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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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190623 ハイデルベルク信仰問答 問54~55

Ⅰコリント12:20-27 「聖なる教会、聖徒の交わり」

第54問
【問】「聖なる公同の教会」について、あなたは何を信じていますか。
【答】神の御子が、全人類の中から、御自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れを御自分の御霊と御言葉により、まことの信仰の一致において、世の初めから終わりまで集め、守り、保たれる、ということ。そしてまた、わたしがその群れの生きた部分であり、永遠にそうあり続ける、ということです。

第55問
【問】「聖徒の交わり」について、あなたは何を理解していますか。
【答】第一に、信徒は誰であれ、群れの一部として、主キリストとこの方のあらゆる富と賜物にあずかっている、ということ。第二に、各自は自分の賜物を、他の部分の益と救いのために、自発的に喜んで用いる責任があることをわきまえなければならない、ということです。

 「聖なる公同の教会」と言います。教会の特徴として使徒信条は「聖」と「公同」を挙げているわけです。ですから私たちは、礼拝で使徒信条を告白する時、教会とは聖であり公同であると信じ告白していることになります。。。けれど、どうでしょう。実際私たちはどこまで意識して告白しているでしょうか。むしろ、この教会のイメージは未信者にとってのそれではないでしょうか。教会は聖。そして、そこに集っているクリスチャンの人たちもまた聖く正しい人たち。だから私なんて教会にはとても相応しくない。と思われたりするのです。一方私たちは教会をそのようにはなかなか感じられません。なぜなら私たちは自分が聖ではないことをよく知っているからです。如何に罪深いかを知っています。にもかかわらず、私たちは教会を「聖なる」と告白します。これはどういうことでしょうか。
 54問は、私たちが「聖なる教会」と告白する時、何を信じるべきかを教えています。それは教会とは「神の御子が、全人類の中から、御自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れ」であるということです。主語は神の御子であり、神の御子が一方的に、主体的に、全人類の中から選ばれた一つの群れ。これが教会だと言うのです。私たちが優れているからでも、私たちが憐れみ深いからでもなく、ましてや私たちが聖いからでもない。ただ、主イエスの尊い血潮により、罪赦され、義と認められ、呼び集められた過ぎない一つの群れ。これが教会です。つまり、教会は罪赦された者の集まりに過ぎないということです。
 そしてこの罪赦された私たちが一つとされるところが、「公同の教会」です。罪赦されたと言えど、私たちの本質が一変したわけではありません。変わったのは私たちの身分だけです。罪の奴隷から義の奴隷に。しかし私たちの本質は相変わらず罪人に過ぎません。では罪人の特徴は何か。それは自分勝手です。自分優先です。神に従うことよりも、自分の願いを優先する。これが罪の本質です。そしてそんな罪人が赦されて集うのが教会ですから、本来教会が一致するはずはないのです。ところがそんな私たちが「公同の教会」を告白する。互いの違いを超えて、一つなる教会を告白する。それは、神の御子が御自身の群れを「御自分の御霊と御言葉により、まことの信仰の一致において、世の初めから終わりまで集め、守り、保たれる」ということを信じるが故なのです。私たちの一致は、性別の一致を意味しません。国籍も、世代の一致も意味しません。性格も違うし、趣味も、関心も違います。ただ信仰においてのみ一致するのです。
 私たちは、教会があらゆることに一つでなければならないという幻想から解放されなければなりません。聖書は主イエスが仲保者であることを繰り返し語ります。愛の結びの帯を着けなさいとも言います。それは、私たちがそもそも違うという前提から来ているのです。むしろ違うということが重要なのです。第55問は「聖徒の交わり」について解説しています。ここには、信徒は誰であれ群れの一部に過ぎないことが語られています。一部に過ぎないのですから、一人では決して完成しないのです。あずかった富と賜物を、他の部分の益と救いのために互いに用いる。そうすることによって、私たちは互いの欠けを補い合い、全体を補うことができるのです。私たちの違いは神の賜物の豊かさです。このことを忘れてしまうと、教会の交わりはたちまち崩壊します。なぜあの人は私と違うのか。なぜあの人はあんな考えなのか。特に教会においては、そこにそれぞれの正義心が加わり、余計に相手を追い詰めることになりがちです。自分は正しい。神様はこう思っておられるはず。ともすれば互いの違いを批難し、自分色の正義を押し付けようとする私たちです。けれど、違います。一つなのは神に他なりません。
 神は私たちが違いを認めあって、互いの賜物を他の部分ために益と救いのために用いることを望んでおられます。そうでなければ、神がこのように多種多様な人間の個性をお造りになるはずがありません。もう一度言います。私たちの違いは神の賜物の豊かさです。だからこそ教会には、誰一人不必要な人はいません。その人が掛け替えのない神の特別な賜物だからです。

190616 Ⅰコリント4:14-21 「偽りない信仰の証し」 父母の日礼拝

Ⅰコリント4:14-21 「偽りない信仰の証し」 

 養育係は機嫌を取ることはしても、子のために叱ることはしません。雇われている身分だからです。霊的退廃を招いている信徒たちを心から気遣ったり、正しい道に連れ戻そうとしたりしない者は、すべて養育係にすぎません。子に必要なのは、多くの養育係ではなく、たった一人の父親です。父親は子の成長に責任を持ちます。その子が誤った道を歩むなら、体を張って引き戻すのが親心です。パウロは父親として、子であるコリントの信徒に言います。「私に倣う者となってください。」(16節)。
  親が子どもに向かって「お父さんのようになりなさい」とか「お母さんのようになりなさい」とは、なかなか言えないことです。もちろん親だけではありません。誰かに向かって「私のようになってください」とは、なかなか言えない言葉です。それは相手ではなくて、むしろ忠告する者の生き方こそが問われる言葉だからです。私たちは自分自身が人にならわれるような者でないという事実を知っています。ですから、自分を見習えなんて言う人は、よっぽど己を知らないのか、よっぽど傲慢なのかとさえ思います。
  けれどパウロは言います。「私に倣う者となってください。」。パウロのこの言葉は高慢ではありません。実体験に基づく恵みの知らせです。パウロが「私に倣う者となってください。」という時の私(パウロ)とはいったいどのような者だったのでしょうか。1:27で、パウロは「この世の弱い者を選ばれました」と言っています。2:2では「十字架に付けられたキリストのほかは、何も知るまいと決心していた」とも言いました。3:5では自分のことを「奉仕者」と呼び、3:22では自分のことを「あなたがたのもの」と呼びます。そして4:9では「この世の見世物」とまでに呼ぶのです。彼の言うことを思い出してみれば、「私に倣う者となってください。」と命じるパウロの姿は、実は人前に何の誇るところもない、弱く小さな者に過ぎないのです。そんなパウロが唯一誇るのは、主です。つまりパウロは背伸びした自分を見せようとしているのではありません。失敗もし、落胆もする。人々から見下され、無視されることもある。しかし、そんな中でも私を支え、慰め、再び立ち上がらせてくれる主がおられる。このような弱い者を主は選んでくださった。そういう信仰生活の実態を見せようとしているのです。
  親として、信仰の先輩として、私たちは続く世代に何を見せるべきでしょうか。一切欠けのない完璧な立ち振る舞いでしょうか。人前で活躍し続ける様子でしょうか。それは無理というものでしょう。パウロは第一テモテ1:15-16で「「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。」と言います。罪人のかしらである自分が、憐れみのゆえに救われた。この恵みに立つからこそ、私たちは人々の見本となることができる。自らの内に働かれた神の憐れみを誇ることが出来るのです。自分自身を見せるとき、自分の愚かさ、醜さ、隠してしまいたい過去、そのような弱さと共に、そこに働かれるキリストの温かさ、懐の深さ、寛容さ、力強さといったものが確かに証しされる。だから、私は罪人のかしらであることを恥じることなく、私(の内に働かれた主)を見よと言うことができる。(キリストの他に何一つ誇ることのない)私に倣う者となってくださいと語ることができるのです。
  子どもたちは見ています。私たちの信仰が、本当に困難にあって救いとなるのかをです。私たちが困難にあって、本当に信仰に頼るのかをです。私たちはその時その時、等身大で構いません。正直に神と向き合う姿を証しするのです。
  私には誇るものは何一つありません。私は人に見せられるような者ではありません。けれど、私のうちに働かれた主は違います。どんな人にも胸を張って誇ることができる、主の取り扱い。どれほどそれが憐れみ深いかは私の弱さを見ればわかります。こんな者をも主イエスは憐れんでくださった。ですから、神の憐れみの保証は、私たちの内にあるのです。そしてこれこそ、私たちが次の世代に誇るべき信仰の姿です。

190609 ハイデルベルク信仰問答 問53

ヨハネ14:16-17 「聖霊なる神」

第53問
【問】「聖霊」について、あなたは何を信じていますか。
【答】第一に、この方が御父や御子と同様に永遠の神であられる、ということ。
第二に、この方はわたしに与えられたお方でもあり、まことの信仰によって、キリストとその全ての恵みにわたしをあずからせ、わたしを慰め、永遠にわたしと共にいてくださる、ということです。

 ハイデルベルク信仰問答は、今日から聖霊についての告白に入ります。その焦点は2つ。一つは、聖霊は三位一体の神で永遠の神だということ。そしてもう一つは、聖霊はわたしに与えられたお方であり、わたし個人に関わられる神だということです。
 このお方は神であられる。これは聖霊を理解するための大前提です。決して聖霊を単なるエネルギーや賜物などと考えてはいけません。それは聖霊を過小評価しています。聖霊は、世界の創造から今に至るまで、変わらずにこの世界に関わり続けられる永遠の神なのです。けれど、その永遠の神である方が、私たちに与えられたのです。
 Ⅰコリント6:19には「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり」とあります。しかし、いったい私たちの誰が聖霊の宮に相応しいことでしょうか。イザヤは神の栄光の前に、「ああ、私は、もうだめだ。」と嘆きました。ペテロはイエス様の栄光を目の当たりにして「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」と言いました。それが当然の反応です。ましてや聖霊が私に内在すると言うのですから、考えて見ますとこれは何と恐ろしいことでありましょうか。中の宝石が豪華であればあるほど、外の器のみすぼらしさが目立つと言うものです。聖霊が共にいることに私たちは申し訳なさを感じます。あまりにも釣り合わない自分をまざまざと見せつけられます。けれど、聖霊は敢えて、そのところにおいでになられたのです。まるで、貧しい家畜小屋にお生まれになったイエス様のようにです。私たちが聖霊の宮となることは、相応しくないかもしれません。けれど大事なのは聖霊がそれを良しとされたということです。これはペンテコステ以来与えられた特別の恵みです。私たちの助け主は、私たちと共に歩み、私たちを助け、慰め、教え導き、いつも励ますことを自ら選ばれたお方なのです。
 聖霊のお働きを具体的に挙げてみましょう。私たちが自らの罪に気付き、これを後悔するのは聖霊が気付かせてくださるからです。また、キリストの十字架の死が私たちの罪の贖いであり、このお方を信じる者は罪赦され神の子とされると確証させるのも聖霊であります。そしてこのお方を救い主と告白することは、聖霊による導きがあってのことに他なりません。聖霊は御言葉をもって私たちを日々神のもとへと導き、愛を注ぎ、とりなしをし、私たちを栄光あるキリストのみからだへと変えてくださる。そして聖霊は私たちに語るべき言葉をさずけ、神の器としてその尊いご計画に用いてくださるのです。つまり私たちの救いと聖化に関わる一切に関わってくださるのが聖霊なのです。
 インマヌエル綜合伝道団の藤本満師は「わたしの使徒信条」という本の中で、「二千年前の、私たちの外側で起こった歴史的な出来事、その恵みを私たちの内側へと及ぼさせる――それが聖霊の働きです。」と述べています。神のうちにどのようなご計画があろうと、キリストによる贖いの御業がどれほどに素晴らしくとも、私たちが信仰をもって向き合わなければ、それは単なる歴史的出来事でしかありません。イエス様は、源義経や、織田信長と横並びの歴史上の人物でしかないことでしょう。けれど、聖霊はこのお方に関する一切を私のこととして結び合わせて下さるのです。イエス様が十字架に架かられたのは私の為だと。イエス様が蘇ってくださったのは他ならぬ私の為だとです。客観的に見れば、そんな大昔の話が私にいったい何の関係があるでしょうか。けれど、やはりそれは私のことなのです。これは先ほども言った聖霊の内住が関わっています。つまり、私たちの内に住まれる聖霊にとって、それは過去の事でも、他人事でもなく、永遠の神であられるご自身の出来事なのです。この永遠なる神が、今日、私の内から働きかけ、私たちを神の恵みに結び合わせて下さるのです。

190602 ハイデルベルク信仰問答 問52

Ⅱテサロニケ1:6-10 「キリストの再臨」

第52問
【問】「生ける者と死ねる者とを審」かれるためのキリストの再臨は、あなたをどのように慰めるのですか。
【答】わたしがあらゆる悲しみや迫害の中でも頭を上げて、かつてわたしのために神の裁きに自らを差し出しすべての呪いをわたしから取り去ってくださった、まさにその裁き主が天から来られることを待ち望むように、です。
この方は、御自分とわたしの敵をことごとく永遠の刑罰に投げ込まれる一方、わたしを、すべての選ばれた者たちと共にその御許へ、すなわち天の喜びと栄光の中へと迎え入れてくださるのです。

 悪が得をして、正直者が損をする。残念ですが、そういうことが世の中にはあるのです。いじめられている子を見かけて庇います。すると次の日から、その庇った本人がいじめられるようになる。よくある話です。会社のために懸命に働いて挙句の果てに過労死という話もあります。一番頑張った人が一番報われないということなど幾らでもあります。世の中は本当に理不尽なことで溢れかえっています。ですから、私たちは時に思うのです。正直に生きるよりも、ずる賢く生きることの方が得なのではないかとです。世の中は理不尽。実際にそういった現実を教えることこそが教育だと言う人までいます。
 しかし実は、そういった考えを根本から吹き飛ばす事実を、聖書は語っているわけです。それはつまり、イエス様が再臨して、生ける者と死にたる者とをさばかれるという事実です。
 世の中は言います。自分の好きなように生きて、やりたいようにやって、やりきって死ねばそれこそが人生の勝ち組だと。けれど、そうじゃないんですね。その先を見なければなりません。イエス様が裁くために来られるのです。この世においての私たちの生き方に応じて、私たちはやがて報いを受けることになる。「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。」(Ⅱコリント5:10)だから、私たちは私たちの生き方をよくよく吟味しなければなりません。自分の好き勝手に生きることは、罪人である私たちにとって、滅びの道を歩むということに他なりません。そうではない。私たちは主のみこころに生きなければなりません。誰が見ていなくても、誰も助けてくれなくっても、何の得もなくても、私たちは正直に、誠実に歩まなければなりません。主はご覧になっているからです。主は報いてくださるからです。私たちは義の奴隷として、神の国の住民として、主の御心を慕い求めて過ごすのです。
 注意しなければならないことは、私たちが正しいのではないということです。もしも私たちがこのことを忘れて自らの正しさを追い求めるなら、私たちはその正しさを持って他人を裁くことになるでしょう。けれど、ローマ2:1にはこうあります。「ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。」裁くことは主イエスの業です。それはこの方だけが正しいお方だからです。ですから、私たちは自らの正しさを誇ることはできません。そうではなくて神の正しさに目を向ける時、私たちはその正しさを、他人を裁くための物差しではなくて、自らを省みるための姿見とすることができるのです。神の義しさに目を向ける時、私たちは自らの振る舞いを正すことができるのです。
 もう一つ注意したいことは、主イエスの再臨に伴う裁きは、私たち信仰者を救いからふるい落とすものではないということです。この世の理不尽な出来事の中、あらゆる悲しみや迫害の中でも、イエス様はわたしたちを天の喜びと栄光の中へと迎え入れてくださる。これが再臨の希望です。悪は滅ぼされ、神の正しさが永遠に立つ。ですから、私たちは主の御心は何かと問いながら、絶えず神のみ言葉に聞いて、照らし合わせて生きるのです。地上の悪がどれほど大きかろうと、正しく生きることがどれほど窮屈に思えようと、信仰のゆえの迫害があろうと、私たちはその先があることを忘れてはなりません。主イエスがよみがえり、死に勝利されたことを忘れるわけにはいきません。キリストにならう生き方は、この世においてどのような試練や困難、たとえ迫害に会おうとも、必ず勝利に導かれる。私たちの想像を遥かに超えた栄光が用意されている。これが聖書の約束するところです。ローマ8:18「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」