ローマ6:1-11 「古い人の死滅、新しい人の復活」
第88問
【問】人間のまことの悔い改めまたは回心は、いくつのことから成っていますか。
【答】二つのことです。すなわち、古い人の死滅と新しい人の復活です。
第89問
【問】古い人の死滅とは何ですか。
【答】心から罪を嘆き、またそれをますます憎み避けるようになる、ということです。
第90問
【問】新しい人の復活とは何ですか。
【答】キリストによって心から神を喜び、また神の御旨に従ったあらゆる善き行いに心を打ちこんで生きる、ということです。
第91問
【問】しかし、善い行いとはどのようなものですか。
【答】ただまことの信仰から、神の律法に従い、この方の栄光のために為されるものだけであって、わたしたちがよいと思うことや人間の定めに基づくものではありません。
聖化の歩みは、感謝と悔い改めの歩みだと先週確認いたしました。問88は悔い改めや回心というものは、「古い人の死滅と新しい人の復活」の意味だと言っています。エペソ4:17-19には「あなたがたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています。無感覚になった彼らは、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行いを貪るようになっています。」とあります。無知と頑なな心のゆえに、神のいのちから離れ、無感覚になり、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行いを貪るようになっている。そういう自らの欲望に身を委ねきった人のあり様。自分中心の生き方。これが古い人であり、アダム由来の罪人の姿であり、そしてそれは間違いなく私たちの内にも根深くある罪の性質でもあるのです。私たちは、自分の知恵や経験を最善と信じて疑いません。自分の生き方を当事者としてでしか見られません。その結果、神のいのちから遠く離れているなど、想像することすらできません。失敗して、反省することはあります。自分の言動を後悔することはあります。あんなこと言わなければ良かった。もっとこうしてあげれば良かった。けれど、反省し、後悔しても、すぐに喉元を過ぎて同じことを繰り返してしまいます。それが悪いことだとわかっていても、いじめが決して無くならないのはなぜでしょう。それは、他人がいじめられていることが自身の保身に繋がるからです。なんだかんだ言っても自分が可愛いのです。けれど、それぞれが自分を優先している限り、問題がなくなることはありません。
古い人とは、自分中心の生き方をする人です。これは、ちょっとやそっと、その時その時に間違いを後悔する程度では、どうすることもできない私たちの本質的な問題です。結局の所、私たちの中心、心の王座に私が座っている限り、これはどうしようもないのです。悔い改めとは、単なる個々の言動や失敗を反省することではありません。私たちの生き方を変えるということです。私たちが自分中心に生きることの過ちを認め、神をその王座に迎えること。これこそが悔い改めであり、回心なのです。
神を中心として生きる者は「心から罪を嘆き、またそれをますます憎み避けるようになる」のです。なぜなら、その罪は神が憎まれるものだからです。神に喜ばれることを願う者は、必然と罪を憎むようになるのです。もちろん、だからと言って罪を完全に切り離すことは難しいかもしれません。パウロも「したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。」と言っています。それは信仰者の現実です。けれど、それを憎むことはできます。自らの罪の本質を認め、心から嘆き、憎み避けるようになる。これこそが古い人の死滅なのです。
新しい人の復活とは何でしょう。ここでは私たちのからだのよみがえりを言っているのではありません。90問には「キリストによって心から神を喜び、また神の御旨に従ったあらゆる善き行いに心を打ちこんで生きる、ということです。」とあります。これは神を喜び、神のみこころに従って生きる。という信仰者としての新しい生き方のことです。古い人は私がどうしたいか、私にとってこれは損か得か。私の喜びこそが生き方の指標でした。けれど、新しい人は違います。神はどうされるのか。神は私に何を望んでいるか。どうすれば神を喜ばせることができるだろうか。これが新しい人の指標です。古い人の歩みを捨て去ることは難しいです。けれど私たちが新しい人の歩みをするとき、つまり、神のみこころに目を向けるとき、私たちは初めて自分自身の損得や状況に左右されずに生きることができるのです。
これは聖霊によってもたらされる内よりの変化です。ですから、このことは祈りと御言葉によらずしては決して起こりえません。いつの間にかそうなっているという類のものではありません。聖霊は御言葉をもって私たちの罪を明らかにし、祈りをもって罪を嘆き、憎み避ける心を育んでくださいます。そしてそれゆえ私たちの目をキリストの贖いの御業へと導き、神を喜ぶ者へと変えてくださるのです。

ローマ12:1-2「善い行いに励む生涯」
第86問
【問】わたしたちが自分の悲惨さから、自分のいかなる功績にもよらず、恵みによりキリストを通して救われているのならば、なぜわたしたちは善い行いをしなければならないのですか。
【答】なぜなら、キリストは、その血によってわたしたちを贖われた後に、その聖霊によってわたしたちを御自身のかたちへと生まれ変わらせてもくださるからです。
それは、わたしたちがその恵みに対して全生活にわたって神に感謝を表し、この方がわたしたちによって賛美されるためです。さらに、わたしたちが自分の信仰をその実によって自ら確かめ、わたしたちの敬虔な歩みによって、わたしたちの隣人をもキリストに導くためです。
第87問
【問】それでは、感謝も悔い改めもない歩みから神へと立ち返らない人々は、祝福されることができないのですか。
【答】決してできません。なぜなら、聖書がこう語っているとおりだからです。「みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。」
「恵みによりキリストを通して救われているのならば、なぜわたしたちは善い行いをしなければならないのですか。」とあります。救われるために私たちの行い云々は問われないのに、なぜ救われた私たちは善い行いをするようにと聖書は語るのでしょう(テトス3:14他)。
それは、救われた私たちが聖霊によって本来の神のかたちへと変えられる者だからです。神のかたちとしての本質を毀損した私たちが、再び神のかたちを取り戻すのです。問86は私たちが善い行いをするのは、神への感謝の表明だと言います。神の恵みを知れば、当然のこと神に感謝するし、神のみこころに応じる者になりたいと思うのです。つまりこれは信仰者としての自然な成り行きなのです。ですから善い行いをすることは、しなければならないという信仰者の義務ではなくて、恵みに生きる信仰者としてのあるべき神への応答の姿であり、私たちは聖霊によってそのように変えられるのです。
私たちがまさにそのように変えられるなら、人々にとってこれほどインパクトのある証はありません。神を知らない人にとっての善い行いは、何かしらの見返りを求めるものでしょう。評価を得るため、報いを得るため、満足を得るため。だから善い行いに励むのです。けれどキリスト者はそれを求めません。なぜなら、その報いは先に得ているからです。結果を求めての行いではなくて、結果を受けた上での行いなのです。私たちは恵みに突き動かされて生きる者です。そして、そういった信仰者の生き様は、信仰を持たない人にとって、なんとインパクトのある生き様でありましょう。
さて、善い行いとありますが、以上が私たちの聖化の歩みです。事実私たちは、そのように生きたいと思いますし、日々そのように励んでいるわけです。神のみこころに適う者でありたいと心から思います。しかし、一方で、そのようになれない自らに嘆きもするのです。神を知り、主イエスに似た者となりたいと願うほどに、私たちは何か不自由で窮屈な生活を強いられているような錯覚を覚えたりするのです。私たちは時に思います。神を知らない方が、もっと楽だったんじゃないかとです。罪なんて気付かない方が、悩まずに済んだんじゃないかとです。いえ、本当は違うのです。神を知らず、全て他人との比較によってでしか物事を測れないというのは、それは恐ろしいことです。他人に受け入れられるように必死に媚びて、装って、頑張って、それでもより優れた人が現れれば、立ちどころに居場所を失って捨てられてしまう。そういう他人依存に生きることはどれほど不安定で、心細いことか。そうではなくて、決して変わることのない永遠の神のもとで生きることの幸いは計り知れない恵みです。それはわかっているのです。けれど、信仰を持てば持つほどに浮き彫りになる自分の罪深さ。私たちは素直に感謝して過ごせない信仰生活の現実を経験するのです。
しかし、私はそれで良いのだと言いたいのです。まさにそれこそが聖化の歩み。それを知るための善い行いなのだと思うのです。つまり、私たちは聖化の歩みで、確かに神のみこころに適う者とされていくのですが、それは、決して神になるための歩みではないということです。それは神を知る歩みです。神のみこころに応える歩みです。ですから、神を知り、善い行いに励むほどに、私たちは自らが神ではない事実を知るのですが、それは神と人との適切な距離を教えるものであり、それゆえ私たちはより一層、神のみこころに従う者とされるのです。聖化の先に栄化があると言いますが、それは決して私たちが神になることではありません。私たちが完全に神の栄光に生きるようにされるということです。
聖化の歩みは感謝と悔い改めの歩みです。そのことで私たちは神へと立ち返るのです。ですから信仰生活に悩んで上等であります。自分の思い通りに生きることは、自由で、気楽で、悩みない人生のように見えるでしょうか。違います。自分の思い通りに生きることは、つまり罪に身を委ねて生きるということに他なりません。それは「みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者」に繋がる生き方です。そしてその結末は、決して祝福されないことは忘れるわけにはいきません。

マタイ16:15-19 「鍵の権能」
第83問
【問】鍵の務めとは何ですか。
【答】聖なる福音の説教とキリスト教的戒規のことです。これら二つによって、天国は信仰者たちには開かれ不信仰者たちには閉ざされるのです。
第84問
【問】聖なる福音の説教によって、天国はどのように開かれ閉ざされるのですか。
【答】次のようにです。すなわち、キリストの御命令によって、信仰者に対して誰にでも告知され明らかに証言されることは、彼らが福音の約束をまことの信仰をもって受け入れる度に、そのすべての罪が、キリストの功績のゆえに、神によって真実に赦されるということです。
しかし、不信仰な者や偽善者たちすべてに告知され明らかに証言されることは、彼らが回心しない限り、神の御怒りと永遠の刑罰とが彼らに留まるということです。
そのような福音の証言によって、神は両者をこの世と来るべき世において裁こうとなさるのです。
第85問
【問】キリスト教的戒規によって天国はどのように開かれまた閉ざされるのですか。
【答】次のようにです。すなわち、キリストの御命令によって、キリスト者と言われながら非キリスト教的な教えまたは行いを為し、度重なる兄弟からの忠告の後に
その過ちまたは不道徳を離れない者は、教会または教会役員に通告されます。
もしその訓戒にも従わない場合、教会役員によっては聖礼典の停止をもってキリスト者の会衆から、神御自身によってはキリストの御国から、彼らは締め出されます。
しかし、彼らが真実な悔い改めを約束しまたそれを示す時には、再びキリストとその教会の一部として受け入れられるのです。
ペテロというのはギリシャ語で「岩」という意味の言葉です。イエス様はヨハネの子シモンに「岩」という呼び名を付けられました。そして、この「岩の上に、わたしの教会を建てます。」と告げられました。ですから言葉通りに取れば、ペテロの上に教会を建てると言ってるように聞こえます。けれどその意味するところは「あなたは生ける神の子キリストです。」と告白したその者たちの上に。つまり、イエスを主と告白する全てのキリスト者の上に、主の教会を建てると言われたのです。そしてその教会に、「わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。」とおっしゃられる。天国を開け締めする務めが教会には委ねられているのです。
それは具体的には「聖なる福音の説教とキリスト教的戒規」であるとハイデルベルク信仰問答の問83は言っています。福音の説教が天の御国の鍵の一つです。福音というのは主の救いの知らせです。けれど、同時にそれは主の滅びの知らせでもあるのです。パウロはⅠコリント1:18で「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」と言っています。福音は、キリストの贖いによる罪の赦しの知らせです。しかし、このことを理解するためには、聞く者たちがまず自らが罪人であり、滅ぶべき者だと受け入れなければなりません。ですからある人達は福音を聞いて信仰に至りますが、ある人達は拒絶します。それゆえ、福音は救われる魂と滅びる魂とを選り分けるのです。この務めは何と重たい責務でしょう。私たちがその人の救いを願って福音を語るとき、それは同時にその人の滅びを確定させるかもしれないのです。黙っておいたほうが良いんじゃないかとさえ思ったりもします。けれど、忘れてはいけないのは、救い主を信じること以外に、全ての人は滅びるしか無いという事実です。
もう一つの御国の鍵は、キリスト教的戒規です。教会はこれによって教会全体の信仰を守り通す責任があるのです。教会の交わりにおいて、意図的にその交わりを攻撃し、混乱に陥れようとする人たちがいないとは限りません。私が聞いたある教会では、教会に長く仕え役員の経験もされた方が、何年も経って後、異端のメンバーであると発覚しました。もう何年も共に過ごしてきたのですから、心情的には気の合う仲間です。けれどこのような場合、先延ばしにして事を曖昧にするほど、教会全体に被害が広まります。教会は覚悟を持ってその人を閉め出す必要があるのです。
また、教会員が著しく神の教えから離れ、その忠告を全く聞き入れようとしないなら、やはり教会戒規を執行する必要があります。しかしそれは、その人を閉め出すためではありません。むしろその人を立ち直らせるため。教会戒規はその人が自らの過ちに気付き、再び主の交わりを回復するための恵みの手段でもあるからです。私たちは救われて尚、罪を引きずる弱い者です。決して完全ではありません。ですから私たちは失敗します。過ちを犯します。それはそうなのです。だからこそ私たちはその度に、自らの罪を認めて、真摯に向き合い、悔い改め、主イエスの贖いの御業に立ち返る必要があります。その手助けが教会戒規なのです。「キリスト教的」とあることに注目すべきです。つまりこれは「罪の赦しが約束された」戒規なのです。ローマ5:8「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」罪の告白の前に、罪の赦しが約束されている。これが神の愛です。教会戒規も同じです。その人が真実な悔い改めを持つなら、その人は再びキリストとその教会の一部として受け入れられることが約束されているのです。教会戒規はそれを受ける人のあり方だけが問われるのではありません。教会は戒規後のその人をしっかりと赦すことが問われるのです。(第2コリント2:6~8)大事なのは愛と責任を持ってこの二つの鍵を行使することなのです。

Ⅰコリント10:19-22 「主の食卓に相応しい者は」
第80問※
【問】主の晩餐と教皇のミサとの違いは何ですか。
【答】主の晩餐がわたしたちに証しすることは、イエス・キリスト御自身がただ一度十字架上で成就してくださったその唯一の犠牲によって、わたしたちが自分のすべての罪の完全な赦しをいただいているということ。〔また、わたしたちが聖霊によってキリストに接ぎ木されている、ということです。この方は、今そのまことの体と共に天の御父の右におられ、そこで礼拝されることを望んでおられます。〕
しかし、ミサが教えることは、今日も日ごとに司祭たちによってキリストが彼らのために献げられなければ、生きている者も死んだ者もキリストの苦難による罪の赦しをいただいていない、ということ。〔また、キリストはパンとブドウ酒の形のもとに肉体的に臨在されるので、そこにおいて礼拝されなければならない、ということです。〕
このようにミサは、根本的には、イエス・キリストの唯一の犠牲と苦難を否定しており、〔呪われるべき〕偶像礼拝に〔ほかなりません。〕
※問80は初版にはなく、第2版から加えられたもの。〔 〕の中は、さらに第3版から加えられた。
第81問
【問】どのような人が、主の食卓に来るべきですか。
【答】自分の罪のために自己を嫌悪しながらも、キリストの苦難と死とによってそれらが赦され、残る弱さも覆われることをなおも信じ、さらにまた、よりいっそう自分の信仰が強められ、自分の生活が正されることを切に求める人たちです。しかし、悔い改めない者や偽善者たちは、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
第82問
【問】それでは、その信仰告白と生活によって不信仰と背信とを示している人々でも、この晩餐にあずかれるのですか。
【答】いいえ。なぜなら、それによって神の契約を侮辱し、御怒りを全会衆に招くことになるからです。それゆえ、キリストの教会は、キリストとその使徒たちの定めに従って、そのような人々をその生活が正されるまで、鍵の務めによって締め出す責任があります。
この第80問は、実はこの信仰問答の初版では入っていなかったのですが、わずか数ヶ月でこの第80問が加えられ、さらに第3版で現在のような文言に改定されたという経緯があります。ですから、この第80問は当時のプファルツの信仰者にとって、これを欠いたままでは自分たちの信仰を正しく告白できないとの思いに至って、加えられた大切な問答であったということです。それは教皇のミサと主の晩餐におけるキリストの救済の根本的な理解の違いについてです。ミサとは、今もなおキリストを十字架に架ける儀式のことでして、カトリックではキリストの贖いは生涯変わること無く献げ続けられるものなのです。しかし私たちの理解は違います。キリストの贖いはただ一度きり、罪の完全な赦しをもたらしたのです。それは私たちの行いではなくて、ただ恵みによる救いです。だからこれを福音と呼ぶのです。当時のプファルツ領の人たちも、私たちも、このところは一歩たりと譲るわけには行きません。イエス様の贖いが日々献げられなければならないものだとするならば、罪の赦しは永遠に完成しないということです。毎度まいどミサの度に献げられるイエス様の贖いは、つまり完全ではないことを意味します。ならば救いとは誰の元にも届かないものになってしまいます。神の御子が贖いの死を遂げられたのです。唯一神の義に叶うお方が犠牲となられたのです。これ以上犠牲はいりません。もう充分です。ですから、私たちの聖餐は、キリストを十字架に架ける儀式ではなくて、キリストの贖いの御業を感謝し、神の名を褒め称える、キリストの十字架と復活の記念なのです。
81問、82問は、この恵みである聖餐式にはどのような者が招かれているのかという疑問に対する答えです。私たちは聖餐式の折、黙祷の内に自らを吟味して聖餐に備えているわけです。では、その時、私たちは一体何を吟味し、何を覚えて、この聖餐に備えるべきなのでしょうか。たとえば、自分の最近の信仰生活を吟味しまして、自分には聖餐を受ける資格はないとおっしゃって、聖餐を辞退される方がおられます。それは一見、神の前に誠実で正直な信仰の姿に見えますが、本当にそうでしょうか。もしその生活が神に相応しくないと言って聖餐を拒否するのであれば、その人が再びこの聖餐に与る機会は果たしてあるでしょうか。「自分自身を吟味し」とは決して自分の生活を自分の良心に照らし合わせるということではありません。今心を煩わせている問題があるかないかによって決まるのではありません。聖餐は恵みなのです。つまり、これは、本来受けるに値しない罪深い者が、ただ主イエスの一方的な贖いのゆえに、招かれている恵みの食卓なのです。ですから私たちが自らの信仰生活を顧みて、神の目に相応しい歩みであったかと問うならば、それはやっぱり相応しくないのです。けれど相応しくないと知ることが大事なんだと。振り返れば拭い切れない罪の数々があり、抱えきれない不安があり、しかしだからこそ、それら一つ一つをキリストの十字架が覆い尽くすことに慰めを得るのです。この罪深い者を今この聖餐へと招くために、主イエスの贖いがあったという事実に私たちは救われるのです。
自分の罪を嫌悪するその人こそこの聖餐を受けるべきです。残る弱さを嘆く方こそこの聖餐に招かれています。その人は神の聖さの前に自らを照らし合わせているからです。そうでなければ、罪に嘆くことなどありません。自らに悔いるなら、パンとぶどう酒を食すべきです。これこそがキリストと繋がる命の糧だからです。
問82では、厳しい事実が語られます。不信仰と背信とを示している人々も、この晩餐にあずかれるのですか。答えはNOです。そんなに厳しくなくてもと思います。けれど明確な意思を持って神を否定し、教会を惑わすその人を曖昧に放置することは、神の契約を侮辱することであり、また、み怒りを全会衆に招くこととなるのです。そしてそれは、その人に悔い改めの機会を与えないということでもある。来週はこの教会の持つ鍵の権能についてご一緒に学びます。教会戒規という重い問題です。けれど、これは、罪を明確に指摘し、悔い改める機会を与えることだと理解しておきたいと思います。教会には罪を指摘し、悔い改めを促し、信仰に導く責任があるのです。
