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Author:yasukomi
埼玉県狭山市にあるいのちの樹教会の牧師です。
このブログは毎週の礼拝と祈祷会のメッセージを要約したものです。

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190825 ハイデルベルク信仰問答 問75~79

ヨハネ6:53-58 「聖霊によって一つにされて」

 初代教会の時代、キリスト教徒は人肉を食べる野蛮でおぞましい集団である。という、まことしやかな噂が広まったと言います。ピンと来られた方は鋭い。そうです。聖餐式から来る誤解です。キリスト教徒は人食い集団というのは、根も葉もない噂です。彼らはパンを割き、ぶどう酒を分け合っていただけです。けれど、その噂はあながち間違いでは無かったのかもしれません。少なくとも初代教会の人々にとってはこの聖餐に与かるということは、文字通りキリストの血肉をいただくという意味を持っていたからです。なぜなら、彼らはイエス様の十字架と復活を目の当たりにした生き証人だったからです。彼らはそのパンを食べるとき、イエス様の十字架を思い出さずにはいられませんでした。ぶどう酒を啜るとき、イエス様の復活を感謝せずにはいられませんでした。なぜなら、彼らは過ぎ越しの食事の最中で行われたイエス様のパン裂きと、その直後に起きたあの十字架と復活を経験し、イエス様こそが、人々の罪を過ぎ越すために神が用意された生贄の子羊であることを確かに悟っていたからです。当時の教会では実際にその場でパンを裂いて配り、一つの盃を回しておりました。ですから彼らはそのパンとぶどう酒を受け取る度に、主イエスの体が自分たちのために十字架上で引き裂かれたこと、そして自分たちが一つの体として、永遠の命をいただいていること、そして天の御国に入れられることの保証を感じ取ったのです。
 この初めの理解に立ち返ろうというのが、宗教改革でした。と言いますのも、時代が進み、教会が権威を持つ時代になると、聖餐の理解が変わってきたからです。聖餐の儀式自体の権威化がなされたのです。つまり、パンとぶどう酒が実際のキリストの体と血そのものになるという教えが公然と語られるようになっていったのです。イエス様がパンを持って「これはわたしの体です。」と語られたとき、当然、そこにはイエス様ご自身がおられたわけですから、パンがイエス様の体であるわけはないのです。けれど、初代教会の時代とは違い、人々は、パンとぶどう酒にイエス様の犠牲と永遠の命の希望を見ることが難しくなって来たのです。もうイエス様の死と復活の興奮が漂う時代ではありません。それは教会の教えの中で聞くしか無い時代、彼らの信仰のリアリティーは、キリストの血肉を食すという具体的な行為に結びついていきます。そしてそのために、パンとぶどう酒がキリストの体と血そのものになるとの権威付けがなされたのです。
 私たちは初代教会の理解に立たなくてはいけません。それは宗教改革者たちが辿った道です。すなわち、イエス様が命じられたその御言葉に立つという理解です。ハイデルベルク信仰問答の第77問はそのことを言っています。イエス様はご自身を覚えるために、新しい契約を覚えるために、記念として行いなさいと命じられたのです。ですから、私たちはこれをキリストの記念として行います。それはイエス様の体が引き裂かれ、私たちの贖いが成就したこと。そして、私たちが一つの体として、キリストの交わりに加えられたことを覚えるためにです。
 しかし、これは単に思い出に浸るための記念ではありません。それは私たちの信仰を実際に養う霊の糧です。私たちはこのキリストの体と血に見立てたパンとぶどう酒を食すことによって、他でもないキリストと一つとされていく。キリストの似姿へと変えられていくのです。それは聖霊によってなされます。私たちは聖霊によって、キリストと一つとされるのです。いえ、聖霊は一つなのです。私たちの内に住まれる聖霊は、キリストの内にも住んでおられるお方である。この衝撃的な当然の事実が、私たちがキリストの似姿へと変えられる保証です。私たちが信仰を持って聖餐をいただくとき、私たちは聖霊によりキリストと一つとされるのです。

190818 ガラテヤ2:19-20、ピリピ1:20-21 「イエスのいのちに生きる」 朝岡満喜子師(支援教師)

ガラテヤ2:19-20、ピリピ1:20-21 「イエスのいのちに生きる」 朝岡満喜子師(支援教師)

190811 ハイデルベルク信仰問答 問72~74

Ⅰペテロ3:21「しるしとしてのバプテスマ」

 水の洗い、つまり洗礼についてですが、その水が特別だから清められるという誤解は意外と少なくありません。それは日本では神道のお祓いや禊ぎのイメージが強いからかもしれません。なぜなら神道でお祓いや禊ぎなどで使われる水は、お清めの水と言いまして、それ自体が罪や汚れを落とし清める力があると考えられているからです。実は同じような考えは、キリスト教でもありまして、たとえば正教会(オーソドックス)では、主教や司祭が十字架を水に浸して作る聖水を、飲んだり、食事に振りかけたりすることで、病の癒しなどの特別な恩寵が働くと信じられています。またカトリックでも、司祭によって祝別された水を聖水と呼び、それ自体に特別な神の力が宿っていると考えられています。実はこう言った、物質の神聖化と、それを受ければ清められるというオートマチックな救いに対して、そうじゃないですよ。と指摘しているのが、この72問というわけです。
 私たちが体の汚れを落とすように、罪や穢れを落とすことはそう簡単なことではありません。なぜなら、それは内側から溢れ出るものだからです。仮に特別な水だったとしても、その水があれば清められるという考え方は、あまりにも罪や穢れを甘く見過ぎです。物質を神聖化して、それを持って癒されようという考え方は、結果だけを便利に受け取ろうとする行為に過ぎません。長血の女性がイエス様への信仰の大きさゆえに「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と考えたのとは、全く違います。
 罪の洗い清めは、そんなお気軽なものではありません。私たちの罪を洗い清めるために、命の犠牲が必要だったのです。本来罪のゆえに死ぬはずの私たちの代わりに、イエス様が身代わりとなって死なれました。私たちが今、一切の罪の負債を支払う必要がないのは、イエス様の血と聖霊のゆえなのです。この事実を抜きにして、私たちがどれだけ清い水に浸かろうと、有名な先生から洗礼を受けようと、決して罪を洗い流すことはありません。たとえばです。バプテスマのヨハネがヨルダン川で洗礼を授けておりました。ではその横で、誤って川に落ちた子どもは洗礼を受けたことになるでしょうか。水が特別であればなるかもしれません。けれどそうじゃないですね。ごった返す人混みの中で知らずの内にイエス様に肩がぶつかったとして、その人は癒されるでしょうか。癒しとはそういうものじゃないですね。イエス様は長血の女性にわざわざ人前に進み出るように求められました。ご自身に対する期待と信頼、そして信仰を求められたのです。ですから、水に浸かれば自動的に清められるのではありません。洗礼という儀式が清めるのでもない。血と聖霊とあります。事実として大事なのは主イエスの十字架の贖いと、聖霊の内住。そして、これを信じる信仰が問われているのです。
 では、洗礼はわざわざ水に浸かる意味はないと思われるでしょうか。大事なのは十字架と聖霊と信仰。ならばそれで十分じゃないかとです。けれど意味はあるのです。この水を用いることによって、私たちの罪がキリストの血と聖霊とによって除き去られることを、私たちは文字通り体験するのです。水の洗いは、霊の洗いのしるしです。水に浸かり、再び出る。私たちはこの儀式を通して、霊的に古い自分の死と新しい命に与ることを霊的に体験するのです。
 さて、いのちの樹教会はバプテスト教会の流れから生まれた教会ですので幼児洗礼はいたしません。けれど幼児洗礼をされた方に再洗礼をすることはしませんし、その理解は持っておくべきです。それは教会に与えられた子は契約の子という理解です。つまり、私たちは与えられた新しい命を教会の民として数え、教え導くことが求められているのです。ですから、私たちは赤ちゃんが理解できないからといって礼拝から追い出すことはいたしません。その子も一人の礼拝の民だからです。
 しかし、一方で考えなければならないことは、洗礼の持つ信仰告白という側面です。Ⅰペテロ3:21には、バプテスマは「健全な良心が神に対して行う誓約」とあります。イエス様はすでに割礼を受けているユダヤの民に、わざわざ洗礼を受けることを命じられました。割礼だけでは不十分だったからです。神の民に対して、誓約が大事だと言われるのです。
 ですから子どもであろうと、自らの意思ではっきりと信仰を告白するならば、その信仰は認められるべきです。たとえ幼児であっても、信仰を告白することには相応の責任が問われます。しかし、その上で告白される信仰を、私たちは突き返す必要はありません。その子の信仰として重く受け止め、その告白に相応しく歩めるように、私たちは教え導くのです。教会の民として与えられた子どもたちに対する私たちの責任が問われていくのです。

190804 ハイデルベルク信仰問答 問69~71

ローマ6:3-10「血と霊による洗い」

 以前、松原湖のアウトキャンプで講師をさせていただいたときのことです。なんとアウトキャンプは最後までお風呂の時間がないんですね。キャンプが終わって、ベースキャンプ場に戻ってきて、そこで初めてお風呂に入る。これが気持ち良いんです。汚れが落ちていくのが目に見えてわかる。そして匂いでわかる。ぜひ若い人はあの感動を味合ってもらいたいと思います。ところで、ハイデルベルク信仰問答はまさにそのように私たちの外的な汚れが水で洗われるのと同じくらい確実に、私たちの魂の汚れはキリストの血と霊によって洗われると言っているのです。
 いやいやそもそも魂の汚れなんて洗えるものなのでしょうか。たとえばです。お堀やプールは綺麗にすることができます。水を全部抜いて、掃除をして、新しい水を入れれば綺麗になります。けれど、たとえば汚染された泉だったらどうでしょう。泉というのは滾々と水が湧き出るわけで本来はきれいなのですが、その源泉がたとえば工業用水ですとか、放射能とかで汚染されていたらどうでしょう。汚染された水が滾々と湧き出るわけです。幾ら水を入れ替えても、水を抜いた瞬間から、新しい汚染水が湧き出てくる。これはもう綺麗にしようがありません。
 イエス様はあるとき言われました。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」表面についた汚れなら洗い流すことができます。けれど、その汚れは、私たちの内側から出てくるのです。で、あれば、いったいどうしてこの汚れを綺麗にすることができるでしょうか。
 それは汚れた水を洗い流すほどの大量の水が溢れ出れば良いのです。聖霊による源泉です。それがつまり「キリストの血と霊とによる洗い」なのです。
 キリストの血と霊とは何を意味するのか。今日の箇所のローマ6:3~5は、それはキリストの死とキリストの復活だと言っています。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちは、キリストの死とキリストの復活にあずかるバプテスマを受けたのです。
 キリストの死にあずかるとは、どういう意味でしょう。それは古い自分の死を意味します。キリストが死なれたのは、罪深い私たちの身代わりとなられるためでした。私たちは本当なら罪のゆえに死んでいた者です。けれど、私たちの代わりに、キリストがその罰を受けて死んでくださった。それゆえ私たちの罪は赦されたのです。これが十字架の恵みです。死ぬべき者がキリストの犠牲のゆえに生かされたのです。ではキリストの復活にあずかるとは、どういう意味でしょう。それはつまり新しい命にあずかるということです。イエス様の昇天と引き換えに聖霊が来られたのです。聖霊が私たちに内住し、私たちに信仰をもたらされたのです。それゆえ、私たちは神の子とされ、神に従うことの幸いを見出し、キリストに相応しい者として生きることを願うようにされたのです。私たちは洗礼を受けることを通して、このキリストの死と復活のバプテスマに与ったのです。つまり洗礼は聖霊の源泉をいただいた私たちの聖化の始まりであるということでもあるのです。
 毎回松原湖キャンプで心に残るのは、子どもたちの賛美の姿です。不安や緊張。周囲を恐れる思い。そういった否定的な感情は彼らにはありません。賛美の泉が、心の中の色んな思いを洗い流しているのです。私たちは意識して、汚れを清めることはできません。ねたみを持たないように、高慢にならないようにと願っても、願った側からそのような思いに囚われます。それは向き合う方向が間違っています。心の中の汚れを洗い流すために、水を抜いて掃除しようとしても駄目なのです。抜いた側から幾らでも湧き出てきます。そうじゃない。その汚れを圧倒的に洗い流す膨大な量の水が溢れればいいのです。賛美の泉です。私たちの心が聖霊に満たされる時、初めて私たちはそのような思いを断ち切ることができるのです。