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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝メッセージを要約したものです。

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190728 ハイデルベルク信仰問答 問65~68

ローマ10:16-17 「御言葉と礼典」

 使徒パウロがピリピの町に着いたとき、町の外の祈り場で、ティアティラ市で紫布商人をしているリディアという女性と出会います。そして、「主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた」のです。彼女はパウロと出会う前から、神を敬う人でした。祈り場にせっせと足を運ぶ信仰深い女性でした。けれど、聖書は彼女のそういった神への敬虔さのゆえにではなくて、主が彼女の心を開いたと語ります。そして、パウロの語る福音に心を留めるようにされた。それは確かに聖霊の働きによるものです。Ⅰコリント12:3には「聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。」とあります。聖霊は何でもかんでも信仰を起こされるのではありません。イエス・キリストに対する信仰こそ、聖霊が私たちに起こし育ててくださるものなのです。
 さて、聖霊は二つの方法で私たちに信仰を与えてくださいます。一つは聖なる福音の説教を通して、もう一つは聖礼典を通してです。
 単に聖書を通してではなくて、「聖なる福音の説教を通してそれ(信仰)を起こし」とされているところに注目すべきです。つまり福音は一人で研究して満足する類のものではないということです。礼拝という公の場で語られ、兄弟姉妹とともに聞き、実践し、分かち合う。そういう生きて語られる愛の言葉として、聖霊は働かれるのです。ですからやっぱり礼拝の場に集うことが大事です。それは一人で御言葉に触れることを否定しているのではありません。説教者の方が知識が豊富だからとか、話しが分かりやすいからとか、そういうことでもありません。聖霊は礼拝という場において説教者を用いられるからです。そして、聖霊は礼拝の場で聴衆の心をも整えてくださるからです。
 また、聖霊は「聖礼典の執行を通してそれ(信仰)を確かにしてくださる」と言います。聖礼典とは、洗礼と聖餐のことですが、これらは私たちの信仰を確かにする目に見えるしるしだと言います。もちろん洗礼や聖礼典といった儀式が信仰を生むのではありません。けれど、その儀式が私たちの信仰を確かなものとし、私たちの信仰を守るのです。
 聖礼典は「目に見える聖なるしるし」です。しるしというのは、見えないものを見えるように表したものです。例えば、道路標識を見ながら、私たちは見えない交通ルールを見たりします。同じように聖礼典を通して、私たちはそれが意味するところの「十字架上で成就されたキリストの唯一の犠牲のゆえに、神が、恵みによって、罪の赦しと永遠の命とをわたしたちに注いでくださる」という約束を見るのです。
 また聖礼典は「封印であって」ともあります。封印というのは大事な中身に手が付けられないように、その入口を塞ぐものです。封印がある間は、中身に手が付けられていない証拠です。聖礼典が封印だというのは、つまり私たちの救いが決して揺るがないことの保証です。この封印は神によってなされたもの。神がその救いにもう手を付けることなく、確かな案件として保管してくださっているということなのです。
 私たちは聖霊により福音の説教を通じて、信仰へと入れられました。そして私たちはパンとぶどう酒を食す度に、私たちの受けた恵みの大きさを覚えます。繰り返し、繰り返し、私たちは初めの愛に立ち返り、整えられるのです。私たちの信仰生活は、時に迷ったり、不安を覚えたり、疑ったりもいたします。けれど、私たちの救いは、私たちの状況に左右されない、もはや神によって封印され確定された永遠の救いです。私たちの何かではない、キリストの義が私たちを確かに救うのです。
 さてなぜ聖礼典は洗礼と聖餐の2つだけなのでしょうか。これらがイエス様の直接の命令によるからです。どう恵まれるとか、どのような意味があるということも大切ですが、それ以上に「イエス様の命令」これに尽きるのです。

190721 ハイデルベルク信仰問答 問62~64

マタイ20:1-16「愛されている子どもらしく」

 恵みのゆえに、信仰によって救われる。この教えは、宗教改革によって勝ち得たプロテスタント教会の核となる教えでありました。それまでの中世カトリックの教えは、神の前に義とされるのは信仰の良きわざによるという教えだったわけです。けれど、そうじゃない。私たちのわざじゃなくて信仰なんですよ。と、宗教改革者たちとそれに追従する人々は、大カトリック帝国に戦いを挑んだわけです。そして、彼らは勝利し独立して行ったのです。
 じゃあ聖書は、私たちに正しく振る舞うことを望んではいないのかと言いますと、そんなことは決してありません。ありませんが、こと救いに関して言えば、私たちの正しくあろうとする試みは問われていないんですよと言っている。なぜなら、神様の求める義とは、中途半端な義ではない完全な義。あらゆる点において妥協されることのない義だからです。どれだけ頑張ったとか、真面目だったとか、そういうことじゃない。完全な神の前に、自らの義を誇ることができるのは、あらゆる点で完全であり、神の律法に全く一致するものでなければならないのです。つまりです。信仰義認の教理は、イエス様を信じる者は救われるというだけを語っているのではないのです。イエス様への信仰以外のあらゆる行いは、決して私たちを義と認めることはできない。ということを教えているし、告白しているのです。
 問63は人間的に見れば大変非情です。私たちの善い行いが何の功績にもならないとバッサリ切り捨てるからです。それはただ恵みなのだと。これはどうでしょう。報酬は私たちの善い行いによる功績次第ですよ。と言われた方がよっぽど納得が行くところではないでしょうか。
 イエス様の例え話で、初めて聞いたときどうしても納得の行かなかった話があります。農園で働く労働者の話です。農場主が働き手を一日一デナリの約束で、朝の9時に募り、昼の12時、3時に募り、そして夕方の5時にも募りました。それぞれに手を挙げた労働者たちは農園で働き、夕方の6時になってその日の報酬を受け取ることになりました。最初に5時に来た者が報酬を受け取ります。その額1デナリ。他の者は活気づきます。彼らよりも長く働いた自分たちはいったい幾らもらえるのだろうか。ところがです。どの労働者にも同じ一デナリが手渡されるのです。契約通りと言えばそうなのですが、頑張った人とそうでない人が同じ報酬というのはなんとも納得がいきません。ですから問64にあるような「この教えは、無分別で放縦な人々をつくるのではありませんか。」という気持ちが良くわかるのです。それは最初から働く者のやる気を削ぐのではないか。という話です。一生懸命に働いて損した、という気持ちです。
 けれど、本当にそうでしょうか。彼らはこの報酬を受けるその時まで、労働の喜びを感じながら、約束の報酬を楽しみにして過ごしていたのではなかったでしょうか。声をかけてくれた主人の期待に応えるべく、精一杯働いたことではなかったでしょうか。報酬以上の充実を手にしていたのではなかったでしょうか。よく、死ぬまで好きなことやって、死ぬ直前にイエス様を信じたら良いんでしょ。という方がいます。けれどそれは非常に勿体ない。その人は主人のもとで過ごす充実を味わわないままこの世を過ごさなくてはなりません。約束された報酬を持たないまま焦りの内に日々を過ごさなければなりません。
 ハイデルベルク信仰問答は言います。「まことの信仰によってキリストに接ぎ木された人々が、感謝の実を結ばせないことなど、ありえないからです。」イエス様を信じ、その救いに入れられた人は、感謝の実を結ぶのです。つまり、その行いは報酬のための労働ではなくて、感謝の応答だと言うのです。私たちの行いに対する報酬なら、それは私たちの権利です。けれども、それは恵みのゆえにもたらされたのです。だから私たちは感謝する。だからこのお方の期待に応えるべく生きるのです。エペソ5:1には「ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。」とあります。まず愛されたのです。まずイエス様が贖いとなられ、まず神の子どもとされたのです。私たちがこの恵みに目を向けるなら、私たちの内に感謝が生まれます。そして感謝は私たちを突き動かすのです。

190714 ハイデルベルク信仰問答 問59~61

エペソ2:8-9「信仰によって義とされる」

 59問には「これらすべてを信じることは、あたなにとって今どのような助けになりますか。」とあります。これは多くの人が宗教というものに期待するところではないでしょうか。「この宗教に入ったら何か得しますか?」世に宗教は沢山あるわけです。その中で何を自らの信仰として選び取るのか。その判断材料の一つに、どういう見返りがあるのかというのは、ある意味、正直な問いではないでしょうか。当時の宗教改革の時代も、カトリック、プロテスタント。プロテスタントでも、ルター派、カルヴァン派、再洗礼派、様々に争いが絶えなかったわけです。そんな中で、これまで教えられてきた教会の伝統ではなくて、この使徒信条で解説されるような聖書の内容自体を信じ告白するということは、いったいどんな益となることなのか。自分の旗色を決めるということが直に反対勢力との敵対を意味していた時代です。信じるということは文字通り、それに命を懸けるという意味だったわけです。人々が当然意識したのは、この教えを信じたらどんな得があるのか?という質問だったことでしょう。
 じゃあ、ハイデルベルク信仰問答はなんと答えるのか。それは「義とされ、永遠の命の相続人となる」という言うのです。この答えは当時の人々にとっては驚くべき答えです。信じるだけで義とされる?永遠の命の相続人となる?そんな馬鹿な話があるんですか?という話です。ここで思い出してほしいのは、宗教改革以前、人々は聖書を自力で読むことが叶わなかったということです。聖書はラテン語で書き写されたものが一部の聖職者と教会に保管されているだけであり、人々は教会のミサで、教会の長い伝統によって徐々に上書きされてきた教えを聞くしかなかった。ところが免罪符など余りにもこれまでの教えから逸脱したものが出てきて、そんなこと本当に聖書に書いているんですか?と、ルターを始め、一部の聖職者たちが抗議するようになったわけです。折しも時代はルネサンス。グーテンベルクの活版印刷技術によって、聖書がドイツ語で印刷されるようになって、ようやく聖書が信徒たちの手にも渡るようになって行った、その過程の時代なのです。人々はようやく、この初期の教会が認めてきた信仰義認という教えに向き合うこととなったのです。
 しかし「信じることで義とされ、永遠の命の相続人となる」とは、とても不安定な教えです。心は目に見えないからです。中世カトリックがキリストの贖いと共に、信者の行いによる義を語ってきたのもわからなくありません。行いは目に見えるからです。自分がこれだけ功徳を積んだと、確かな実感として確認できるからです。ところが、そういうわかりやすい義認の方法が否定されますと、それがどれだけ恵みであっても、かえって不安になるのです。そんな単純に救われるわけが無いでしょ。と思うわけです。私の罪はそんなに軽くないと思うわけです。どれだけ神が義と認めても私の良心が認めない。真面目に善行を積んできた者ほどそう思うわけです。けれど、ハイデルベルク信仰問答は「神は、わたしのいかなる功績にもよらず、ただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖とをわたしに与え、わたしのものとし」と言います。つまり、信仰による救いを信じきれない人たち、自分の罪と真摯に向き合おうとしている人たちに向かって、大丈夫だと言うのです。なぜなら「神はキリストの償いと義と聖をご覧になられて、私たちの義としてくださっているから」です。私たちは神の義とはなれません。私たちの信仰は神を喜ばせるものではありません。けれど、神がキリストのゆえに私たちを義と認めると決められた。だから、あなたの良心があなたをどれだけ責め立てても、神の救いの確かさは変わらないのです。
 私なんて救われないと自分を厳しく戒める方がおられます。でも、イエス様は信じられるでしょう。イエス様の十字架は神の目に適われたことは信じられるでしょう。それで良いのです。私たちは自分を信じられなくても、イエス様を信じられるならそれで良い。なぜなら、私たちの救いの根拠は、私たちには一切なく、ただイエス様の義によるからです。

190707 ハイデルベルク信仰問答 問57~58

Ⅰコリント15:51-58 「死後に続く希望」

 使徒信条は罪の赦しに続いて、「身体のよみがえり」、そして「永遠のいのち」を告白致します。この告白は聖霊の告白のもとにありますから、これはイエス様のよみがえりのことを言っているのではありません。これは他ならぬ私たちの身体のよみがえりのことであり、私たちの永遠のいのちのことであります。ここでは私たちの死後についての聖書の教える希望が告白されているのです。
 「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。」(伝道者12:7)これが聖書の死生観です。つまり聖書で言う死とは、肉体と霊が分離することを指し、人は死後、その肉体は地に帰り、霊は神に帰ると言うのです。問題は、ここで言う神に帰るとは、神の前に引き出され神の裁きに会うことに他ならないということです。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」人は死に、その魂は裁かれる。主とともにあるパラダイスか、燃えるゲヘナか、そのどちらかに入れられるのです。もしも私たちが自らの罪を悔い、主イエスを救い主と信じるなら、十字架にかけられた強盗の如く、私たちもまた直ちにパラダイスに招かれるのです。ハイデルベルク信仰問答が「魂が・・・直ちに、頭なるキリストのもとへ迎え入れられる」と言うのはこのことです。しかし聖書の希望は単なる魂の救いに留まりません。「やがてこの体も・・・再びわたしの魂と結び合わされて、キリストの栄光の御体と同じ形に変えられる」と言っています。つまり、永遠の救いとは、私たちの存在が誰かの心に生き続けるという単なる精神論ではないということです。また例えば輪廻のような、私たちが今ある関係や経験をまっさらにリセットして、別の存在に生まれ変わるという不連続性を持った永遠でもありません。私たちの愛する人、大切な人との関わりや思い出を一切失うことなく、確かな肉体を持ってよみがえると言うことです。
 確かな連続性を持って、私たちはよみがえります。しかし、やはり今までと同じではない。よみがえった身体はキリストの栄光の御体と同じにされるのです。ここによみがえりの希望があります。もしも永遠の命が、単なる命の継続を指すのであれば、これは単純な希望とはならないでしょう。たとえば重い病に苦しんでいる人は、そんな永遠はいらないと言われるのではないでしょうか。私たちは確かな連続性を持ってよみがえります。永遠の命を生きるようになります。けれどそれは、キリストの栄光の体と同じ形にされてのことであり、誰も思い浮かびもしなかったような完全な祝福を受けてのことなのです。
 ところがです。ハイデルベルク信仰問答は「わたしが今、永遠の喜びの始まりを心に感じているように、」とも言っています。魂は「直ちに」キリストのもとへ。身体は「やがて」キリストの御体と同じ形に。けれど、喜びは「今」「すでに」なのです。私たちの死後の祝福は、やがて来る遠い先の希望ではありません。私たちが今を生きる希望とされ、私たちの生き方を具体的に変えていく力となるのです。
 パウロの宣教の日々は壮絶の一言に尽きます。迫害に打たれ、あらゆる難に会い、命の危機すらも幾度となく経験しました。ところが彼は使命を投げ出すことはせず、進んで困難な中をくぐり抜けていくのです。なぜそこまで力強いのか。パウロは言います。「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」(ローマ8:18)彼の挫けない信仰は、やがて啓示される栄光に根ざしているからです。彼の愚直なまでの主への信頼は、死の先に続くよみがえりの事実に由来しているのです。私たちも彼に倣うべきです。見えるものではなく、見えないものこそが私たちを自由にします。やがて来る再臨の希望を抱くことが、今ある困難を乗り越える力となるのです。

190630 ハイデルベルク信仰問答 問56

ローマ8:1-2 「神は思い出さない」

 ハイデルベルク信仰問答は、罪の赦しについて「わたしのすべての罪と、さらにわたしが生涯戦わなければならない罪深い性質をも、もはや覚えようとはなさらず」と言っています。ここに罪の赦しの本質が記されています。つまり、罪の赦しとは、私たちの性質の変化ではなくて、神がそれを覚えないという決定事項であるということです。
 相手の過失を赦すということはとても難しいことです。私たちは、赦したつもりでも、実際には赦せていないことばかりです。何かがある度にすぐ、相手の過ちが思い出されます。そういえば、以前、こんなことをされた。あの時は、こんなひどいことを言われた。一つの不満が呼び水となって、紐づけされた今までの恨みつらみが留まることなく溢れ出てきます。それが当然の権利かのように、私たちは私たちの正義を振りかざして、何度も何度も裁きます。一つの不満が十にも百にも膨れ上がって、そもそもの怒りが何だったかわからなくなるくらいに、怒りで我を忘れたりするのです。だから思い出す度に赦すことが求められる。イエス様は7回の70倍するまで。とおっしゃいましたが、それは私たちの忘れられない性質をイエス様はご存知だからです。
 けれどもです。神の赦しというのは、根本が違うのだとハイデルベルク信仰問答は言います。神はもはやその罪を覚えようとはなさらない。と言います。それどころか、キリストの義を転化することによって、私たちの存在自体を裁きの対象から外されると言うのです。覚えようとはなされない。というのは、罪を見ないふりするということではありません。キリストの義を転化するのですから、罪の処罰は確実になされたのです。神はその解決した罪をもはや覚えようとはしない。過去に遡って掘り返すことをしないのです。
 罪の赦しが聖霊の告白の中で語られていることが大事です。つまり、罪の赦しは教会という聖徒の交わりの中で体験されるものでなければならないということです。私たちの交わりの中で、過去に遡ってその人の解決した罪を掘り起こしてはいけない。一度覚えた偏見や先入観でその人を見てはいけないということです。私たちは一度相手が憎いと思えば、どれだけその人が変わろうとしても、なかなか認められません。けれどそうではあってはいけません。聖徒の交わりは赦しの交わりです。そもそも私たちは神から一方的な恵みによって罪赦された者の集まりでしかないのです。私たちは過ちを犯す者です。失敗だらけで、沢山の迷惑をかけながら過ごしてきた者です。神の名に相応しくない者です。けれど、神はそんな私たちの過去を覚えようとはなさいません。過去に悔いて、新しく生きようとするその決意を覚えてくださるのです。ですから、私たちも相手の過去を見てはいけません。今を見るのです。これからに期待するのです。
 このことはもちろん、互いの罪を見ないようにするということではありません。あくまでも「覚えない」ということであって、罪とわかっていながらそれを放置することは聖徒の交わりには相応しくありません。私たちは愛を持って教えます。敢えて厳しい言葉を口にします。それは、その人が罪を曖昧にし神を軽んじることのないためにです。けれど、その人が真摯に罪と向き合うなら、悔いるなら、私たちはもはやそのことに触れる必要はありません。神がその罪をもはや思い出さないと言われたのです。私たちがそれを掘り返す必要はどこにもありません。
 私たちは聖餐式において、十字架の贖いと復活の恵みを覚えて、神の赦しを体験します。罪深い私がこの聖餐を受けることを赦されている。パンとぶどう酒をいただきながら、神の憐れみを実感致します。そして同様に、共に聖餐を受ける兄弟姉妹の赦しを体験するのです。赦されているという実感が、私たちを赦す者へと変えます。これは聖霊の働きです。私たちは日々新しい者へと作り変えられているのです。ですから、昨日の姿を見るのではなく、今日の姿を見る私たちの交わりいたしましょう。