Ⅰコリント12:20-27 「聖なる教会、聖徒の交わり」
第54問
【問】「聖なる公同の教会」について、あなたは何を信じていますか。
【答】神の御子が、全人類の中から、御自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れを御自分の御霊と御言葉により、まことの信仰の一致において、世の初めから終わりまで集め、守り、保たれる、ということ。そしてまた、わたしがその群れの生きた部分であり、永遠にそうあり続ける、ということです。
第55問
【問】「聖徒の交わり」について、あなたは何を理解していますか。
【答】第一に、信徒は誰であれ、群れの一部として、主キリストとこの方のあらゆる富と賜物にあずかっている、ということ。第二に、各自は自分の賜物を、他の部分の益と救いのために、自発的に喜んで用いる責任があることをわきまえなければならない、ということです。
「聖なる公同の教会」と言います。教会の特徴として使徒信条は「聖」と「公同」を挙げているわけです。ですから私たちは、礼拝で使徒信条を告白する時、教会とは聖であり公同であると信じ告白していることになります。。。けれど、どうでしょう。実際私たちはどこまで意識して告白しているでしょうか。むしろ、この教会のイメージは未信者にとってのそれではないでしょうか。教会は聖。そして、そこに集っているクリスチャンの人たちもまた聖く正しい人たち。だから私なんて教会にはとても相応しくない。と思われたりするのです。一方私たちは教会をそのようにはなかなか感じられません。なぜなら私たちは自分が聖ではないことをよく知っているからです。如何に罪深いかを知っています。にもかかわらず、私たちは教会を「聖なる」と告白します。これはどういうことでしょうか。
54問は、私たちが「聖なる教会」と告白する時、何を信じるべきかを教えています。それは教会とは「神の御子が、全人類の中から、御自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れ」であるということです。主語は神の御子であり、神の御子が一方的に、主体的に、全人類の中から選ばれた一つの群れ。これが教会だと言うのです。私たちが優れているからでも、私たちが憐れみ深いからでもなく、ましてや私たちが聖いからでもない。ただ、主イエスの尊い血潮により、罪赦され、義と認められ、呼び集められた過ぎない一つの群れ。これが教会です。つまり、教会は罪赦された者の集まりに過ぎないということです。
そしてこの罪赦された私たちが一つとされるところが、「公同の教会」です。罪赦されたと言えど、私たちの本質が一変したわけではありません。変わったのは私たちの身分だけです。罪の奴隷から義の奴隷に。しかし私たちの本質は相変わらず罪人に過ぎません。では罪人の特徴は何か。それは自分勝手です。自分優先です。神に従うことよりも、自分の願いを優先する。これが罪の本質です。そしてそんな罪人が赦されて集うのが教会ですから、本来教会が一致するはずはないのです。ところがそんな私たちが「公同の教会」を告白する。互いの違いを超えて、一つなる教会を告白する。それは、神の御子が御自身の群れを「御自分の御霊と御言葉により、まことの信仰の一致において、世の初めから終わりまで集め、守り、保たれる」ということを信じるが故なのです。私たちの一致は、性別の一致を意味しません。国籍も、世代の一致も意味しません。性格も違うし、趣味も、関心も違います。ただ信仰においてのみ一致するのです。
私たちは、教会があらゆることに一つでなければならないという幻想から解放されなければなりません。聖書は主イエスが仲保者であることを繰り返し語ります。愛の結びの帯を着けなさいとも言います。それは、私たちがそもそも違うという前提から来ているのです。むしろ違うということが重要なのです。第55問は「聖徒の交わり」について解説しています。ここには、信徒は誰であれ群れの一部に過ぎないことが語られています。一部に過ぎないのですから、一人では決して完成しないのです。あずかった富と賜物を、他の部分の益と救いのために互いに用いる。そうすることによって、私たちは互いの欠けを補い合い、全体を補うことができるのです。私たちの違いは神の賜物の豊かさです。このことを忘れてしまうと、教会の交わりはたちまち崩壊します。なぜあの人は私と違うのか。なぜあの人はあんな考えなのか。特に教会においては、そこにそれぞれの正義心が加わり、余計に相手を追い詰めることになりがちです。自分は正しい。神様はこう思っておられるはず。ともすれば互いの違いを批難し、自分色の正義を押し付けようとする私たちです。けれど、違います。一つなのは神に他なりません。
神は私たちが違いを認めあって、互いの賜物を他の部分ために益と救いのために用いることを望んでおられます。そうでなければ、神がこのように多種多様な人間の個性をお造りになるはずがありません。もう一度言います。私たちの違いは神の賜物の豊かさです。だからこそ教会には、誰一人不必要な人はいません。その人が掛け替えのない神の特別な賜物だからです。
第54問
【問】「聖なる公同の教会」について、あなたは何を信じていますか。
【答】神の御子が、全人類の中から、御自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れを御自分の御霊と御言葉により、まことの信仰の一致において、世の初めから終わりまで集め、守り、保たれる、ということ。そしてまた、わたしがその群れの生きた部分であり、永遠にそうあり続ける、ということです。
第55問
【問】「聖徒の交わり」について、あなたは何を理解していますか。
【答】第一に、信徒は誰であれ、群れの一部として、主キリストとこの方のあらゆる富と賜物にあずかっている、ということ。第二に、各自は自分の賜物を、他の部分の益と救いのために、自発的に喜んで用いる責任があることをわきまえなければならない、ということです。
「聖なる公同の教会」と言います。教会の特徴として使徒信条は「聖」と「公同」を挙げているわけです。ですから私たちは、礼拝で使徒信条を告白する時、教会とは聖であり公同であると信じ告白していることになります。。。けれど、どうでしょう。実際私たちはどこまで意識して告白しているでしょうか。むしろ、この教会のイメージは未信者にとってのそれではないでしょうか。教会は聖。そして、そこに集っているクリスチャンの人たちもまた聖く正しい人たち。だから私なんて教会にはとても相応しくない。と思われたりするのです。一方私たちは教会をそのようにはなかなか感じられません。なぜなら私たちは自分が聖ではないことをよく知っているからです。如何に罪深いかを知っています。にもかかわらず、私たちは教会を「聖なる」と告白します。これはどういうことでしょうか。
54問は、私たちが「聖なる教会」と告白する時、何を信じるべきかを教えています。それは教会とは「神の御子が、全人類の中から、御自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れ」であるということです。主語は神の御子であり、神の御子が一方的に、主体的に、全人類の中から選ばれた一つの群れ。これが教会だと言うのです。私たちが優れているからでも、私たちが憐れみ深いからでもなく、ましてや私たちが聖いからでもない。ただ、主イエスの尊い血潮により、罪赦され、義と認められ、呼び集められた過ぎない一つの群れ。これが教会です。つまり、教会は罪赦された者の集まりに過ぎないということです。
そしてこの罪赦された私たちが一つとされるところが、「公同の教会」です。罪赦されたと言えど、私たちの本質が一変したわけではありません。変わったのは私たちの身分だけです。罪の奴隷から義の奴隷に。しかし私たちの本質は相変わらず罪人に過ぎません。では罪人の特徴は何か。それは自分勝手です。自分優先です。神に従うことよりも、自分の願いを優先する。これが罪の本質です。そしてそんな罪人が赦されて集うのが教会ですから、本来教会が一致するはずはないのです。ところがそんな私たちが「公同の教会」を告白する。互いの違いを超えて、一つなる教会を告白する。それは、神の御子が御自身の群れを「御自分の御霊と御言葉により、まことの信仰の一致において、世の初めから終わりまで集め、守り、保たれる」ということを信じるが故なのです。私たちの一致は、性別の一致を意味しません。国籍も、世代の一致も意味しません。性格も違うし、趣味も、関心も違います。ただ信仰においてのみ一致するのです。
私たちは、教会があらゆることに一つでなければならないという幻想から解放されなければなりません。聖書は主イエスが仲保者であることを繰り返し語ります。愛の結びの帯を着けなさいとも言います。それは、私たちがそもそも違うという前提から来ているのです。むしろ違うということが重要なのです。第55問は「聖徒の交わり」について解説しています。ここには、信徒は誰であれ群れの一部に過ぎないことが語られています。一部に過ぎないのですから、一人では決して完成しないのです。あずかった富と賜物を、他の部分の益と救いのために互いに用いる。そうすることによって、私たちは互いの欠けを補い合い、全体を補うことができるのです。私たちの違いは神の賜物の豊かさです。このことを忘れてしまうと、教会の交わりはたちまち崩壊します。なぜあの人は私と違うのか。なぜあの人はあんな考えなのか。特に教会においては、そこにそれぞれの正義心が加わり、余計に相手を追い詰めることになりがちです。自分は正しい。神様はこう思っておられるはず。ともすれば互いの違いを批難し、自分色の正義を押し付けようとする私たちです。けれど、違います。一つなのは神に他なりません。
神は私たちが違いを認めあって、互いの賜物を他の部分ために益と救いのために用いることを望んでおられます。そうでなければ、神がこのように多種多様な人間の個性をお造りになるはずがありません。もう一度言います。私たちの違いは神の賜物の豊かさです。だからこそ教会には、誰一人不必要な人はいません。その人が掛け替えのない神の特別な賜物だからです。