ローマ1:16-17 「まことの信仰」
第20問
【問】それでは、すべての人が、アダムを通して堕落したのと同様に、キリストを通して救われるのですか。
【答】いいえ、まことの信仰によってこの方と結び合わされ、そのすべての恵みを受け入れる人だけが救われるのです。
第21問
【問】まことの信仰とは何ですか。
【答】それは、神が御言葉において、わたしたちに啓示されたことのすべてをわたしが真実であると確信する、その確かな認識のことだけでなく、福音を通して聖霊がわたしのうちに起こしてくださる心からの信頼のことでもあります。それによって、他の人々のみならずこのわたしにも、罪の赦しと永遠の義と救いとが神から与えられるのです。それは全く恵みにより、ただキリストの功績によるものです。
第22問
【問】それでは、キリスト者が信じるべきことは何ですか。
【答】福音においてわたしたちに約束されていることすべてです。わたしたちの公同的な、確固たるキリスト教信仰箇条がそれを要約して教えています。
第23問
【問】それはどのようなものですか。
【答】わたしは、天地の造り主・・・(使徒信条参照)
聖書は、すべての人が救われるとは言いません。御子を信じる者が救われると、はっきり語っています。このことはある人にとっては躓きの石となるでしょう。聖書の教えは、結局は選民思想だと批判する人もいるでしょう。しかし、そうでしょうか。溺れている人の手に届くところに、浮き輪はすでに投げられているのです。誰もが手を伸ばせば助かるように、それはもう用意されている。けれど、それを手にするかどうかはその人の意思によるものです。自ら浮き輪を拒絶する者に対して、神はその意思を否定することはなさいません。
神が人との関係で一貫して求めておられることは、人が自らの意思を持って神に従い、神との関係を築き上げることです。これは創造の御業からしてそうです。神はあくまでもその人の人格を無視することはなく、あらゆる可能性を開いたまま、私たちに問いかけておられます。あなたは禁断の実を食べますか?あなたは神の御子を信じますか?どう答えるかは私たちの自由です。自由だからこそ、私たちは自らの意思を持って、神の御子であるイエス・キリストの尊い犠牲こそが、私の罪を精算するための唯一の償いであったと信じる必要があるのです。
ハイデルベルク信仰問答は、まことの信仰が大事だと言います。では、まことの信仰とは何なのか。注目したいのは、まことの信仰が、神のみ言葉による啓示を真実と確信する「認識」と、福音を通して聖霊が起こされる心からの「信頼」の双方を伴うと言っている点です。
信じるということは、ただ闇雲に、よくわからないけれど信じるということではなくて、きちんと確信を持って信じることが大事です。確信がないまま信じようとしても、そこには平安がありません。神を信じても救われている確信が持てないでいるので、むしろ罪意識だけが強まり、窮屈に感じたり、恐ろしくなったりするのです。ですから私たちは救われている確信を得なければなりません。そしてそのためには「確かな認識」、正しい知識が必要です。神の救いには確かな計画があります。そして神は御言葉を通して啓示されます。私たちは聖書を正しく読み、感情ではなくて、理性的にそれを認識する必要があるのです。だから私たちは今、このハイデルベルク信仰問答を学んでいるのです。聖書を通じて語られた神の救いのご計画を、整理し、理解するためにです。
しかし一方で、ただ聖書を学べば、それがまことの信仰なのかと言うと、そうでもありません。どれだけ神の御言葉に触れ、その知識を増し加えたとしても、そもそもの神に対する信頼がなければまことの信仰には至りません。例えば私が大学生の頃にキリスト教の講義を持っていた教授は、聖書の奇跡を一切否定して、これは便宜上の話だからと教壇の上で語っておりました。この教授にとっては、聖書は人生の教訓の書ではあっても、神との関係を取り戻すため救いの書ではありませんでした。
信頼とは、聖霊が私たちの内に起こしてくださるものです。では聖霊はどのように私たちの内に信頼を起こされるのでしょうか。それは福音を通してとあります。では福音とは何か。「声なき友の輪」の神田英輔先生は、それは神の国の良き訪れのことだとおっしゃっていました。そして教会は神の福音を広く知らせる「神の国の大使館」であり、信じる者たちは「キリストの大使」だとも。つまり私たちの信仰を生きるその日々、そしてそこで出会うキリストとの二人三脚の歩みこそがまさに福音であり、その信仰の現実の中で聖霊は私たちに神への信頼を起こしてくださるのだということです。日々の様々な葛藤や誘惑の中、時に勝利し、時に挫折し、試練の内に涙する夜を過ごしながら、それでも諦めずに祈り続け、キリストの十字架と復活に慰めを得る。気付けば試練が取り去られていることを知り、神の守りが確かにそこにあったことを知る。そういう経験を繰り返しながら、次第に神に対する疑いの一切が消えて、確かな信頼によって結び付いていることを知るのです。
ですから、まことの信仰は一朝一夕に得るものではありません。一日一日深められていくものです。自ら聖書に聞くことを通して。そして信仰生活の苦楽を通して。神からの救いの恵みは私たちの血肉と変えられていくのです。
第20問
【問】それでは、すべての人が、アダムを通して堕落したのと同様に、キリストを通して救われるのですか。
【答】いいえ、まことの信仰によってこの方と結び合わされ、そのすべての恵みを受け入れる人だけが救われるのです。
第21問
【問】まことの信仰とは何ですか。
【答】それは、神が御言葉において、わたしたちに啓示されたことのすべてをわたしが真実であると確信する、その確かな認識のことだけでなく、福音を通して聖霊がわたしのうちに起こしてくださる心からの信頼のことでもあります。それによって、他の人々のみならずこのわたしにも、罪の赦しと永遠の義と救いとが神から与えられるのです。それは全く恵みにより、ただキリストの功績によるものです。
第22問
【問】それでは、キリスト者が信じるべきことは何ですか。
【答】福音においてわたしたちに約束されていることすべてです。わたしたちの公同的な、確固たるキリスト教信仰箇条がそれを要約して教えています。
第23問
【問】それはどのようなものですか。
【答】わたしは、天地の造り主・・・(使徒信条参照)
聖書は、すべての人が救われるとは言いません。御子を信じる者が救われると、はっきり語っています。このことはある人にとっては躓きの石となるでしょう。聖書の教えは、結局は選民思想だと批判する人もいるでしょう。しかし、そうでしょうか。溺れている人の手に届くところに、浮き輪はすでに投げられているのです。誰もが手を伸ばせば助かるように、それはもう用意されている。けれど、それを手にするかどうかはその人の意思によるものです。自ら浮き輪を拒絶する者に対して、神はその意思を否定することはなさいません。
神が人との関係で一貫して求めておられることは、人が自らの意思を持って神に従い、神との関係を築き上げることです。これは創造の御業からしてそうです。神はあくまでもその人の人格を無視することはなく、あらゆる可能性を開いたまま、私たちに問いかけておられます。あなたは禁断の実を食べますか?あなたは神の御子を信じますか?どう答えるかは私たちの自由です。自由だからこそ、私たちは自らの意思を持って、神の御子であるイエス・キリストの尊い犠牲こそが、私の罪を精算するための唯一の償いであったと信じる必要があるのです。
ハイデルベルク信仰問答は、まことの信仰が大事だと言います。では、まことの信仰とは何なのか。注目したいのは、まことの信仰が、神のみ言葉による啓示を真実と確信する「認識」と、福音を通して聖霊が起こされる心からの「信頼」の双方を伴うと言っている点です。
信じるということは、ただ闇雲に、よくわからないけれど信じるということではなくて、きちんと確信を持って信じることが大事です。確信がないまま信じようとしても、そこには平安がありません。神を信じても救われている確信が持てないでいるので、むしろ罪意識だけが強まり、窮屈に感じたり、恐ろしくなったりするのです。ですから私たちは救われている確信を得なければなりません。そしてそのためには「確かな認識」、正しい知識が必要です。神の救いには確かな計画があります。そして神は御言葉を通して啓示されます。私たちは聖書を正しく読み、感情ではなくて、理性的にそれを認識する必要があるのです。だから私たちは今、このハイデルベルク信仰問答を学んでいるのです。聖書を通じて語られた神の救いのご計画を、整理し、理解するためにです。
しかし一方で、ただ聖書を学べば、それがまことの信仰なのかと言うと、そうでもありません。どれだけ神の御言葉に触れ、その知識を増し加えたとしても、そもそもの神に対する信頼がなければまことの信仰には至りません。例えば私が大学生の頃にキリスト教の講義を持っていた教授は、聖書の奇跡を一切否定して、これは便宜上の話だからと教壇の上で語っておりました。この教授にとっては、聖書は人生の教訓の書ではあっても、神との関係を取り戻すため救いの書ではありませんでした。
信頼とは、聖霊が私たちの内に起こしてくださるものです。では聖霊はどのように私たちの内に信頼を起こされるのでしょうか。それは福音を通してとあります。では福音とは何か。「声なき友の輪」の神田英輔先生は、それは神の国の良き訪れのことだとおっしゃっていました。そして教会は神の福音を広く知らせる「神の国の大使館」であり、信じる者たちは「キリストの大使」だとも。つまり私たちの信仰を生きるその日々、そしてそこで出会うキリストとの二人三脚の歩みこそがまさに福音であり、その信仰の現実の中で聖霊は私たちに神への信頼を起こしてくださるのだということです。日々の様々な葛藤や誘惑の中、時に勝利し、時に挫折し、試練の内に涙する夜を過ごしながら、それでも諦めずに祈り続け、キリストの十字架と復活に慰めを得る。気付けば試練が取り去られていることを知り、神の守りが確かにそこにあったことを知る。そういう経験を繰り返しながら、次第に神に対する疑いの一切が消えて、確かな信頼によって結び付いていることを知るのです。
ですから、まことの信仰は一朝一夕に得るものではありません。一日一日深められていくものです。自ら聖書に聞くことを通して。そして信仰生活の苦楽を通して。神からの救いの恵みは私たちの血肉と変えられていくのです。