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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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190324 ハイデルベルク信仰問答 問31~32

ルカ4:14-19 「キリストの三職」

 イエス・キリストと言いますが、キリストというのは、イエス様の名前ではありません。救い主を表す称号です。旧約聖書でいうメシヤのことで、その意味は「油注がれた者」です。旧約聖書には油が注がれることで任命される特別な職務が3つ記されています。それは神の代理として任命される、預言者、祭司、王の3つの職務です。キリストはこの3つの職務を担われたお方だと言うのです。
 一見は百聞に如かずと言いますが、私たちは神を見ることができません。では、神を知ることはできないのかというとそうではありません。イエス様を見ればわかると言うのです。なぜならイエス様の内にこそ、神の全ての本性を見ることができるからです。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。わたしは光として世に来ました。私を信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないためです。」(ヨハネ12:44ー46)世の預言者のように預かった言葉を語るのではありません。神御自身が見えるかたちをとって来て下さったのがイエス様です。その存在を持って神の御心を明かされるお方です。神の御心を寸分違わず伝えることができるお方。だから、このお方は最高の預言者と呼ばれるのです。
 祭司は民の罪の身代わりとして生贄を献げることで、神の前に民を執り成す者です。この執り成すという行為において、イエス様より相応しい祭司は他にはおりません。なぜなら、イエス様はこの地上で唯一、罪のないお方だからです。しかもこのお方は御自身の命を生贄として献げて、民を執り成すからです。イエス様は、神の御子であり唯一無二で代わりのないお方です。神にとって、イエス様以上に大切な存在はおりません。そのイエス様がご自身を生け贄として民を執り成される。これこそイエス様が唯一の大祭司と呼ばれる所以です。
 王とは民を支配する者です。民は王を支配者として認め、その王の名の下に集まり、命令に従わなければなりません。逆に王はその民の生活を保証し守らなければならない。王と民の主従関係は一種の契約関係なのです。イスラエルは他国に対抗し得る王を求めました。結果サウルが選ばれました。けれどそれは、民の生活が、王個人の信仰と人格と能力によって左右されるということでもありました。王は法律そのものです。権力を持って民を裁く存在です。民は王が変わる度に、変わる法律に振り回されることとなるのです。けれどイエス様は違います。永遠の神であるイエス様は、永遠の王でもあるのです。決して変わることのない真理と約束を持って、御自身の民を守り導かれる方なのです。
 さて、イエス・キリストを信じる者は、キリスト者と呼ばれています。もともとはアンテオケの教会の信者たちが、あまりにもキリスト、キリストと言うので、あいつらはキリストの一派だ。と呼ばれたのが最初です。自分たちから名乗ったのではなくて、彼らの生き様が、キリストの名によって仕分けられたのです。このことは、とても大事です。キリスト者は単なる呼び名ではありません。その者がキリストに属することを意味します。キリストの一部となり、同じ油注ぎにあずかっていることを意味します。つまり、キリストの職務、預言者であり、祭司であり、王であるところの職務をも預かっているのです。
 私たちが世にあってキリスト者と呼ばれるのは、私たちがキリスト者と自称しているからでなく、私たちの生き様がキリストに習う者とされたから、キリストの職務を預かる者だからです。私たちは使命を与えられたのです。それは福音を告げ、罪の滅びを知らせること。滅びる魂のために祈り、執り成しに励むこと。そしてこの地を永遠の神の御心に適う神の国として実現していくことです。
 賀川豊彦は神の国運動を提唱し、それは「農村に、役場に、街に、工場に、我々が無言の十字架を背負って帰って行くことである。」と言いました。一人ひとりがキリストの名を背負って、遣わされた場に立つということです。日曜日だけキリスト者ではありません。私たちは生涯を持ってキリスト者です。もちろん、それは私の努力でなし得ません。ですから、告白する度に、そのような者とならせてくださいと祈り求める私たちでありたいのです。

190317 ハイデルベルク信仰問答 問29~30

使徒4:11-12 「唯一の救済者」

 イエスという名は、元々はヘブル語の「ヨシュア」をギリシャ語に音訳した言葉でして、「主は救い」という意味の名前です。古くからイスラエルではよく付けられる名前で、イエス様がおられた当時も、ごくありふれた一般的な名前でした。当時の親たちは、自分たちの民族の誇りである出エジプトの出来事にあやかり、我が子の人生にも主の救いがあるようにと願ってヨシュアもしくはイエス、つまり「主は救い」と名付けたわけです。けれど、イエス様の場合は違います。それは両親であるヨセフとマリアの願いではなく、御使いの知らせによってでした。つまり、父なる神の御心によって名付けられたのです。全能なる神の御心ですから、これはそうなったら良いなぁというような「願い」ではありません。それはいわば宣言であり、本質です。なぜ神の御子が「イエス=主は救い」と呼ばれるか。それは、他に言いようがないからです。神の御子の本質を一言で言い表せば、それは「イエス=主は救い」という方に他ならないからです。ですから、私たちは使徒信条で「イエス・キリストを信じます」と告白することは、主は私の救いと信じます。と告白することなのです。
 さらに、ハイデルベルク信仰問答は、神の御子が「主は救い」と呼ばれるのは、唯一の救いが、他の誰かに求めたり、見出したりすることができないからだ。とも言っています。つまりイエス・キリストを信じると告白することは、他のあらゆるものを救い主として認めないという告白でもあるわけです。このことは第30問でより強調して語られます。第30問は、明らかに当時の聖人崇拝を意識しての問答です。聖人崇拝は、多くの功徳を積んで死んだ聖人たちに願って、その功徳を分けてもらって、天国に行こうというものです。この背景には、救いは神の恩恵と共に人間の善行が必要であると考えるカトリックの救済観があります。しかし、ハイデルベルク信仰問答に言わせれば、それは「イエスが完全な救い主ではない」と言っているようなものです。イエス様を信じる。それはイエス様こそ私の唯一の救いと信じることです。そして、イエス様以外の何者も私の救いではないと信じることです。イエスの名に並び立つものは何一つ無いのです。
 今年のゴールデンウィークは10連休になるという話です。天皇の代替わりに伴う大嘗祭があるからです。この大嘗祭に関して、秋篠宮は「大嘗祭は宗教色が強く、公費で賄うことが適当かどうか」と疑問を呈しました。色々な考えあっての発言でしょうが、発言自体はまさにその通りでありましょう。しかし、これに対し政府は儀式に宗教的性格があると認めつつ、「極めて重要な伝統的皇位継承儀式で公的性格がある」として宮廷費を支出する方針を決めたとのことでした。公費か私費かということを論じようとは思いません。宮中儀式に宗教性があると知りつつも、伝統的であり、公的であると位置付けることが問題です。先の大戦時、日本のキリスト教会が神社参拝は宗教ではなくて伝統であると位置付けて、アジア各国の教会に神社参拝や宮城遥拝を説得したことを彷彿させます。実は今私たちは、イエス・キリストを信じるという信仰の実態が問われる時代に来ているのです。
 使徒4:12「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」
 私たちはイエス様こそ唯一の救い主と告白しているでしょうか。イエス様を信じるというのは、単に心の中で信じるということではありません。信じ告白するその所に立つということです。告白を裏切らずに生きるということです。私たちは時代や状況に流されることの無いよう、はっきりとイエス・キリストを我が救い主と告白することが大事なのです。
 このような生き方は不自由に映るでしょうか。世と折り合いを付けず、反発するキリスト者は窮屈でしょうか。けれど、必死に周囲に気遣って、時代時代の権力に迎合して生きることの方がよっぽど不自由ではないでしょうか。この数年の間に、日本では急速に全体主義が広がってきています。少数の意見は掻き消され、皆が忖度する世の中です。私たちはいつも誰かの批判の目を気にしながら、多数派に属することが求められるのです。けれど、そんな中で周囲の目を気にすることなく、自らの信仰に正直に生きることができるとしたら、これほどの自由があるでしょうか。イエスこそが我が主と告白することは決して不自由な生き方ではありません。そこには私たちの信じるところに蓋をしない、真の自由があるのです。

190310 ハイデルベルク信仰問答 問27~28

ローマ8:35-39 「神の摂理」

 全てが偶然でなく、全てが神の御心のままにある。神は今も生きてこの世界をご支配しておられる。これが摂理というものですけれども、しかしこのことは、ある人にとっては受け入れがたいことではないでしょうか。神が生きて働かれるのなら、なぜこのような出来事が起こるのかと叫ばずにはいられない世界の現状があるからです。ハイデルベルクは言います。「豊作の年も不作の年も」。また「健康も病も」「富も貧困も」と言います。確かにそうなのでしょう。どのような時も、神の御心を外れて、神の支配の外で起こることは無いのでしょう。けれど、それは頭では理解できても、心はついて行かない。不作の年に、病の内に、貧困の中に、神の御心を感謝することはやっぱりできないのではないでしょうか。
 明日で東日本大震災から8年が経ちます。死者およそ1万5千900人、復興庁の発表では避難者数も未だ5万2千人となっています。あくまでも避難者として数えられている人数であって、たとえば避難は解除された人であっても、家族や地域との繋がり、仕事、生活自体の基盤など失ったものは計り知れません。
 なんで人生はこんなにも思うようにならないのか。何度祈っても、一向に問題は解決せず、何度御言葉を開いても、一向に神の声を聞くことはない。そんな時に、全てが神の御心のままにあると聞きましても、じゃあ、私に降りかかるこの逆境はどういうことなのかと、叫びたくなるわけです。祈りが足りないのか。信仰が足りないのか。一向に返事をしてくれない神に、いつしか疲れ果てて、神の実在をも疑ってしまうのです。
 神の摂理とはいったい何なのでしょう。実はそれは逆なのではないでしょうか。神の喪失を感じるような逆境の中で、尚も私たちの拠り所となる神の真理。これが神の摂理ではないでしょうか。このことは、もしも神がおられないならと考えてみればわかります。もしも神が生きて働かれないのだとしたら、それこそ、私たちの逆境は何の救いもない、ただの絶望でしかないのです。
 神がおられない世界とはどういう世界でしょうか。それは全てが自分の努力に起因する世界であり、一方で自分の努力によって如何ともし難い出来事を、偶然という言葉で片付ける世界です。何でこんなことが起こるのか。思いがけない逆境の中で叫ぶ私たちに、それはあなたの努力が足りないからだと、そしてあなたの運が悪かったのだという答えしか帰ってこない。これからどうしていいのか、光の見えない暗闇の中でもがく私たちに、今までよりももっと我慢しなさいと、努力しなさいと声がかけられる。神がおられない世界とはまさにこのような世界です。
 そうではないのです。この世界は神によって創造され、神によって導かれるのです。神は今も生きて、私たちの歩みをその御手の中で守り導かれる御方です。私たちは死んだ神や、石の像を拝んでいるのではありません。神は今も生きておられ、私たちと共にいてくださる。私たちの父として憐れみ深くあられ、私たちは神の御手の中にある。私たちの祈りは、叫びは、父なる神に届いており、決して虚しく響くことはない。神の摂理は、今を生きる私たちの希望の根拠となるのです。
 それだけではありません。「順境においては感謝し」ともあります。神のいない世界において、順境は努力の結果です。それは自分の手柄。もしくは運が良かったということでしかありません。けれど、神の摂理においては、全て感謝とされるのです。これは私たちの生き方を根底から変えることです。自らの手柄を自慢し、他人と比べては落ち込む私たちは、そういった努力競争から解き放たれて、恵みを数えて生きる者とされるのです。

190303 ハイデルベルク信仰問答 問26

ローマ8:14-17 「わたしの神、わたしの父」

 神の特徴の一つは、このお方が天地の造り主であることです。つまり、この世界の誕生する以前に神は存在されていたと言うことです。世にある神々は、この世界に依存しています。アニミズムや八百万の神などは、この世界に住み、この世界で生まれた神々です。しかし、聖書の神はそうではありません。この世界に全く依存しない神。神は全てに先立って存在される神です。ですから、神の創造は、材料を組み合わせて何かを作るといったものではありません。神が創造をされたとき、材料となるものはまだ何も無い状態ですから当然と言えば当然です。神は無からこの世界を創造されたのです。
 この無から有を生み出すということが、神の神たる所以なのです。人はその知恵によってあらゆるものを現実にしてきました。けれど、無からの創造だけは叶いません。宇宙の起源を巡っては、様々な研究がなされています。膨張する宇宙の観測から、宇宙はビックバンという爆発から始まったというのが通説となっています。けれど、その爆発するそもそもの核はどうやってできたのか。宇宙科学は、この最初の「1」の成立ちを証明することができません。あらゆる研究の分野で突き詰めると、やがて人智を超えた存在を認めなければ証明できない「1」に到着します。この「1」はどうやって存在するのか。けれど聖書はこの「1」の存在をいとも簡単に証明します。それは「0」から「1」を創り出すお方がおられるということです。ですから、天地の造り主である神を信じます。と告白することは、この御方が無からこの世界の全てを創造されたということ、そしてそれは、それ以外の一切を神として認めないという告白でもあるのです。
 では、神が無から有を生み出すことができるのはなぜか。それが、神の第二の特徴に繋がります。つまりこの御方は全能だということです。しかし、ここで注意するべきは、神は全能であって、神が何でもできるということではないということです。つまり、「何でも」という中には、罪を犯すこと、悪を見逃すこともまた含まれるわけです。では、神は罪を犯すことができるでしょうか。罪とはそもそも、被造物が創造主なる神に背を向けて、自分の思い通りに生きようとすることです。けれど神はそもそもが神なのですから、神が罪を犯すということはあり得ないのです。ですから、「神が全能である」と言うとき、それは「神が何でもできる」という意味ではなくて、「ご自身の本性と矛盾しないあらゆることをすることができる」という意味なのです。
 また、神が何かを行います。この世界を創造する。すると、創造しないという神の選択は排除されたということになります。何かを選び取ることは、選び取らなかったその他の可能性を捨てるということです。つまり、「あらゆることができる」けれども、神はその中から御自身の本性に従って最善を取捨選択して下さり、自らその可能性を制限される方なのです。ですから、神が全能ですと告白しながら、神の本性と矛盾するような祈りをすることは間違いです。全能である神を告白することは、今ある状況を、神の最善の選択の結果であることを認めることでもあるのです。
 神の特徴の三つ目は、この御方が父なる神であるということです。聖書が父なる神と言う時、それはまず、このお方が全知全能の神であり、この世界の創造主であるという前提を忘れてはなりません。つまり、このお方は、私たちとは全く違う次元のお方であって、本来私たちは神を父と呼ぶことはありえないということです。神は無限であり、私たちは有限です。神は創造主であり、私たちは被造物です。私たちは、本来、創造主なる神によって、壊されても捨てられても文句の言えない、神の意のままに存在する者なのです。ところが、神はそのような私たちを、御子キリストのゆえに、親子としての関係へと加えてくださったのです。
 「天のお父様」と呼びかけられる恵みは、計り知れないものです。神が父として、私たちに接してくれなければ、私たちの信仰は恐怖によって縛られていたことでしょう。創造の神、全能の神の前に私たちは、壊されても捨てられても文句の言えない、神の意のままに存在する者でしかありません。ところが、神は私たちを子として受け入れて下さったのです。私たちは恐怖ではなく信頼を持って、この神の前に出ることができるのです。

190224 ハイデルベルク信仰問答 問24~25

Ⅰコリント8:4-6 「三位一体の神」

 日本では鰯の頭も信心からと言いまして、信じる対象は何だって良い。信じる心が大事だと言います。けれど、聖書は真逆です。信仰は芥子種で構わない。信じる対象が本物であることが大事だと言うのです。だからこそ、私たちは、この御方が本物かどうか、聖書から学び、認識して、確信する必要があるのです。
 さて、そのために知るべきこととして、ハイデルベルク信仰問答は、使徒信条を挙げております。使徒信条は古くから教会で告白されてきた大切な信条です。それはもともと洗礼信条、つまり洗礼の時に教えられ、告白するための信条でした。
 その告白するところは極めて簡潔です。それは父なる神とわたしたちの創造について、子なる神とわたしたちの救いについて、そして聖霊なる神とわたしたちの聖化についてです。実は、この三位一体の神を告白するということが、使徒信条の目的なのです。三位一体の神を告白できれば、洗礼を授ける。ここが信仰者とそうでない者の境界線です。それほどこのことが大事なんだと言っているのです。
 三位一体とは、何も3人の神がおられるということを意味しているわけではありません。神は唯一です(申命記6:4)。しかし同時に、神は御父であり、御子であり、御霊なのです(ヨハネ1:1-3、マタイ3:16-17他)。本質として一つでありながら、3つの位格を持たれる神。この双方が矛盾なく両立するのが、三位一体の神です。
 このことは、私たちの理解を完全に超えております。三位一体と言わずとも、ローマは多神教ですから、神はそもそも3人おられたと言ったほうがわかりやすかったでしょうし、逆に、神は唯一で、イエス様は被造物、聖霊は神の力の現れに過ぎないと言ったほうが、誤解は無いのです。キリスト教の教えで、この三位一体の教理がなければ、どれだけ理解しやすいかと誰もが思ったし、現に異端の多くは、この三位一体を否定する形で生まれたのです。
 けれど教会はこの教えに留まることを良しとしました。なぜでしょうか。25問です。「それは、神が御自身についてそのように、すなわち、これら三つの位格が唯一のまことの永遠の神であると、その御言葉において啓示なさったからです。」つまり、聖書が語るところがそうだからだと言うのです。そもそも、なぜ三位一体の教理が生まれ、それに反発する者たちが起きてきたのでしょうか。それは聖書を読む時に、父、子、聖霊の神が確かに共におられるからです。しかし一方で、神は唯一であると証言しているからです。この矛盾するような証言に、人々は困惑し、そして納得したのです。聖書を神の啓示として読む時に、人々は納得せざるを得なかった。つまり、被造物である私たちの理解では到底及ばないけれど、永遠なる神の不思議として、そのことを受け入れたのです。教会は洗礼を受ける前に、この三位一体の神を問うことで、神の言葉への信頼を問うたのです。信仰者は、自らが被造物に過ぎないことを、まず受け入れることが求められたのです。
 三位一体という奥義は頭で理解できることではありません。どのようにそれが矛盾なくなし得るのか。それはこの方が神である。ということに委ねるより他ありません。被造物である私たちは神の奥義を理解し得ることはないのです。しかし、三位一体の神をそのままに受け入れるとき、私たちは神のより重要なご性質に目が開かるのです。
 ハイデルベルク信仰問答の24問は、三位一体の神を、創造と救いと聖化。その役割によって区分しています。もちろん、そこまで厳密に線引できるかと言うとそうでもありません。創造の御業は、実際には、子なる神も、聖霊なる神も関わっておられます。救いも、聖化もそうです。けれど、それぞれの位格の視点の違いと言いましょうか、私たちへの関わり方には違いが見えるところです。そして、多角的な神の関わりを通して、神の救いのご計画はより確かなものとして啓示されるのです。