たり前です。それは釣り合わない償いだからです。罪は本来その者のいのちをかけて償わなければならないものです。幾ら動物の生贄を捧げ続けても、神の前に立つとき、やはりその罪の償いが問われるのです。
 なるほど、じゃあ、家畜だから駄目なのでしょうか。人の命が捧げられれば、良いのでしょうか。たしかに人の命の償いは人の命でなければ釣り合いません。けれど、その人の命もまた釣り合うものなのでしょうか。
 これはよく私が話すたとえですが、ある人の娘が肝臓の病気で苦しんでいるとしましょう。娘の苦しむ姿は親にとってこれ以上の悲しみはありません。何としても助けてやりたい。けれど、なかなかドナーが見つかりません。色々と調べると、生体肝移植という方法があることを知りました。急いで先生に駆け寄って、自分の肝臓の一部を移植して欲しいと詰め寄ります。自分はどうなっても構わない。どうか娘を助けてください!親は子のために我が身を犠牲にする覚悟があるのです。ところが、それは無理だったのです。なぜでしょう。実はこの親自身が肝臓を患っていたからです。健康ではない肝臓を移植することは、当然のことながらできません。ドナーとなるための条件は幾つかありますが、最も大事な条件は、その人が健康であるということです。
 罪のための生け贄も同じです。「罪から来る報酬は死です」とありますから、罪による負債は命によって支払う必要があります。しかし、もし用意された生け贄が罪ある身であれば、それは生け贄とはなれません。その身を捧げたとしても、それは自分の罪の負債を、支払っているに過ぎないからです。生け贄となる資格は、その人が霊的に健康であること。罪の無い身でなければなりません。しかしです。人は皆、罪人である。これが聖書の教えるところです。誰も神の前に義を誇ることは出来ません。神の目に適うのは、神自身でなければ不可能です。だから、イエス様なのです。イエス様は神が用意した単なる生け贄ではありません。神が人となって来られたのがイエス様です。この方は人でありながら、神である方なのです。だからこの方は唯一神の目に適う正しい方。自分のためではなく、他の人の身代わりとして死ぬことの出来るお方なのです。このお方以外に救いが無いのはこのためです。聖書が言う救いは盲目的な信仰ではありません。そこには理由があるのです。このお方だけが私たちの罪を償う、生贄となられるお方だからです。

190127 ハイデルベルク信仰問答 問9~11

申命記7:9-11 「罰せられる神」(義なる神)

 堕落という出来事によって決定的となった私たちの悲惨ですが、この創造と堕落の出来事を話しますと必ず出る反論があります。なぜ神は罪を犯すかもしれない人間を造られたのかというものです。しかしこれは神が人の自発的な応答を望まれて、敢えてその選択の自由を与えられたのだということを前回確認しました。神は人が意思を持って神に従うことを望まれました。しかし人は身勝手な不従順によって、神に従わず、自らの思いのままに生きることを選んだのでした。
 その結果、どのような結末が待ち受けているのか。ハイデルベルク信仰問答は答えます。「神は生まれながらの罪についても実際に犯した罪についても、激しく怒っておられ、それらをただしい裁きによってこの世においても永遠にわたっても罰したもうのです。」神は人類の罪を激しく怒っておられます。誰も自分に罪はないと言い逃れられません。それは生まれながらの罪も実際に犯した罪も同じように怒っておられるからです。ご自身が最高のものとして造られた人が、全く違う本性になってしまっているのです。特別に目をかけ、他のあらゆる被造物とは違う、ご自身の使命を任すべき存在として造られたのにです。その存在は神の栄光を現すどころか、逆に神の名を貶める存在となり果ててしまっている。神はご自身が造った人間が、こうも崩れた本性となり下がったことに、怒らずにはおられません。神はただしい裁きによって罰するとあります。しかもこれはこの世においても、永遠にわたってもだと言います。徹底的に罰っせられる神。これが聖書の語る神なのです。そして私たち人間の負わなければならない現実と言うのです。
 しかしここに、もう一つの反応があります。それは開き直りと言いましょうか。問11「しかし、神は憐み深い方でもありませんか?」言い換えると、神は愛の神じゃないのか?という反論です。完全な責任の転嫁です。非常に見下した言い方だと思います。神が滅ぼすことを私は認めない。神は憐み深くあるべきだ。しかし、多くの人が実はこのような神観を持っているのです。つまり神の存在は認める。けれど、それは自分にとって都合の良い神、便利な神である限り認める。という、完全に主従を逆にした神観です。
 神は確かに憐み深い方であります。愛の神です。しかし、その愛は罪を見逃す愛でしょうか。その憐みは無条件に向けられるものでしょうか。聖書にはどこにもそんなことは書いてません。聖書の神は裁きの神であり、妬まれる神であり、被造物がどう思おうと、ご自身の意思を優先することができるお方であられます。そしてその神が示される愛とは、愛するひとり子のイエスを身代わりの命としてお見捨てになったことではなかったか。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。」(Ⅰヨハネ4:9)とある通りです。愛の神なら赦して当然でしょ。と言うのは、イエス様は身代わりになって当然でしょ。と言うのと同じです。自らの罪を棚に上げて、神は憐み深い方ではないかと言う人は、あまりにもイエス様の命を軽く見ているのです。
 神は何よりもまず義なる神なのです。もし神が罪を曖昧にするならば、もはやそこに義は無いのです。そして、もしも神が不義な方なら、実はこれほど怖いことはありません。それは気分一つで裁きをする独裁者のようなものです。いつ根拠のない裁きが下るわからない中、怯えながら過ごすしかありません。神が義なる神である。だからこそ私たちはこの方の裁きに全幅の信頼を置くことができるのです。そして神は、そのご自身の義ゆえに、罪を罰せずにはおられないのです。
 私たちには、神の愛を盾にして、神を脅すことは赦されておりません。責任転嫁して罪を誤魔化すことはできません。私たちは罪の本性を認めるべきです。私たちがその罪ゆえに滅びるべき存在であることを、ただ真摯に受け入れ、神の前に頭を垂れる者であるべきなのです。