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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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190526 ハイデルベルク信仰問答 問49~51

ローマ8:31-37 「わたしたちの弁護者」

 キリストの昇天は、わたしたちにどのような益をもたらすか。一つは、イエス様が神に対する弁護者となられるということ。二つは、私たちもまた天に引き上げられることの保証であること。三つは、主イエスの代わりに聖霊が降られたということです。
 イエス様が弁護者となられるとは、どういう意味でしょう。つまり、イエス様は天において私たちの罪の赦しをとりなされておられるということです。変ですね?イエス様はたった一度、十字架で死に、罪の贖いとなられたのではなかったでしょうか。すでに罪の刑罰は精算されたのではなかったでしょうか。にも関わらず、私たちを弁護しておられるというのは、イエス様の贖いが不十分だったということでしょうか。もちろん、そうではありませんね。救われて尚罪を犯してしまう私たちが不十分だったのです。救われて義と認められた私たちですが、その実質は未だ罪を繰り返してしまう、古い肉を捨てきれない頑固者なのです。だからイエス様は今尚、天において私たちを弁護しておられる。私たちが罪を犯す度にイエス様は私たちの弱さに同情して神にとりなしてくださるのです。第一ヨハネ1:9「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」とあります。その根拠は何でしょうか。それはローマ8:34「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」つまり、たった一度きりのイエス様の贖いが、私たちの日常に適用されるのは、このイエス様のとりなしのおかげなのです。だからこそ私たちはこのことに慣れっこになってしまってはいけません。罪に対して鈍感であってはいけません。イエス様のとりなしをあって当然としない。罪をきちんと後悔し、決別し、心を改める私たちでありたいと思います。
 さて、イエス様が天におられることの益は、私たちもまた天に引き上げられることの保証だと言います。このことは先週ご一緒に確認したことでもあります。今日の問答ではこのことを頭なるキリストと、その部分である私たちという側面から語っています。つまり、イエス様と私たちは分かつことのできない一つの体とされているということです。頭がすでに天に引き上げられているのですから、その体が同じところにないはずはありません。ですから、私たちも必ず天に引き上げられると約束されているのです。では、この天とはどこのことか。それは空間的などこというよりは、神とともにあるということが天です。ならば、私たちはこの天の実質に、すでに入れられていると言うことができるでしょう。私たちは教会を通じて神とともにある、神の権威に生きる天国人、神の国の住人とされているからです。
 問50は使徒信条の「神の右に座したまえり」の解説です。神の右に座すということは、神の王座に並び座るということであり、イエス様は天において神にその統治を託されたお方であるということです。では、どのように万物を統治されるのか。それは教会を通じてです。キリストの体である教会で、部分とされたキリスト者が、頭であるキリストの御心に生きる。主イエスの権威に従って生きることを通して、主イエスの統治がこの地にもたらされるのです。平たく言えば、私たちがキリスト者として生きるということです。一人のキリスト者の存在は、それほどの影響力があるのです。当然です。神の権威に生きる私たちは、この世の権威に生きる人々の中で、全く異質な存在だからです。富や地位や名誉。この世の権威を追い求めて止まない人々には決して手に入らないものを私たちは持っています。私たちは影響することを恐れるのでなく、影響しないでいることを恥じるべきなのです。
 そうは言ってもと言われるでしょうか。不安になる気持ちはわかります。確かに私たちをとりまくこの現実は、圧倒的な数の力で、私たちを覆っているからです。頼みのイエス様はこの世にはいません。けれどです。だからこそイエス様は聖霊を私たちに送られたのです。恐れることはありません。天において主イエスのとりなしがあり、地において聖霊のとりなしがあるのです。私たちを幾重にも取り囲み、守って下さる神がおられます。ローマ8:37「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」

190519 ハイデルベルク信仰問答 問46~48

ヨハネ14:1-4 「キリストの昇天」

 ハイデルベルク信仰問答は、イエス様が天に昇られる目的は、他でもない、わたしたちのためだ。と答えています。けれど本当でしょうか?私たちのためだと言うのなら、天に昇るよりもむしろ、この地で共にいて下さることの方が、よっぽど私たちのためではないでしょうか。困難にある時、試練にある時、私たちは思うことでしょう。イエス様がここにいてくださったならとです。ラザロを失った悲しみで思わず呟いたマルタとマリアのように、イエス様がここにいてくださったら良かったのにと叫ばずにはいられない現実があるのです。にも関わらず、なぜイエス様は天に昇られるのでしょうか。イエス様が天に昇られるということは、地上でのイエス様の不在を意味することではないのでしょうか。復活のイエス様は言いました。「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)それは単なるリップサービスだったのでしょうか。
 もちろん、そんなことはありません。それはつまり私たちの天の住まいを用意することが、今を生きている私たちのために何よりも優先事項であったということです。そして、イエス様が天に昇られることが、むしろ「いつもあなたがたとともにいます」と言われたことを実現するための具体的手段であったということです。
 イエス様への信仰の行き着く先がどこなのか。このことは実は私たちの将来ではなくて、今に対して大きな意味を持っています。なぜなら今この一歩が、この一日が確実にあのゴールに繋がっている。この確信があるからこそ、私たちは前に進むことができるからです。何処に行くのかわからないけれど、とにかく進むというのでは、決して道中の平安を得ることはできません。いえ、その歩みが無駄になるかもしれないと思えば、歩き出すことすら困難です。人生において、私たちの行き着く先はどこにあるのか。その根拠は。そのゴールを知っておくことが大事です。そして実はイエス様が天に昇られたという事実こそが、私たちが天国へ招かれることを信じる根拠となっているのです。
 今朝の礼拝は図らずも召天者記念礼拝です。礼拝の中で先に召されたお一人お一人に思いを向けることは、天国の希望の具体的な実感であります。天の御国は、そこにおられる兄弟姉妹の存在によって、抽象的でない、願望でもない、教理でもない、リアリティーを持った恵みを私たちにもたらしてくれるのです。ならば、イエス様が先におられるということに、さらに確かな天国の希望を見るのは当然ではないでしょうか。もしもイエス様が私たちの側にいて、イエス様よりも先に私たちが死を迎えることになったらどうでしょう。イエス様がそこにはおられないとすればどうでしょう。「私も後から行きますから、とても良い所だと聞いてますから、安心して行ってくださいね。」イエス様すら知らないところに行くことに、果たして私たちは安心できるでしょうか。けれどイエス様は私たちの先にそこに行かれて、すでに住まいを用意してくださっているのです。だから私たちはやがて招かれるそのところに確かな希望を抱くことができるのです。
 さて、イエス様が天に昇られたということは、もう一つ、イエス様がともにおられるための具体的な手段でもあります。ハイデルベルク信仰問答では神性人性と難しい議論がされていますが、要は、人として地上におられるままであれば、それは極めて限定的なイエス様の存在でしか無かったということです。私たちは時に、思うかもしれません。ペテロやヨハネのように直接イエス様と会えたならどれほど良かったかとです。しかし、そうではないのです。イエス様が地上におられるよりも、天におられることで受ける恩恵は大きいのです。肉体を取られた地上のイエス様は、時間と場所に制約された存在でした。しかし、天上のイエス様は、聖霊によって偏在されるお方です。それゆえこの方は、エルサレム、ユダヤ、サマリヤだけではない、全世界の主となられるのです。ご自身が地上を去ることを通して、聖霊を私たちのもとへと遣わし、私たちに福音宣教の使命を委ねられ、そしてご自身は天において新たなる使命をなされる。イエス様は肉においてここにはおりませんが、霊において私たちと共におられるのです。イエス様が目に見えてここにいないという事実が、実は私たちにとっての恵みであることを覚えたいのです。

190512 ハイデルベルク信仰問答 問45

Ⅰコリント15:12-20 「主のよみがえり」

 ハイデルベルク信仰問答はイエス様のよみがえりが、私たちにどのような益をもたらしたかについて、3つの回答を用意しています。一つは、イエス様が死に打ち勝ってよみがえられたので、わたしたちもその義にあずからせてくださるということ。二つは、わたしたちは新しい命に入れられていること。三つは、イエス様のよみがえりは、わたしたちのよみがえりの保証であることです。
 これらのことがどれほど大きな恵みであるかは、もしもイエス様がよみがえらなかったのなら、と考えるとよくわかります。
 イエス様がよみがえらなかったのなら、どうなっていたのでしょう。第一に、私たちはイエス様の義にあずかれなかったのです。イエス様の義にあずかれないとは、つまり、神の前に私たちの義が問われるということです。旧約の民の如く、逐一律法に照らして自らを律し続け、罪を犯しては犠牲の生贄を捧げる。それは言い換えるなら、私は神の目に適っているかと絶えず怯えて過ごさなければならないことです。神の目は私の落ち度を粗探しする監視の目ではあっても、決して私を見守る優しい眼差しとはならないことでしょう。命令と服従。一方的な関係がここにはあります。そして、この関係が悲惨なのは、私たちでは決して神の義を全うすることはできないという事実です。
 第二に、イエス様がよみがえらなかったとしたら、私たちは新しい命に呼び覚まされていません。つまり、未だに古い命のままということです。古い命とは滅びに至る命。肉の欲に支配された命。罪の奴隷のままであるということ。神の永遠の価値観ではなくて、時代に縛られたこの世の価値観に生きるということです。この世の価値観は、神との関係の中で自分の存在を見出すことができませんから、絶えず他人との比較の中で自分の存在を位置付けなければなりません。自分よりも優れた人を見ては妬ましく思ったり、やさぐれたり、自分よりも劣った人を探しては優越感に浸ったり。目に見える能力や結果で人を判断して、自分を判断する。ですから、いつも他人の目を恐れ、媚び、相手に受け入れられようと自分を殺して仮面を被って過ごさざるを得ないのです。利害関係でしか相手を見ることができず、心から相手を信頼することができません。古い命のままに生きるとは、そのような肉の生き方に未だ縛られているということです。
 そして第三に、イエス様がよみがえらなかったのなら、私たちの死の先に何ら保証はありません。イエス様は「わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」と言われました。なぜでしょう。先にある「わたしはよみがえりです。いのちです。」の言葉が真実だからです。もしも、イエス様が死んで終わりなら、そこに何の希望もありません。死は相変わらず、私たちにとって絶望であり恐怖でしかありません。死の先に何の希望もなく、先に見送った兄弟姉妹たちとの再会は、そうだったら良いなぁという単なる願望でしか無い。私たちは今という現実だけに縛られて、明日を恐れて過ごさなければならないでしょう。
 おわかりでしょうか。イエス様がよみがえらなかったなら、私たちは神を恐れ、人を恐れ、死を恐れる者であったということです。けれど、イエス様はよみがえってくださった。全てがひっくり返ったのです。イエス様の義にあずかった私たちは、もはや神の刑罰を恐れて過ごすことはありません。神は裁き主ではなくて、私たちの父となられました。また、新しい命に呼び覚まされた私たちは、もはや他人の目を恐れません。私の存在を認めるのは他人ではなくて神だからです。私たちをひとり子の命と引き換えに引き取られた神様のもと、私たちは自分の存在する意味を見出すのです。そして、イエス様のよみがえりは、死が終わりではなくて、永遠の希望の入り口であることを明らかにされました。私たちは今日という日を死を恐れて過ごすのではなく、神の恵みに生かされていることを感謝して過ごすことが出来るのです。

190505 ハイデルベルク信仰問答 問43~44

ローマ6:17-18 「新しい主人とともに」

 今日の第43問は「十字架上でのキリストの犠牲と死から、わたしたちはさらにどのような益を受けますか。」と問うています。「さらに」と言うのは、前回確認したイエス様の死がもたらした益は、復活の恵みだけじゃないと言うことです。それは、古い自分の死。つまり肉の欲からの解放をもたらしたと言うのです。そして、肉の欲から解放された私たちは、自分自身を感謝の生贄として献げるようになると言います。つまりイエス様の十字架の死は、私たちの死への解決だけではなく、私たちの地上での生き方を根本的に変えると言うのです。
 パウロはローマ6:17-18で「神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となりました。」と言っています。罪の奴隷から義の奴隷へ。十字架のイエス様の犠牲と死の恵みに与る私たちは、意識しているしていないを関係なしに、すでに変えられているのです。
 いやいや、自分なんて何も変わっていない。とおっしゃるでしょうか。神を知ってイエス様を信じても、自分の心は一向に聖くならないと。もしかすると、クリスチャンとなってからの自分は、以前よりも増して、罪深いのではないか。と悶々とするのが正直なところです。教会の兄弟姉妹を見ては、ますます自分の欲深さや愛のなさを痛感いたします。何で自分は変われないのかとため息が出るのです。
 けれど、確かにもう私たちは、以前とは決定的に違うのです。それは私たちの振る舞いがどう変わったということ以上に、確実に変わったことがある。つまり、私たちの主人が変わったのです。私たちは新しい主人のもと、新しい屋敷に引き取られたのです。新しい主人は私たちのために最も大切な代価を支払われて、私たちの身分を買い取ってくださった方でした。新しい主人のもとでは、私たちは自由に振る舞うことが許され、私たちの人生も、その後の永遠も、全てがこの主人によって守られ保証されています。そして、そのような主人のもとで、私たちは主人に相応しい者でありたいと願います。だからこそ私たちは主人の義しさの前に、至らない自分を発見するのです。そして、新しい主人のもと、私たちは一向に変わっていないと嘆くのですけれど、実際には日々主人の姿に影響を受け、主人の価値観に共感し、少しずつですけれど確実に、主人に似た者とされているのです。
 嘘だと思われるでしょうか。けれど、たとえば久しぶりにあった未信者の親友と話していて、息苦しさや疎外感を感じたりしたことは無いでしょうか。楽しく話しているのだけれど、どこか噛み合わない心のズレのようなものを感じることは無いでしょうか。それこそ、私たちが変えられた証拠です。私たちはもはや新しい主人の影響を受け、新しい主人の価値観の中で生きているのです。ある日、私たちは聞くことではないでしょうか。「あなた変わったね。」とです。自分では気付かないかもしれませんが、私たちは確かに変わったのです。
 さて、44問は使徒信条にある「陰府にくだり」の解説です。この一文は、世々の教会でも色んな解釈がありますが、ここでの論点は、主が私たちの救いのために、地獄のような苦しみを受けられたということに置かれています。何の救いもない状況のことをよく「神も仏もない」と言ったりします。この苦しみは誰もわかってくれない。この痛みは神も知るところではない。そう嘆かざるを得ない状況というのは本当に地獄です。けれど、イエス様はまさにその地獄を通らされたのです。「神も仏もない」「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」と叫ばざるを得なかった苦しみをその身に負われたのです。そして、それゆえに、私たちはどのような状況、たとえ「神も仏もない」と思うような時にも、たとえ神の声が聞こえない状況にあっても、たとえ陰府に至るような孤独に置かれても、主はそこにおられる。主は知っておられ、主は聞いて下さると慰めを得るのです。つまりこの一文は、死者のためにあるものではなくて、生きている私たちに向けられた、主はどこまでも私と共にいるという宣言に他ならないのです。

190428 ハイデルベルク信仰問答 問40~42

ローマ6:4-11 「神の御子の死」

 第40問は、「なぜキリストは、「死」を苦しまなければならなかったのですか。」と問います。単純に「なぜキリストは死ななければならなかったのか。」と問うているのではありません。イエス様が死を苦しみとして受けられた事実を問うているのです。
 イエス様の十字架に至る苦しみが如何に壮絶であったか、私たちは受難週の主日に確認したことでした。しかしイエス様の苦しみは、肉をえぐる鞭打ちの苛烈さとか、心無い人々の嘲りや蔑視から受ける屈辱だとか、釘打たれ、吊るされ、腕が伸び呼吸困難になる、という肉体的な苦しみだとか、それは、もちろんイエス様の死に際しての苦しみであったわけですが、イエス様にはもっと根本的で究極的な苦しみがありました。それは、神の御子が父なる神に見捨てられるという苦しみです。イエス様は十字架上で叫びます。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」もっともイエス様にはそぐわない鎮痛な叫び。確かにこの死の間際、神の御子であるイエス様は父なる神に見捨てられたのです。
 私たちにとって、困難にあっての最後の砦と言いましょうか、最後に寄りすがるところは何でしょうか。誰に頼ることもできない。誰の助けも見込めない。そんな中、しかしそれでも、尚失われない最後の希望はどこにあるのでしょう。それはつまり、私たちは神に知られている。この呻きのようなか細い願いを、神は確かに聞いて下さる。ここに私たち信仰者にとっての究極的な砦があるのではないでしょうか。神はお見捨てになられない。だからこそ私たちは、暗闇の中で尚、立ち上がることができるのであります。けれど、イエス様はその究極的な希望を失われた。神に寄りすがることすら許されなかった。これが苦しみでなくて、いったい何なのでしょうか。確かにイエス様はあの時、「死」を苦しまれたのです。そしてそれは私たちの贖いとなるためだと言うのです。
 本当に私たちにはそのような価値があるのでしょうか。神のひとり子が犠牲となるほどの価値があったのでしょうか。ありません。私たちは自分が如何に罪深い、愚かな者かを知っています。毎日のように、同じ失敗をくりかえす者です。自分でもしたくないこと、自分でも願っていないこと、自分でも愚かと思うことを繰り返してしまうのです。いったい、こんな者に何の価値があるのかと思います。けれど、イエス様は、父なる神は、私たちをそのように見てくださったのです。ですから、私たちは使徒信条で、イエス様が死なれたことを告白する時、それもその死が教義上の教えではなくて、紛れもない現実であったと告白する時、私たちは私たちに向けられている神の愛に目が開かれるのです。
 しかも第41問が言うように、私たちはわざわざ「死んで葬られ」と、その死が、確かで、動かしようのない客観的な事実で、それは公に認められたことだと、こう告白するわけです。それほどまでにイエス様は死なれた!と強調する。なぜなら、私たちは、この死の先にこそ、イエス様が示された最大の希望を見るからです。すなわち、復活の希望。永遠の命を見るからです。
 第42問では「わたしたちがさらに死ななければならないのですか。」と問うて、罪の償いが完成した後も残る、現実の死の問題に触れています。つまり、イエス様を救い主と信じても、結局は皆同じように死んでいくではないか。という疑問です。イエス様を信じれば、死なないようになるのであれば、何の疑いもありません。けれど、イエス様を信じても、実際には、以前と何ら変わりなく死んでいくのです。ではこれは、福音の無力さを意味しているのでしょうか。そうではありません。その死は、すでに罪の刑罰としての死ではなく、永遠の命への入り口であると聖書は言うのです。つまり信仰者もまた、同じように死ぬのだけれども、その意味するところは全く違う。それは罪の刑罰としての死ではなくて、罪の死滅であり、永遠の命への入り口である。これこそが私たちに届けられた福音なのです。

190421 イースター賛美礼拝 ヨハネ11:25-26

ヨハネ11:25-26 「あなたは、この方を信じますか」  東喜代雄兄 (狭山ひかり幼稚園理事長)

        イースター賛美礼拝順序
           司会:石川宏昭兄  奏楽:小見牧子姉

 開会の宣言   司会者
 特別演奏    フリューゲルホルン「墓の中に」 神田兄
 代表祈祷    司会者
 朗読      イザヤ53 小学上級科
 こどもさんび 「一番の愛」  一 同
 朗読      ヨハネ1:9~13 古川姉
 賛美      聖歌137「入れまつる家あらず」 一 同
 朗読      マルコ15:6~15 三瓶兄
 賛美      旧讃美歌138「ああ主は誰がため」 一 同
 朗読      ルカ23:32~46 川崎壮兄
 賛美      福音讃美歌118「丘に立てる粗削りの」 一 同
 朗読      第一ペテロ2:22~25 鯉渕姉
 特別賛美    「IN CHRIST ALONE」 聖歌隊
 メッセージ箇所 ヨハネ11:25~26 司会者
 メッセージ   「あなたは、この方を信じますか」 東喜代雄兄
 応答賛美    聖歌172「墓の中に」 一 同
 献金      感謝祈祷 川崎進兄、鈴木兄
 頌栄      旧讃美歌539番 一 同
 祝祷      小見靖彦師
 後奏