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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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190414 ハイデルベルク信仰問答 問37~39

Ⅰペテロ2:21-25 「私たちのために、主は」

 ハイデルベルク信仰問答の37問は、イエス様の苦しみが単に、十字架にかかることではなくて、その地上でのご生涯すべての時。と記します。つまり、「聖霊によって宿り、おとめマリアより生まれ」たその時から、イエス様の受難は始まっているということです。そして、とりわけ「その終わりにおいて」と、こう続けるわけです。イエス様の地上での生涯が、全てこの十字架に結びついているということを今日確認するのです。
 私は何のために生きているのか。私の存在理由ですけれども、私たちの人生はある意味で、この存在理由を探る旅であると言うことができるでしょう。たまたま生まれたのではない。この為に私は生きて来たんだ。と、はっきりと言える、そういう意味を見出すことができる人は何と幸せなことでしょうか。けれど、その人生が全て、最も苦しい最後が決まっているとすればどうでしょう。これほど残酷なことはありません。イエス様は何もわからずに生まれたのではない。成長して、ある時へまをやらかして、捕まり、処刑されたのでもない。それは全て最初から定まっていたのだと。そして、イエス様はそのための人生であることを最初から知っておられたのだと言うのです。
 生きることは、死に向かうこと。これは全ての人に当てはまる真理ですが、しかしその人の人生がただ死ぬためにあると言われれば、今という瞬間がどれほど空しく感じることでしょうか。必死になって勉強を頑張ることも、誰かを好きになって夢中になることも、全てどうでも良いことのように思えてくる。どうせ死ぬんだから思うと、自暴自棄になって当たり前ではないでしょうか。私たちには先のことはわかりません。わからないから、色々な夢を見ることができる。可能性がある。今日と言う日が明日に繋がると信じられるから、頑張れるのです。けれど、イエス様にはその結末が見えている。ご自身が、十字架につけられるそのことを、幼い時から、いえ、聖霊によってやどり、おとめマリアより生まれる前から、ご存知であったというのです。一日一分一秒が、その時に結びついている。これは何と恐ろしいことでしょうか。
 神だから。と言ってしまえば、それはそうでしょう。けれど、人としてこの世に来てくださったイエス様はあらゆる苦しみを受けられたのです。それは、十字架に向かって生きることも背負われたということです。イエス様はそれを苦しみとして理解し、悲しみとして受け止められた。それでも尚ということに、私たちはイエス様の本質を見るのです。
 イエス様が人としてあらゆる苦しみを経験されたという大前提で、私たちは思います。いったい、このような結末を迎えることを知るイエス様はどのような心境だったのだろうかとです。普通だったら気が狂いそうになるようなその毎日を、いったいどのように過ごされたのだろうか。そして、やはり思い至るのです。それはつまり、私たちのためであったとです。
 イエス様は十字架で死ぬ。それは、わたしたちの罪の贖いとなり、神とわたしたちとを取り成すためにです。イエス様はこの使命に生きたのです。死ぬことは苦しみです。特にそのことを意識して生きることは本来苦痛でしかありません。けれどイエス様は、それがご自身の使命であった。それがわたしたちのためだと知っていた。イエス様はご自身の惨たらしい結末を知っています。けれど、それだけではありません。そのことによって生きる私たちを見ておられるのです。私たちの悲惨な現実がなければ、イエス様はこの地上にやって来られることは無かったのです。十字架につけられる必要は無かったのです。私たちが神の御怒りを負う者だから。私たちが呪われた者だから。私たちがそこにいるから。イエス様は、この十字架の使命を引き受けられたのです。
 私たちは、私たちのために苦しみを受けてくださったイエス様を覚えるべきであります。私たちはキリストの尊い犠牲の上に今を生きているのです。私たちはイエス様の打ち傷のゆえに、明日を夢見ることができるのです。

190407 ハイデルベルク信仰問答 問35~36

ピリピ2:6-11、ヘブル4:15 「神は人となった」

 主イエス・キリストの誕生。使徒信条はこのイエス様の誕生について、2つの起源を告白しています。聖霊とおとめマリアです。主は聖霊によって、人であるマリアの胎より、罪なき者としてお生まれました。
 そもそも、なぜイエス様はおとめマリアより生まれる必要があったのでしょうか。神の子であるイエス様はあらゆる方法を持ってご自身を啓示できたはずです。栄光ある姿を持ってこの世に来られることもできたし、人の想像を遥かに超える威厳ある姿を持って現れることもできました。考えてみれば、天使のほうがよっぽど神々しいわけです。どんなに理解の及ばない出来事でも、ガブリエルを見れば、マリアもエリサベツも納得せざる得ないのです。それだけの説得力が、神の栄光にはある。イエス様が、例えば後にヘルモン山で見せた神の栄光を帯びて来たのなら、誰もイエス様をさげすむことも否定することもなかったのにと思います。その言葉に聞き従ったと思います。
 また、わざわざ出産という方法を取らなくても、ある日突然大人の姿で人々の中に現れるということもできたはずです。大事なのは、公生涯に入られたイエス様であって、それ以前の出来事など取るに足りないことではないでしょうか。事実、福音書では、イエス様の若かりし頃の出来事はほぼ記されません。10ヶ月の間、母の胎の中にいて、赤ん坊として生まれ、成長する。そんな七面倒な手段をわざわざ取らなくてもと思います。
 けれど、イエス様は、おとめマリアを通して、人として、赤ん坊として生まれます。そして人として成長いたします。つまり、そうすることを選ばれたということです。福音書ではほとんど記されることのない隠された30年間。その一日一日がイエス様にとって必要であったということです。
 人の赤ん坊は、一人では生きられません。誰かの手を借りなければ一日たりと生きられない存在です。例えば草食動物の赤ちゃんは、生まれてすぐに立ち上がります。イルカやクジラといった海の動物は、生まれた瞬間から泳ぎだします。けれど、人の赤ちゃんは違います。何も出来ない。本当に無力な存在です。イエス様は、そのような存在となることを選ばれたのです。家族と笑い、泣き、成長し、額に汗して働く。そういう日々を過ごすことを良しとされたのです。つまり、神である方が人となられたというのは、単に姿かたちが人となったということではなくて、人として生き、人として歳を重ね、あらゆる経験を通じて、人として生きられることなのです。
 もちろん、全知全能である方は、人となる前から人を知り尽くしたお方です。私たちの知ると神の知るは比べ得るものではありません。けれど、たとえば、人となる前、神は試みられることは無かったわけです。誘惑されることも、罵られることも、ありませんでした。イエス様は人として生まれ、人として過ごし、人として成長する、その過程を取られることで、それら一切を経験なされたのです。だから、このお方は、私たちの弱さに同情される方なのです。
 私たちの救い主が、弱さを知っておられるということに、私たちは慰めを得るのです。いえ、もちろん創造の神、全知全能の神は、私たちを知っておられます。けれど、罪のゆえに後ろめたさを持ち続ける私たちにとって、神に知られるということは、平安ではなく、むしろ不安ではないでしょうか。「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行うときです。」とローマ13:3にある通りです。けれど、イエス様は裁くために知るのではなく、同情するために知るのです。それゆえ、私たちはこのお方と共にあることに平安と慰めを得ることができるのです。

190331 ハイデルベルク信仰問答 問33~34

Ⅰコリント6:19-20 「私たちは主のもの」

 以前、私たちが神を父と呼ぶことができるのは、私たちが神の子とされたからだと学びました。であれば、イエス様が独り子と呼ばれるのはおかしいじゃないか。とは、当然の疑問です。
 ガラテヤ4:1-7では、私たちは「この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていた」とあります。ですから、私たちが神の子とされた恵みは、私たちが奴隷であったことを覚えるとき、より際立っていくのです。奴隷というのは、人間としての権利・自由が認められず、道具同様に持主の私有物として労働に使役される人間のことです。自由もなく、未来もなく、意思も、感情も、意見すらも求められず、ただひたすらに命じられたことに従う存在。命の権利すら主人の思いのままであります。更に厄介なのは、これが制度となること。つまり、奴隷の子として生まれた者は生まれつき奴隷となることが決まっているということです。
 けれど、聖書が「奴隷であった」と言うとき、それは、目に見えるところのではありません。この世のもろもろの霊の下に奴隷であったと言うのです。もろもろの霊とは何でしょう。御子の御霊と対比になっていますから、それは悪霊のことです。悪霊のもとに奴隷であった。聖書の別の所では「罪の奴隷」とも言ったりします。私たちは奴隷と呼ばれるほどに罪の支配に縛られていたというのです。悪魔の甘いささやきに何ら抵抗できず、ただ黙って従うしかなかった、そういう弱い無力な存在として私たちは生まれた、と言うのです。
 そんな私たちが、イエス・キリストの贖いのゆえに、神の子としての身分を受けたのです。ですから神の独り子であるイエス様と、神の子とされた私たちは、同じ神の子でありますけれども、その意味は全く違います。スイスのジュネーブ教会の牧師であったアンドレ・ペレーはこの所の講解で言っています。「私たちが子たる身分を授けられたという現実が、どんなにイエス・キリストの恵みであろうとも、彼と私たちとの間の本質的な違いということを忘れないようにしよう。イエス・キリストに対する無遠慮な親しさ、キリスト者の側の無節操な「馴れ馴れしさ」は、決して、よい前兆ではない。一般に、この「尊大な兄弟感」、この「友達付き合い」は、もはや、救って下さる方が神ではないという前触れである。」調子に乗ってはだめと言っているわけです。では私たちはイエス様を何と呼べば良いのでしょう。使徒信条は「われらの主」と教えています。
 問34の答えには、イエス様が「金や銀ではなく御自身の尊い血によって、わたしたちの罪と悪魔のすべての力から救い、わたしたちを身と魂もろとも贖って、御自身のものとしてくださった」とあります。奴隷制度の時代、奴隷である一人の命の権利は、文字通り金銀によって買い取られました。けれど、イエス様は、自らの尊い血によって、つまり、自分自身の命を身代わりとして、その権利を買い取られたのです。このイエス様のゆえに、私たちは神の子とされ、主のものとされた。だから、私たちはこのお方を「われらの主」「私たちの主人」と呼ぶのです。
 主のものとされた私たちに問われるのは、ではどのように生きるのかという現実です。私たちが神の子とされたのは、主イエスの贖いによる一方的な恵みです。私たちの努力や行いが問われたのではありません。しかしだからと言って、私たちが御心に適って生きることをイエス様が望んでいないはずがありません。神によって造られたはずの人間が、罪のゆえに神の栄光を表せないでいたのです。イエス様はそれを捨て置けなかったのです。だからイエス様はご自身を犠牲として、私たちの贖いとなられた。つまり、イエス様は私たちに神の子の身分に恥じない生き方を期待しておられるのです。