ヨハネ6:53-58 「聖霊によって一つにされて」
第75問
【問】あなたは聖晩餐において、十字架上でのキリストの唯一の犠牲とそのすべての益にあずかっていることを、どのように思い起こしまた確信させられるのですか。
【答】次のようにです。キリストは御自身を記念するため、この裂かれたパンから食べ、この杯から飲むようにと、わたしとすべての信徒にお命じになりましたが、その時こう約束なさいました。
第一に、この方の体が確かにわたしのために十字架上でささげられ、また引き裂かれ、その血がわたしのために流された、ということ。それは、主のパンがわたしのために裂かれ、杯がわたしのために分けられるのを、わたしが目の当たりにしているのと同様に確実である、ということ。
第二に、この方御自身が、その十字架につけられた体と流された血をもって、確かに永遠の命へとわたしの魂を養いまた潤してくださる、ということ。それは、キリストの体と血との確かなしるしとしてわたしに与えられた、主のパンと杯とをわたしが奉仕者の手から受けまた実際に食べるのと同様に確実である、ということです。
第76問
【問】十字架につけられたキリストの体を食べ、その流された血を飲むとはどういうことですか。
【答】それは、キリストのすべての苦難と死とを、信仰の心をもって受け入れ、それによって罪の赦しと永遠の命とをいただく、ということ。それ以上にまた、キリストのうちにもわたしたちのうちにも住んでおられる聖霊によって、その祝福された御体といよいよ一つにされてゆく、ということです。それは、この方が天におられわたしたちは地にいるにもかかわらず、わたしたちがこの方の肉の肉、骨の骨となり、ちょうどわたしたちの体の諸部分が一つの魂によってそうされているように、わたしたちが一つの御霊によって永遠に生かされまた支配されるためなのです。
第77問
【問】信徒がこの裂かれたパンを食べ、この杯から飲むのと同様に確実に御自分の体と血とをもって彼らを養いまた潤してくださると、キリストはどこで約束なさいましたか。
【答】聖晩餐の制定の箇所に、次のように記されています。わたしたちの「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『(取って食べなさい。)これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。この約束はまた聖パウロによってくりかえされており、そこで彼はこう述べております。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」。
第78問
【問】それでは、パンとブドウ酒がキリストの体と血そのものになるのですか。
【答】いいえ。洗礼の水は、キリストの血に変わるものでも罪の洗い清めそのものになるのでもなく、ただその神聖なしるしまた保証にすぎません。そのように、晩餐の聖なるパンもまたキリストの体そのものになるわけではなく、ただ礼典の性格と方法に従ってキリストの体と呼ばれているのです。
第79問
【問】それではなぜ、キリストは、パンを御自分の体、杯を御自分の血またその血による新しい契約とお呼びになり、聖パウロは、イエス・キリストの体と血にあずかる、と言うのですか。
【答】キリストは何の理由もなくそう語っておられるのではありません。すなわち、ちょうどパンとブドウ酒がわたしたちのこの世の命を支えるように、十字架につけられたその体と流された血が、また飲み物になるということを、この方はわたしたちに教えようとしておられるのです。そればかりか、わたしたちが、これらの聖なるしるしをこの方の記念として肉の口をもって受けるのと同様に、現実に、聖霊のお働きによって、そのまことの体と血とにあずかっているということ。そして、あたかもわたしたちが自分自身ですべてを苦しみ、また十分成し遂げたかのように、この方のあらゆる苦難と従順とが確かにわたしたち自身のものとされているということを、この方は目に見えるしるしと保証を通して、わたしたちに確信出せようとしておられるのです。
初代教会の時代、キリスト教徒は人肉を食べる野蛮でおぞましい集団である。という、まことしやかな噂が広まったと言います。ピンと来られた方は鋭い。そうです。聖餐式から来る誤解です。キリスト教徒は人食い集団というのは、根も葉もない噂です。彼らはパンを割き、ぶどう酒を分け合っていただけです。けれど、その噂はあながち間違いでは無かったのかもしれません。少なくとも初代教会の人々にとってはこの聖餐に与かるということは、文字通りキリストの血肉をいただくという意味を持っていたからです。なぜなら、彼らはイエス様の十字架と復活を目の当たりにした生き証人だったからです。彼らはそのパンを食べるとき、イエス様の十字架を思い出さずにはいられませんでした。ぶどう酒を啜るとき、イエス様の復活を感謝せずにはいられませんでした。なぜなら、彼らは過ぎ越しの食事の最中で行われたイエス様のパン裂きと、その直後に起きたあの十字架と復活を経験し、イエス様こそが、人々の罪を過ぎ越すために神が用意された生贄の子羊であることを確かに悟っていたからです。当時の教会では実際にその場でパンを裂いて配り、一つの盃を回しておりました。ですから彼らはそのパンとぶどう酒を受け取る度に、主イエスの体が自分たちのために十字架上で引き裂かれたこと、そして自分たちが一つの体として、永遠の命をいただいていること、そして天の御国に入れられることの保証を感じ取ったのです。
この初めの理解に立ち返ろうというのが、宗教改革でした。と言いますのも、時代が進み、教会が権威を持つ時代になると、聖餐の理解が変わってきたからです。聖餐の儀式自体の権威化がなされたのです。つまり、パンとぶどう酒が実際のキリストの体と血そのものになるという教えが公然と語られるようになっていったのです。イエス様がパンを持って「これはわたしの体です。」と語られたとき、当然、そこにはイエス様ご自身がおられたわけですから、パンがイエス様の体であるわけはないのです。けれど、初代教会の時代とは違い、人々は、パンとぶどう酒にイエス様の犠牲と永遠の命の希望を見ることが難しくなって来たのです。もうイエス様の死と復活の興奮が漂う時代ではありません。それは教会の教えの中で聞くしか無い時代、彼らの信仰のリアリティーは、キリストの血肉を食すという具体的な行為に結びついていきます。そしてそのために、パンとぶどう酒がキリストの体と血そのものになるとの権威付けがなされたのです。
私たちは初代教会の理解に立たなくてはいけません。それは宗教改革者たちが辿った道です。すなわち、イエス様が命じられたその御言葉に立つという理解です。ハイデルベルク信仰問答の第77問はそのことを言っています。イエス様はご自身を覚えるために、新しい契約を覚えるために、記念として行いなさいと命じられたのです。ですから、私たちはこれをキリストの記念として行います。それはイエス様の体が引き裂かれ、私たちの贖いが成就したこと。そして、私たちが一つの体として、キリストの交わりに加えられたことを覚えるためにです。
しかし、これは単に思い出に浸るための記念ではありません。それは私たちの信仰を実際に養う霊の糧です。私たちはこのキリストの体と血に見立てたパンとぶどう酒を食すことによって、他でもないキリストと一つとされていく。キリストの似姿へと変えられていくのです。それは聖霊によってなされます。私たちは聖霊によって、キリストと一つとされるのです。いえ、聖霊は一つなのです。私たちの内に住まれる聖霊は、キリストの内にも住んでおられるお方である。この衝撃的な当然の事実が、私たちがキリストの似姿へと変えられる保証です。私たちが信仰を持って聖餐をいただくとき、私たちは聖霊によりキリストと一つとされるのです。
第75問
【問】あなたは聖晩餐において、十字架上でのキリストの唯一の犠牲とそのすべての益にあずかっていることを、どのように思い起こしまた確信させられるのですか。
【答】次のようにです。キリストは御自身を記念するため、この裂かれたパンから食べ、この杯から飲むようにと、わたしとすべての信徒にお命じになりましたが、その時こう約束なさいました。
第一に、この方の体が確かにわたしのために十字架上でささげられ、また引き裂かれ、その血がわたしのために流された、ということ。それは、主のパンがわたしのために裂かれ、杯がわたしのために分けられるのを、わたしが目の当たりにしているのと同様に確実である、ということ。
第二に、この方御自身が、その十字架につけられた体と流された血をもって、確かに永遠の命へとわたしの魂を養いまた潤してくださる、ということ。それは、キリストの体と血との確かなしるしとしてわたしに与えられた、主のパンと杯とをわたしが奉仕者の手から受けまた実際に食べるのと同様に確実である、ということです。
第76問
【問】十字架につけられたキリストの体を食べ、その流された血を飲むとはどういうことですか。
【答】それは、キリストのすべての苦難と死とを、信仰の心をもって受け入れ、それによって罪の赦しと永遠の命とをいただく、ということ。それ以上にまた、キリストのうちにもわたしたちのうちにも住んでおられる聖霊によって、その祝福された御体といよいよ一つにされてゆく、ということです。それは、この方が天におられわたしたちは地にいるにもかかわらず、わたしたちがこの方の肉の肉、骨の骨となり、ちょうどわたしたちの体の諸部分が一つの魂によってそうされているように、わたしたちが一つの御霊によって永遠に生かされまた支配されるためなのです。
第77問
【問】信徒がこの裂かれたパンを食べ、この杯から飲むのと同様に確実に御自分の体と血とをもって彼らを養いまた潤してくださると、キリストはどこで約束なさいましたか。
【答】聖晩餐の制定の箇所に、次のように記されています。わたしたちの「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『(取って食べなさい。)これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。この約束はまた聖パウロによってくりかえされており、そこで彼はこう述べております。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」。
第78問
【問】それでは、パンとブドウ酒がキリストの体と血そのものになるのですか。
【答】いいえ。洗礼の水は、キリストの血に変わるものでも罪の洗い清めそのものになるのでもなく、ただその神聖なしるしまた保証にすぎません。そのように、晩餐の聖なるパンもまたキリストの体そのものになるわけではなく、ただ礼典の性格と方法に従ってキリストの体と呼ばれているのです。
第79問
【問】それではなぜ、キリストは、パンを御自分の体、杯を御自分の血またその血による新しい契約とお呼びになり、聖パウロは、イエス・キリストの体と血にあずかる、と言うのですか。
【答】キリストは何の理由もなくそう語っておられるのではありません。すなわち、ちょうどパンとブドウ酒がわたしたちのこの世の命を支えるように、十字架につけられたその体と流された血が、また飲み物になるということを、この方はわたしたちに教えようとしておられるのです。そればかりか、わたしたちが、これらの聖なるしるしをこの方の記念として肉の口をもって受けるのと同様に、現実に、聖霊のお働きによって、そのまことの体と血とにあずかっているということ。そして、あたかもわたしたちが自分自身ですべてを苦しみ、また十分成し遂げたかのように、この方のあらゆる苦難と従順とが確かにわたしたち自身のものとされているということを、この方は目に見えるしるしと保証を通して、わたしたちに確信出せようとしておられるのです。
初代教会の時代、キリスト教徒は人肉を食べる野蛮でおぞましい集団である。という、まことしやかな噂が広まったと言います。ピンと来られた方は鋭い。そうです。聖餐式から来る誤解です。キリスト教徒は人食い集団というのは、根も葉もない噂です。彼らはパンを割き、ぶどう酒を分け合っていただけです。けれど、その噂はあながち間違いでは無かったのかもしれません。少なくとも初代教会の人々にとってはこの聖餐に与かるということは、文字通りキリストの血肉をいただくという意味を持っていたからです。なぜなら、彼らはイエス様の十字架と復活を目の当たりにした生き証人だったからです。彼らはそのパンを食べるとき、イエス様の十字架を思い出さずにはいられませんでした。ぶどう酒を啜るとき、イエス様の復活を感謝せずにはいられませんでした。なぜなら、彼らは過ぎ越しの食事の最中で行われたイエス様のパン裂きと、その直後に起きたあの十字架と復活を経験し、イエス様こそが、人々の罪を過ぎ越すために神が用意された生贄の子羊であることを確かに悟っていたからです。当時の教会では実際にその場でパンを裂いて配り、一つの盃を回しておりました。ですから彼らはそのパンとぶどう酒を受け取る度に、主イエスの体が自分たちのために十字架上で引き裂かれたこと、そして自分たちが一つの体として、永遠の命をいただいていること、そして天の御国に入れられることの保証を感じ取ったのです。
この初めの理解に立ち返ろうというのが、宗教改革でした。と言いますのも、時代が進み、教会が権威を持つ時代になると、聖餐の理解が変わってきたからです。聖餐の儀式自体の権威化がなされたのです。つまり、パンとぶどう酒が実際のキリストの体と血そのものになるという教えが公然と語られるようになっていったのです。イエス様がパンを持って「これはわたしの体です。」と語られたとき、当然、そこにはイエス様ご自身がおられたわけですから、パンがイエス様の体であるわけはないのです。けれど、初代教会の時代とは違い、人々は、パンとぶどう酒にイエス様の犠牲と永遠の命の希望を見ることが難しくなって来たのです。もうイエス様の死と復活の興奮が漂う時代ではありません。それは教会の教えの中で聞くしか無い時代、彼らの信仰のリアリティーは、キリストの血肉を食すという具体的な行為に結びついていきます。そしてそのために、パンとぶどう酒がキリストの体と血そのものになるとの権威付けがなされたのです。
私たちは初代教会の理解に立たなくてはいけません。それは宗教改革者たちが辿った道です。すなわち、イエス様が命じられたその御言葉に立つという理解です。ハイデルベルク信仰問答の第77問はそのことを言っています。イエス様はご自身を覚えるために、新しい契約を覚えるために、記念として行いなさいと命じられたのです。ですから、私たちはこれをキリストの記念として行います。それはイエス様の体が引き裂かれ、私たちの贖いが成就したこと。そして、私たちが一つの体として、キリストの交わりに加えられたことを覚えるためにです。
しかし、これは単に思い出に浸るための記念ではありません。それは私たちの信仰を実際に養う霊の糧です。私たちはこのキリストの体と血に見立てたパンとぶどう酒を食すことによって、他でもないキリストと一つとされていく。キリストの似姿へと変えられていくのです。それは聖霊によってなされます。私たちは聖霊によって、キリストと一つとされるのです。いえ、聖霊は一つなのです。私たちの内に住まれる聖霊は、キリストの内にも住んでおられるお方である。この衝撃的な当然の事実が、私たちがキリストの似姿へと変えられる保証です。私たちが信仰を持って聖餐をいただくとき、私たちは聖霊によりキリストと一つとされるのです。